無の中に微細な点が幾つも生まれ、それらが線を伸ばして互いと結び合う。
電子回路のように結ばれていくそれらは、数多の情報の羅列だった。
一つ一つは意味を為さない情報が重なり、実体となって意味を為していく。
ただ意味と言っても、それは人間が持つ喜怒哀楽と言ったものではなかった。
冷然とした物理法則のような、与えられたコマンドを実行するための機械のような代物だった。
意味はあってもそこに意思はない。
それがその存在の精神とよべるものだった。虚無の精神とでもいうべきものだろうか。
虚無の心が稼働し始め、肉体もそれに準じた動きをした。
ゆっくりと目が開き、見知った天井が認識される。
身を起そうとすると、胸の上に重量を感じた。柔らかい毛布と布団の上に、桃色の髪が見えた。
またか、という言葉が精神の中に生まれた。
生まれた感情を分析すると呆れであると出た。
「お姉ちゃん」
一方で、肉体の口から出たのは心配の色が滲んだ言葉だった。
その矛盾に本能は少し違和感を覚えたが、解析より前に俯せになっていた顔が上がる方が早かった。
泣き腫らした少女の顔、と認識した時には布団越しに顔が抱きしめられた。
圧迫感は強くなく、苦しさや呼吸に差支えが無い。
しかしそれは他者からの攻撃であるという反応が生じた。
腕をひと振りすれば、どころか少し思うだけで相手の存在は肉体はおろか世界もろとも砕け散る。
だがその存在が選んだのは、布団から手を出して相手を抱き締めることだった。
自分の行動は反応に近いものだった。誤作動のような動きに本能は動揺した。
だがその者の精神はその行動に違和感を持たなかった。
これでいいと思いながら、嗚咽を上げる姉の、姉と設定した者の体を抱き締めた。
「大丈夫。大丈夫だよ、まどかお姉ちゃん」
経験則から最も適した言葉を紡ぐ。
この状態になるのは既に数億回を超えている。
『鹿目まどか』と称される存在が蓄積した無数の因果を彼女が描く物語という形で抽出し、自らに取り込む。
魔法少女という存在は別のものによって掌握されたが、世界そのものはその手に渡っていない。
鹿目まどかを構成する世界を掌握すべく、邪神の細胞は偽りの世界と記憶を鹿目まどかに与え、彼女から因果を啜り上げていた。
物語を描く鹿目まどか。
彼女が夢想した物語は彼女の力によって命を帯び、自らの世界を破壊されまいとして邪神へと戦いを挑む。
決して及ばぬ力の差がありながらも、物語から生まれた者達は戦う事をやめなかった。
邪神はそれらを叩きのめし、磨り潰して塵芥のように消し飛ばしていった。
物語が命を帯びた理由は、邪神にも察しがついている。
あらゆる生命体から忌避され恐怖される邪神をしておぞましいと認識している、黒鉄の魔神による影響であると。
あの魔神が鹿目まどかへと余計な知識を与え、その結果、一瞬で喰い尽くせるはずの世界が食べ残し程度に残っている。
現状はその食べ残しに蛆が湧き、それが山盛りになって皿や机を覆い隠している。
人間を模した意識による思考で、邪神は今の状態をそう例えた。
物語とは鹿目まどかという母体を苛ませながら血肉を貪って際限なく湧き出てくる蛆虫共。
少女の形をした顔に、嫌悪と怒気が滲む。
そこでまた違和感を覚えた。
嫌悪感は理解できる。取るに足らない存在達の相手をせざるを得ず、それが無限という存在と常に共にある邪神をしても際限なく湧いてくるのだから。
だが怒りはどこから来たのか。前者の感情は無関心にも近い。
自らの精神を解剖のように切り刻むと、腕に感じる他者の体温が精神の隙間を通り抜けて意識に届いた。
「ああ、そっか」
その途端、口が勝手に動いていた。
そして邪神は、自らの変化を自覚した。
自らを構成する虚無という概念が綻ぶのを。
生じた綻びは異物であり異常であるとし、邪神の本能はそのエラーを修正しようとした。
だがそれを、意識を司る精神が止めた。
本能が動揺するのを邪神の精神は感じ取った。
そして邪神は一つのイメージを思い浮かべた。
思い浮かべたものは、異形の赤子の姿
眼を閉じ、開いた口からは無数の牙を覗かせる頭蓋が剥き出しとなったその姿は、見る者の精神を穢し尽くして破滅へと導くような筆舌に尽くしがたい悍ましさがあった。
それを、少女の繊手が握り締めている。
異形が抵抗する間もなく、少女の手は異形の赤子を握り潰した。
「これでよし」
邪神は小さく呟いた。記憶はそのままであり、外見も何も変わらない。
だが存在を構成する成分とでもいうものが変質していた。
ラ=グースという名の邪神の細胞であることに変わりはないが、そうであろうとする意識が薄れていた。
自らの本質が何であるかを示す最低限の程度だけ残し、邪神は別のものへと変わっていた。
例えるのならば、部屋の模様替えか季節の移り変わりに近いだろうか。
色や景色が変わっても、そこにある物自体は変わらないというか。
邪神であるという思考は鹿目まどかという存在と共にいるにあたっては不要であるとしての行動だった。
それを自覚したのは、鹿目まどかへの危害に対する怒りであった。
邪神は鹿目まどかの世界を見た。
これまで滅ぼしてきた数多の世界と同じように、世界には悲劇が満ち溢れ、破滅と怨嗟の風が吹き荒れている。
その中でなお、鹿目まどかは希望で在ろうとしていた。
邪神はそれが理解出来なかった。滅びの神であり、思考形態そのものが違うというためでもある。
世界を取り込むにあたり、細胞の一つを変容させて思考と精神を人間に近づけることで鹿目まどかの理解を図った。
だが近い精神を以てもなお、彼女の存在は不可解だった。
どれだけ傷ついても壊されても、完全には砕け散らず消し去ることも出来ない精神。
そのようなものを持っているものは広い宇宙でも数少なく、持ち得ている者は思考一つで宇宙を蹂躙できるような異常な存在ばかりである。
しかしそれらに比べて鹿目まどかはひ弱に過ぎた。
強いから精神が強靭なのは理解できる。だが弱いのにも関わらず精神は強靭極まりないというのはあまりにも奇怪で異常に過ぎた。
それでいて強いかと思えば、人間同士の諍いや他者の死に大きく動揺して悲しみ、心身を大きく傷付ける。
無関心でいれば、他者などと関わらなければいいのにと邪神は思った。
それが怒りの原因だと、邪神は気付いた。
他者がいるから悲しみがある。世界があるから苦しみがある。
そんなものとは、鹿目まどかは無縁でいて欲しい。
ただ花のように笑っていて欲しい。
燃え尽きていく星々が放つ光のように美しい存在であってほしい。
花に対する関心も何かに美を見出す事など無かったというのに、人間を模した精神で邪神は鹿目まどかへの願望を自覚していた。
だからこそ、彼女から物語を剥ぎ取りたかった。
当初の目的としては、鹿目まどかが神格化により得た力が欲しかった。
魂を回収し完全制御下に置く権能を奪い、それを全ての世界に適用したかった。
それ自体は今も変わらない。
だがそれを行う意味が変わっていた。
鹿目まどかから物語を剥ぎ取り、力を奪う事で彼女を全ての苦痛から解放したかった。
正しいか否かという思考は邪神の中には無い。
ただそうあるべきだとして、邪神は自らの思考を肯定していた。
今の内心をそう定義しながら、邪神は思考の中で少女の形をした掌を見つめていた。
握り潰され、虚無の肉片と鮮血を撒き散らして崩壊してゆく異形の赤子が見えた。
邪神、ラ=グースの細胞としての自分を、この存在は今自ら殺したのであった。
邪神であることは変わらない。だが邪神としての意識と存在、そして自らが生み出された原因である目的が邪魔だった。
だから自らを殺し、新しい自分を構成する。
本質的には変わっていなくても、表面的には変わることが出来る。
結果は同じであったとしても、その道筋を選ぶことが出来る。
鹿目まどかの殺害ではなく、共存としての力の受諾。それによる、鹿目まどかが背負った苦痛からの解放。
それが今の邪神の存在目的だった。
はっきりと言えば、鹿目まどか以外はどうでもいいのであった。
自らの存在を破壊したことからもそれが伺えた。自分が最も鹿目まどかを害する存在であると理解しているのだろう。
そして今の疲弊の原因もまたそれだった。
自らの否定と破壊が、邪神に多大なる負荷を掛けていた。
少女の形をした四肢は思うように動かず、口から吸いこむ空気は炎のように肺を焼いた。
とはいえこの程度の負荷は苦痛には至らない。忌むべき魔神の力に比べれば、そよ風のようなものだった。
だが人間を模した精神である為に、その苦痛は外見の年齢相当の脆弱さで受け入れなければならず、意思に反して肉体の表情には苦悶が浮かぶ。
本来持ち得ていないものを態々生み出してその身に適用したことによる弊害であった。
一方、この苦痛こそが今の自分を形成してる楔であるとも認識してる。
邪神としての自分は殺した。だがそれは完全に消えてはおらず、今この時も再生して思考を侵食している。
少女の形をした肉体と精神の中では、何がこの存在の主導権を握るかの死闘が繰り返されていた。
増殖する癌細胞を正常な細胞が駆逐していく様にも似ていた。
本来の自分自身が生まれる度に、邪神は少女の手で握り潰し、踏み潰して叩き潰して噛み潰した。
神としての自分が崩壊する度に、その破壊に等しい苦痛が滲む。
その度に少女の思考はこう思った。こんな感覚を、鹿目まどかは味わうべきではないと。
そう思っている邪神の前で、当の鹿目まどかは泣いている。
皮膚と涙を伝い、彼女の苦しみが伝わってくる。
その発生源が何か、邪神には分かっていた。その止め方も。
「大丈夫だよ。まどかお姉ちゃん」
鹿目まどかに抱かれながら、少女は朗らかに微笑んだ。
「大丈夫だから。泣かないで」
痛痒の欠片もない、清らかな光のような笑顔で少女は笑う。
今もなお自らの内で増殖する異形の神を滅ぼしながら、邪神は自らを抱く鹿目まどかを抱き締めた。