「女神様…その節は…その……」
―――はい。仰りたいことは分かります
暁美ほむらとミネルバX。二人の時間遡行者たちが対峙していた。
場所は薄暗い部屋、至る所に貼られているのは映画のポスター。
そして二人が座っているのは座布団で、半身は炬燵の中。
嘗て彼方の世界でコスプレと称された魔法少女服の暁美ほむらと、鋼の質感を持つボディスーツを魅惑的な裸体の上に纏った女神。
その二人が炬燵に入り向き合っている姿はひどくシュールで非現実的だった。
『絶世の美少女と絶世の美女の組み合わせ…眼福眼福』
二人が向き合う位置の斜めに座りながら、部屋の主の少女はそう言った。緑の輝きが、眩い少女の姿を形作っている。
『あ、私はお二人の邪魔をするつもりはありませんので、どうかごゆるりと』
眩い少女、まばゆはそう言って頭を下げた。ミネルバは軽く会釈し、暁美ほむらは髪を掻き撫でた。
美少女と呼ばれたことの照れ隠しだろう。
―――あの者は、本当に最悪でした。あれから随分と経ちましたが、許せる気配がありません
「………」
感情を排した声でミネルバは言った。何か言うべきか暁美ほむらは迷い、結局何も言えなかった。
声とは言ったが、音ではなく思念であった。それでいて、彼女の声色も認識できた。
今のミネルバは、実体ではなくひどく曖昧な状態だった。
先ほど見た「可能性の光」という現象が、更に形を明確にしたような。
彼女が少し動くたびに、その輪郭にノイズのような乱れが入る。
今の自分は眠っていて、思念を光子の波に乗せて飛ばしているからだとミネルバは語った。
―――これも慣れてますので。あの者のせいで慣れざるを得ませんでした
「…心中、僅かながらですがお察しします。私も…」
―――こちらこそ。貴女は幾度も傷付かれました。それは見ている私の心が引き裂けそうになるくらいに
「それは貴女も…」
―――私は機械です。記憶を封じたこともありますし、だからこそ耐えることが出来ました。しかし、貴女は…
「それは私が耐えられる回数だったから、です。繰り返した数が、もしも貴女のようだったら、私は」
―――回数の問題ではありません。貴女は私が見ても、過酷な世界に身を置きすぎていました
「…貴女にそう仰っていただけて、少しだけ、心が軽くなりました。そんな気がします」
―――こちらこそ。私も貴女と出会えて、よかったと思います
短いやりとりであったが、二人は心が通じ合うのを感じていた。
言葉を交わした回数は問題ではなかった。二人が負った傷と苦悩は同質のものであり、そしてこれに共感できる存在は余りにも少なかった。
共感できる相手を、少なくとも暁美ほむらはずっと探していたのかもしれない。
「女神様、聞きたいことがあります。聞かれたくは、ない事だとは思いますが」
―――大丈夫です。お話下さい
「では…あの魔神を、最悪『だった』と仰いましたね」
―――…はい。宇宙にとっては、むしろ善とさえ言えます
忌々し気に言うミネルバ。暁美ほむらは内心で闇が蠢くのを感じた。
宇宙という視点で見れば善であっても、視点が変わればそうとは限らない事があるのを、彼女達は嫌というほど知っている。
―――私情を挟みますと、あの者は今でも最悪です。正直、魔神と呼ぶのも嫌なのです。愛する夫と被るので
苦痛を堪えて告げるミネルバ。あまりの痛ましさに、暁美ほむらは正視に堪えなかった。だが、問わねばならなかった。
「何が、あの存在を変えたのですか」
尋ねた途端、暁美ほむらは気付いた。脳裏に過るのは、複数の光の姿。
「可能性の光…ですね」
暁美ほむらの言葉にミネルバは頷いた。
「あれは一体、何なのですか?彼方から来たもの、と聞きましたが」
改めて考えると意味が分からない。
他者を否定し道具としか思っていなかった存在が、何故あのように変わったのか。
自分達に接する態度には承認欲求や英雄願望などの打算は無く、ただ敬意だけがある。
欺いているとも思えないどころか、欺くとか偽るという思考自体が欠落しているようにさえ思える。
本心だけで接してくるというのは分かるのだが、元が元だけに安心できない。
鹿目まどかだけは完全な信頼を寄せている。これは彼女の心が余りにも優しく、深すぎるが故だった。
そこに暁美ほむらは愛おしさを感じ、そして痛ましさも覚えた。
優しすぎる為に、彼女は今に至るまで苦しみ続けている。暁美ほむらはそう思っていた。
その苦しみを少しでも減らすために、自分は出来る限りのことをしたかった。
だから向き合う。狂気と地獄に。
「女神様」
―――はい
「私はあの存在の記憶をある程度まで観ました。遍く世界に遍在する概念となり、神となるまでを」
そう言葉にしたとき、暁美ほむらは悪寒を覚えた。
言葉にして気が付いた。正確には、気付かないようにしていたということだろうか。
違う、と暁美ほむらは思った。
そして、自分は守られていたことに気が付いた。
「まばゆ」
『はい。私はもう観ました』
「…そうね。だから、あの力が使えたのね」
暁美ほむらが掲げた大剣を媒体に、まばゆは可能性の光を呼び出した。
物語の先を観てその存在を認識し、それを自分の力と成した。
そこで彼女は改めて思った。狂気と地獄に向き合うと。
「まばゆ、そして女神様」
深呼吸を一つしてから、暁美ほむらは言った。
「私に教えてください。あの存在の物語を」
まばゆとミネルバは同時に頷いた。二人とも、覚悟を決めた表情だった。
想像を絶した世界が待っていることを、暁美ほむらは確信した。
そして心の中では、恐怖の渦が巻いていた。
世界を繰り返し続けて遍く世界を滅ぼし、故に概念となり時間と空間の全てを掌握。
そして全知全能の神となったというあの存在。
それは経緯は異なれど、余りにも似すぎていた。
悪魔となった自分と、そして女神となった鹿目まどかに。
割れた鏡の無数の連なり。それがこの世界の全てだった。
鏡の中には、無数の破滅の光景があった。荒涼たる大地に生命は無く、全てを滅ぼす死の風と超高熱が吹き荒れている。
その様子を、空の彼方で佇む巨影が見下ろしている。
それが、鏡の中の世界の全てだった。
『鹿目まどか』
鹿目まどかの姿をとった魔神は、その姿の原型へと声を掛けていた。
無数の地獄を映す鏡に囲まれた中で、二人の鹿目まどかが対峙している。
『私が先ほどしたことは、それらの再現だ。最悪の行為、それ以外の何物でもない』
魔神は言った。そこには物怖じも後悔も、そして弁明もなかった。
『私は』
話し続ける魔神へと、鹿目まどかは歩んでいく。
『貴女の世界を』
言い終える前に、鹿目まどかの体がマドカの体へとぶつかった。
接触の瞬間、マドカは関節を撓めて衝撃を完全に殺した。
精神の中とは言え、肉体の感覚はちゃんとある。ぶつかれば痛いし、傷もつく。
完全に無傷且つ無痛、鹿目まどかの細胞一つ傷付けまいとマドカは思い、そして完璧にそれを遂げた。
だがしかし、鹿目まどかはそもそも傷や痛みを与える為にマドカへと向かったのではなかった。
『鹿目まどか』
マドカが言った。声には無機質ながら、困惑の色が滲んでいる。
『何故、私を抱く』
マドカの胸に顔を埋め、その背で手を組み合わせる。鎖のように、鹿目まどかはマドカを封じていた。
『私は』
そう言った瞬間、拘束を強めた。
それ以上の発言を許さない、とでも言うように。
顔と胸の接触面には熱い液体が滲んだ。鹿目まどかの眼から滂沱と流れる涙だった。
それがマドカの黒シャツに沁み込み、黒を更に色濃くしていく。
それはまるで、血が滲んでいくかのようだった。その状態で、鹿目まどかは口を動かした。
彼女が何を言ったのかを理解した時、マドカの眼が痙攣のように震えた。
『貴女は』
硬質な声にも震えがあった。それは、理解不能による畏怖にも思えた。
『貴女は、それでも…私が悪に非ずと』
言い終えたマドカ。顔を寄せたまま頷く鹿目まどか。
『しかし、私は悪だ。少なくとも貴女を悲しませ、泣かせてしまった』
鹿目まどかは再び首を振った。涙が更にシャツに沁み込む。
傷口を抉られたかのように、黒の濃さと範囲が増した。鹿目まどかは口を動かし、魔神へと意思を伝えた。
顔を埋めた胸の奥、魔神の体内で蠢く異形の脈動が、この時激しく高鳴った。それは明らかな動揺によるものだった。
『泣いているのは…私…?』
理解不能による困惑。魔神の声はそれだけで出来ていた。
『私の、代わりに、泣いた、と?私が、手を汚した、悲しみを、感じ、て…?』
マドカの声は、壊れた機械の様だった。
鹿目まどかは頷いた。そのまま、しばしの時が流れた。
鹿目まどかはマドカの胸の奥の高鳴りが、静まっていくのを感じていた。
『手を離されよ、鹿目まどか』
落ち着いた声でマドカは言った。ゆっくりと鹿目まどかは手を離した。目は少し腫れ、頬も涙に濡れて赤みが増していた。
最後に残った涙を袖で拭い、鹿目まどかはマドカを見た。
『魔獣は駆逐し、獣もあの様だ』
鏡の一つが輝き、一つの映像を映し出した。
宇宙規模の存在となった異形の獣が、輝く光子の獣達、魔神の眷属である戦闘獣達によって葬られていく様が見えた。
戦闘獣達の蹂躙は止まらず、宇宙に等しいサイズを物ともせずに内部から切り裂き、手当たり次第に破壊している。
『だが奴らはまだ残っている。私はそれを終わらせてくる』
マドカの言葉に鹿目まどかは頷いた。
『もう少し、待って』
その言葉に、鹿目まどかは首を振った。
魔神は少し黙り、やがて口を開いた。
『分かった』
魔神は頷いた。
『共に行こう、鹿目まどか』
そう告げたマドカ。その泰然と垂れ下がった右手を、鹿目まどかは両手で握り締めた。
マドカを見る鹿目まどかの顔には、もう涙の跡は無かった。果てしなく弱く、そして底知れぬ強さを持った幼い勇者の顔があった。
マドカは頷いた。その途端、全ての鏡が、世界自体が光を放った。
二人の姿は、その中に呑まれるように消えていった。