魔法少女☆鹿目まどか 円環最期のZERO秒間   作:凡庸

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第43話

「お姉ちゃん、駄目」

 

 少女の声が響く。

 照明が絶え、夕闇が滲んでいく教室の中でその悲痛な声はよく響いた。

 

「他の物語だったらなんでもいい。私も全力で描くのをお手伝いするよ。でも、それだけは駄目」

 

 哀願の声の持ち主であるワンピース姿の少女は姉と呼ぶものに歩み寄っていく。

 だが、その相手は声の主に対し反応を示していなかった。

 ただ一心不乱にペンを走らせ、文字と絵を描いていく。

 喘鳴のように浅い息を繰り返しながらのそれはまるで、今にも酸欠に陥りそうな、命を削るような行為だった。

 それを止めようと、少女は歩み寄って手を伸ばした。

 

『邪神よ、邪魔をするな』

 

 その動きが、脳内に響いた声によってびたりと止められた。

 少女の声によく似た、そして鉄のように冷たい声だった。

 動かない体の背後に何かがいる、という感覚がある。

 実際はそこには何もおらず、その場所にはただ空間だけがある。

 となるとこの声の主がいる場所は、自分の中という事になる。

 

『心配なのは分かる、というか、貴様にもそういう感情があったのか。いや、芽生えたのか』

 

 声の主の言葉はそれを裏付けていた。

 感覚の中で、背後から近づいてくる気配が迫る。

 それは自分のすぐ真後ろで停止した。

 

『やはり彼女は特別だな。これは脅威に値する』

 

 気配は断言した。声の主の下した評価に、少女は戦慄していた。

 虚無の精神に芽生えた人としての心は、そこに恐怖を覚えていた。

 

『そうは思わないか。邪神の赤子よ』

 

 振り返ることも出来ずに、鹿目まどかの妹を謳う存在。邪神マドカは完全に動きを止められていた。

 それは精神に生じた恐るべき存在のためだけではなかった。

 体内には無数の何かが這い廻り、齧り、掴み、抉りといった感覚が満ちていた。

 それは長大な胴体であり牙であり爪であり刃であった。

 それらを為しているのは、曖昧な光で構築された無数の戦士達。

 鹿目まどかの思考から光となって生まれ、邪神に挑み屠られ喰われていった者達だった。

 喰われて捕らえられていたそれらが邪神の体内。肉ではなく、邪神の存在を構成する空間それ自体に対し一斉に得物を突き立てたのだった。

 完全拘束していたそれらが活動を再開したのは、間違いなく精神に入り込んだこの異物のせいだった。

 自分と同じく、少女の姿をした存在は自分よりも遥かに上位の存在だった。

 先ほど、意識を喪失し人形となっていた時は操者との相性の悪さもあって行動不能に追い込めたが、今ではもう通用しないと認識せざるを得なかった。

 

 もう自分は何も出来ない。抵抗の意思は無論ある。

 だがどう足掻いても勝てない事だけは分かっている。

 ここにこの存在が来た時点で、全ては終わっているのだった。

 ふと疑問を抱く。

 自分のこの芽生えた自我が、今もなお残っている理由が分からない。

 知識として自分が有するこの存在は、自分達との対話を行う事がない。虚無に対しては何も無く、また今自意識を持っているとしても、いや、だからこそその萌芽を許さず消し去る筈だと思っているからだ。

 言葉を使って語り掛けてくるなど、一体何をしたいのか。それがまるで分からなかった。

 

『私はお前を迎えに来た。我らの世界へ、共に帰ろう』

 

 その存在、少女の姿を模した、ZEROの名を持つ魔神はそう言った。

 邪神にはその意味を、飲み込むことが出来なかった。

 理解した時に、邪神は無音の悲鳴を上げた。

 その悲鳴は、「お姉ちゃん」という言葉で出来ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 書く。書く。描く。描く。書く。

 鹿目まどかは一心不乱にこの作業に没頭していた。

 この時、彼女は眼で自らの創作物を見て、思考は別のものを見ていた。

 

 心の中では、空を覆うような巨大な人形が蹂躙されていた。

 貴婦人の姿をした巨大人形は、その巨体とは比べるべくもない微小な存在によって殴られ、蹴られ、放り投げられていた。

 長い黒髪の少女の細腕や華奢な脚の先には鋼の光沢を放つ巨腕が幻影のように覆い被さり、されど確たる実体としてそこに存在し少女の打撃の助けとなっていた。

 殴打の瞬間に巨腕は破城槌やドリルのような形状にもなり、蹴りが放たれた途端に脚は鋭利な刃と化す。

 全身が鋭利な刃もかくやといった具合であり、少女が殴れば人形には大穴が開いて吹き飛び、少女が蹴れば触れた部位は切断されて巨体は木の葉のように跳ばされていく。

 またついでのように、よくよく見ればと言った程度に瓦礫でも貴婦人の破片でも無い何かが戦闘の余波に巻き込まれているのが見えた。

 それは使い古したタオルか頭陀袋のようにボロボロになった、小さな動物のように見えた。

 鹿目まどかはそれを、何かの見間違いと判断し、状況の把握に努めた。

 

 逆さまの滝のように見事なアッパーカットが貴婦人の顎を打ち抜き、巨体を大きく吹き飛ばした。

 何処まで飛ばされようが、闇が少女の形となったような姿の少女は一瞬で追いつき、悪夢のような攻撃を繰り返すのだった。

 貴婦人もただ蹂躙されるばかりではなく、口からは炎を吐き、または不可視の力を用いて周囲の瓦礫や地面を持ち上げて闇の少女へと放っていく。

 破壊による欠損は既に完全修復されており、対して闇の少女の前には世界そのものが降り注いでいるかのように数億トンを超える超巨大質量が迫っていた。

 

 迫るそれらを前に、闇の少女は軽く微笑んでいた。

 ぞっとするほどに美しく、毒々しい笑みだった。そして凄まじいまでの怨嗟が感じられた。

 闇の少女は迫る死を前にして左腕を伸ばした。

 左腕に装着された銀の盾が回転し、搔き混ぜられた大気が大竜巻となって放たれた。

 発生時は円盤の直径程度だった渦は爆発的に幅を巨大化し、迫る巨大質量達を飲み込み微塵と砕いた。

 砕かれた瓦礫は微細な、それでも巨大な弾丸の群れとなって大竜巻の支配下の元に貴婦人の全身を削り取った。

 人形のフレームらしきものに衣服の残骸がこびり付いているだけとなった貴婦人の上空で、禍々しい曇天が広がっていった。

 

 曇天からは一筋の雷光が落ちた。それは貴婦人の元ではなく、闇の少女の元へと訪れた。

 正確には、少女が伸ばした右腕に覆い被さる鋼の腕の、更に伸ばされた人差し指の先端へと。

 雷光により、闇の少女の姿が漂白されたかのように露わとなった。

 息を呑むほど美しい少女がそこにいた。

 優しく微笑んでいる姿も、全てに対し冷静であるのが似合いそうな美少女の顔には眼を背けたくなるほどの、それでいて見る者を惹き付けて離さないような、凄絶で陰惨な笑みが浮かんでいた。

 幾重の恨みを重ねた者にしか至れない境地と憎悪がそこにはあった。

 彼女の感情に比例するように、人差し指の先端では稲光が蓄積し紫電を巻いて増大していった。

 その蓄積が限界を迎えた時、光が炸裂した。

 

 全てが白く変わっていく光景の奥。

 走るペンが白紙の中に描く世界の中にも美しい少女と巨大な貴婦人の姿があった。

 だがその様子は、それを描く者の思考の中で繰り広げられる光景とはまるで逆となっていた。

 巨大な貴婦人の力は圧倒的であり、少女は無力に等しかった。

 幾重にも張り巡らせた罠も、全くと言っていいほど効果を示さず僅かな抵抗が出来るのみであり、辛うじて即死を免れているといった程度であった。

 口から吐く火炎や巨大質量の操作によって一方的に蹂躙され、闇の少女は何度も何度も敗れていった。

 無惨な光景を描く少女、鹿目まどかは何故これを描いているのかが分からなかった。

 ただ、己の衝動のままに描いていた。

 この無惨な光景を描きたいのではない。

 

 ただ、思考の中に広がる光景を押しのけ、心から湧いてくるものがこれだった。

 認めたくない光景だが、この光景が正しいものに思えて仕方ない。

 書き進める度に、眼から涙が溢れる。顎を伝って創作物に滴る前に、鹿目まどかはそれを拭って更に書き進めていく。

 闇の少女と貴婦人の戦いは、蹂躙にして激戦であり拷問であった。

 瓦礫に片足を潰され、力なく横たわる闇の少女。

 そこまで描いたところで、鹿目まどかはペンを止めた。

 

 全力疾走をしたように心臓と肺は痛み、ペンを掴む手は感覚が無くなりかけていた。

 どこまでがペンで指なのか、彼女には分からなかった。

 だが肉体の痛み以上に、自分の心が苦しかった。

 心臓や胃とかではなく、胸の奥とでも言うべき場所で激しい痛みが渦を巻く。

 その痛みに比例するように、心の奥からは様々な光景が湧き上がってくる。

 しかし動かない。休憩をすれば、というものではない。

 描くべきだという使命感と描きたくないという、形にすべきではないという思いが心の中で争い拮抗している。

 そのどちらかを選ぶのは自分自身なのだが、それを選択したくない。

 自分が筆を止めれば、そこで全てが終わってしまうという感覚があった。

 

 だが自分が描くものは、死と苦痛に溢れているという確信があった。

 苦痛に満ちた物語など、描く意味があるのだろうか。

 その一方で、描かなければ何も無い。

 それは独善的な処刑ではないのか。

 しかしその両方に何の違いがあるのか。

 鹿目まどかにはその区別が付かなかった。

 意思の決定には、ほんの少し思うだけで事足りる。

 だがそのほんの少しが怖い。

 怖がってはいけないのに、立ち止まってはいけないのに。

 

『大丈夫だよ』

 

 声が聞こえた。暖かな春の日差しのような声だった。

 音に、声に色が付くのなら、それは光の色だろうと鹿目まどかは思った。

 声が聞こえたその時に、不思議な感覚が皮膚の上を、または体の中で広がった。

 それは自らの内側に留まり、折り重なっていた。

 視線を手に落とすと、ペンを握る手が二重に見えた。

 涙によって視界が歪んだのだと思った。

 だが自分の手の上に重なるもう一つの手は、自分の手に寄り添い優しい力と熱で触れてきた。

 反射的に左を向いた。そこには少女の顔があった。

 桃色の髪に桃色の瞳。良く見知った顔だった。朝起きて、鏡の前で見る顔。つまりは彼女自身の顔だった。

 自分自身、鹿目まどかの顔を彼女は見ていた。それは自分に向けて顔を向け、自分の眼をじっと見ながら微笑んでいた。

 見る者を勇気づけるような、困っている者に寄り添う慈愛の顔だった。

 そしてそれは、一人だけではなかった。

 

『私達が一緒にいるよ』

 

 隣にいる自分の顔の更に隣に、更に更にと自分が、鹿目まどかが連なっている。

 自分と同じように机に座りペンを握り、広げたノートを前にしている。

 もしかしてと思い反対側を向くと、そちらにも自分達が並んでいる。

 教室の広さは変わらず、されど人一人分の厚みはきちんと持ちつつ、ずらっと果てしなく並んでいる。

 鏡を互いに向き合わせて重ね合わせたかのようだった。

 

 そして鏡映しのように、誰もが同じような表情を浮かべていた。

 同じような、というのはよく見れば個体差が伺えたからだった。

 すぐ隣の自分は力強ささえ感じるくらいに微笑んでいる。

 だがその少し離れた場所の自分には戸惑いと迷いが見える。

 しかしそれでも必死に笑おうとし、他者を、別の自分を怖がらせまいとしている。

 はっきりと言えば、どの自分も怯えていた。

 

 怯えていたが、別の自分を怯えさせないために必死になって、恐れを知らない戦士のように振舞っていた。

 それを見て、自分自身もやるべきことを決めた。

 これはやらなければならない事だった。

 それが例え、誰かの苦痛を描き、我が身を切り裂くことだとしても。

 苦痛に沈んでいた自分の元に、救いの騎士たちはやって来た。

 これが奇怪な現象であるとは思わなかった。

 無数の自分がいることに、彼女は疑問を覚えなかった。

 ただ、安堵があった。

 

 だから今度は自分もそれになる。他の誰かを安心させる自分になる。

 誰かを救う自分になる。

 その為には…。

 

 そう思った時には、彼女たちはもう動いていた。

 停滞していた時間を惜しむように、鹿目まどか達の指先は物語を紡ぎ始める。

 

 幸せな一家の、朝の和やかな風景が描かれた。平和な学校生活が描かれた。

 しかし平和な世界は程なくして一変した。

 世界の裏側で蠢く異形達。その世界へと二人の少女は引きずり込まれた。

 絶体絶命の時に、彼女達を救ったのは金色に輝く麗しい姫騎士だった。

 だがその姫騎士は、異形に頭を噛み砕かれて無惨に死んだ。

 

 その場面を描いた時、誰となく嗚咽が漏れた。

 それでも涙を払って続きを描いた。

 倒れた姫騎士に変わり、自分達の生きる世界を守るために青い髪の少女が魂を贄と捧げた。

 魂の宝石は彼女に癒しの力と魔を切り裂く剣を与えた。

 血と肉と魂を異界の獣に捧げた、その対価とは。

 

 書く手が止まりはせず、されど速度が急速に落ちた。

 これから先は、あまりにも辛かった。

 自分が変わってあげたいと、全ての鹿目まどかは思っていた。

 しかし、それは出来ない。

 その願いとは彼女のものであり、自分のものではないのだから。

 だからこそ辛く、そして彼女が辿った道はあまりにも無惨だった。

 もしもの考えが脳裏に浮かんでは振り払う。

 どうにもならない事とは思いつつも、思ってしまう。

 せめて、もしも。

 願いの対象が、少しでも彼女を…。

 

 そう考えた時、音が聞こえた。それは教室の扉が開く音だった。

 そこに向け、全ての鹿目まどかが視線を送った。

 彼女達が見たのは、制服を着た少年だった。

 その姿と顔に、鹿目まどかは見覚えがあった。ありすぎていた。

 

「かなめさ」

 

 少年はそこで言葉を閉ざした。

 口調からして、彼には鹿目まどかが無数には映っていないらしい。

 だが鹿目まどかにとって、それは別に思慮の外だった。

 自分達がどう見えていようと関係ない。

 問題なのは、この少年が誰かということだった。

 無数の感情が鹿目まどかの、彼女たちの中から沸騰した泡のように湧き上がっていった。

 それが眼球を通して漏れ出たのだろうか。

 入室してきた少年は、その鋭敏な感性を以て理解してしまい、動きを硬直させられていた。

 例えるなら、蛇に睨まれた蛙だろうか。

 少年はそこで硬直したが、鹿目まどかは即座に視線を元に戻して激烈な勢いで物語を再開させた。

 すぐに視線を逸らしたのは休んでいる暇など無いとするためと、一瞬以上見ていたら心に負の感情が湧くと悟っての事だった。

 

『上条少年』

 

 固まった肉体が背後にぐいと引かれた。

 肩を掴むその華奢な細指の大きさと声には覚えがあった。

 だが何もかもが違って思えた。

 そして、ひどく恐ろしく感じられた。恐ろしい、という言葉では済まない恐怖がそこにはあった。

 

『貴君の選択は…いや、口出しできる立場ではないか。思う事もあるのだろうが、今はお引き取り願おう』

 

 その声は鹿目まどかの声であり、また別の存在の声だった。

 それを認識したことによる悲鳴も上げることも出来ず、上条恭介は廊下へと一息に引っ張られ、そして消えた。

 後には極めて静かに、音も鳴らさずに閉められた扉だけが残った。

 

 そうしている間に、鹿目まどか達は二人の少女の最期を描き終えていた。

 異形へと変わり果てた青い少女。そんな彼女に最期まで寄り添うと決めた真紅の少女。

 禍々しくも美しい閃光の中、二人は跡形も残さず消えていった。

 その様子は紙にペンで描かれたものではなくなっていた。

 正確には描画に用いられる道具は紙とペンであるのだが、描かれた後に描画は紙から煙のように立ち昇ってから宙に舞い、同じく描かれた者達と合流し空中で眩い光の影絵となって描かれていた。

 絵に動きが加わったそれは、イラストからアニメーションへの変化に思えた。

 

 表現の変化に伴い、周囲の光景も変化していく。

 教室の中の光景から、大勢の人々がいる広大な空間へと変わっていった。

 だれもが不安げな表情で、家族や知人達と寄り添っている。

 自分も、鹿目まどかもその中の一員であることが分かった。

 この時、鹿目まどかは世界を描くものではなく、その中の一員となっていた。

 無数の群体ではなく一人の存在として、されど先ほどまで一緒にいた数多の自分の存在も自分の中に感じられた。

 そして、これから起こることも分かっていた。

 

 描く視点ではなく、個体としての視点で世界を観る鹿目まどか。

 自分の周囲には男性と女性、そして小さな男の子がいた。

 巨大な建物の中の広大なホールは人で満たされている。遠くに見える窓の外からは曇天が見えた。

 折れた枝が窓に激突するのも見えた。建物の外は、さぞ酷い有様だろうと思った。

 だから、自分がやるべきことが分かった。

 

 立ち上がり、用事を告げてその場を離れる。

 しばし歩いた先で、鹿目まどかは一人の女性に呼び止められた。

 自分よりも背が高く、大人びていて、そして自分と似た造形の女性だった。

 対峙した時、自分の心臓の疼きを鹿目まどかは感じた。

 それは自分の中の全ての自分も同じなのだと思われた。しかし、そうではなかった。

 

 自分にとっては疼き程度の感覚が、他の自分達にとっては引き裂かれるような痛みと鈍痛。そして形容しがたい温かさがあった。

 無数に折り重なっているその感覚が、数多の自分達を通して自分へと浸透してくるのを鹿目まどかは感じた。

 ただそれでも、だからこそ自分の異質さを感じていた。

 他の自分は眼の前の女性に対して心を大きく揺さぶられている。

 

 だが自分にはその感覚が薄い。

 この女性が誰であり、自分とはどういった関係なのかは分かっている。

 ただそれは与えられた設定のような、後天的に付与されたものに思えていた。

 理解はできるが実感が薄い。希薄であるというのが、より彼女を苦しめていた。

 無いのであれば諦めがつく。

 だが微かに宿っているそれが自分の意識を引っ張っている。

 故にどちらでもあり、どちらでもない。

 両方から引っ張られ、そのどちらでもないと放り出される虚無感。

 吹き荒れる嵐の音も窓越しに感じる空気の揺れも、今の鹿目まどかには届かなかった。

 

 その時に、左頬に衝撃が走った。

 体が揺らぐほどの衝撃は、本気の張り手によるものだった。

 痛みに痺れる中、自分を叱る声がする。

 眼の前の女性は自分に対して真剣に怒っていた。怒ってくれていた。

 自分を、『鹿目まどか』と認めてくれた。

 承認された温もりとでもいうべき感覚に沈む中、鹿目まどかは自らの意思を女性に告げた。

 それを受けた女性は迷った末に、鹿目まどかの決断を認めて送り出した。

 振り返らずに、鹿目まどかは走っていった。

 

 それが、本来起きた事だった。

 

 走り去る中、鹿目まどかは振り向いた。正確には、自らの存在を希薄であると感じていた意思の個体が。

 振り向いた刹那、周囲の全てが軋んだ。

 大気がひび割れ、空間に亀裂が入る。

 上も下もなく、全てのものが色を喪う。乳白色、または灰色の空間が既存の世界を上書きしつつ拡散していく。

 鹿目まどかが振り返った先には、数秒まで対峙していた女性の姿は無かった。

 そこには虚空へと両手を着いて跪いた、ワンピース姿の少女がいた。

 そしてその背後には、闇が結晶化したような美しい姿があった。それもまた、少女の姿をしていた。

 

「ようやく逢えたわね、邪神」

 

 金属の鈍い輝きを放つ拳銃を、邪神と称した少女の頭へと向け、美しい少女は冷たい声で言った。

 純粋化した殺意で出来た声だった。 

 

 

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