それ自体が一つの宇宙であるかのような、渦を巻く異形の瞳が装甲で覆われた剛腕の掌をじっと見ていた。
万物を圧壊させ、捻り潰す事だけに使われてきた手の上には、小さな光があった。
巨大な掌に対し、それはあまりにも小さく弱弱しかった。
両手で掬った水が、掌の上昇に伴って零れていき、そうして最後に残った一滴。
嘗て、誇張や比喩の一切なしに全知全能であったその存在は、今はそのちっぽけな光だけを見ていた。
円環の翼を抱いた黒鉄(くろがね)の神は両手を広げ、光を受け止めている。
決して触れる事の無いように、壊してしまわぬように。
光の中で織り成されるのは、この光の様に弱く、そして烈しく輝く者達の物語だった。
悲劇に次ぐ悲劇が重なる残酷な物語を認識し終えると、巨大な手がゆっくりと閉じた。
握り込められることはなく、緩やかな弧を描いた状態で手の動きが停止する。
手の中から零れないように、消えてしまわないように、どこにも行かないように。
器であり、檻のようにその光を保護していた。
やがてその場から、その存在---黒鉄の神は姿を消していた。
新たな光の気配を感じ、その場所へと急いでいた。
光速さえも比較対象にならない、新たな概念のような飛翔の速度。
永劫の時を過ごし数多を滅し尽くし、存在自体が宇宙の理そのものである絶対者とは思えないほど、その動きは必死さに溢れていた。
それは無くしたものを懸命に拾い集めるかのような、ひどく人間的な情動だった。
「私、鹿目まどか。あなたは?」
降りしきる雨の中であらゆる物が破壊され、地獄のごとき惨状となった故郷。
傷つき倒れ、瓦礫から突き出た鉄骨に串刺しとされた少女は、自らに語り掛ける存在を恐怖の眼差しで見ていた。
「ごめんね。急に話しかけられて、吃驚しちゃうよね」
可憐な、魔法少女という概念を体現したような衣装を纏った少女、鹿目まどかは少し申し訳無さそうに微笑んでいた。
しかしその表情から一転し、
「あれ、ひょっとしてあなた、怪我をしてるの?」
と、今初めて気が付いたように心配そうな表情と声を出した。
倒れている少女は、傷の無い場所を探す方が困難なほどに傷付いている。
「大丈夫だよ、心配しないで」
悲しみと微笑みが混じったような、そんな表情を浮かべる鹿目まどか。
「私、クラスでは保健委員をしているの。だから」
自らの役割に誇りを持っている。優しい表情の裏に、そんな自信と使命感が覗いていた。
「だからね、怪我を見るのはちょっと得意なの」
そう言って手を伸ばした。細い指先は、倒れた少女の顔に向かっていった。
「ちょっと、ごめんね」
済まなそうに言うと、指先を割れた唇の中に押し込み、そのまま一気に手首まで押し込んだ。
細い手指に手首とはいえ、それを受け入れるのは細い喉。
当然のように気道は裂け、少女は苦痛に呻いた。
「あ。あったあった」
少女の苦痛と対照的に、鹿目まどかは嬉しそうに笑った。
少女の口内でぎゅっと手を握り、鹿目まどかは手を引いた。
鮮血と共に引き抜かれたのは、少女の小さな舌だった。引き延ばされ、だらりとなった舌は何かの食材にも見えた。
例えば生ハムや、生サーモンとか。
「これでもう大丈夫。きっと楽になるはずだよ」
少女はあまりの苦痛に、声を発せなかった。そもそも舌が捥ぎ取られた上に喉を破壊された為、何も出来ないのだが。
「ねぇねぇ、これ、見える?」
鹿目まどかの嬉しそうな声。彼女は少女を休ませる気は無いらしい。
少女はそちらへ顔を向けた。
自分の意志ではなく、苦痛から少しでも楽になろうと身をよじった際に、偶々そちらへ顔が向いてしまったのだった。
その方向に、鹿目まどかは先回りしていた。
相変わらず腫れ上がり、肉の裂け目となっている。
その眼が、幾度目かもしれない恐怖と苦痛によって見開かれた。
「とっても面白いんだよ!心がきゅっと締め付けられるけど、とっても感動するお話なの!」
血に濡れた手が、複数の書物を摘まんでいた。ぱっと指が離れると、それらは宙で固定された。
その表紙に映るのは、美しい装束に身を包んだ桃色の少女。
それに加えて、黄に真紅に青。そして漆黒の少女の姿が見えた。
少女の割れた唇が、小刻みに震えていく。
「あなたもこれを、このお話を好きになってもらえたら」
笑顔で、少女は語る。
その書物のタイトルは、
「『魔法少女まどか★マギカ』。この素敵な物語を知ってもらえたら、それはとっても嬉しいなって」
一冊の書物を両手で手に取り、笑う鹿目まどか。
その表紙にもまた、優しく微笑む鹿目まどかの姿があった。
少女の声なき叫びが上がる。
鹿目まどか達は相も変わらず、慈愛に満ちた微笑みを絶やさず少女の顔を眺めている。
そこには悪意は無い。
愛の輪郭をした、実体無き虚無があるだけだ。
その世界には、何も無かった。
水も空気も。生命の欠片も存在していない。
色彩の無い白い世界が、どこまでも広がっている。
全てが滅び去ったのではなく、最初から何もない。
ただ、虚無だけがあった。
虚無の中に存在する、ただ一つのものを除いて。
虚無の中に、輝く文字が浮かび上がる。
その途端、虚無を真紅が染め抜いた。
無が続く空間に、紅の奔流が迸る。
それは、広大な、どころではなく文字通りに無限に広がる虚無を飲み込む光であった。
光が迸った後に、虚無が動いた。
生物の皮のように空間が撓み、臓物のように蠢動する。
広大な空間自体が生命を持ち、まどろみから覚めたような異形の光景。
対象物が巨大に過ぎており、その動きは生物はおろか、機械でさえも認識するのは不可能だっただろう。
だが真紅の光を放った存在には、その異形の動きが全て見えていた。
広大な宇宙を子宮としてその中に身を埋め、生まれる時を待ち続けている、異形の赤子がそこにいた。
その大きさは、巨大という尺度では到底足らなかった。
閉じられている唇からは、既に無数の牙が覗いている。
体の中では最も小さいと見える部位であったが、それが開かれて閉じるだけで一つの宇宙がその中に消えるような。
それが今、身を捩りつつ口を開いた。
開かれた口からは、おぞましい音が、振動が溢れ出した。
それが触れた空間は歪み、捻じれ、砕け散り、蕩けて流れた。
無でさえも破壊し、無に帰する。
宇宙の法則を捻じ曲げ蹂躙する、異形の神の産声であった。
神の破壊の奔流を前に、真紅の円環が泰然と聳えていた。
黒鉄の神は思念を放った。それは煌々とした輝きを放つ光の文字となり、空間に浮かび上がった。
全てを破壊する力の前にありながら、円環を背負う黒鉄の神も、神が発する文字も小動ひとつしていない。
黒鉄の神の渦巻く瞳は、赤子を見ていなかった。
正確には、赤子を構成する虚無の中、その一点だけを見ていた。
そこには、薄桃色の輝きが見えた。
今にも消え失せそうな、かすかな光であった。
瞳の中に巻く渦がその密度を増した。それは神の感情を表していた。
直後にそれは、純粋な力の発露で現れた。
異形の赤子の全身を、一瞬という間も置かずに禍々しい大渦が飲み込んだ。
それは慟哭の叫びであり怨嗟の声であり、理不尽への怒りであった。