微睡む意識の中に、不意に音が木霊した。
意識がいつから形成されてたのかは分からず、いつからこの状態なのかは分からない。
広い空間があり、自分はその中を揺蕩っている。服を身に着けている感覚は無いが、さりとて羞恥もない。
ああそうか、と彼女は納得した。ここは夢の中であり、その中で裸であろうと別に羞恥もないだろうと。
風呂上がりに部屋の中で短時間、裸でいるようなものである。
夢の中であるというのなら言葉の意味も曖昧であるということは、かえって分かりやすかった。
曖昧だが、明瞭に。ぼんやりとした気持ちで、されど明確な音として彼女はそれを聞いていた。
「…もう何度目か分からないけど、また訊くわ」
困惑と疲弊が入り混じった少女の声を彼女は聞いた。
思考の中にぼうっと浮かび上がる影は、闇のような黒色。思わずため息が出るような美しい姿をしている、と彼女は思った。
「これ、本当に意味があるのかしら。いえ、意味があるのは分かるわ。でも…」
「すまない。私も明確な答えを持ち合わせてはいない」
闇の少女に対し、もう一つの声が答えた。
その存在は、彼女が思わず首を傾げたくらいに不可思議だった。
声は少女のそれだと分かる。だがそれは、幾重にも折り重なった声だった。
年上のような同年代のような、どことなく舌足らずな様な。老人が幼児の舌で喋っているような。
そんな落ち着いた調子ではあるが、音質が異なっている。
複数の声が、一つの存在を発生源として放たれていた。
それを示すように、その存在の放つ色は複数だった。眩い黄金であり水のような青であり、炎のような赤だった。
色と共に形状も変わる。光のように、水のように、炎のように。
「しかし、今できるのはこれだけだということは分かる。役割としては不遜であるが」
正確に動作する精密機械のように淀みなく紡がれる言葉には感情の類は乗せられていない。
だが無感情には無感情なりの情動があるというべきか、あるか無きかの風のように、声には声の主の心境が含まれているように感じられた。
「そしてこの方法は効いた前例がある。それも確かだ」
声の調子は変わらない。だがそれを聞いている彼女はその声に確信と懐かしさ、そして僅かな苦々しさを感じていた。
それもそうね、と闇の少女は返した。納得した趣だった。
少しの間沈黙が流れ、やがて闇の少女が口を開いた。迷ったような様子だった。
「今尋ねる事なのか、私も疑問なのだけど」
「構わない。疑問は今のうちに払拭しておくべきである」
やや間を置いて、闇の少女は尋ねた。
「あなた、何なの?」
「ふむ」
直球この上ない問い掛けに、輝く者は少し考え込んだ。
その間に闇の少女は、傍から見ても分かるほどの後悔の表情を浮かべていた。
数秒後、輝く者は口を開いた。
「言われてみれば、確かに私の存在は疑問だ。なるほど。考えてみたこともなった。現状も他者の姿を借りてるし、元々からしてそういった状態か」
闇の少女の後悔とは裏腹に、輝く者の声には負の要素は無かった。寧ろ興味の色が映えている。
例えるなら、興味深い研究対象を観測した学者のようだった。
「私は自己顕示欲の権化であると自負しているが、その割には私自身ではなく彼として己の存在を知らしめていた。言われてみれば確かに妙だ」
「疑問を増やしてしまい、すまない」
「…いいの?あなたはそれで」
「それも含めて私という存在なのだろう。これはこれで興味深くて良い」
「あなたがそういうのだから、世界は理不尽なのかもしれないわね。悲観的かもしれないけれど生み出した張本人にそう言われたら、そう思うしかなくなるわ」
「意見は尊重したいが、その点に関しては全面的な同意はしかねる」
闇の少女の言い回しを、殊更に機械じみた口調で輝く者は否定した。
「いつか起きた事を早回しにしたという点を踏まえても、私を創造主とするのは正しくない。私は私の内に閉じ込めていたものを解き放った、または解き放たれただけだ。その後の世界はそれぞれの選択によって紡がれた」
「それを踏まえても、あなたが生み出したと言えるのではないの?」
「獄卒や拷問吏が気まぐれで虜囚を解放したことを、救済とは言わぬであろう」
「視点が変わればそうとは言えないと思うわよ」
「それは慰めだろうか」
「どうとでも受け取りなさい。私もあなたの思考に干渉する気は無いわ」
輝く者は闇の少女の言葉に頷いたように見えた。それは感謝を示しているようにも見えた。
「それでも意見を言わせてもらうと、あれはやりすぎね」
「どれだろう。対象が多すぎて絞り込めない」
「全てと言いたいところだけど、特に酷いと思ったのは救援に来た相手に襲い掛かって引き裂いたところね。あんなのまるで鬼畜の所ぎょ………」
そこで闇の少女は口ごもった。輝く者は首を傾げた。
それを聞いてる者である彼女は、その発言に思い当たる節があった。
「何が」という実感は無かった。
だが「何か」あったという感覚と確信があった。
「鬼畜の所業よ。悪魔としか思えないわ」
しばしの間を置いて、闇の少女はそう告げた。その声はまるで、傷口から流れた血か膿のような悲痛さに満ちていた。
「そうだな」
輝く者も同意した。
「あの時、私は差し出された手を払い、与えられた剣をかなぐり捨てた。共闘という選択肢は最初から存在していなかった。そうあるようにしていたし、選択肢など考えてすらいなかった」
輝く者の口調は変わらないが、彼女はその声からは闇の少女が先程漏らした悲痛さに勝るとも劣らない、或いは遥かに隔絶された苦悩を感じた。
自らの存在意義を自ら否定するような、ある種の自殺に近いものが感じられた。
自ら毒を飲み、苦しみ藻掻いているような。
「気に喰わないもの、というのは確かにあるわ」
闇の少女が言った。それは自他の為の助け船でもあったのだろう。
「私にとっては、あれだわ」
闇の少女は美しい顔を傾けた。その視線の先には、小さな影が蹲っていた。
猫か子犬のような大きさの、白い塊だった。
「ごめんよみんな。ごめんよみんな。ごめんよ、ごめんよ。ごめんよごめんよごめんよごめんよ…」
塊は少女のような声で言葉を繰り返していた。
病んでいるような謝罪の言葉は、聞いている方が精神を病みそうになるほどの哀惜と悔恨に満ちている。
「君たちの願いを、希望を、そして尊厳を踏み躙って、僕達は」
そう言ったあたりで、塊の精神が弾けた。
掻き切った首から滂沱と流れる血の滝のように、塊は悲惨な叫びを放った。
叫びながら、その存在は謝罪し続けていた。
その様子を、闇の少女はじっと見ていた。それは一切の熱の籠っていない、氷点下の視線であった。
「哀れね。人間性を疑われるだろうけど、私はあの様子を見てもざまぁみろとしか思えないわ」
限りなく無に近い表情で、されど明確な侮蔑と嘲弄を帯びた声で闇の少女は吐き捨てるように言った。
そして傍らの輝く者を見た。同意を求めているように思えた。
「憐れだ。そして他人事とは思えない」
「…そう。そうね、そうかもしれないわ」
輝く者の言葉に、闇の少女は迷いながらもそう告げた。
「あの状態は精神的外傷に近いもので、それも私が与えたものだがそれでもあの者は変われた。自らの所業を罪と自覚し苛まれているというのは、終ぞ私には出来なかった事だ。自分の言葉で謝罪の意思を述べているあたり、私より上等な存在かもしれないな」
輝く者は滔々と語った。決まりきった事実を述べるような平坦さがあった。
「憧れている、ということかしら?」
「ある意味では正しい。というよりも、私は敵以外の全てに羨望を向けている節がある。これも確たる自分を持たないが故だろう」
「持たないって、少し悲観しすぎじゃない?」
「そうかもしれない。だがそのくらいでよいと思っている。確たる自分を求めた結果、私は災厄を撒き散らしたからな」
「過ぎた事でしょう、と言いたいけれど、差し出がましいわね」
闇の少女の声には疲労感が満ちていた。または無力感とでもいうべきものが。
「それを言ってしまえば私達、いえ、私も似たようなものだわ。背負った肩書きと違って、物語のヒーローやヒロインとはかけ離れた存在だもの」
「そうだろうか?私からすれば貴女方は誰もが名に恥じぬ存在に思えるのだが」
「それはあなたが観測者だからでしょう」
「それもある。だが、存在とは他者によって肯定されるものでもあろう。無論、自己による認識も大いに重要であるが」
「ということは、私はあなたにとって」
「ヒーローそしてヒロイン。そう思えてならない」
断言されたその言葉に、闇の少女は黙った。困惑が伺えた。
そして何故か、その言葉を聞く自分も困惑していることに気付いた。
どう受け取っていいものか。声を聞く者は悩んでいた。
悩む思考の中、胸中には熱が広がっていた。それは肯定による喜びであると気付いた。
「それを言うなら、あなただって」
困惑を振り払うように闇の少女は言う。だが言葉はそこで途絶えた。
自らが受けたものと同じく、そして更なる異質さを覚えたのだろうと思った。
なぜ自分がそう思えてしまうのか。その答えは思い浮かばないが、胸中からは熱が消えていくのを感じた。
代わりに胸中に広がるのは、恐怖と、そして罪悪感だった。前者よりも後者の方が色濃かった。
「良い。それで良い」
対する方の言葉は、納得の響きに満ちていた。
「彼と、そして彼から生まれたあらゆる同族たちから最も遠いもの。私という存在は、それで良い」
そう断言した言葉には、次の言葉を相手に紡ぐ気を無くさせるほどの確信に満ちていた。
受け取っていた闇の少女もそう思ったらしく、返事を止めた。
闇の少女の輪郭が動きかけて止まった。頷く、という動作を途中で止めたようだった。
「では、始めましょうか」
闇の少女の言葉に、輝く者は頷いた。
その遠くでは今も、獣のような存在が泣き叫んでいた。
そう認識すると、観測者である彼女は自らの視界がぼやけていくのを感じた。
同時に、これは夢だと悟った。
夢が曖昧になり、そして現へと変わっていく。
思考の中の曖昧さはやがて、眼を開けた際の涙と明順応による視界のぼやけへと変わった。
二度瞬きをすると、視界は正常に戻った。
木目の天井が見えた。
いつもの目覚めで、いつも通りの爽快な朝だった。
眼は醒めているが、彼女、鹿目まどかは布団に入った状態を維持した。
自分を起こしにやってくる愛おしい存在を待つために。
だが数分、十分、そして三十分が経過しても変化が無かった。
不安が心を掠めた瞬間、鹿目まどかは跳ね起きていた。
自らの行動を意識するまでもなく、身体が動いていた。
扉を開けて廊下を走る。足が触れる度に床が震えて軋むが、構っていられなかった。
今の扉を開いた時、鹿目まどかは小さな悲鳴を上げていた。
白いワンピースを着た少女が、床に倒れていた。
手に持っていたと思しきコップは砕け、茶碗は割れて中の白米をぶちまけている。
熱せられ過ぎた味噌汁は沸騰しきり、溢れた汁がコンロを消化させている。
構わず駆け寄り、妹を抱き起す。
抱き起された少女の顔は赤く、可憐な唇からは喘鳴が吐き出されている。
それ以外の動作を一切見せない妹を前に、鹿目まどかの声にならない悲痛な悲鳴が口から漏れた。