桃色の少女が異形の神に喰われてから、どのくらいの時間が経ったのだろうか。
時の変化を告げるものは何もなく、降りしきる雨の中、黒鉄の神は膝を着いた状態で停止している。
それが不意に変化した。体勢はそのまま、黄金色に輝いていた眼の中に黒点が、渦巻く瞳が浮かんだ。
姿勢は変わらず、渦の瞳が彼方を見つめる。
視認した存在を認識し、渦は一瞬、その大きさを増した。
それは感情の揺らぎに見えた。
『俺に任せろ』
思念の声を、黒鉄の神は聞いた。それは、己の内から響いていた。
『頼ム』
黒鉄の神は即座に伝えた。渦の瞳が、水面に投ぜられた石のように消失する。
直後、振動が走った。跪いた態勢の神に、暗い影が落ちる。
それは、巨大な異形だった。
色は全身が白の一色。
形で見れば中世の騎士のような甲冑姿であったが、その下半身は魚類のそれだった。
大きさは、黒鉄の神の倍以上はある。兜を彷彿とさせる頭部から尾の先端までをメートルに直せば、百五十メートルもあるだろうか。
神の頭部へと手に携えたサーベルを振り下ろす背後にあるのは、荒涼たる街の情景ではなかった。
極彩色と闇が入り混じる異様な空間が、異形の背後に広がっている。
その空間では、影絵のような存在が多数蠢いていた。
楽器を携え狂ったように演奏を続ける音楽家達と、それを指揮する者とそれらを応援する少女を模した影絵。
それらが集った異界のコンサート会場が、開かれた空間の正体だった。
同時にその反対側の空間も歪み、闇が溢れた。
赤黒い、血と内臓をブチ撒けた様な悍ましい色彩が広がるそこは古代の城塞にも見えた。
その上を、異形の騎兵が疾駆する。
馬に跨ったのは、着物を纏った蝋燭とでもすべきような異形。
人魚の騎士に等しい体格を持ち、その身よりも長大な槍を携えている。
サーベルと槍の刺突は完全に同一のタイミングで放たれていた。
黒鉄の神は両手を左右に突き出した。
巨大な手だが、その大きさはサーベルと槍の先端の幅と同程度。
異界の得物と黒鉄の手が激突し、轟音と火花が飛散する。
世界自体が震えたような激震の中、騎士と騎兵は身を捩っていた。それは恐らく、驚愕によるものだったのだろう。
異形の剛力によって振るわれた刺突は接触の瞬間に砕け、その勢いは止まらずに騎士と騎兵の手元にまで及んだ。
全身を覆う装甲が異常なまでに頑丈であり、宿った力は莫大に過ぎていた。
態勢を整える前に、広げられた五指が騎士と騎兵の頭部を掴んだ。
黒鉄の神は立ち上がると同時に飛翔した。
その背には巨大な円環ではなく紅の翼が装着されていた。
強烈なジェット噴射は翼の主の数倍はある異形の抵抗や質量も無視し、一気に大空へと舞い上がる。
『せめて、共に』
思念と共に、神は両手の異形達を解放した。その思念には、悲痛な感情が伴われていた。
自由となった二体の前に赤色の光が映えた。
『ブレストファイヤー』
大空の一角を埋め尽くす、真紅の奔流が迸る。
迫る消滅を前に、二体の異形は前に進もうとしていた。
それは近くの存在を、守るかのように見えた。
しかし真紅の光は両者を等しく破壊した。寸分の差異無く、二体の異形は塵一つ残さず光となって消えた。
光が最後の一筋まで消えゆくのを、姿を変えた神は見届けた。
最後の瞬間に残ったのは、赤と青の光に見えた。
『惨いものだ』
思念に込められたのは怒りと嘆き。理不尽に対する正しき怒りであった。
滞空する神の周囲で、再び空間が歪み始めた。
世界が変容し、異様な空間が次々と現れる。
既に神の周囲にまともな空間は無く、多種多様な異界が交じり合った異形の世界が形成されている。
その中から現れるのもまた、異形の群れだった。
可愛らしい人形から蛇と鮫を合わせたような姿を生やしたもの、マネキンがいくつも連結し、体の長点にタキシード帽子を頂いたもの。
半ば溶解した植物のような姿のものや、容器に入れられた巨大な脳髄など、一体として同じ姿をしていない。
その数は今も増え続け、異界の範囲も際限なく拡大していく。
爪に牙に、異形の武具を携えた異界の者たちは、一斉に神へと殺到する。
迫りくる者たちを前に、その神は一歩も引かなかった。
『来るがいい』
銀の王冠のような頭部、雄々しくも和やかな、それでいて勇壮で荘厳な造形の顔。
異形たちを前に紅の翼を背負って飛翔する、その威容はまさに。
空に聳える
少女は無言で下方を眺めていた。
そこにいたのは、真紅のドレスを纏った紅い髪の少女。
手に携えた槍で、裂帛の突きを放っている。
二等辺三角形の槍は桃色髪の少女の腹部を貫通し、串刺しにしていた。
激痛に指の一本も動かせず、しかし何かを言おうとしていた。
紅の少女の手が捻られ、体内に埋まった槍が回転し、少女の肺と心臓を完全に破壊する。
何も果たせず、少女の意識が消えた。
少女の視界は宙にあった。
視線の先には、斬撃を放った直後の青髪少女。
首が宙でくるんと回った時、青い少女のサーベルが桃色髪の少女の眉間を貫いた。
何かを言おうとし、少女は口を開こうとしたが無理だった。
桃色の少女は、そこで命を失った。
少女の目と耳、そして鼻から鮮血が溢れる。
側頭部が大きく経こみ、桃色の瞳が嵌めこまれた眼球は神経の糸を引きつつ飛び出している。
銃床を叩きつけられたことによる激しい衝撃により、神経は切断寸前だった。
零れた眼球ごと、頭の上半分が撃ち抜かれた。
ほんのわずかに残った脳は、千切れた眼球からの最期の情報を受け取った。
黄の光を纏う銃使いの少女が、こちらに銃口を向けていた。
次に目覚めた時、桃色の少女の全身は赤黒く、そして赤紫に染まっていた。
手術台の上で仰向けになった少女の命は消えかけていた。
意識が絶えた時、激痛が再び意識を戻させた。
腕に注入された薬剤が全身に行き渡る苦しみは、血液全てが硫酸か針にでも変わったかのようだった。
苦痛に喘ぐ少女の傍らには、注射器を手に持ったガスマスク姿の小柄な少女がいた。
その手には複数のビーカーと試験官が握られていた。
それら全てを丁寧に、的確に、緑髪の少女は使い終えた。
全てが終わった時、手術台の上の少女は原型を喪っていた。
それでも死にきれず、完全に死ぬまでは長い長い時間を要した。
次に少女は、更に長い時間をかけて殺された。
同じく緑髪をした少女の拷問は苛烈を極め、全ての爪を剥がされ歯を抜かれ、全身の皮を剥がされた。
痛みと渇きで泣き叫ぶ中、緑髪の少女はそれらを磨り潰して煮込んだものを少女の口に流し込んだ。
胃液ごと吐き出してのたうち回っていたところに、大盾が叩きつけられた。
硬い肉を伸ばすように、少女は何度も何度も大盾によって全身を丹念に叩き潰された。
緑髪の少女の全身が桃色の少女の血と肉で染まっても、少女はまだ生きていた。
最後に頭に足が乗せられ、ゆっくりと体重が掛けられた。
ゆっくりゆっくりと足がめり込み、少女は漸く死ねた。
次に少女は、巨大なハンマーで叩き潰されて死んだ。一瞬だけの苦痛だったが、その一撃には憎悪が籠っていた。
肉体の苦痛よりも、少女はそこが恐ろしく、そして悲しかった。
その次は、少女の口に斧のような赤黒い爪が突き込まれた。頭頂部から抜けた爪には、少女の脳味噌が付着していた。
斧の持ち主の、非現実じみた美貌が苦痛と共に少女の脳裏に焼き付いた。
目が覚めた瞬間が、その眼が潰れた瞬間だった。
顔に無数の穴が開き、顔全体が陥没していた。
痛みに呻く間もなく、全身に衝撃が走り、小さな体を小さな穴が埋め尽くした。
何も見えずとも、その破壊を成したのが強靭な脚力からの蹴りであり、靴底に無数に生えたトゲであることは分かっていた。
全ての骨が文字通り粉々にされてから頭が粉砕され、少女は死んだ。
次も次もその次も。
少女は終わることなく殺され続けた。
命が終わる悲しさと苦痛は、何度繰り返しても一切慣れなかった。
そして彼女は狂うこともなく、正気であり続けた。
生きながら挽肉機に掛けられ、僅かに生きている状況で自分の血肉と内臓を使われて腸詰を作られ食わされても少女は狂えなかった。
全身をウイルスに侵され、ありとあらゆる種類の苦痛を文字通り骨の髄まで、血の一滴や肉の筋一本一本に至るまで味わされた。
脳が氷結して焼け焦げて蕩けるような苦痛。
体を捩るたびに、頭蓋の中でぐずぐずになった脳が転がり、目や耳や鼻から赤黒い体液が漏れる。
無様に這いずりのたうち回る。体が動くたびに、肉体のどこかしらが崩壊し、壊れた玩具のように胴体から外れていく。
肩や脚が付け根あたりからぼろっと崩れ、断面からはコールタールのような体液と毒々しい黄色の膿が絶え間なく溢れ出す。
少女は全身から体液と膿を垂れ流すだけの存在となった。
仰向けとなった先には、これもまた緑色を纏った少女がいた。
半月に開いた口と、毒々しく淫らな笑顔で桃色髪の少女を見ている。
既に頭皮もほぼ溶け崩れ、少女の体は僅かに残った肉が骨に張り付いている状態になっている。
眼球の中でも泡が弾け、失明の寸前となっていた。
閉ざされる視界。
その最後に、少女は一つの光を見た。それは、緑の少女の背後から生じていた。
眩くも優しく輝く光が、緑の少女を包み込んだ。
次に目覚めた時、少女は見慣れた場所にいた。
少女の姿はこれまでと同じく制服姿だったが、それが最もふさわしい場所…母校であった。
学校の校庭に立ち、その周囲を多彩な衣装の少女達が囲んでいる。
その数は、少女から見えるだけでも十人以上。
校舎や隠蔽の技を使っているものも合わせれば、数は倍加以上になるだろう。
桃色髪の少女の前には、花嫁を思わせる白銀の衣装を纏った高身長の少女がいた。
光の化身のような、美しい姿だった。
輝く少女は手をかざした。口が動き、言葉を紡ぐ。
桃色髪の少女は放たれた言葉に悲痛な表情を浮かべた。しかし眼は背けず、光の少女を見続けた。
『生まれた罪を、贖いなさい』
強い口調は、神託を告げる予言者のそれだった。
そして一斉に、少女達は桃色の少女へと襲い掛かった。
身構える間もなく、そして身構えても無意味だっただろう。
少女はまず、背中を激しく殴打された。肺の空気が一気に空になり、前向きに激しく打ち倒される。
顔面が地面に激突し、可愛らしい鼻が無残に潰れ、血色の肉塊と化した。
少女の背後に立つのは、ハンマーを背負った小柄な少女。得物ではなく、足で少女を蹴倒していた。
呻く少女を、ハンマーの柄が引っ掛け強引に立ち上がらせる。
立ち上がった少女の体を、炎が襲った。
両手に扇を持った中華風の衣装の少女には見覚えがあった。
死ぬ数歩手前までの生命を残した状態で解体され、自分の肉と内臓を使って作られた腸詰を食べさせてきた少女だった。
悪夢としか思えない存在なのにきちんと料理され、単なる臓物の肉詰めに留まっていなかったことが恐ろしかった。
美味くもなく不味くも無く、点数を付けるとしたら50点くらいになるだろう。
そこが、食材にされた少女には悲しかった。
普段は料理人をしているであろうこの少女は、普段のつもりで生活を送らされ、自分を解体させられ料理を作らされている。
炎の中、桃色髪の少女は口を動かした。
声にならない声は、「ごめんなさい」と言っていた。
『まもれなくて、ごめんなさい』
全身を火傷で覆われた少女は、それでも他者の為に祈っていた。
その開いた口を、斜め上からの弓矢が貫き、上下の顎を強制的に縫い留めた。
聖女風の衣装を纏った少女が手首に装着したクロスボウで放ったものである。
そのまま数発を放ち、少女の腹と胸、そして左腕に矢が突き立った。
矢は腕を貫通し、左腕を胴体に縫い付けていた。
倒れそうになる度に、新たな衝撃が少女の転倒を強引に防ぎ続けた。
それは大盾や大槌、大剣の殴打であり、斧槍の斬撃であり、槍の刺突と生成された蔦による拘束だった。
その全てが一撃で少女を葬れる力がありながら、振るわれる力は弱く少女に与えられる傷は浅く短かった。
少しずつ、少しずつ。丁寧に、丁寧に。
炎が少女の皮膚を焙って蕩けさせ、斬撃が浅く切り裂き、殴打の威力は肉離れ程度に留める。
砕け。
溶かせ。
切り裂け。
玩具のように。
バラバラにする様を楽しもう。
そうとでもするような加虐が長く続いた。そして数十時間が経過し、遂に限界が訪れた。
傷が蔦で縫い留められ、出血を最低限にし斬撃を放った場所は時折傷が回復していた。
暴虐の中でその治療は頻度を減らし、代わりに暴力の度合いが上がっていった。
蔦で覆われていた腹から蔦が取り払われると、少女の内臓が傷口から滝のように雪崩れ落ちた。
全身からも出血し、かろうじて少女の原型を留めた肉と骨の塊は、手首から先を喪った右腕を掲げていた。
それは降り注ぐ暴力から身を守るためでも、降参の意思表示でもなかった。
『ごめんなさい』
舌も歯も無くなり、今も矢で縫い留められた口で少女は必死の謝罪を述べた。
許してほしいとは全く思っていなかった。ただ、己の内心を口に出していた。
腕を掲げたのは、相手を抱きしめようとするためだった。
その少女の胸に複数の球体が激突した。
大きく吹き飛ばされ、校舎の壁に背後から激突する。
倒れようとしたときに、投擲された斧槍が少女の腹を貫き磔刑とした。
火傷に打撲に裂傷に内臓の損傷。肉体で無事な個所など一か所もなく、全ての器官が破壊されている。
苦痛は既に、感覚を発する部位が死滅しており完全に麻痺している。
ただ、心の中の苦痛だけがあった。
槍とこれまでの損傷により、少女の体の前の肉が、胸から腹までが冗談のようにべろんと剥がれた。
砕けた肺や心臓が空気に晒され、血臭と湯気を振りまいた。
膝が折れ、槍の刃によって喉まで一気に切り裂かれる。
もはや流れる血も殆どない。
最後の止めは既に刺されており、少女には死の未来しか存在していない。
それなのに、少女は前を見て、手を伸ばしていた。その思いは、狂気でさえ及ばない何かだった。
その様子が動揺を誘ったのか、居並ぶ少女達は桃色髪の少女への認識を改めていた。
各々の武装を携え、少女の形を破壊すべく接近していく。
縮まっていく包囲網。その中でも、少女は他者を思い続けた。
遂に武具が振り上げられ、放たれる。その瞬間だった。
桃色の少女は、彼女だけがそれを見た。
色の無い空から、無数の光が降り注ぐ光景を。
世界の終りのような、または開闢のような光景だった。
少女に迫る者たちはそれに気付く前に、降り注いだ光によってその身を貫かれていった。
光の輪郭は彼女達を覆うほどの太さであり、完全にその姿を飲み込んでいった。
ほんの少しだけ、輝く少女だけが後ろに僅かだけ首を傾げた。
光がその少女を包むのは同時であった。
光は少女達を包むと同時に消えた。少女達の姿も、まるで夢のように消えていた。
後には、桃色の少女だけが残った。
呆気ない、とも思えない終わりだった。
そして終わりは、少女にも訪れた。
既に閉じる瞼もなく、眼球も機能を喪失しつつある。
無理矢理に上げていた首と腕がやっと下され、体中から力が抜けた。
少女の死に顔は、安らぎには程遠いが、彼女はやっと楽になれたのだった。
目が覚めた時、少女が感じたのは熱だった。
ただし苦痛のそれではなく、安らかな心地よい温度。
例えるならば暑くもなく寒くもない午後の日に、窓際で浴びる日差しのような。
底の浅い温水のプールで、揺蕩うような。
または母の胸に抱かれるような。それか母の胎内にいた頃の、生まれる前の記憶のような。
少女はゆっくりと目を開いた。
目の前に広がる光景に、少女は目を数回瞬かせた。
そこは、広いというにしても広大な場所だった。
そして奇怪な場所だった。
繰り返すが、兎に角広い。天井が遠くに見えるが、どのくらいの高さに昇るのかの想像がつかない。
故郷の町は高層ビルが幾つも立ち昇る未来都市だったが、それが横にも縦にも幾らでも入りそうだった。
もしかしたら国全体、いや、でもなぁと思いつつ、星一つが入るかもしれない。そんな気分も抱いた。
一方、その空間は奇妙というか奇怪、いや、機械といっても通じそうな場所であった。
天井も地面も、遠くに見える壁面にも何らかの管が走っているのだった。
その外見は家電製品とかのそれによく似ている。問題はその大きさで、近くにあるものと同じとすれば直径にして三メートルはある。
コード同士が絡み合い連なり合って、一部はまるでジャングルのようだ。
少女はその様子に、何か規則的なものを感じた。
まるでそのコードが、何かを縛っていたように思えたのだった。
しかし、そんな巨大なもので何を縛り上げるのだろう?
それにこの空間は非常に広大で、その全てにコードが走っている。
となると囚われていた物の数も膨大になる。何が何だか、少女には分からなかった。
しかしながら、何故かここは怖くなかった。
体を覆うのは心地よい温かさ。背中を伝って、少しの振動を感じたがそれもまた不愉快ではなく寧ろ逆だった。
疲れて電車に乗った時の、夢うつつの中で揺れる車内が思い出された。
そのまま目を閉じた。すうっと意識が消えかけた。
それを妨げたのは、音だった。
「…これで、良いのだろうか」
小さな、そして微かな声だったが、少女はぱっと目を開いた。
眠りを妨げられたが、熟睡後の朝に自然に目覚めたような、睡魔を引かない目覚めだった。
少女は体を動かした。その時にやっと、自分が頭とつま先だけを残して何かに覆われていることに気付いた。
首を傾けると、それは白金色の糸だった。一本一本が極めて細い糸が束となり、繭のように少女を覆っている。
外すの大変そう、と思いつつほんの少し力を入れたら、糸はふわりと千切れた。
例えるのなら、舌で触れた直後の出来立ての綿飴といった風か。
それでいて着地の衝撃も完璧に消し、少女は地面に降り立っていた。糸は地面と同化するように、或いは光となって消えていった。
その光の先から、先ほどの声がしていた気がした。
「万が一にも、いや、億…ええい、無限分の一のミスも赦されぬ」
少し歩くと、早速声の主に近づいたと分かるくらいに声が聞こえた。
近くのコード伝いに、ゆっくりと忍び寄る。
少女はひょいと半身を出し、声の主を確認した。
やっぱり、と彼女は思った。
「一度、確認をするか」
声の主はそう言うと、藍色のスリムパンツのポケットから何かを取り出した。
パカっと開いたそれは、赤い縁取りの手のひらサイズの化粧鏡。
開いたそれで、声の主は自分の顔を確認している。
「美しい」
見た瞬間に、その者はそう言った。
少女は顔がかぁっと熱くなるのを感じていた。
感情の赴くままに、少女はコードの陰から身を乗り出し、てくてくと歩いて行った。
歩いた先で手を伸ばし、声の主の肩を叩いた。黒い長シャツで覆われているのは、華奢そうな撫で肩だった。
「ん」
声の主は、そう言って振り返った。赤いリボンで左右を束ねた、桃色の髪がふわりと揺れる。
振り返った瞬間、その存在は硬直した。からんという音が鳴ったのは、手鏡を落としたためだ。
地面で揺れる鏡は。円環を思わせる形状をしていた。無限大という記号が数字のゼロと合わせられ、赤で彩られている。
「起こして、しまったか」
その者が出した声は、可憐な少女の声である。
平坦な趣であったが、句読点のように間を挟んだのが不思議だった。
「お初に、お目に掛る。ご足労頂き、誠に感謝する。」
あ、そっか。と少女は思った。
言葉が途切れ研ぎ手なのは、緊張してるからなんだ、と。
何故分かるのかと言えば、自分もそうだからである。
胸の中にある小さな振動が高鳴り、体内に行き渡る細い血管の中を熱い血潮が凄い勢いで走っているのが感じられた。
「ご拝顔出来て、光栄だ。鹿目まどか」
桃色の少女、鹿目まどかに対し、言葉を放ったものもまた同じ姿をしていた。
鹿目まどかと、鹿目まどかが向かい合っている。
異なるのは制服か、黒のロングシャツと藍色のスリムパンツを纏っているかだけだった。
後者の鹿目まどかは、どことなく声に堅さがあった。
例えるならば、機械が声を出しているかのような。
それは、そんな声色だった。