魔法少女☆鹿目まどか 円環最期のZERO秒間   作:凡庸

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第37話

「………」

 

 

 少女は目を開き、微睡みの中でぼーっとしていた。年季の入った木造建築の天井は、生きてきた時の数だけ見ていた。

 今年で築二十五年、と聞いた覚えがあった。そう思っていると、バタバタという音と振動が聞こえた。

 準備しなくちゃ、と思い、少女は布団を被り直した。

 どんな準備だと、少女は自分で自分の行動を突っ込んでいた。これもまた、これまで生きてきた時に近い回数繰り広げられた事だった。

 そして「バタン!」という大きな音と共に、部屋の畳が踏みしめられる感触がした。

 数瞬後、

 

 

「起っきろーーーー!!」

 

 

 と、快活な声が鳴り響いた。同時に布団が引っ張られて剥ぎ取られる。

 いつの間にか外側の障子が開けられており、少女は全身で朝の日差しを浴びた。

 言葉にならない慌てた叫び声を出しつつ、慌てふためくポーズを取った。我ながら大根演技だなぁと少女は思った。

 目を開けると強い光に目が眩み、演技は現実の挙動となった。

 思わず倒れかけたとき、その身体が優しく抱き抱えられた。

 小さな手と細い腕の感触もまた、身体に沁み込んでいる。

 

 

「おはよっ!まどかお姉ちゃん!」

 

 

 眩い光を遮り、朝の光を背負いながら、少女―――鹿目まどかの妹は絵に描いたような朗らかな笑顔を浮かべてそう言った。

 白いワンピースを着た少女の体躯は鹿目まどかよりも小さく、束ねられずに下げられているセミショートの髪は姉よりも長かった。

 妹はてきぱきと布団を片付け、そしていつの間にか鹿目まどかの服装もパジャマから制服に着替えさせていた。

 脱がされて着せられたという手順が感じられないほどの早業に鹿目まどかは舌を巻いた。これも何度も感じていた事だった。

 

 開いた戸の奥からは、トースターの音が聞こえ、コーヒーの匂いが微かに漂ってきた。

 相変わらずの手際の良さに、鹿目まどかは何千回繰り返してきたか分からない、感心と感謝の表情を浮かべた。

 それに対して妹は笑顔で答えた。美の女神に愛された画家の手で描かれた花のような、美しい笑顔だった。

 

 

 香しい匂いを漂わせるコンソメスープ、黄金色の焼目を見せたトースト、瑞々しい野菜が美しい彩りで盛られたサラダ。

 まるで生きているかのように新鮮な目玉焼きには、適度に芳醇な脂を乗せた数枚のベーコンが重ねられている。

 我が家同様に年季の入ったちゃぶ台の上に並ぶ、シンプルだが一目でその全てが極上品と分かる料理を前に鹿目まどかは胃が疼くのを感じた。

 八帖の和室の中で正座した鹿目まどかは、両手を合わせて「いただきます」、と丁寧な一礼をした。

 感謝の祈りを終えた頃にはフォークを掴んだ手が伸び、ミニトマトを串刺しにしていた。

 先端がサクッと刺さる感触が、野菜の新鮮さを物語っている。口に含んで噛み締めると、口内で酸味と甘みが弾けた。

 酸味によって目が覚め、甘みによって安らぎを感じる。妹が育てている野菜の美味しさは、筆舌に尽くしがたかった。

 

 そのまま夢中で食事をした。歯ごたえ、歯触り、舌触り、見た目に匂いにと得られる情報の全てを味わい尽くす。

 ゆっくりと食事をしたつもりだったが、気付いたころには両手を合わせて妹と食材への感謝の言葉を述べていた。

 腹部には満腹による幸せな圧迫感があった。

 ぽーっとしながら両手で胃の上を撫でていると、眼の前にコトリと音を立てて皿が置かれた。

 湯気を立てるカップには、闇のように黒い珈琲が注がれている。

 味覚の中で苦味は苦手な方であったが、これだけは別だった。

 取っ手に人差し指を通し、ゆっくりと口に運ぶ。息で吹くまでもなく、最適な温度の熱い液体が口内に広がる。

 ほろ苦さと渋さと酸味が熱と共に心身に広がっていくのを感じた。意識が冴えていき、思わず賢くなったような気さえした。

 

 ふとそこで、耳に入る音が聞こえた。ちゃぶ台の正面奥にあるテレビからの音だった。

 機械が上げる唸り音と共に映し出されているのは、プールのような場所だった。

 張られた水が中央で立ち割れ、その中から何かがせり上がってくる。

 そうして現れたのは―――。

 

 

「あ、お姉ちゃん」

 

 

 そこで妹の声がした。テレビとは逆方向へ振り向くと同時にテレビは消えた。

 名残惜しさに後ろ髪を引かれる想いが去来したが、そこで鹿目まどかははっとした。

 桃色の視線の先には妹の笑顔と、彼女が掲げた鹿目まどかのスマートフォンの画面があった。

 

 

「時間、ちょっとピンチじゃないかな?」

 

 

 言われた瞬間にはもう動いていた。慌てて食器を重ね、あたふたと動く。

 お箸やフォークはコップに入れて運びやすくして、でもそうするとそこに汚れが付くから洗うのが大変で、汚れたお皿を重ねたら底が汚れるから洗う手間が増えて…と、実行してからの後悔が鹿目まどかの中を駆け巡る。

 と、そこで悲劇が起きた。慌てたが故に鹿目まどかは足を滑らせ、食器の全てが宙を舞った。

 

 彼女には一秒先の未来が見えた。頭がちゃぶ台に強打され、食器は床に落下し汚れと破片を撒き散らす。

 ああ、なんで自分はこうもドジなんだろう。そう思った時に鹿目まどかは瞬きを一つした。

 一瞬の後、彼女は床に座っていた。ちゃぶ台の前に正座し、前を見つめている。

 台所の様子が見えた。全ての食器が整然と片付けられており、床の畳は古びてはいても汚れはない。

 白昼夢かな、今朝だけど。と思ったものの、満腹感からしてそれはない。

 

 

「はい、おまたせっ!うぇひひ」

 

 

 輝く笑顔に歌うような美しい声と奇妙で愛くるしい笑い声。

 ワンピース姿の妹は、いつもの調子で通学鞄を持って鹿目まどかの元へ来ていた。

 鞄の中には今日のお弁当も入っている。今日はどんな献立だろう、と鹿目まどかは食事をしたばかりながら次の食事が楽しみになっていた。

 ああそうか、そうだったよね。鹿目まどかはそう思った。

 思えば簡単な事だった。何でも出来る出来の良い妹が、全てなんとかしてくれたのだった。

 これもずっと、生まれた時から変わらない事だった。

 そして、いつもの日常が始まった。

 

 青空の下。

 鞄を持ち、鹿目まどかはいつもの街並みをいつものように歩いていく。

 田舎でも都会でもなく、衰退もなくさりとて急激な変化の無い街並みが流れていく。

 通学路に視線を送ると同じ目的地へと向かう何人もの少女達が見えた。

 自分と同じような髪型であり、背格好も似ている。

 

 自分と同じように鞄を持ち、同じ制服を着て歩いてゆく。

 どこにでもいる存在、というのが鹿目まどかの自分への印象であり、それが再確認された光景だった。

 彼女としては別にそれが苦でも何でもなく、ただそう思っただけであった。

 それでも少し、ほんの少しだけ表情に寂しさの翳りのようなものが浮かんでいたようだ。

 

 

「おねーちゃーん。どうしたの?」

 

 

 その変化を、妹は鋭敏に察したようだ。鹿目まどかは視線を右へと向けた。

 道端の家々を囲む塀の上を、ワンピース姿の少女が振り子のように手を伸ばして歩いている。

 よっ、はっと声を出し、バランスを取っているようだった。

 これも妹が常々行っている事だった。以前尋ねてみた事によると、普通に地面を歩くのが退屈であるらしい。

 それに

 

 

『お姉ちゃんを守りたいから』

 

 

 と言っていた。

 随分前から行っており、一度の落下もなく怪我をしたこともなければ何らかのトラブルを招いたこともない。

 それでも心配であるのだが、妹の笑顔を見ていると注意する気が萎んでしまう。

 降りた時にでも注意しようとは思っているものの、その頃には妹の奇行を忘れてしまう。

 

 

「そっかなぁ。お姉ちゃんはお姉ちゃんで、他に変わりなんていないと思うんだけど」

 

 

 そう言って、妹は鹿目まどかに向けていた視線を前へと戻した。

 姉は妹が「ご覧よ」と言っているように思えた。

 そうして前を見てみると、そこには誰もいなかった。

 正確には、同じ学校の女子生徒たちは誰もいない。

 奇妙な現象に鹿目まどかは首を傾げそうになり、しかし即座に原因が分かった。

 

 

「それはそうとして。さてお姉ちゃん、時間は大丈夫なのでしょうか?うぇいひひひ」

 

 

 いつの間にか傍らを歩いていた妹が、悪戯っぽく問いかける。そして彼女の奇妙な笑い声を合図に、鹿目まどかは走り出した。

 食事の時点でそもそも遅刻しかけだった。なんで忘れていたんだろうと鹿目まどかは思った。

 百メートルも走らないうちに脇腹に痛みを覚えた。胃の中では朝食が跳ね回っているだろう。胃液がせり上がるのを感じた。

 ああ、もう駄目だという思いが頭を過る。それを塗り替えるように、頑張ろうという意識に思考が染まる。

 今できることを精一杯しようと思って必死に走った。赤信号にも気付かずに。

 ぞくっとしながら、パッシング音の鳴る方向を見た。

 

 

「お疲れ様!お姉ちゃん!」

 

 

 妹の声がして、そして顔の先には妹の顔があった。

 今の自分は走っておらず、座席に座っている。周囲は話し声で満ち、同じ制服の者達が大勢いた。

 

 

「お姉ちゃん、相変わらず脚早いねぇ。あっという間に着いちゃったよ」

 

 

 隣の席に座る妹は、どこか誇らしげにそう言った。

 記憶を辿ると、確かに通学路を走った…と思った。走ってる時は苦しかったが、今ではなんの痛痒もない。

 そういえば少し前まで、机に突っ伏していた気がする。その間に回復したのかな、と彼女は思った。

 そう思うと、今度は肉体ではなく心の疲労感がどっと来た。

 でもこれから朝礼で、一限目の授業が始まるから…と眠気を振り払おうとしたとき、頭に柔らかな感触を感じた。

 

 

「大丈夫だよ。お姉ちゃん」

 

 

 妹が頭を撫で、そして顔を抱いている。そう認識した時、鹿目まどかの意識は急速に薄れていった。

 

 

「授業まではまだまだ時間があるよ。だから心配しないで休んでて」

 

 

 鹿目まどかの頭の中で、妹の声は何度も反響を繰り返した。

 優しく穏やかな声が繰り返され、その度に意識が消えていく。苦痛は無く、安らかに落ちていく。

 やがて眼を閉じた鹿目まどかを、妹は優しく机の上に半身を乗せた。

 机と姉の顔の間には、柔らかなタオルケットが差し込まれていた。

 安らかな寝息が発せられているのを確認してから、妹は周囲を見渡した。

 

 全員が自分の席に着席し、ただ前を見て、呼吸だけをして停止している。

 見渡した座席の中で、空白の場所が一か所だけあった。

 それを確認した妹は、鹿目まどかの頭をひと撫でしてからその場を離れた。

 そして踊るように歩きながら教室を出た。

 

 

「さぁて。今回もいつものやっておこうっと」

 

 

 妹の声を、外の空気が出迎えた。教室の扉を開いた瞬間、彼女は廊下ではなく校舎の外にいた。

 移動の過程が飛ばされ、結果がそこにあった。

 校舎の裏手に彼女はおり、そこには中学二年生にしては長身の男子生徒がいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 穏やかな日常。飢えることも病めることも傷付くこともない、満ち足りた世界。

 少年は自分が観て聴いて感じる日々の暮らしをそう思っていた。

 誰もが自分のやりたいことを見つけられ、それに勤しむことが出来る世界。

 自分が満ち足りているからこそ、他者を思い遣る余裕が出来、誰かの為を思って行動出来る。 

 十四年間生きてきて、自分は何度も人を助けてその何倍も何十倍も、何百倍も他の人々に助けられて生きてきた。

 なんてすばらしい事なんだろう。その思いを楽器の演奏で表現した。

 

 最初に弾いたのは、自分が子供の頃からやっているテレビアニメの曲だった。

 幼いころから慣れ親しんだヒーローの曲は、重厚且つ軽快で、強く生きる意思を持たせてくれる音だった。

 自分の指と感覚は、それに恥じない素晴らしい音で叶えてくれた。

 自画自賛だが、自分が奏でる曲の中で活躍するヒーローの姿が思い描けた。

 更に良くしようと思い、寝る間も惜しんで鍛錬に打ち込んだ。

 

 自分に足りないものがあると知れば、補えるように努力をした。

 数多くの曲を聴き、思った事を書き連ね、その音の際現に勤しみ先人の知恵を自分の中に取り込もうとした。

 先人そのものにはなれず、才の及ばなさを痛感させられることも多かったが、それでもそう努力したことは自分の中に経験として残っていった。

 経験と努力は裏切らず、自分の奏でる音は天上の音楽とまで評された。

 万雷の喝采の最中に立っていた時の事は、今でもはっきりと覚えている。

 頬を伝う涙の熱さと、自分の中の音楽に応えてくれた楽器と、これまでの人生の中の全ての出逢いへの感謝の想いを。

 

 傲慢だと思われてもいい。

 自分には多少の才能があったのだろう。

 だがそれでも、自分が思い描いたままに音楽を奏でられているのは殆どは自分の努力と、この音の元となった素晴らしい人生のお陰だと思っていた。

 曲を奏でれば皆が喜び、自分を褒め称えてくれる。

 それは確かに嬉しいが、何よりも曲を奏でること自体が楽しい。

 皆が喜んでくれることが、自らが奏でる音の美しさを感じることがとても嬉しい。

 

 しかし少年は、その感情に違和感を覚えた。

 音楽への想いは事実であり、自らの心でそう思っていると感じている。

 誰かに強制されたものではなく、全てが自分のものであると。

 そんな当たり前の思考を改まって思う事自体がおかしいと、若き音楽少年は思っていた。

 特に最たる違和感は、『皆』という概念についてだった。

『皆』という中に、何かが欠けている気がしていた。それはふとした時に頭を過った。

 目覚めた時に、夢の中で何かに、誰かに出逢ったような気がしていた。

 それは幼少期からの思い出の中、にもいたような気がした。

 幾ら思い出そうとしても、両親や知り合いに尋ねても答えは返ってこなかった。

 その疑問も少し経てば勝手に忘れてしまう。ただ時折、ふと思い出すのであった。

 水のような、美しく青い輝きを。

 それは左手を見た時に、軽やかな手つきで弦を爪弾く左指を見た時に、視界の中を魚のように泳ぐのであった。

 

 

 今日手紙を書いたのは、その事を確かめる為だった。

 相手は同じクラスの女子生徒。

 正直、会話したことはなく相手から話しかけられたこともない。

 避けているのではなく、接点が無いのであった。

 

 ただここ最近、彼女の存在が気になっていた。恋愛感情、というものではなかった。

 自分はまだ異性を意識できておらず、好意や関心には至れない。むしろ未知の存在であるからとして、少し怖いとさえ思っている。

 だがその自分の怯えが、あの少女からは感じられなかった。

 安心感。その少女からはそれが感じられた。

 話したこともないのに、一方的にそう思ってしまうのは失礼ではないかと思ったが、どうしてもそう感じられてしまう。

 見知ったクラスの中で、その少女は異彩を放っている。少年にはそう思えてならなかった。

 その根拠はと自問すれば、何もないとしか出てこない。

 だがしかし、ある種の確信めいたものが感じられた。

 

 それは、この彼女なら何か知っているのではないか。自分の話を聞いてくれるのでなないか。

 これもまた一方的としか思えない願望を、彼女は叶えてくれる。

 あの水色の光が何かを知っている。そう思えてならないのだった。

 だから話をしようと手紙をしたため、下駄箱の中に置いた。

 来てくれるかなという不安は、時間の経過とともに折り重なっていった。

 既に授業は終わり、放課後になっている。指定した時間からは既に、三十分が経過しようとしていた。

 それでも日が落ちるまでは待とうと、少年は思った。

 

 

「毎回毎回、困るんだよね」

 

 

 正面からの声がした。その声は、少年が呼び出した少女と同じ声だった。

 言葉からは失望を、声色からは何の感情も読み取れなかった。

 そして前を向いていたのに、声を掛けられるまでその存在には気付けなかった。

 忽然と出現したかのような、または。

 その声は自分の幻聴であり、実際はそこに存在していないかのような。それ以外の思考は思い浮かべず考えられず、そうとしか思えなかった。

 異常な事が起きているとも、今の少年には分からなかった。

 

 

「こういうこと、されちゃあさ」

 

 

 少年の前に、封を切られていない手紙が投ぜられた。

 それは空中で忽然と消失した。

 少年はそれをはっきりと見た。見たが、何も思わなかった。思えなかった。

 何が起きたのかは見えていたので分かっている。だがそれに対し、どう思うべきなのかが欠落していた。

 

 声を聞いた時から、少年は自分の中からふっと何かが抜けたような感覚がした。

 思い切り吸った息を吐くような、そんな感覚だった。

 ただそれよりも体への負担は軽い。いや、無いと言って過言ではなかった。

 ただ何かが抜け落ちた。そしてその何かが何であるかが分からない。

 何かが滔々と、自分の中から抜けていく。消えていく。

 自分が何を考えていて、何故ここにいたのかも分からない。

 

 そもそも自分とは何か。本当に自分はここにいるのだろうか。こことは何か。何かとは、何か。

 全ての思考が希薄化し、消えていく。

 その中で少年は視線を動かした。正確には力が虚脱し、勝手に流れたのであった。

 視線の先には、左手があった。

 それは自分の腕の先には無かった。

 それは、眼の前に立つ白いワンピース姿の少女の手の中にあった。

 握手をする形で、少女は少年の指と自分の指を絡ませている。

 少女の細指に絡められた自分の指は全て、可動可能な範囲を超えて反り返り、ゴムのように捻じ曲げられていた。

 

 この時、少年の思考からはワンピースや少女、手や指という言葉さえ消えていた。

 ただ、自分の身体から大切なものが捥ぎ取られて弄ばれていることだけは分かった。

 左手首の断面は、骨と肉ではなく空虚な伽藍となっていた。

 色の無い色が、透明で濃厚な白が、少年の左手に映えていた。

 それを見た時、一筋の光が空虚となった少年の思考の中で閃いた。

 それは、澄んだ水のような美しい青。

 

 取り戻さなければならない。その言葉の意味も、行動を促す感情のが怒りや悲しみである事も忘れた少年の身体が動いた。

 だが手を伸ばした瞬間、少年の体はバランスを崩した。

 地面を踏みしめる足が消えたからだ。少年の体は宙に投げ出された。

 幸いにして、少年は地面に激突する痛みを知ることはなかった。

 地面に触れる前に、その姿自体が消えたからだ。

 水が何かを溶かし、自らのものとしたかのような。

 それは、そんな消失だった。

 

 

「…やか」

 

 

 消えゆく寸前。 

 少年の声帯がそんな音を発した。

 それが少年の発した最後の声となった。最期の一息が形作った言葉は、人の名前に思えた。

 後には、空虚だけが残った。

 少年の前に立つ少女だけが、現実の産物としてその場に残っていた。

 少女と、彼女が握る少年の左手だけが。

 

 

「今更になって、想っても遅いよ」

 

 

 淡々と、空虚に。鹿目まどかの妹はそう言った。

 

 

 「じゃあね、上条恭介」

 

 

 妹は口を動かしながら言った。細い喉が動き、ごくんと口内の存在が嚥下された。

 その手の中には既に何もなかった。少年の左手もまた、何の痕跡も残さずに消え去っていた。

 

 

「今回もお役目ご苦労様。そして御馳走様でした」

 

 

 そう言うと妹は背を向けた。

 少年が立っていた場所には何もいなかった。

 靴に踏みしめられていた地面の痕跡すらも残っていなかった。

 

 夕焼けに染まった空の下、鹿目まどかの妹は楽しそうに両手を広げ、花のようにくるくると回りながら歩いて行った。

 花のような笑顔で、鹿目まどかの妹は歩いていく。

 血が通った造花のような、虚実が入り混じる笑顔であった。

 

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