虚無の神、ラ=グース。
鹿目まどかの思考の中で、その名前が繰り返される。
その言葉が頭を過る度、正気と狂気が曖昧になる。
ここは現実なのか、または空想なのか。
虚実が入り乱れ、気が変になりそうになる。
私の名前は鹿目まどか。かつて女神だった、今は無力な少女。
怯えることしかできず、何の役にも立たない無価値な存在。
そんな想いが幾重にも重なる。
恐ろしい名前と、悍ましい姿を認識したことによって。
その姿は、赤ん坊に酷似していた。形で見れば、先ほどの異形のインキュベーターとほぼ変わらない。
だがそのほんの少しの違いだけで、まるで別物であることが見て取れた。
体表に這い回る奇怪な隆起と皮膚の弛み。無数の蛆虫が這い廻っているかのような生理的な気持ち悪さ。
それがまるで、そうあるべき形であるかのようにして、その異形を形作っている。
だからこそ恐ろしかった。インキュベーターのそれは所詮は摸倣であり、虚構の存在だった。
だがこれは現実としてそこにいる。広がる空一面を、異形の赤子の貌が占めていた。
虚無を司る神として、かつて女神だった少女の上に君臨している。
魔神によって展開された破壊不能の金属の壁で仕切られていながら、それを透過し自らの姿を少女と魔神に示していた。
たまらなく恐ろしく、恐怖で胸が潰されそうになる。
狂気に苛まれ、自分の正気に疑問を抱く。
だがしかし。
恐怖は鹿目まどかを壊せなかった。
彼女の正気は失われなかった。
最後まで視線を逸らさず、襲い来る災厄を真っ向から見据えてやる。
無力な自分が唯一出来る戦い方がそれなのだと、鹿目まどかは思っていた。
声が届いた。共に災厄を見据える者の思念の声が。それは自分と同じ声をしていた。
同じ声帯を用いながら、出し方の違う声とでもするような。
冷ややかで酷薄で、そして力強い声だった。
虚無の神を見る魔神の口元が歪む。
砕けた装甲が乱杭歯となり、組み合った異形の口だった。
微笑であると鹿目まどかは思った。
操縦桿を通じて思考が伝わった、のではなかった。
魔神は自らの姿を自覚し、そう言ったのだった。
鹿目まどかは首を振った。
そんなことないよ。あなたはきれいで、かっこいい。
鹿目まどかはそう思いながら、操縦桿を強く握った。
その時、ふととあることに気が付いた。
それは、罪悪感にも近い申し訳なさだった。
魔神は即座に反応した。鹿目まどかの顔に悲しみの色が映えた事に、動揺を覚えたに違いない。
名前を呼ばれた時、鹿目まどかは肩を震わせた。
『私は…』
口を開閉し、鹿目まどかは意思を発した。声帯はあるが、声の出し方が分からない。
少し前に一声だけ発せたのは覚えている。それは魔神の姿を評した時だった。
あの時は自然と声が出ていた。今は出せなかった。
思考を声にするというやり方が、自分の中で出てこない。
散々に肉体を破壊された後遺症なのか、それとも精神の問題か。その両方なのかも定かではないが、呼吸は出来ても声帯が動かない。
だから今は、意思を伝えるにはこれしか出来なかった。
『私は、あなたの名前を呼んだことが無い。たった一度も』
言い終えると改めて罪悪感が湧いてくる。記憶の世界の中で、この存在の名前は知っていた。
言うタイミングが無かった、という言い訳は通用しない。
怖かったのだと、我が身可愛さに名前を呼ぶのを避けていたのだと鹿目まどかは己を切り刻みたくなった。
そこに声が届いた。悲哀も憐憫も怒りもなく、ただ淡々とした、事実だけを述べる声が。
魔神は断言した。赦されたという安堵感、を感じたことに鹿目まどかはそれに倍する痛みを感じた。
自分で自分が赦せない。だから、鹿目まどかは無理を通す事にした。
言わなければならない。例え喉が張り裂けてでも、それで相手を苦しめることになっても。
自分の我を通す身勝手さを飲み込むように、鹿目まどかは強く息を吸った。
そして吐くようにして声を出した。
「…ろ」
発せられた音は、吸い込んだ空気の量に反してか細かった。だが確かに、意思は声となって体の外に出た。
「……ろ」
続いた声は更に細かった。だが、言えた。
声にならぬ声で。魔神の名を。
ありがとう。鹿目まどか
その言葉は少しの間を置いていた。
礼を述べた事に、魔神の感情が顕れていた。
消えゆくような声だったが魔神には伝わっていた。
「そ…う……な、たは」
そう、あなたは。
鹿目まどかはそう言おうとした。喉が炎と化したかのように熱く、刃物で抉られたように痛い。
それもまた数千万回も行われた暴虐であり、その苦痛は今も鮮明に覚えている。
だがそれよりも、今の疼痛の方が苦しかった。動かない器官を無理矢理動かそうとするような、そんな狂気じみた必死さがあった。
だがそこで言葉は途切れた。
鹿目まどかは、ぞくりとした悪寒を覚えた。
虚空から降り注ぐ虚無の気配が、一気に増したのだった。
そこに何もない、という感覚が天蓋を、世界の全てを覆っているような気がした。
自分と自分が触れている場所と、魔神以外の全てが消滅したかのような、そんな感覚だった。
そしてそれは錯覚ではなく、事実であることも分かっていた。
自分達を取り囲む宇宙。その外壁の外には、夥しい数の虚無の神がいた。
全方位を覆い尽くし、その背後にも無数に存在している。
悍ましい顔で、閉じられた眼を魔神と鹿目まどかへと向け、忌まわしい眠りの中で微睡んでいる。
大きさについては、もう想像がつかない。
先ほどのインキュベーターが小動物にも思えるような、そんな圧倒的な差があった。
大きさの差で言えば、自分は元より魔神ですら無に等しい事になるだろう。
だが、それがなんだと彼女は思った。
魔神に名を告げた、虚無の神への恐怖は薄らいでいた。
調子のいいことだと、我ながらに思った。
だが、心は高揚していた。
初めて魔法少女になった時。その時の気分に近かった。
みしり、と金属が軋む音を鹿目まどかは聞いた。
ベキベキと何かが割れて、そして組み合う音が続く。
その変化は、魔神の背で起きていた。
悪魔のそれを彷彿とさせる大翼が斜めに傾いたとみるや、翼の端が鋭利な刃物のような形に変形した。
そうして現れた形は、アルファベットの『Z』に似ていた。
鹿目まどかはその変化を感じることが出来た。
記憶の世界の中で幾度も、そして実際に見るのは初めての光景に、鹿目まどかは魅入っていた。
その時、世界を覆う外壁が一気に崩壊した。
魔神が破壊不能と称したそれが、割れた鏡のように砕け散る。
障壁が取り除かれた途端、無数の光が…いや、無数の虚無が迸った。
白色、または銀を帯びた無色とでもすべき色のそれは、異形の赤子達の僅かに開いた口から発せられていた。
産声、という言葉が頭を過る。いつ終わるとも知れぬ眠りに微睡む赤子が発した喃語。
それが掠めただけで、いや、それを認識しただけで自分と自分が守りたかった世界は跡形もなく崩壊するだろうと確信できた。
だが、対峙しているのは自分だけではない。
魔神は平然と言った。数多の方向から、異形の声が届く。宇宙は既に黒くなく、虚無の白で染まっている。
その中で、魔神は何事もなく聳えていた。
効いていない、へっちゃらだと鹿目まどかは思った。
宇宙を容易く消滅させる神の産声が、魔神の装甲に弾かれ無力化されている。
魔神の防御力は異常に過ぎていた。破壊不能、という言葉がそこに体現されている。
その一方で、魔神の翼は形を変えていった。
Zを示す翼の両端が蕩けて伸び、半円を描いて繋がる。
Zから無限へ。そして。
全ての始まりと終わりを司る数字、事象、概念。
ゼロを示す深紅の翼は、禍々しくも神々しい。
少なくとも鹿目まどかは後者であると思った。
何か言おう、鹿目まどかはそう思った。
『仰々しいわね』
その時ふと、思念の言葉が鹿目まどかの口から漏れた。
魅惑的なハスキーボイスであった。
『元に戻っただけでしょう。改まって』
する必要なんて、と言おうとした口は、かちんという音を立てて閉じられた。
更に開こうとした口を、下顎を軋らせることで黙らせる。
歯が鳴る音や歯軋りでさえ、鹿目まどかが奏でる音は可憐で可愛らしかった。
『ごめ』『んな』『さい』
『やめ』『て』『まどか』『冗談』『が』『過ぎ』『たわ』
暁美ほむらの謝罪と魔神の静止の声が響く。
鹿目まどか自身はこの行為を意地悪いと思っていたが、少し楽しくなっていた。
今の自分の口の様子が、常に口元を歪ませている魔神のそれと少し似ていて楽しいと思っていたのだった。
独特のセンスを持っている少女である。
魔神、ZEROにとって周囲を取り囲む虚無の神など、更には自分のことなど如何でもよかった。
ただ、魔法少女だけが存在理由の全てなのである。