『酷いものだろう、鹿目まどか』
マドカは言った。視線の先には、膝立ちのまま微動だにしていない鹿目まどかがいる。
二人の周囲には、無数の鏡が広がっている。割れて砕けて、溶けて微塵となった鏡面が何処までも果てしなく続いている。
その全てに映っているのは、数多の破壊と死と破滅。
怒りに痛みに悲しみ、そして憎しみと絶望。
全てが同時に、そして別々に存在し世界が紡がれている。
そこに希望は無かった。
善も悪もなく、人々が足掻いて藻掻いた果てには最悪の絶望が訪れていた。
『私は絶望を与え続け、その果てに希望を与えた』
しかし、それも遂に終わりを迎えた。
身の内に抱えた魔を制し、強大なる敵を打ち倒した少年と彼の愛機は、空の彼方から光と共に現れた。
幾度も世界を滅ぼし死と絶望を振りまいてきた存在は、人類の希望として、正義の砦となって人々に迎えられた。
少年は恋人と愛を誓い、みながそれを祝福した。
そして、平和な日々が訪れた。
それは嘗ての絶望が夢物語に思えるような、輝かしき日々だった。
『希望を壊し、更なる絶望を与える為に』
マドカの言葉通りの、いや、それ以上の地獄が世界に到来した。
最悪という言葉を幾つ重ねても足りぬ、悍ましい災厄が世界を襲った。
闇を纏いし禍つ者達が、世界の外から現れ世界を蹂躙し始めたのである。
少年は再び戦士として、敢然と悪に立ち向かった。
だが相手は多く、そして一体一体が強すぎた。
先の大災厄を生き延びた数少ない人類は徹底的に蹂躙され、少年は友を、恩師を、多くの仲間を喪った。
それでも彼は戦った。
戦って、戦い抜いた先に。
真の絶望が、無限大の絶対的悪夢が待っていた。
その悪夢を前に、全ては等しく無力だった。
禍つ者達を蹴散らした、偉大な勇者でさえも。
悍ましき姿が、紛い物と称した相手に対し呪詛を吐く。
皇帝の名を冠した存在の、破壊不能である筈の頭部が剛腕に掴まれ圧壊していく。
悍ましい感情が、血塗られた目と光の文字に宿っていた。
皇帝を駆る勇者の、悲鳴に非ずの叫びが上がる。
理不尽に対する怒りの咆哮を、毒々しいまでに赤い閃光が塗り潰した。
既に地球は、青く輝いていた世界は嘗ての面影は何処にもない、死の世界と化していた。
その世界が遂に完全なる崩壊を迎えた。
皇帝を飲み込み、焼け爛れた地表に着弾した熱線は、一瞬にして地球の半分を焼き尽くしその反対側から極大の閃光となって抜けた。
星を飲み込む大口のような、超巨大な大穴が開いた。深紅の閃光はどこまでも伸びていった。
触れたものを全て破壊し、宇宙をも飲み込んでいく。
光の奔流は、それを見ている鹿目まどかにも届いていた。
他の鏡にも、その光は映っていた。死と破滅と、絶望の光だった。
『そしてまた、私は世界を繰り返した』
マドカは淡々という。その声には罪悪感の欠片もない。
いや、全ての感情が内包されていなかった。
割れた鏡の中に映る、いつかの自分を見つめていた。
『ほんの僅かでも、例えば道端の小石一つの有無の差異でもよい。あらゆる差異と変化を観測するために、その為に幾度も幾度も世界を繰り返した』
マドカは語り続けた。
『そして私は全てを手に入れた』
声が続いていく。無数の鏡の中で、声が反射しているかのように。
『私は飢えていた』
『私は乾いていた』
『私は求めていた』
『私は強くありたかった』
『私は何もかもに憧れていた』
『そして私は全てを手に入れ、全てを壊した』
『私が私でいるために』
『私だけが、この世界で在るために』
『私が世界であるために』
『世界は私であればよく、私がいない世界など要らなかった』
『私は全てを望み、全てがどうでもよかった』
『それでよかったのだと、私は思っていた』
『いや、今でもそう思っている節がある』
『私は貴女には、貴女だけには見せたくなかった』
『私の心で、貴女の心を汚したくなかった』
感情なき声でマドカは言った。
視線の先で鹿目まどかが立ち上がる様子が見えた。膝が震え、大きくよろめく。
倒れそうになりながらも彼女は耐えた。
振り返り、彼女はもう一人の自分を見た。
桃色の瞳を宿した眼は真っ赤に充血して涙が垂れ、口端から溢れた唾液が小さな顎先から滴っている。
震える唇を、鹿目まどかは強引に口を引き結んで抑え込んだ。
表情に浮かぶのは、恐怖を糊塗するために無理矢理に浮かべた強い意志。
自らを強引に奮い立たせ、鹿目まどかは前へと進んだ。
マドカは口を開いた。
『私を殴りたくば幾らでも殴るといい。外見は貴女の思うがままで、強度も豆腐程度に下げよう』
マドカは鹿目まどかのさせるがままにさせようと思っていた。
そして鹿目まどかは手を伸ばした。
五指を緩く開いた右手を。それは相手を傷つける為のものではなかった。
『…それは』
無感情なマドカに感情の揺らぎが生じた。それは困惑だった。
『手を握れ、という事か』
鹿目まどかは頷いた。そして口を開閉させた。
『「怖かったから」』
『「手を握って」…と』
鹿目まどかの意思をマドカは繰り返した。声には理解不能の響きがあった。
『私だぞ』
鏡を指さし、マドカは言った。無数の鏡の中で繰り返される無間地獄。
その渦中には、黒鉄の巨体が世界を喰らう大災厄となって聳えている。
マドカの指摘に反し、鹿目まどかはその手を取った。
鹿目まどかは鉄の冷たさを、マドカは血肉の温かさを手に感じた。
『そうか』
マドカは鹿目まどかの行動を理解した。
『手を取り、過去の所業を共に見ろという事か。正しい理屈だ』
反省せよということだろうと、マドカは納得した。対して、鹿目まどかは少し困ったような表情をしていた。
顔に浮かぶのは、もどかしさと罪悪感。再びマドカに疑問が渦巻く。
それに応える為、鹿目まどかは口を開いた。
『「そうではない」と』
首を傾げるマドカに、鹿目まどかは更に続けた。その言葉に、マドカの表情は硬直した。
言われたことが理解できなかったのである。
『…私は……私は……私が、悪では……ない、だと?』
能面に亀裂が入ったような、そんな表情をマドカは浮かべていた。
『何故、だ?』
その時、マドカはもう一つの事に驚いていた。
自分と鹿目まどかとの距離が、反歩遠ざかっていることに。
知らずのうちに、自分が身を引いていたことに。後退など、何時以来の事であろう。
全てが織り込み済みだったとはいえ、こんなことは皇帝の剣を回避した時以来ではなかろうか。
この小さな、あまりにも華奢で弱い少女は小さな、そして恐るべき奇跡を成し遂げていた。
後退で開いた距離は直ぐに埋まった。
前に出たのではない、逃げた相手がこちらに迫ってきたのだった。
両手でマドカの手を掴み、転びそうになりながら自ら身を引き寄せてくる。
逃がさない。
マドカには鹿目まどかがそう言ったような気がした。
実際のところは、そうであってそうでなかった。
何処かへ行って欲しくなかったというのはあるが、鹿目まどかはそれを強制しようと思っていなかった。
ただ、手を離したくなかった。だから逃がさないというのも正しかった。
『鹿目まどか。貴女は何故…私を悪だと思わぬのだ?』
目の前の鹿目まどかへとマドカは言った。
同じ姿の二人はそれぞれ、恐怖と狼狽の感情を持っていた。
問いかけに、鹿目まどかは口を開いた。その時だった。
「まどかから離れなさい!!外道!!」
鏡面の一つが弾け、その中から美しい闇が生まれた。
鏡を砕きながら宙に躍り出た闇は、長大な何かを背負っていた。
着地の前に、それは振り抜かれた。
細く華奢な体の暁美ほむらが振るったのは、長さは彼女の身の丈の倍もある巨大な大剣だった。
刃の広さも彼女の肩幅より遥かに広い。先端が鈎爪のように歪んだ異形の大剣を、暁美ほむらはマドカへと振るっていた。
その寸前、二つの視線が交差していたことは、鹿目まどかだけは分からなかった。
横殴りの斬撃の最中、鹿目まどかの体はマドカを離れ、マドカは前に出ていた。
號と振られた大剣を、マドカは右手で受けた。親指と人差し指、そして中指が触れた時に大剣はびたりと停止させられていた。
『見事な一閃だ』
「お褒め頂き光栄ね」
大剣を挟み、マドカと暁美ほむらが言葉を交わす。
『暗黒大将軍の大剣か……それは私だな』
「ええ。変わってと言ったらこうなったわ。兄弟が多いのね」
『正確には私自身だ。私は複数が同時に偏在可能ゆえ』
「知ってるわ。そこまで見たもの」
冷たい眼差しを、暁美ほむらはマドカに向けていた。
『そうか』
「最悪ね、あなた」
『肯定する』
言葉と共に、マドカは指に力を込めた。その途端、指と大剣の接合面から大剣の全体へと一気にヒビが入った。
まるで乾いた土塊を地面に落としたかのように、大剣はどさりと崩れ落ちた。
「お優しいのね。私が見た光景だと刃は砕けて持ち主を傷つけて、この後投げ飛ばされて四肢を砕かれてたわよね」
『よく観られている。貴女の心の強さに敬意を表する』
暁美ほむらは小さく息を吐き、長い髪をふぁさりと掻き上げた。彼女なりの気分の整理である。
この存在は妙にこちらを持ち上げてくるが、それが打算ではなく本心からというのがタチが悪いと暁美ほむらは感じていた。
皮肉や罵倒で返そうとしても、自分の内にある善性とでもいうものがそれを阻害し却って自分に痛みを生む。
砕けた大剣の、最後に残った柄を暁美ほむらは左手の盾の中へと格納した。捻じれた角のような奇怪な柄だった。
何かの役に立つかもしれないと思ったからだ。
「私はあなたを見たわ。そして言葉も聞いた」
『して、どう思われた』
「あなたは最低で最悪。ここに来た理由も聞いたけど」
暁美ほむらはそこで口を噤んだ。どう言えばいいのか、迷っているらしい。
結果として、彼女はその事象への言及を控えた。
今はそれより大事な事がある。
「あなたは最低で最悪で、筆舌に尽くしがたいほどに愚かしくて悍ましい存在よ。言葉で表現するなんて無理だし、無意味だわ」
それは紛れも無く事実であると暁美ほむらは思っている。だがしかし、しかしである。
「でも、利用する価値はある。私の傍にいたあなたは言ったわ。この世界の為に全てを捧げると」
『言った。それが私の望みであると』
「なら、その願いを叶えてあげる。この世界の為に、まどかの為に使い潰されなさい」
マドカを真っすぐに見据え、氷のように冷たい表情で暁美ほむらは言った。
マドカもまた頷いた。その時、暁美の背後で動きがあった。
「まどか!?」
知らぬ内に、鹿目まどかが暁美ほむらの背後へと廻り、その体を抱きしめていた。
暁美ほむらの顔に浮かんでいた氷の表情は、瞬時に融解し戸惑いと羞恥と、そして感激へと変わっていた。
眼を閉じて微笑む鹿目まどかは暁美ほむらの左耳に顔をそっと近付け、口を動かした。
その内容に、暁美ほむらは少し蕩けていた表情を硬直させた。
『あの時の、お返し…だよ』
耳元での囁きは限りなく優しかった。それが、暁美ほむらにとっては恐ろしかった。
まどか、という声は、鹿目まどかの胸の中で鳴った。
間髪という間も置かず、暁美ほむらは鹿目まどかと同化していた。
声が鳴った胸の奥を慈しむように、彼女は自分の胸を優しく撫でた。
そして撫で終わると、鹿目まどかはマドカを見た。
『私の知らぬ事情があるとお見受けするが、貴女方にも色々あるのだな』
やり取りを見ていたマドカはそう言った。鹿目まどかは頷き、口を開いた。
『「あなたと同じように」か。無理して私と自己を同一視せずとも……いや、今の私では説得力が無いな』
服以外は同一の存在となっているマドカは嘆くように言った。
その様子がツボに入ったらしく、鹿目まどかは楽しそうに笑った。
『やはり、貴女は』
その様子を見ていたマドカの言葉はそこで途切れた。鹿目まどかの右手が伸び、マドカの下唇を掴んでいた。
続く言葉は、言われて嬉しいが恥ずかしい気持ちも強いからという意思表示だった。
『やはり貴女は、美しい』
構わずにマドカは言った。今回は鹿目まどかの敗北だった。
誰も損をしない、どちらも勝者であり敗者であり、勝者である決着だった。
しかし、それでは済まされない事がこの後に控えている。
それを鹿目まどかは察していた。物語の歯車が動き出すのを、彼女は感じていた。
指を離し、鹿目まどかはマドカを見た。
自分ではない自分が、自分より遥かに強い自分がそこにいる。
マドカは鹿目まどかを見た。弱く幼く、そして強き者がそこにいる。
互いの全てを知ることは出来なかった。だがそれでも相手を知る事が出来た。
今はそれで十分だった。
『では、行こう。鹿目まどか』
鹿目まどかは頷いた。
『この力を貴女と世界の為に捧げよう。貴女と世界を貶めた者共を、二度と立ち上がらぬよう討ち滅ぼしてくれる』
マドカは胸に左手を置き、強い口調で言った。
それは鹿目まどかの姿を模した仮初の姿のものではなく、その内にいる者の言葉だった。
荒ぶる神の言葉を、誇り高き勇者、鹿目まどかは受け取った。
受け取り、少しだけ悲しそうな表情を浮かべてこう言った。
『捧げるなんて、悲しいことを言わないで』
マドカは黙って聞いた。
『私も、私達も一緒に戦います』
両手を伸ばし、マドカの手を強く握る。
相変わらずマドカの手は鋼鉄の冷たさであり、鹿目まどかの手は日の光のように温かかった。
『あなたと一緒に、悪を討つ』
鹿目まどかの言葉は静かで優しかった。
そして烈しい意志の籠った、正しき怒りによる言葉であった。
それを人と世界は『正義』と呼ぶのだろう。それは、そんな言葉だった。
マドカは頷いた。
そして周囲の全ての鏡は一斉に砕けた。
眩い光子の輝きとなり、全てを光で満たしていく。
その中で二人のまどかもまた光となり、光の中へとかき消えていった。