その木の杭は腹部から入り、口から血染めの先端が抜け出ていた。
外側に向けて折れた歯は、神経の糸を引いて唇の上で垂れ下がるかぶら下がっている。
先端には舌と腸の欠片がこびり付き、無惨さを彩る装飾品と化していた。
その状態で、鹿目まどかは生きていた。弱弱しい呼吸が絶えるまでには長い時間を要した。
無数の蠢きが、少女の体を覆っていた。それは蟻であり蛆虫であり百足であり、そして夥しい数の蜘蛛や甲虫だった。
それらが鹿目まどかの皮膚と肉を喰らい、白く柔らかい肌を赤い肉塊へと変えていく。
果実を貪るように、鹿目まどかの肉体は蟲達によってゆっくりと喰い尽くされていった。
最後に感じたのは、小さな頭蓋の中で這い回りながら脳を喰い漁る蟲達の脚や牙の音だった。
少しずつ、少しずつ体が溶けていった。痛みではなく、痒みが全身を這い廻る。
既に体を掻き毟るための手は無く、少女の体は達磨状態と化していた。
やがて眼が溶け、鼓膜も溶け崩れ、何も見えず聞こえなくなってから長い時間の果てに漸く脳が溶解していった。
脳と脊髄がゆっくりと溶けていくのを感じながら、鹿目まどかは最期の時まで筆舌に尽くしがたい痒さに苛まれ続けた。
無数の死と苦痛の記憶が、鹿目まどかの心を駆け巡っていく。
その一つ一つから、鹿目まどかは眼を逸らさなかった。全て受け止め、苦痛に苛まれながらもそれらを見た。
高速で回転する万華鏡のように、凄惨な光景が鹿目まどかの視界と心を埋めていく。
少女の心に思念の声が響いた。それは無惨な光景を塗り潰すように少女の心の中へ広がっていた。
落ち着いた声であったが、その裏には激情が渦巻いている。鹿目まどかはそう感じた。
自分の我儘に付き合わせてしまったと、鹿目まどかは心の中で謝罪した。
謝る必要はない、という応えが返ってきた。
そして、新たな意思が届いた。
その意思に、鹿目まどかは頷いた。操縦桿を強く握り、自分もまた意思を放つ。
意思に宿したのは、怒りの感情だった。
自分が苛まれた事に対してではなく、この暴虐を他者に受けさせてはならない、存在させてはいけないという、理不尽に対する正しい怒り。
正義と呼ぶのに足る、彼女自身では無自覚の崇高な意思だった。
声はまだ出なかったが、思念の声で彼女は叫んだ。
『ルストハリケーン!!』
声も高々に、喉が張り裂けんばかりにと、矛盾していたがそんな気持ちで彼女は叫んだ。
そしてその叫びに魔神は、ZEROは応えた。
拷問具の様な形状をした口元が引き裂け、悍ましい形の口が開いた。
闇さえ及ばない暗黒を宿した口の奥から発せられたのは、燦燦と輝く光の竜巻だった。
鹿目まどかの視界を埋め尽くしていた地獄の光景は、光の大渦によって飲み込まれて木っ端微塵に粉砕された。
かつて数多の世界を滅ぼしてきた破滅の竜巻が今、魔神の言葉の通り悪夢を滅ぼす風となって吹き荒れる。
魔神の言葉に鹿目まどかは頷いた。
異形の口から放たれる竜巻の数が増大し、その大きさが爆発的に増大した。
砕け散る悪夢の奥に、異形の赤子達の大群がいた。そう見えた時には、それらは光の大竜巻によって天高く巻き上げられていた。
ラ=グースの細胞は一つ一つが宇宙に匹敵するサイズであると聞いていたし、実際に見て恐怖と共に理解した。
それらが巨大…超が一つ二つどころか十個も付けても足りなそうな超絶巨大竜巻によって、まるで暴風に翻弄される小蠅か砂粒でもあるかのように巻き上げられている。
物理法則もへったくれもない異常な次元の闘争であったが、これは殊更に異常だった。
大渦の中では無数の細胞が暴風によって引き千切られ、光によって細かく切り刻まれている。
そう告げた魔神の意思に鹿目まどかは思わず微笑んだ。
破壊の力に酔いしれたのではない。
ただ、褒められたことが嬉しかったのだ。
そこに魔神の意思が飛んだ。表情の緩みを正し、鹿目まどかは前を見た。
先程細胞が発していたのは、一種の精神攻撃。
対象者の記憶から苦痛と悪夢を引き出し、自らの記憶の内に閉じ込め精神を破壊する悪辣な攻撃だった。
鹿目まどかはそれを受けた。魔神の力で簡単に遮断できるそれを敢えて受けたのは、彼女なりの意地だったのだろう。
悪夢では自分を壊せない。少なくとも、今はもう。
細胞とはいえ単体で数多の多元宇宙を掌握し滅ぼせる存在に、宇宙最強の存在が味方となっているとはいえ己の精神で鹿目まどかは挑んだのだった。
今目の前に広がる光景は、それを受けた虚無の意思からの、一種の動揺の裏返しだったのかもしれない。
ルストハリケーンを貫き、無数の針が放たれていた。
既に放出を止め、威力が大幅に軽減されていたとはいえ、針の大群は夥しい数の犠牲を対価に神の大嵐を打ち消していた。
大小さまざまな、大きいものでは惑星サイズに匹敵する無数の針が全方位からZEROへと迫る。
ZEROの言葉に鹿目まどかは頷いた。
ありがとう、と返された直後、鹿目まどかの視界は高速で動いた。
反動も振動もなく、ただ自分が光と化したかのような感覚があった。
その一方で、ZEROが何をしているのかが事細かに伝わってきた。
鹿目まどかは魔神に憧れていた。だから、魔神の存在を全て知りたい。そう思っている鹿目まどかにはそれは有難かった。
鹿目まどかは軽く首を振った。視界の変化は激しいが、一切の気分が害されなかった。
魔神が配慮してくれているのだろうと思い、感謝した。
撞球反射。鹿目まどかは今の動きをそう思った。
超高速で飛来する針の大群の隙間を更なる速度、超光速とでも云うべき速度で飛翔し、針を蹴り砕きながらその反動で目まぐるしく移動していた。
背負った円環の翼、ZEROスクランダーはZERO本人を大きく上回るサイズだが、それを邪魔ともせずに跳んでいく。
その様子はまるで、物語の中の忍者のようだと思った。
そう思ったとき、操縦桿が微かに震えた。鹿目まどかの意思が魔神にも伝わったらしい。
飛翔しながらZEROは問うた。飛来した惑星大の針を、軽い裏拳で完全粉砕した際の問い掛けだった。
その様子から察するに、こんな針など大小問わず幾ら食らおうが全く問題ないのだろう。
魔神はこれらを敢えて避け、己の体術を鹿目まどかに教えているようだった。
それを貪欲に認識しつつ、不思議な質問だなぁと彼女は思った。
忍者が好きかとは、幾度ものループの中や数多の魔法少女を観測した中でも聞いたことが無い質問だった。
とりあえず、鹿目まどかは頷くことにした。忍者の発音が妙にカタカナじみているのが気になった。
例えるなら、外国人が間違って覚えた日本文化のような。
忍者イコール空手の方程式に、鹿目まどかは首を傾げた。やはりというか間違った日本の知識な気がしてならなかった。
何を言ってるんだろうと鹿目まどかは思ったが、それはどうでも良かった。
魔神が何を見せてくれるのか、それが楽しみであり、自分の為に何かをしてくれるのが嬉しかった。
そう思った頃には、魔神は飛来する針の大群を抜けていた。
抜けた先には、針以上の数の細胞達が蠢いていた。
魔神の意思が発せられた瞬間、その場にいた数多の細胞が砕け散った。
ZEROが行ったことは単純だった。細胞へと突撃して手近なものを殴打し、蹴り砕き、破壊不能の四肢全てを用いて暴虐の嵐を見舞う。
吹き飛ばされた固体は近場な者を巻き込み、崩壊しながら吹き飛んでいく。ZEROはそこに追撃を放った。
飛翔し、蹴り、更に蹴る。こちらも言葉にしたら単純であるが、一瞬のうちに繰り出された蹴りの種類が多彩だった。
前蹴り、膝蹴り、回し蹴り。それに加え、地団太を踏むようなバタ足じみた連続蹴りも放たれていた。
それらは直撃どころか蹴りの衝撃だけで周囲を破壊していた。周囲とは宇宙の事である。
単体攻撃にして超範囲の遠距離攻撃。
ZEROに死角は無く、更には四連と言いつつも数を全く守っていない。
ZEROはルール無用だった。
実際に万物の法則を無視し、自らが概念と言わんばかりに破壊を撒き散らしている。
蹴られた部分は無惨に破裂し、無数の流星群と化して後続の個体をズタズタに引き裂いた。
ZEROにとって全方位を囲まれた状況は不利でもなんでもなかった。
ただ圧倒的な力で文字通り蹴散らせば、蹴散らされた者それ自体が武器となって周囲を破壊するからである。
鹿目まどかはその様子に魅せられていた。
暴力に興奮などはしない。ただ、嘗て最狂最悪だった最強の魔神が戦う様は、ひどく美しいと思えたのだった。
暴力と戦う事に何の違いがあるのか。
それは彼女も分からなかったが、それでも魔神の戦いは暴力とは思えなかった。
ただひたすらに、ZEROは強く美しい。鹿目まどかはそう思った。
周囲の細胞は魔神がひと暴れしただけで壊滅していた。
パネルの上に殲滅した数、キルカウントが浮かんだ。五千億という数字が見えた。
先ほどのルストハリケーンの倍近い殲滅数だった。
学ぶことは多いと鹿目まどかは思った。妬みという感情とは無縁らしい。彼女の美徳の一つだろう。
ZEROの言葉の意味が鹿目まどかにも分かった。
周囲の空間から、巨大な何か、無に等しい白色の障壁が迫っていた。
虚無の力そのものを凝縮した防壁は、魔神の体術による衝撃も弾いていた。
恐らくこれでZEROを拘束し、無力化するつもりなのだろうと。
しかしこの程度で、魔神が止められるとは思わなかった。
そう言って、ZEROは泰然と構えたままに右手を伸ばした。
太く逞しい美しい手と指だと鹿目まどかは思った。
これもまた記憶の世界で見た光景だった。しかし、少しだけ様子が違っていた。
指揮するように人差し指が伸ばされた訳ではなく、畳まれた指の間には輝く何がが挟まっていた。
それが何か、鹿目まどかにはすぐ分かった。
心臓が興奮で跳ね上がるのを感じた。これは、鹿目まどかが気に入った武装だった。
鹿目まどかは頷き、大きく息を吸った。
『サザンクロス!』
心の中で叫ぶ鹿目まどか。
ああ、かっこいいなぁ。鹿目まどかは思った。名前も形状も、何もかもが格好良くて美しい。
鹿目まどかはこの武装が大好きだった。感性に刺さったのだろう。
魔神の記憶の中で、認識できた限りでは一度しか見られなかったのが残念だった。
心の中でごめんなさいと前置きしつつ、その際の標的である偉大な勇者に当たった様子が見たかった、と彼女は思った。
操縦桿を思い切り引いて、倒した。駄目押しと言わんばかりに、足先にあるペダルも思い切り踏み込んだ。
『ナイフ!』
叫び終えた瞬間、魔神は手を振った。軽いひと振りのように見えたが、それだけで世界が震えたような気がした。
振り切られた手の先で、三つの十字架が飛来していた。
南十字星の名を冠された、光子の刃。それらは縦横無尽に飛び回り、細胞が展開した虚無の壁を水か空気のように切り裂いた。
障壁の奥にいた細胞達も一瞬で数百体が両断され、それでも三つの刃の勢いは止まらず更に数千万体を殺戮した。
数の飛躍は冗談にしか思えず、非現実性の極みだが鹿目まどかはそれを事実として受け取った。
そして彼女の視界は、一面の光の輝きで埋め尽くされていた。
飛び交う刃は、既に三つではなかった。一つの刃の輪郭がぶれた、と見えるやそれは新たな刃となって飛翔していった。
それはまるで大群で飛ぶ鳥の群れのような、見上げた夜空に浮かぶ無数の星々が全て流星と化したかのような。
輝く十字の刃の群れは、生きた邪悪な宇宙を許さずにその存在を切り刻み、しめやかに爆発四散させていく。
そこまで言った意思は、そこで止まった。
知らずの内に、鹿目まどかは操縦桿の中央に拳を振り下ろしていた。
叩きつけるのではなく、とんと軽く小突く程度の強さだった。強く叩くと魔神が心配する故に、弱い力で叩いていた。
このあたりの意思疎通も、随分と慣れたものである。
なのでZEROは、そのか弱い一撃に込められた意思が理解出来た。
魔神は謝罪し、鹿目まどかも首を振った。
武装名は本人の自由であるし、それを自分が決める権利はそもそも無いのだと思ったのだった。
弱い力とはいえ、衝動的に叩いたことを鹿目まどかも謝罪した。
虚無が切り裂かれていく光景を、鹿目まどかと魔神はしばし眺めた。
時間にして約五秒。絶え間なく動き続けた中で、その時間は極めて長く感じられた。
時の流れが希薄に感じられるようになったのは何時からだったか、と彼女は思った。
最初は生まれ変わったあの時から。そして引き裂かれた後。
後者の時から、それはより強く感じられるようになった気がしていた。
それが今、たったの五秒間が極めて長く感じられた。
何故だろうと思えば、この光景があまりにも美しく、時が止まったかのように感じられるからだと思った。
本当に止まって欲しいとさえ思った。しかし、それは赦されない願いだった。少なくとも、今はまだ。
魔神が意思を発した。それが現実への回帰であった。
事も無げに魔神は言った。
鹿目まどかは少し苦笑した。
この存在は本当に無敵で、最強なのだと。
鹿目まどかは力強く頷いた。
そして強い眼差しで空を見て、操縦桿を強く握った。