後藤は自室の机に向かっていた。思い浮かんだフレーズを書いては消して書いては消して、かれこれ二時間だ。
新曲の作詞を始めてから一か月が経ったが、彼女は未だに歌詞を完成させられていない。それにより制作スケジュールは滞り、そのせいか最近のライブでは見慣れた顔ぶればかりが並んでいるような気がしていた。
後藤はいつも、社会への不安や不満をベースに歌詞を作っていた。それを聞き心地の良いフレーズで飾り付けていたのだが、そのフレーズが出てこないのが今の悩みである。考えれば考えるほど浮かんでくるのは同じ言葉ばかりで「無理やり明るくしている感」がどこかに出てしまっていると感じていた。
それでもいざ形になればそこそこになる気はしたが、今回の曲は結束バンドのセカンドシングルとして発売する予定だ。どうしても自分が納得できるクオリティにしたかった。だから何度もやり直す内に時が経ち、それにつれてハードルも上がっていった。生半可な曲では許されない。そのプレッシャーが余計に彼女の首を絞めるのだった。
最終的にそのプレッシャーが身体の異変として表れた。妹曰く、浅い眠りから目覚めた水曜日の朝、布団から起き上がると酷い立ち眩みでそのまま倒れたのだという。丸一日寝ていたと母は言っていた。
そして今、一昨日、昨日の遅れを取り戻す為にこうして机に向かっている。しかし二時間経っても一向に作詞は進まなかった。
後藤はノートを閉じる。深いため息を吐いた後、もう一つのノートを取って最後のページを開いた。そこに二つのフレーズを書き加える。
完全無欠の主人公みたいにはなれない性分。
こんな村人Aみたいな僕には何も出来ないよ。
――こっちの方なら幾らでも書けるのに。
それは彼女が中学生の頃から使っている、もう一つの作詞ノートだった。実態はギターにある程度慣れてきた頃、それっぽいフレーズを気まぐれに書き殴っただけの落書き帳だが、ここから生まれた曲も幾つかある。
最近はめっきり開くことがなかった。しかし今回あまりに行き詰まり過ぎて、気分転換に久々に見てみたところ、昔の自分が筆を折った歌詞を見つけた。なんとなくその続きを書いてみたら思いのほか進んでしまったのだ。
当然これを新曲の歌詞として持ち込むことも考え、そうしようとも思った。しかしその内容はバンドのセカンドシングルとするにはあまりにも暗く、どうにか明るい雰囲気にしようとしてもその言葉が思いつかない。辛うじて捻りだしたフレーズを空欄に書いて、しっくりこないからと消して。結局悩みの種は同じだった。
二つのフレーズを新たに書き加えると後藤はペンを置いた。そして椅子の上で膝を抱える。彼女がこの曲を持ち込まなかったのには、もうひとつ理由がある。
――書いたって、見せる勇気なんかないのに。
後藤が自分の歌詞を飾り付けるのは、必ずしもファンの為だけではなかった。自分が思っていることをありのまま書いて、それをバンドメンバーに見られることが恥ずかしかった。
部屋をノックする音がして、後藤は反射的にノートを隠す。
「ひとりちゃん、具合大丈夫?」
マスクをつけた母がドアを開けて言った。
「……うん、もう大丈夫」
「そう、良かったわ。ごはん出来たから降りてらっしゃい」
電気を消すと、一気に部屋が暗くなって驚く。もう夜になっていることに気付かなかったのは、ずっと家にいるせいで時間の感覚が狂ったからだろう。しかしここのところ風邪でずっと寝込んでいたからか、眠気は来なかった。
明日は土曜日。いつもなら喜ぶところだが、今は後ろめたさの方が強い。看病の為に母に迷惑を掛け、バイトにも練習にも顔を出さず、おまけに曲も作れていない。明日なんて来なければいいのに。後藤は背中を丸めながらそんなことを思った。
リビングに降りると、父と妹がソファに座ってテレビを見ていた。
「もうおかぜなおったー?」
妹のふたりが言った。
「うん。だいぶ良くなったよ」
「そっかー、ざんねんだね。げつようからがっこう」
「お父さんも仕事に行きたくないぞ!」
父がそう言うと、ふたりは頬をつねった。
「からあげ食べられる?」
「うん」
夕飯を終えた後藤は自室の押し入れに籠った。PCのディスプレイだけが照らすこの密室でギターの練習をするのが、彼女の日課だった。
――そういえば、こんなにギターに触らなかったのって初めてかも。
久しぶりに触るギターの感触は安心感と同時に、胸をざわつかせた。妙に重たく感じるし、弦がやけに指に食い込み方に違和感がある。上手く弾けないかもしれない。初めて感じた不安から耳を塞ぐようにヘッドホンを装着した。幾つか音を鳴らした後、ひと呼吸置いて後藤は曲を掛けた。ヘッドホンから流れる音に合わせて指を走らせる。
違和感は弾けば弾くほどに増していく。頭の中のイメージと指の動きが食い違い、リズムに乗れない。僅かなリズムの乱れは曲が進むにつれて致命的なものになっていき、一度指を止める。リズムを意識して仕切り直すと、今度は音が歪み始めた。
僅かに芽生えていただけの不安が焦りへと移り変わる。何かがおかしいことは分かっても、何がいつもと違うのか、どうすれば直るのかが分からない。やり直す度に次は大丈夫だと自らに訴えながらも、胸の奥で焦燥感が育っていくのを感じていた。
――早く、早く元に戻さないと……私にはギターしかないんだから。
ただでさえ曲作りで遅れているというのに、これ以上みんなに迷惑を掛けられない。その思いが余計に後藤の指を固くしていった。もがくようにかき鳴らせばかき鳴らすほどリズムは狂い、音は弱くなっていく。
――私にはギターしか……ないのに。
後藤はヘッドホンを外し、PCの画面を閉じた。
翌朝、後藤は家を出た。作詞に集中したいからと母にそう言って逃げ出すように。それは嘘ではなかったが、それ以上に今はギターが目に映らない場所に行きたかった。
早朝のファミレスはがら空きで、後藤は気分よく一番隅の席に陣取りフライドポテトとドリンクバーを注文する。飲み物を取りに行くと、スマホの通知音が鳴った。
(ぼっちちゃーん! 調子はどう?)
それは伊地知からのメッセージだった。
――そういえば、もう大丈夫って言ってなかったな。
(すいません、もう治りました。今日から練習――)
そこまで打ち込んだところで手を止める。しばらく悩んだ末に、後藤は削除ボタンに触れた。
(すいません。だいぶ良くなって来たんですがまだちょっと熱があるみたいで、今日は練習休ませてもらいます。明日から練習参加させてもらいます)
時を待たずして、伊地知から返信が来る。
(良くなってきたならよかった! 今はライブとか新曲とか考えなくていいから、ゆっくり休むんだよ。明日も無理して来なくても大丈夫だからね! お大事に!)
――虹夏ちゃん、嘘ついてごめんなさい。
彼女の言葉一つひとつが後藤の心を優しく包んだ。それが心地よくもあり、そのまま甘えてしまいそうで恐ろしくもあった。
――今練習に参加しても皆の足を引っ張るだけだから……だからせめて、新曲を完成させる……!
後藤はイヤホンを耳に差してノートを開いた。
――ありきたりっていうか、どうしても伝えたいことがぶれちゃうんだよなあ。やっぱりテーマを変えた方がいいのかな。でもここまで書いたんだし、ここでやめちゃったら今までの時間が無駄になっちゃう。今は少しでも早く歌詞を完成させないといけないんだから……
(私+君-不安)×ギター=ロックだ
(私+君-時間)÷ギター=ライブだ
それは以前書いた歌詞だった。喜多や伊地知に意見を貰ったこのフレーズの続きをどうするのか、それが最初の課題だ。山田のデモを聞きながら、目を閉じてこの曲を演奏する時のことを想像する。そうして浮かんだ言葉は、
戦々恐々になってる
本番8小節前
――こうしたらライブ前っぽい雰囲気出て良い感じ。今日、調子いいかも……
そう思ったのも束の間、彼女のペンが止まる。サビ前の歌詞が出てこない。正確には幾つか案があるのだが、どれが正しいか決めかねていた。
――そりゃそうだよね。サビの歌詞、まだ決まってないもん。
ページの隅に綴ったフレーズに目をやる。この時間、この場所、まるで絵空事。頑張ったって爪弾き、それでも爪弾き。思いついた言葉はどれも気に入っている。だがこれをどう繋げるのか、そこに四苦八苦していたのが今日ここまでだ。
――なんだかんだサビ以外はかなり出来てきた。もう少しなんだ……!
必死に言葉を探した。今まで書いてきた歌詞を振り返ったり、持ってきた教科書や辞書、ライトノベルを捲ったり、インフルエンサーの投稿を見て何かインスピレーションを得られないか試したり。そうして探した言葉を組み合わせては、後藤は首を傾げた。終わりの見えないパズルをしているような気分だった。
――ちょっと、休憩しよう。
そうして後藤はもうひとつのノートを開いた。
――そういえばあの時……喜多さん、やっぱり見てたよね。
不意に思い出して後藤はため息を吐いた。自分でも驚くほど迂闊だったと思う。あの頃は特に筆が乗っていて、学校の休み時間にまでノートを開いていたのだ。その挙句にライブハウスに置き忘れてしまったのだから、呆れる他なかった。
――しかも折角届けてくれた喜多さんに変な態度取っちゃったし。次会った時に謝らないと……でも喜多さんは全然気にしてない可能性もあるわけで、それで「何のこと?」って言われたらちょっときついかも……っていやいや、今はそんな事より作詞しないと……
後藤が飲み物を取りに行こうとイヤホンを外した時だった。子供の泣き声が大音量で響き、思わず飛び跳ねるとその拍子に膝をテーブルの下にぶつけ、コップを倒す。零れたコーラの飛沫がジャージの太ももに掛かり、後藤は慌ててペーパータオルの束を手に取った。その様子を、誰かに笑われた気がした。
気づけば時刻は十二時前。がらがらだった席の殆どに人が座っている。
――帰ろう。
テーブルを拭き終えた後藤は、席を立ってレジに向かう。ジャージに掛かったジュースは染みになって落ちなかった。
店を出た後藤は再び肩を落とすことになる。雨が降っていた。飛び出すように家から出てきたものだから傘なんて持っていない。後藤は鞄を頭の上に乗せて走った。息が上がる。日ごろの運動不足に病み上がりというのも相まって、頭がぼーっとしてきたところで、足がもつれて思い切り転倒した。水たまりに体ごと突っ込んで中のシャツにまで雨水がしみ込んでいくのを感じる。それでもどうにか立ち上がって辿り着いたのは、トンネルだった。
――ここなら雨も当たらないか。
ほっと一息ついたところで、弾かれたように後藤は鞄を開ける。急いで中を確認すると、何もかもずぶ濡れになっていた。作詞ノートも両方濡れていて、特にメンバーに見せる方は殆どのページでインクが滲んでいる。当然、ファミレスで後藤が書いた部分も。
後藤は糸の切れた人形のようにその場にへたり込み、膝を抱えた。
勉強も運動も出来ない、皆みたいに楽しくお喋り出来ない、作詞も出来ない。唯一出来たはずのギターでさえ、数日触らなかっただけで駄目になった。
――私には、何の才能もないんだ。
やけに暗いそのトンネルの中では激しく地面を叩く雨音が絶え間なく響いた。時折トンネルを駆け抜ける車の走行音が混じるが、ヘッドライトの光と共にすぐに消えていき、またざあざあと空洞を揺らす。雨音は時が経てば経つほど強まっていき、もう止むことはないのではないかとさえ思えた。
そんな中でひとつ、違う音が混じる。タンタンと小気味良くコンクリートを叩く音。それは次第に雨音よりも大きくなっていくと、ぴたりと鳴らすのを止めた。後藤は音のした方へ顔を向ける。
「ひとりちゃん」
夢か幻だと思った。目の前に喜多が立っていた。膝に手をついて息を荒げる少女を前に、後藤は目を丸くする。
「きっ喜多さん? ど、どうしてここに……」
喜多は肩に乗せていた傘を軽く振って畳む。
「ひとりちゃんの家に行こうとしたら偶然見かけて。さっき転んでたでしょ? 腕とか擦りむいてない? 見せて」
何も不思議がないような様子で消毒液とガーゼを取り出す。それはあまりにも奇妙な事だった。後藤の家は喜多の住む下北沢から二時間は掛かること、そんな彼女が会う約束なんてしていないのにこの場所にいること。そしてまだ体調が悪いと嘘を吐いて外にいるにも関わらず、咎める素振りすら見せないことが、後藤には不思議でならなかった。
「ど、どうしてわ、私の家に……?」
後藤は驚きのあまり言われるがまま袖を捲る。
「これを渡したかったの」
そう言って喜多は、開いた鞄から白地のディスクが入ったケースを取り出した。
「ちょっと、言いづらいものだから中身については聞かないで欲しいんだけど。でも、絶対見て欲しくて」
そう言いながら喜多は後藤の腕にそっと触れる。
「あ、あの……それだけですか?」
「何が?」
後藤の問いに対して、喜多は何を聞かれているかが分からないという様子だった。
「そ、それだけの為に、ここまで来てくれたんですか? というか、どうしてここにいることが……」
わざわざこのディスクを渡す為だけに二時間も掛けてここまで来たのか。学校で渡すことも出来たであろうに。後藤が聞きたかったのはそれだった。それに対する喜多の答えは、
「? そうだけど。ひとりちゃんがこの辺りにいるっていうのはお母さんから聞いたわ」
うん、傷はないみたい。よかった! 喜多は笑顔でそう言った。
「あ、ありがとうございます……」
「ひとりちゃん、一人で歩ける? よかったら家まで送るわよ」
「い、いえ! そこまでお世話になるわけには」
「そう? じゃあこれ使って」
喜多はそう言って使っていた傘を差しだした。
「い、いや、それじゃあ喜多さんの傘が……」
「私、折り畳みのやつもう一個持ってるから。というか風邪ひいた人をこのまま帰すわけにはいかないでしょ」
それじゃあ私、行くね。そう言って立ち去ろうとする喜多の袖を引っ張った。
「ひとりちゃん?」
「き、喜多さんは……どうしてそんなに……」
そこから先の言葉は浮かばなかった。
「言ったでしょ、何かあったら手伝うって」
後藤は喜多から目を逸らした。彼女の背中から差す日差しはあまりにも眩しかった。
「あら、天気雨かしら。それじゃあ練習行ってくるね!」
「は、はい」
喜多は折り畳み傘を開いてトンネルを抜けた。小さな傘はまだ強い雨風を受け止めるには心許なくて、風に煽られては揺れている。
「ひとりちゃん、また明日!」
振り向いた喜多はそう言って手を振る。雲間から差す光に照らされた傘の雨粒が、きらきらと輝いていた。
自宅に帰ると母が心配そうに声を掛けた。気が付かなかったが、どうやら何度も迎えに行こうかと電話を掛けていたらしい。
「お風呂出来てるから、早く入っちゃいなさい」
「う、うん」
「そういえばバンドの子が来てたわよ。探してたみたいだけど、会えた?」
――本当に来てたんだ。
「うん……これ、渡しに来てくれたんだって」
「あら、こんな雨の中で? よっぽど大事なものなのね」
「……だと思う」
後藤は湯船に浸かりながら、ディスクの中身が何なのか考えた。しかしその内容は全く見当がつかない。喜多は「言いづらいもの」だと言っていたがその意図もよく分からず、気になるのと同時にどこか見るのが怖かった。
自室に戻って喜多から貰ったディスクをPCに挿入した。どうやらディスクの中身は動画らしい。ディスプレイの前で固唾を飲んで、後藤は動画を再生する。
映し出されたのは、彼女たちがいつも練習する場所。そこに伊地知、山田、そして喜多の姿があった。
「お姉ちゃーん、ちゃんと映ってる?」
ドラムの前に座る伊地知が言った。
「映ってる。店の準備あんだから早くしてよ」
伊地知星歌が気怠そうに言う。どうやらこの動画は彼女が録画しているらしい。
「はいはい」
山田と喜多も、それぞれ楽器のセッティングをしている。今から何か演奏するらしいが、
――喜多さんはなんでこれを見せようと思ったんだろう。
相変わらずその意図は読めなかった。
三人が目を合わせると、伊地知がドラムスティックを四回叩く。すると喜多がギターを弾き始めた。
――知らない曲だ。っていうか喜多さん、ソロ……
あぁ また今日が終わっちゃうのか 何か一つでも僕を変えられたかい?
もう戻ることのない 時が怠惰な眼で僕を見てる
このままじゃきっとまだ進めないって分かってた
これっきりじゃ足んないよ もっと刺激を頂戴
色違いじゃ嫌んなるよ もう僕は僕だけなんだから
諦めを諦めて
――この歌詞……
喜多の声はそこで消える。その後は楽器だけの演奏が続いた。時折、不自然な無音を挟みながら。
全ての演奏が終わって一息つく三人。最初に口を開いたのは伊地知だった。
「うーん。初めての合わせだから、正直滅茶苦茶だったねー。でも曲自体は良い感じじゃない? 本当に三日で作ったの?」
「元々サビのメロディーは前に作ってた奴だから。それを郁代から教えてもらった歌詞で膨らませた感じ」
山田は続ける。
「キャッチ―さには欠けるけど、ボーカルメインの曲って今までなかったから。あとはぼっちのギターソロ入れて良い感じにする」
「おおっ久々にやる気じゃん」
「郁代、後でDVD焼いて」
「分かりました!」
「もういい? じゃ、下手伝って」
星歌はカメラを置いた。
「よーし、仕事仕事。喜多ちゃん行くよー」
「はーい!」
伊地知姉妹と山田がスタジオを出て行く。喜多がカメラを手に取ると画面は真っ暗になる。
――これ、喜多さんが言いたかったのって、もしかして……
「……ひとりちゃん」
突然ヘッドホンから聞こえた囁き声に後藤は驚いた。驚きのあまり押し入れの中で頭をぶつけて、頭をさする。
「ごめんなさい、勝手なことしちゃって」
真っ暗な画面の向こうで、喜多はこう続けた。
あの日、ひとりちゃんのノートを見たの。見られたくないものだって分かって、誰にも言うつもりなかったんだけど、でも私はひとりちゃんらしくて凄く良い歌詞だと思った。それで、先輩たちにも知って欲しいと思ったの。本当にごめんなさい。
でもね。リョウ先輩、凄く褒めてたよ。それでやる気になって二日で曲まで作っちゃうんだから、先輩も良いと思ってくれたんだと思うの。今日は私がソロで弾いたけど、ひとりちゃんが弾いてくれたら、もっともっと良い曲になると思う。
ひとりちゃんにはまだ言えないことがいっぱいあるんだろうけど、私は、私たちはどんなひとりちゃんでも受け止める。バンドは第二の家族なんだから。
「喜多ちゃーん、まだー?」
「すいません、すぐ行きます!」
それじゃあね、また一緒に頑張りましょう。音声はそこで途切れる。
後藤はギターを手にした。そしてもう一度動画を最初から再生し、流れる音に合わせて弦を弾く。不自然に空けられた空白を埋めるように。
昨日の雨から一転、照りつける日差しに目を細めながら、後藤は実に一週間ぶりにSTARRYを訪れた。何度も出入りした場所だというのに、扉の前に立つと緊張が走る。
――なんか入り辛い……
頬を叩いて、弱気な自分に喝を入れる。三回深呼吸をして後藤が取っ手を力強く握った。意を決して開けようとした時、彼女の身体は扉に引っ張られるように傾き、思い切り転倒した。
「あっ、ぼっちちゃん。ごめん」
見上げると扉に手を掛ける星歌の姿があった。
「て、店長さん。お疲れ様です」
そう言うと、星歌の後ろから声が聞こえた。
「ひとりちゃん!」
最初に声を掛けられたのは喜多だった。
「あっ皆さんどうも……」
「久しぶりだねー。もう大丈夫なの?」
「あっはい。おかげさまで……」
「そっかー、よかったよかった!」
「心配で夜も眠れなかった」
「あんた朝から夕方まで寝てたでしょうが」
バンドメンバーもライブハウスのスタッフも、普段と変わらない接し方で後藤は少し肩の力が抜けた。よそよそしさを感じていたのはどうやら自分だけだったらしい。
ただスタジオに入ると空気が変わる。口数が減ってそれぞれが自分の楽器に黙々と向き合っていた。ライブまであと一週間を切って未だに合わせの練習が出来ていないというのは今回が初めて、誰も口には出さないものの緊張感が場を支配する。
後藤も内心、心臓が飛び出しそうだった。昨日の自主練でかなり感覚を取り戻せたものの、バンドで合わせるとなると話が変わってくる。そしてこの演奏、この一回の出来次第で、もしかしたらセットリストその他諸々を修正する必要が出てくるかもしれない、そう思うとプレッシャーだった。
「じゃあ、行くよ!」
伊地知がスティックを叩いた。
一通り演奏を終えると、メンバーの顔が微かに緩んだ。
「これなら次のライブ、何とかなりそうだね」
伊地知が額の汗を拭う。
「うん。ぼっちもブランクあった割には良い感じだった」
「あ、ありがとうございます」
山田にそう言われて、後藤も胸を撫で下ろした。
「き、喜多さんも、一週間前より凄く上手くなってて、びっくりしました」
「本当? ありがとう!」
「ひとりちゃんの穴は私が埋めますって張り切ってたもんねー」
「はい! でも改めて聞いたら、やっぱりレベルが違うっていうか……もっと頑張らないとってなりました!」
「そういえばぼっち、DVD見た?」
「はっはい」
「勝手に曲作ったんだけど、どうだった?」
「すっ凄く良いと思いました」
「そう。少しでも刺激になればいいと思ったんだけど」
「そ、それなんですけど、実は……」
後藤は鞄を開け、ノートを出した。その最後のページを開いて山田に見せる。
「見ていいの?」
山田が言った。喜多と目が合った。頑張れ、そう言っているように感じる眼差しだった。
「お、お願いします」
山田がノートを受け取り、さっと目を通す。
「暗いね」
「は、はい……」
「でも良いと思う。刺さる人には刺さる歌詞で、曲の雰囲気とも合いそうだし」
後藤が喜びを感じるよりも先に、喜多が駆けつけて手を握る。
「よかったね! ひとりちゃん!」
「は、はい……!」
「ギターソロ考えるから、練習終わったら付き合って」
山田は顔色ひとつ変えずにノートを後藤に手渡す。そして鼻歌を歌いながらベースを背負った。
「ぼっちちゃん、本当にお疲れ様。よく頑張ったね」
伊地知がそう言って後藤の頭を軽く撫でる。
「なんかやる気出てきたー! もう一回行くよ!」
ライブは概ね好調、演奏もまずまずだったが売れ行きは芳しくなく、ノルマギリギリの動員数となった。やはり新規ファンの入りがネックなのだろう。その日訪れたのは、後藤がこれまで何度も見てきた人たちだった。
しかし売り上げに反して、結束バンド界隈のSNSは賑わいを見せる。理由はライブの最後、伊地知が「来月のライブで新曲やりまーす!」と発表したからだ。これには既存のファンは勿論、一度離れたファンたちも興味を持ち、一時はトレンド入りするまでに話題となった。そして今晩、約半年ぶりの新曲お披露目が行われる。
――本番前、最後のリハーサル。練習期間短かったし、ちょっと緊張するな。
ここまでの演奏は最高の出来だった。しかし次は新曲。それも初めてのステージ演奏だ。手に触れたペグが妙に冷たく感じる。
「じゃあ最後、小さな海行きまーす」
伊地知がそう言ってドラムスティックを叩く。それに合わせて静かに、後藤と喜多はギターを鳴らせた。指の動きが固い気はするが出音は悪くない。
――大丈夫。緊張していても、ちゃんと指は動く。
後藤と喜多のギターの音だけが鳴り響く。これまでの結束バンドにはなかった雰囲気に気持ちは浮足立つ。しかし身体は冷静に音を奏でていた。
水面にゆっくりと波紋を広げるように喜多の声が入る。静かなライブハウスでは、彼女の息遣いまではっきり聞こえた。
最初のサビ前、喜多のギターが入る。
――このコード、よく一緒に練習したな。
後藤は演奏しながら、喜多と出会ったばかりの頃を思い出していた。学校の隅でギターを弾いているところを彼女に見られ、色々あってもう一度結束バンドのメンバーになって。昼休みや放課後に二人でギターを弾きながら、最初は弱音ばかりだったけれど、それでも彼女は諦めずに向き合い続けた。
後藤が弾く音を後から追いかける喜多のギター。子犬のように遅れても必死についていこうとする喜多の顔は、後藤には眩しかった。それが次第に重なっていき、初めてシンクロした時はチャイムが鳴るまで夢中になって弾き続けたのを思い出す。
サビが終わると曲は一気に加速する。ドラムとベースも総動員、しかし決して激しい演奏ではない。ただ静かな一番との対比で一瞬ライブハウスが揺れたと錯覚させるほどの小さな盛り上がりを作る。それは山田が最後まで拘っていた部分だった。
いつまで待っても 僕は僕なんだよ
変わらないのも僕の 僕のせい
弾けば弾くほどに思い出が溢れてくる。浮かぶのは全て、結束バンドに入ってからの出来事だった。喜多と二人で練習した日、四人で初めてステージに立った日。作詞に悩み続け、初めてギターを弾くことが怖いと感じたあの日のこと。雨に降られながら辿り着いたトンネルと、喜多の背中から差した眩しい日差し。小さな傘の上で輝く雨粒。
――結束バンドに入って、前よりもギターが好きになれた。こんな私でもって自信が持てるようになった。もしもギターを始めてなかったら、きっと喜多さんみたいな人と仲良くなることなんて一生なかったかもしれない。
フラッシュバックする記憶の数々は心臓の鼓動を緩やかに早めていく。
それでも何かちょっと ちょっとでいい
僕の光になって行き先を照らしてくれよ
――こんな私なんかに、喜多さんは憧れてくれたんだ。だったら私は、喜多さんが胸を張って自慢出来るギタリストにならないといけない……いや、なるんだ!
ギターソロの目前、力がこもった指が弾いたのは、本来の演奏とは全く違うものだった。思いの丈がギターの音色になっていく。初めての新曲だとか、最後のリハーサルだとか、そんなことお構いなしで、指が動いて止まらない。今の自分が出来る一番の演奏、ただそれだけを考えて彼女は音を奏で続けた。その演奏にドラムとベースの音がついて来るのを聞いた時、後藤はこのバンドに入ってよかったと心から思った。最後の音をミュートした時、顔を上げると薄暗いはずのライブハウスがきらきらと輝いて見えた。
――最後のサビ前、ここからは喜多さんのサポート……ってあれ?
喜多の歌声が入らない。いや、よく聞けば入っているのだが、所々途切れていて音も小さい。機材トラブルかと思って喜多の方に顔を向けると、後藤は目を見開いた。
――喜多さん……泣いてる?
演奏が中断される。後藤は慌てて喜多の方へ駆け寄った。
「きっ喜多さん! ど、どうかしたんですか?」
両手で顔を抑えて嗚咽する彼女は、過呼吸気味に息を吸いながら言う。
「ごめん、なさい……ひとりちゃんの演奏、すごくて……感動しちゃった」
後藤は一瞬にして顔を青ざめさせる。あの瞬間は気持ちよくて気づかなかったが、よくよく考えてみれば最後のリハーサルでとんでもないことをしてしまった。そう思い深く頭を下げた。
「ごご、ごめんなさい! 大事なリハなのに変なことしちゃって!」
「いやいやぼっちちゃん、確かにびっくりしたけど謝ることじゃないよ!」
伊地知が言うと、喜多も頷く。
「でで、でも……」
「それがロックなんだよ」
山田が言った。
「そうそう! 本番もさっきの演奏で行こ!」
後藤は困惑しながらも頷いた。
「あと一曲ならギリ時間あるけど、どうする?」
星歌が言った。喜多は必死に涙を拭っている。
「喜多さん、これ……」
後藤はポケットからハンカチを出して、喜多に差し出した。指の間から覗く目をもう一度潤ませると、ありがとうと言って彼女はそれを受け取る。そうして拭った彼女の目に、もう涙はなかった。
「もう一回、お願いします!」
喜多は力強く言った。
その日のライブの盛り上がりは結束バンド史上最大だった。待望の新曲はファンの期待を裏切らない出来として評価され、その反応を見てメンバーも大いに喜んだ。
しかし「小さな海」の名は、その二か月後に発表された「光の中へ」の大ヒットにより一瞬にしてかき消される。小さな海の興奮冷めやらぬ中で起きた立て続けの発表、レーベルからのフィジカルリリースにキャッチ―な曲調、その全てが合わさった結果、光の中へは結束バンドの代表曲として大手メディアに取り上げられた。これには普段は落ち着いているマネージャーの司馬都も興奮していた。
「次の曲は? 次の曲はまだですか?」
最近は顔を合わせる度にしつこく聞いて来る。新曲制作に苦心していた頃、気長に待ってくれていた人物とは到底思えなかった。
――まあ、それだけ期待してくれてるってことよね。
バンド練習を終えた喜多は後藤の元へ駆け寄る。
「ひとりちゃん、一緒に帰りましょう」
「あ、は、はい」
星歌に挨拶して、二人はSTARRYを後にする。
季節は変わらず夏真っ盛り。日中の気温はピークに達して連日の猛暑に辟易するが、九月ともなれば日没は随分早くなった気がする。少し前は十八時になってもまだ明るかったが、今は確かに薄暮が街を包んでいた。
――もうすぐ受験か。早いなあ。
このところ、スタジオ以外でギターに触れていない。そもそもスタジオに顔を出す回数も以前と比べれば随分と減った。どうしてもっと真面目に勉強していなかったのかと、昔の自分を呪いたくなる。ただ夏休みからバイトのシフトを減らしてもらって、その時間を全て勉強に費やしたことで、どうにかこうにか模試でB判定が出るようになってきた。伊地知に勉強を見てもらった事も大きかったと思う。
――本当、伊地知先輩には頭が下がるわね。
街を歩くと、多くの学生が教科書や参考書を開いている。熱心な学生になると歩きながらページを捲っていた。そんな中でギターを背負って歩くのはどこか不思議な気持ちだった。
「ねえ、今度久しぶりに二人で練習しない?」
「い、いいですね。ぜひ」
後藤は顔を上げて言った。僅かに口角をつり上がる口角。そして目が合うと、はっとしたように背中を丸め、俯きがちに歩くのだ。そんな彼女の隣を歩くのが誇らしかった。楽器に背負われているように弱々しく、だけどステージに立てば誰よりも力強い、そんなギタリストの隣に立つのが。
「じ、じゃあ私こっちなので……」
交差点で後藤が足を止めた。
「うん、じゃあまたね」
信号が青に変わると、後藤はこくりと頭を下げて歩道を渡る。背中を丸めた後藤の姿は大勢の人の波にかき消される。ギターケースだけが彼女がそこにいることを知らせ、喜多はゆらゆらと所在なく揺れる黒い頭を見つめていた。信号が赤色に変わる。車が一斉に動き出すと人混みに紛れた彼女の姿はもう殆ど見えなくなっていた。
そんな中で一瞬、後藤の姿が見えて、目が合った気がした。そう感じただけかもしれないが喜多は後藤がいる方へ向かって手を振ってみた。