黒く巨大な左手が広がり、その中央には弱弱しく輝く桃色の光があった。
残る右手は太い指先を緩やかに収斂させ、光の表面をゆっくりと撫でていた。
手が動くたび、光は輝きを増し、その周囲に薄膜の破片が散った。
光を遮断する幾層もの膜を、黒鉄の神は慎重かつ丹念に取り払っていた。
最後の一枚が剥ぎ取られた時、神の視線が光へと注がれた。
変化が起きたのは、すぐだった。
光の文字が紡がれ、左手が緩やかな弧を描いてゆっくりと閉じられる。
すると、黒鉄の神の姿が歪んだ。
波立つ湖面に映る景色が揺れるように、歪んだ鏡が映す虚像のように。
そしてふっと、その巨体は姿を消していた。
後には、静寂が残った。
そして何か、途方もなく巨大な存在が、原型も留めずに無残な破片となっている姿が。
その破片もまた、それからすぐに消え失せていった。
後には静寂と、どこまでも広がる星々の輝きだけが残った。
「ああ…」
感嘆と、悲しみの混じった声が漏れた。
「良かったねぇ、さやかちゃんと杏子ちゃん。これで二人は幸せになれたね」
柔らかいソファに腰掛け、鹿目まどかは感想を漏らした。
暗い部屋の中で、小さめのテレビから発せられる音だけが光源となっている。
「ねぇ、あなたはどう?杏子ちゃんの戦う様子、とっても素敵だったよね」
傍らに問いかける鹿目まどか。しかし返事は無い。
「うんうん、そうだよね。私もそう思う」
頷く鹿目まどか。返事の類は一切ないのだが、彼女には何かが聞こえているのだろうか。
「じゃあ、次のお話に行く前にちょっと休憩しようか」
そう言って、鹿目まどかは左手を伸ばした。伸ばした先にあったものを、細い指先で摘まむ。
「やっぱりポップコーンって美味しい。ちょっと泣いちゃったから、辛めの味付けが嬉しいね。それにしても、何で映画館だとポップコーンを食べるんだろう?」
小動物のようにさくさくと齧りながら、鹿目まどかは今度は右手を伸ばす。戻ってきた手は大きめのストロー付きの紙コップを握っていた。
可憐な唇をストローに付け、ちゅうちゅうと啜る。
「コーラも美味しい。えひひ。もう二杯目だから、ちょっとカロリーオーバーかな」
少しだけ奇妙な笑い声を上げ、可愛らしく笑う鹿目まどか。
再びポップコーンに手を伸ばす。白い表面に、赤と黄色の粒が付着していた。
赤は血であり、黄は脂肪だった。
ひゅう、ひゅうという音が響く。
「それにしても杏子ちゃん、どうして爆発なんかしちゃったんだろう。まだ戦えたと思ったのになぁ」
首を傾げる鹿目まどか。その頭は、傍らの何かに触れた。
ひゅうひゅうという風切り音は、その近くから聞こえている。
「はい、あなたもどうぞ」
鹿目まどかはポップコーンを一つ取り、穴の中に放り込んだ。
それは穴の中を伝って落ち、また同じ場所に転がった。
「さてと、そろそろコーラを追加しなくちゃ」
鹿目まどかは上半身を前に傾けた。
テレビの前には机が置かれ、その上には何かが入った容器があった。形は、ジュースのサーバーに似ている。
しかしその中に入っていたのは、液体ではなかった。
「ぽちっとな。なんちゃって」
うぇひひと笑う鹿目まどか。ボタンを押すと、内容物が攪拌される。
底部の刃によって切り刻まれるそれは、小さな指と手と足、そして眼球に内臓だった。
「よし、出来上がり。美味しくできてるといいなぁ」
コップを近付け、容器に据え付けられた蛇口を捻ると破壊された人体の攪拌物がどぼどぼと溢れた。
それを大事そうに紙コップで受け止める鹿目まどか。
肉と血の泥の上にストローを刺して啜る。チューズゾゾ、という音が響いた。
挽肉が血を媒体にして啜られる音だった。
「はい、これもどうぞ」
開いた口に、鹿目まどかはコップを傾ける。
大半が入りきらずに零れ、喉を通ったものはポップコーンの山に積もった。
鹿目まどかの隣には、少女が座っていた。
両手両足を手首足首で切り取られ、左目も抉り取られた桃色髪の少女が。
胸の大部分の肉が剥がされ肋骨は切除され、内部に収まった臓器は最低限しか残っておらず、腹部で畳まれた腸の上には熱々のポップコーンが積まれていた。
少女と血肉と脂をフレーバーとした、最悪の料理だった。
肉の入れ物とされた少女は、苦痛と恐怖の只中にいた。
それは肉体的なものよりも、先ほどから延々と流れている映像にあった。
自分の見てきた世界が映像とされ、まるで番組のように放送されている。
隣に座る自分に酷似した存在は、それを娯楽として見て楽しんでいる。
その感想は歪で、内容を理解しているとは思えない。
あの悲劇を、実際に眼の前ではないとはいえ、認識して出てくる感想とは思えなかった。
更に映像は変化していく。
これまでに見た場面が映る。
転校生の到来、先輩との出会い、そして死。
親友の決断、赤い少女の出現、そして、今垣間見せられた赤と青の悲劇。
それらや、これから先に起こった記憶の場面が映る。
だがそこに異変が生じていた。
自分の記憶の中にいない存在が、映像の中に入り込んでいるのだった。
その形は人型をしていたが、詳細が認識できなかった。砂嵐というか、斜線の束というか、黒塗りというか。
正確な形の認識が不可能な一方で、どことなくと言った程度に何かがいることが分かるのであった。
例えばそれらは自分たちと同じ年頃のように見えたり、年上であったり、共に生活をする間柄であったり、或いは敵対したり、仲間であったり。
素手であったり、銃器や刃らしきもので武装していたり、装甲を纏っていたり、眷属として獣や竜を思わせる怪物らしきものを連れていたり。
自分達の他に、見知らぬ誰かや何かが映る光景が広がっていた。
それ自体はいい。概念となった後、「もしかしたら」と夢想した事柄でもあるからだ。
もしも魔法少女の傍らに誰かが、自分の知らない何かがいたら。
そうしたら何が変わっていたのだろう。
そう、物語の卵をふとしたときに思い浮かべることがあった。
今描かれたそれは、恐らくはそこから来ているのだろうと思った。
だから、たまらなく恐ろしかった。
自分の存在が解体され、継ぎ接ぎされ、作り変えられていく感覚。
それは肉体を切り刻まれ、食品として加工されるよりも恐ろしかった。
「じゃ、そろそろ次に行こうか」
恐怖に震える中、鹿目まどかの声が鳴る。
「パジャマパーティ、たっくさん楽しもうね」
にこりと笑った彼女の笑顔を視認した時、一つだけの眼に映る映像が大きく乱れた。
そしてぶつんという音と共に、意識が途絶えた。
次に目覚めたとき、彼女は熱を感じた。呼吸も出来ず、何も見えず、ただただ熱く息苦しかった。
暴れようとするも、そもそも体が動かない
その時、光が注いだ。
「あ、ごめんごめん」
鹿目まどかの声がした。その時彼女は、自分が液体の中にいることに気付いた。
そして自分の周囲に、肩や根元から外された手足が浮かんでいることに。
「お湯加減、悪かったみたいだね」
水越しにすまなそうな声がした。次の瞬間、少女の視界を泡が埋め、全身を高熱が覆った。
「それじゃあ、ごゆっくり」
鹿目まどかの声と共に光が消えた。
少女はここが大鍋の中であること知った。
それが少女の最期の意識で、以降は苦痛で塗り潰された。
更に次に目覚めた時、少女は仰向けにされていた。
首の裏に枕を置かれ、少し傾いた自分の眼が見たのは、開かれた腹の上に切り刻まれた肉片が丁寧に置かれている光景。
上げようとした悲鳴は、
「はい、どうぞ」
と丁寧な手つきで、切り分けられた人肉の刺身を突き込まれたことで中断された。
その後も延々と食わされ続け、並んだ肉が消えたら体の各所を削られていった。
足の一本が切り刻まれてる時に、彼女は息絶えた。
その後も、数多の方法で少女は殺され続けた。その際、多くの場所で鹿目まどかは書物を読んでいた。
ある時は『魔法少女おりこ☆マギカ』という書物を、または『魔法少女かずみ☆マギカ』を。
『魔法少女すずね☆マギカ』、『魔法少女たると☆マギカ』という本もあった。
少女はその全てに描かれた者の名前を知っていた。
彼女たちとその友人や仲間に家族の末路も全て知っている。
それが書物にされ、閲覧されてる。
桃色の輝く姿を纏った、自分の姿をした存在がそれを読み、頷き、感想を呟いている。
「織莉子さん、もう少し心に余裕を持てばよかったのに」
「キリカちゃんは愛に拘りすぎてるよ」
「プレイアデスの人たち、他に選択肢は無かったのかな」
「かずみちゃん、どうしてそんなことを願ったんだろう。言われてるけど、無駄になっちゃってるよ」
「なんでこの人たち、みんな素直になれないんだろう」
「戦争なんてしても、誰も幸せになれないのに」
「聖女って、そんなに偉いものなのかなぁ」
元の人物たちの心情や、彼女らの背負ったものを無視し、ただ文字と絵の並びを少しだけ読みながら鹿目まどかは言葉を重ねる。
少女が死ぬたびに、別の場所で。
それは少女が覚えているだけで、二百回に及んだ。
その次には、少女は土の中にいた。
かろうじて生きられる程度に体を壊され、その体を養分とされて野菜の栽培に使われていた。
少女の血肉を養分として実ったのは、瑞々しい赤色をしたプチトマトだった。
それが摘み取られてサラダにされ、居間に座る鹿目まどかによって美味しそうに食べられるまで、少女の意識は続いた。
彼女が息絶えるまで、少女の感覚で二か月以上が経過していた。
「私、鹿目まどか。よろしくね!」
再び目を覚ました時、少女は仰向けに倒れていた。
全身傷だらけの自分を、桃色のドレスを纏った鹿目まどかが見下ろしている。
天使の様な笑顔で、自分の顔で。
少女はゆっくりと、ふらつきながら立ち上がった。
「あなた、どうしたの?」
鹿目まどかは心配そうに尋ねた。
少女は答えず、口から血を吐きながら立ち上がった。
立った時の反動で、体が大きく揺れた。必死に耐えた。
そして、左手を伸ばした。
「どうしたの?どこか痛いの?」
全身傷だらけの少女に対し、鹿目まどかはそう言った。
少女は傷ついた左手を向け続けた。
彼女の手には、傷ついた皮膚と肉と骨だけがある。力の象徴はどこにもない。
彼女の行動は無意味であった。
だがそれでも、少女は諦めていなかった。
何も出来なくても、自分と同じ姿をした、この異常な存在に対峙し続けると決めていた。
例えそれが無意味であっても、勝てる可能性どころか、戦える可能性がゼロであっても。
「そっか」
鹿目まどかは悲し気に呟いた。
「もういいの。もういいんだよ」
少女の眼が見開かれた。全ての内臓を、嫌悪感と恐怖が、そして怒りが満たした。
「もう誰も恨まなくていいの。誰も呪わなくていいんだよ」
既に少女の口内に舌は無く、喉も潰れている。
今まで幾度となく上げられた、声なき叫びが上がろうとしていた。
「そんな姿になる前に、私が」
鹿目まどかが、そう言葉を紡いでいる時だった。
少女は見た。
鹿目まどかの背後で、色の無い空が、まるで鏡のように割れる瞬間を。
無音で砕けた空の破片の奥から、炎の如き大輪が顕れ、地上へと舞い降りていくところを。
そして鹿目まどかの上に、巨大な影を落とした瞬間を。鹿目まどかが、反応も出来ずに影に飲み込まれるのを。
それらは全て、一瞬の間に終わっていた。
少女の前に、巨大な姿が聳えている。
それは人に似た姿をし、黒鉄で全身を覆い、円環を描いた真紅の翼を背負った巨影だった。
何が起きたのか、少女は理解が及ばなかった。
ただ、手を伸ばした姿勢から動けなかった。出来るのは、眼を動かすことだけだった。
その姿を、人に似た輪郭の頂点である頭部を見た時、少女の身体は宙にあった。
巨体の右手が、全身に傷を負った少女の体を掴んでいた。
タイムラグは全くなく、最初からこの手に掴まれていたかのような、そんな状態だった。
無力な少女の前で、巨大な黒い光が開いた。
それがこの存在の口であると気付くことは、終ぞなかった。
その口が閉じられると、桃色の髪の少女の姿は世界の何処からも消えていた。
少女の口からは悲鳴の一つも上がらなかった。
残ったのは、円環を背負った黒鉄の神。
神は左膝を曲げ、上体を傾けていた。
少女を捕食した神の姿勢は、主に従する臣下のものだった。