「『鹿目まどか』の完全な世界が壊れていく……悲劇もなく、飢えも乾きもない世界が……」
白いワンピースを纏った、桃色の髪の少女。その形をとった邪神が嘆く。
傍らに立つ黒髪の少女は、拳銃の引き金に指を添えている。
邪神を見下ろす眼には氷のように冷たい殺意と焔のような憎悪が混合していた。
銃口は邪神の頭部に向けられているが、邪神は跪いたまま動かない。
黒髪の少女の存在自体が視界に入っていないかのようだった。
正確には、邪神の眼には一つの存在しか映っていなかった。
「夥しい苦痛を味わい、あなたは永遠にそれを受け止め続ける羽目になる」
邪神の眼には虚無が宿り、視線の先に立つ少女を見ていた。
「あなたは、それで」
邪神の虚無の眼に光が宿る。それはその眼が見つめた者の眼の中に溢れる輝きだった。
決意と希望の光であった。
「そっか。愚問だったね」
そう言うと邪神は自らの薄い胸に両手の爪先を添えた。触れた瞬間に指先は体に埋まり、手は左右に引かれた。
紙を捲るかのように皮膚と衣服が剥がれた。内部にあったのは肉ではなく灰色の空間だった。
その中には、黄金色に輝く球体があった。惑星のように自転し、金色の粉を振りまいていた。
「これが、私があなたから奪ったもの。あなたの世界の最後の欠片」
そう告げた邪神は、視線を逸らさず意識を傍らへと向けた。
「暁美ほむら」
そこに含有されているのは、自身に向けられる視線に劣らない毒々しい思念であった。
「忌まわしき悪魔め。お前に私の命をくれて」
「黙れ」
最期まで言わせず、暁美ほむらは引き金を引いた。
小柄な少女の頭は落とした卵のように弾けた。
体液の類は何もなく、少女の顔の残骸が無数の破片となって飛び散った。
首の根元まで砕け散り、破片には少女の面影の欠片もない。
しかし首の無い状態で邪神は動いた。自ら開いた胸の内から、輝く球体を取り出そうとしていた。
「遅い」
嫌悪感を隠そうともせずに吐き捨てるや、暁美ほむらは光球を掴み取っていた。
正確には邪神の両手首を右手で纏めて握り潰し、少女の手を光球の受け皿として掌に乗せている。
「色々あったけど、呆気ないものね」
光球をしげしげと眺めてから、暁美ほむらは言った。
そして邪神の両手を後ろに投げ捨てる。潰された両手が首なしの邪神の空っぽの胴体に激突すると、邪神の体は硝子細工のように砕けた。
破片は宙を舞い、そして砂粒のように細かくなってから消えた。
後には何も残らない。最初から何も無かったかのようだった。
鹿目まどかは口を開いた。複数の感情が心の中で迸る。
助けてくれたことへの感謝。無力だった自分への嘆き。
そして偽りの存在であったとはいえ、自分の妹を無惨に葬った事について。それらのどれに対しての言葉か、彼女はまだ決めかねていた。
その時、暁美ほむらの姿が消えた。ガチリ、という音が聞こえた。歯車が噛み合う音だった。
「もう無くしては駄目よ、まどか」
その声は顔の前で生じた。薄紙一枚程度を隔てて、暁美ほむらの美しい顔があった。
紫色の瞳の中には、渦巻く黒が見えた。光に非ずの、闇であった。
暁美ほむらは鹿目まどかの胸に右手を添えて言った。
鹿目まどかは自分の胸の中に、何かが押し込まれたのを感じた。
すうっと中に入り、強い熱を発してから体内へと溶けていく。
欠けていたものが、自分の欠損を埋めていく感覚。
それは誕生にも近い変化だった。
胸を基点に全身に熱が伝わる。
例えるなら今の鹿目まどかは、溶けた鉄の様だった。
鹿目まどかという存在が溶け、鹿目まどかではなくなっていく。
そして鹿目まどかという器に注がれ、冷えて固まり再び鹿目まどかへと戻る。
瞬き一つ程度の間に、それは終わっていた。
体には何の異常もなく、不快感の欠片もない。
そう、何もない。
自分が何故ここに立っているのか。少し前に何かがあった気がするが、それは何であったか。
口は開かれているが、何を言おうとしたのだろうか。
記憶が希釈されていき、ゆっくりと意識が遠のいていく。
ふと眼の前に、黒い何かが見えた。
手を伸ばすよりも早く、それは地面に落下した。
その何かが灰色の地面に触れた時に、灰色は金色の光に変わった。それは全てが死滅した荒野が黄金色の稲穂の絨毯へと変わったかのような光景だった。
その時に、落下してきた何かとは一本の黒い羽根であると分かった。
光の拡散は止まらず、どこまでも拡散していく。
「因果の果てで、また相見えましょう」
光の奥で声が聞こえる。それは遠ざかっていく灰色の闇から聞こえた。
「鹿目まどか。そして、魔法少女ども」
くすりという笑い声が最後に聞こえた。
そして、世界に光が満ちていく中で鹿目まどかは自分の意識が途切れ途切れになっていくのを感じた。
何度もゆっくりと瞬きをし、その度に眠気が増し、世界を照らす光は強さを増していく。
その間、鹿目まどかは光の奥を見つめていた。それは何かを探しているようだった。
探しているものが何かは、彼女自身にも分からなかった。
先ほどの声は錯覚にも感じられた。それが堪らなく寂しかった。
ただ何もないと分かっていても、無意味であると知っていても、光の奥が見たかった。
その果てに、何かがいるような気がした。
それが自分の、こうあって欲しいという願望であると気付いた時。
鹿目まどかの眼は閉じられていた。
閉じられた闇の奥に、二つの黒い影が見えた。
一つは少女のシルエットであり、もう一つは。
後者の事を思い浮かべた途端、鹿目まどかの意識は絶えた。
「暁美さん。お疲れさまでした」
「やるべき事をしただけよ」
天井裏に設けられた、無数の映像媒体が並ぶ部屋に愛生まばゆと暁美ほむらがいた。
自室だというのに、まばゆは魔法少女姿でありそれは暁美ほむらも同様だった。
あまりにも長い時間をこの姿で過ごした為、今ではこの格好が一番しっくりくるのだろう。
炬燵に座った暁美ほむらは、まばゆが供した緑茶を啜っていた。
沸騰するほどに熱い茶であったが、彼女は一息に飲み干した。
「おお…悪魔的な飲みっぷりですね」
「ん」
年上の後輩の評を半ば聞き流し、半ば呆れながらもやや誇らしげに受け入れながら、暁美ほむらは湯呑を突き出した。
間髪入れずにまばゆは茶を注いだ。縁のギリギリまで注いだのは、サービスのつもりだからだろう。
暁美ほむらはまたも一気に飲み干した。天井に対して顔をほぼ水平にし、まばゆに喉を晒しての嚥下であった。
茶が流れる度に蠕動する喉にまばゆは
「喉の動きすら蠱惑的…流石ですね暁美さん」
狂信者のごとく感動していた。やや暗い室内の照明が反射し、まばゆの目元が濡れ光る。
薄っすらではあるものの、まばゆは涙しているのであった。
そこに、ドン!と湯呑が叩きつけられる音が鳴った。
更には、ぴきりという音も続いた。こちらは圧搾により湯呑にひびが入った事による。
どれだけ鈍感な者であっても、これが怒りの表現であるとは伝わる筈だった。
「まばゆ」
声を抑えて暁美ほむらは言った。『恫喝』という概念の指標となりそうな声だった。
「あ、すみません暁美さん。失念しておりました」
少し慌てた様子で頭を下げるまばゆ。そして振り返ると部屋の奥へと歩いて行った。
広い家の屋根裏なだけあって、部屋の端までは結構遠い。
何をしてるんだあいつは、という眼差しで暁美ほむらはまばゆの背中をじっと見ていた。
まばゆもそれを感じたらしく、動きが速くなった。まばゆが緑の光を纏って二重三重に見えるのは目の錯覚ではなく魔法によるものだった。
「お待たせしました。お茶と言えばコレですよね」
暁美ほむらが口を開く前に、まばゆは大皿を炬燵の上に置いた。
諦めようと暁美ほむらは思った。
「……ありがとう」
礼を言って、彼女は大皿に手を伸ばした。
皿の上には、山のように盛られた焼きたてのアンパンがあった。
「ささ、お熱いうちに」
さささささ、とまばゆは促した。アンパンを齧りつつ、暁美ほむらは神経が苛立つのを感じた。
まばゆの態度に対してではない。彼女が何気なく言った同じ字の五連打は、超不愉快な魔法少女が超絶不愉快な魔法少女に付けられた綽名だからである。
そんな暁美ほむらをよそに、アンパンへと手が伸ばされた。
その手の持ち主こそ、まばゆが促した相手であった。
「(あ…)」
一つ目を食べ終わり、二つ目を齧ろうとした暁美ほむらの動きが止まった。
「…あちゃあ…」
暁美ほむらは心の中で、まばゆは声に出して嘆いていた。
地雷の中の地雷を踏んだと思ったのだろう。
「ありがとう」
この時、暁美ほむらとまばゆはそれぞれ自分の声を聴いた。
そして自分自身の顔と姿をした存在が、アンパンを齧るのを見た。言わずもがなというべきか、服装は黒い長シャツと紺色のロングパンツである。
「…平気、なの?」
「良く焼けている。そして私の事は気にしなくていい」
「ああよかった。お茶飲みます?」
「いただこう」
自分と同じ顔の存在が先程の自分と同じ様子で茶を飲み干す。
次からはこの飲み方はやめようと、暁美ほむらは思った。
ついでに年上の後輩兼相棒の順応性は自分も学ぼうと思うのであった。
思えばこの一人と一存在は妙に巧くやれている。
まばゆの人柄もあるのだろうが、恐らく他にも共通点があるのだろうと。
例えば光に関連しているところであるとか、また自信の経歴を記した物語が……。
と、思考したところで暁美ほむらは思考の変調を覚えた。
この存在の事を思考しようとすると、思考が霞む。
それまで見えていた景色が霧によって覆われていくような、そんな感覚だった。
だがそこに戸惑いはあっても、同時に納得と理解もしていた。
「そろそろみたいね」
「そうですね。私も今、モヤモヤっときました」
「そうか」
その存在は淡々と言った。人形のような表情をしていた。
「伝えておいた通り、私はもうそろそろでこの場を去る。その際、私の事は可能な限り記憶から消させていただく」
「完全消去は出来ないのね」
「矛盾しているとは思うが、忘れている事があると覚えている存在が必要故に」
「完全に忘れていると、存在しないも同じで干渉できなくなる。だから同じような性質を持った侵略者ないし問題事に対して免疫が無くなる、でしたっけ」
ふうむ、とまばゆは唸ってアンパンを一つ食んだ。可愛いわねと暁美ほむらは思った。
「忘れている事があると自覚していれば、そういった輩に対応できるということですね。ややこしいですが」
「実際、その結果が」
そこまで言って、暁美ほむらは口を閉ざした。
何の前兆も変化もなく、世界を丸ごと掌握された経験を思い出したのだった。
自分が世界を改変したのとは数次元上の概念的侵略だった。
「暁美ほむら。あなたは既にそれを知った」
暁美ほむらの言葉を引き継ぐように、その存在は言った。
「だから、次は一人で勝てるわ」
「そうであろうな」
暁美ほむらの宣言を、その存在は肯定した。
その頷きは力強かった。彼女の宣言を微塵も疑っておらず、勝つのは当然と認識している。
傲慢ささえ覚えるその態度に、暁美ほむらは思わずため息を吐いた。そしてこう言った。
「ねぇ。本当に行ってしまうの?」
言った直後に、暁美ほむら自身でも驚いていた。
言われた方も、無表情ながらに意外そうにしていた。
表情の動きが皆無であるだけに、僅かな変化が如実なのであった。
「他に道はない」
飲んでいた湯呑を置いて、暁美ほむらの顔で存在は言った。
空の湯飲みへと、まばゆは急いでお代わりを注いだ。その挙動にも動揺があった。
暁美ほむらの言葉への驚き、ではないようだった。
この存在がここから去る、という事象に対して彼女は強く反応していた。
「既に異物は取り除いた。そして私もこの世界の異物。ならば取り除くのみ」
存在の言葉は物静かだった。だがそれだけに、強固な意思が感じられた。
「いいじゃないの、異物で」
その意思に対して、暁美ほむらは同意と反意を示した。
「そうですよ。お部屋なら余ってますし、なんなら私と一緒に暁美さんの下働きとしてここで暮らしてもらっても構いませんよ?勿論私が先輩ですけどってごめんなさい調子に乗りました」
「異物で構わないわ。何事にも例外は付き物でしょう?」
ぺこぺこと謝罪を続けるまばゆを放置し、暁美ほむらは存在の滞在を認めた。
自分でも無茶を言っているとは分かっていた。
だが少しずつその存在を忘れゆく中で、共に行動した記憶が感覚として残っている。
その中で、何かとても心地よいものに出逢ったような。
長い尾と鰭を持つような、鮫にも似た姿だったような気がしていた。
それはこの存在を経由して遥か彼方から去来したと聞いていた。
ならばこの存在との別れは、その尊いものとの完全な離別も意味する。
だからこそ最後の引き留めに縋った。
「私にはやるべき事がある。そして私自身がここを去りたいのだ」
しかしその存在は揺るがなかった。
「私は存在するだけで何もかもを歪めてしまう。こうして出会い会話している事自体、既にこの世界に害を為している」
少し経ってから、暁美ほむらは頷いた。
「そう言うと思ったわ。だから、あんまりガッカリしてないわ」
存在は「すまない」と言った。暁美ほむらは軽く手を振り、許容を示した。
落胆しなかったと言われれば嘘になる。だが引き留めた上で無理だったのだ。
受け入れるしかなかった。
「では去る前に、今回の事は何故起こったのかを教えて」
「それは邪神共にこの世界が発見されたからだ」
「その原因は?」
「答えても良いが」
そこまで言って、存在は一旦口を閉じた。暁美ほむらはふっと息を吐いた。
前に行ったやり取りを思い出したのだった。
発言に気を遣う必要はない。どんな言葉でも、残酷な真実でも忌憚なく話せと彼女は伝えていた。
もう随分と前の事のように感じられる。
それでいて、ほんの数分前の会話のようにも思えていた。
暁美ほむらは頷いた。存在は頷いた。
「原因は鹿目まどかだ。邪神もその眷属も、彼女が招いたものだ」
話すことを許した暁美ほむらであったが、その言葉の意味が分からなかった。
「まどかが、招いた?」
「そうだ」
「あの悍ましい連中を招いて……え…?」
理解が及ばない。言葉に出したことでそれは更に加速した。
まばゆもまた一言も発していない。出来るはずが無い。
「ある意味では、あの者達は彼女の被害者であるとも言える」
「ッ!!」
脳内で爆発が起きた。暁美ほむらはそう思った。
この存在への悔いや朧気に霞む影の存在を滅却するほどの怒りだった。
自分と同じ姿の存在のシャツの胸倉を掴んで顔を近づける。存在は抵抗の素振りさえ、それどころか身じろぎ一つしなかった。
「被害者、ですって」
わなわなと震えながら暁美ほむらは呟く。
異界の邪神と、邪神の眷属達。それらに唆されたインキュベーターと魔獣達は、鹿目まどかへと筆舌に尽くしがたい地獄を味合わせた。
それが。
「それが、まどかの望みだったとでも言うの」
「そうだ。あの者達は彼女の力を引き出すために、他ならぬ彼女によって利用された。正確には、彼女の本能に」
存在は暁美ほむらの言葉を肯定した。そして結論まで言い切った。
暁美ほむらの手の力が緩み、ゆっくりと離れていった。
「先ほど元に戻したが、私は一時期鹿目まどかの肉体を借りた。そこに残っていた思念の残滓から察するに、今回の事象は彼女の防衛本能の暴走だ」
「防衛本能の、暴走…?」
ずぐん、と。暁美ほむらは胸が痛むのを感じた。同時に体に激痛が走った。
体内の血液の全てが毒へと変わったような感覚がした。
思考に迸った嫌な予感によるものだった。
「思念から感じたのは敗北への後悔と恐怖。そして反抗心だ。鹿目まどかはここ最近、何か決定的な敗北を喫したようだ」
「………」
存在が放つ言葉を、暁美ほむらは黙って聞いていた。
彼女が座る場所の隣には、いつの間にかまばゆが座っていた。
普段のおどけた様子など消し飛び、表情には真剣さがあった。
暁美ほむらの盾になるように、まばゆは彼女に寄り添っていた。
「その敗北を赦せず、自らを強化することにしたのだろう。因果の観測という方法で」
存在は語る。見てきたような口ぶりだった。
「宇宙に流れた鹿目まどかの意思を発見し、邪神達は興味を抱いた。ここまでなら、忌まわしいがよくあることだ」
よくあること、とは宇宙の破滅という事である。
邪神とされる存在の名前も最早記憶に残っていないが、それでも砂か埃を払うように宇宙を消し去る存在であるという実感はある。
実際に対峙し視認した際の恐怖が拭えることは難しそうだった。
だがそんな邪神ですら、自分と同じ姿を模して言葉を発するこの存在には相手にならなかった。
今恐怖していないのは、感覚が麻痺しているに過ぎない事を暁美ほむらは知っていた。
「だが喰って解析して分かった。連中は一種の精神操作を受けていた。鹿目まどかの本能が望むように、行動を誘導されていた」
開いた口が塞がらない、という言葉の真の意味を、暁美ほむらはこの時に実感する羽目となった。
何もかもが異常で、理解しがたく理解したくない。
「これは恐るべきことだ。連中の精神は虚無であるのに、解析できる程度の心が生まれていたのだから」
存在の口調が少し遅くなった気がした。
動揺に違いないと思った。
「心を生じさせたのは邪神共の思惑か鹿目まどかの権能かと問われれば、前者であるに可能性が極めて高い。能力自体は邪神共の方が上であるが故に。然しその選択を選ばせたのは鹿目まどかという存在を認識した為だ。これは極めて異常と言わざるを得ない。虚無の神が無でなく実を選ぶなどとは」
存在同様に驚愕に心を揺さぶられつつ、暁美ほむらは疑問を感じていた。
存在による分析は、対象物を解析したとはいえ的確に過ぎると思えた。
まるで最初から、眼の前で観てきたような。だが、彼女はその思考の軸をずらした。
すると暁美ほむらは、霞がかっていた思考がクリアになっていくのを感じた。
「自らを苛ませ続け、『そういう事があった』という事実を重ねて因果を集める。観測し、経験し、全てを知る」
そうか、と彼女は思った。
よく考えれば、詳しいに決まってる。
「そして因果律の操作を用い、以降の干渉を受けぬようにした。つまり」
「かつてのあなたと一緒ね」
存在の言葉を引き継ぐ暁美ほむら。存在は少し驚いたようだった。
「そうでしょう? ぜ……」
言葉はそこで途切れた。あと一文字であることは分かる。だがそこまでだった。
文字を探しているうちに、暁美ほむらは最初の一文字に何を用いたのかも忘れてしまった。
「ここで限界みたいだわ。あなたの名前が思い出せない」
「それでいい」
存在は軽く手を振った。それが何を示すのか、暁美ほむらには最初は意味が分からなかった。
だが気付いた時、思わず小さく吹き出しそうになってしまった。
先ほどの自分の行動を真似したと気付いたのだった。
気にしていないという意思表示である。
そう思ったら、笑いが堪え切れなくなった。
情緒がバグってると暁美ほむらは思った。
異様な事実を聞かされ、不安定化しているメンタル。
例えるなら見栄えの下手な縫合、でも機能性はばっちり。
というのを彼女は思い浮かべた。
手を胸に置いて笑った。もう遠い過去の日々だが、自分は心臓が悪かった。
手術もしたからこそ、その例えが思い浮かんでしまったのだった。
笑っている場合でないのに笑ってしまう自分に更に笑っていた。
でも別にいい。
今に限っては別にいい。
時の歯車を止めているのだからと。
「暁美さん、お茶置いときますので気を付けて」
相棒の言葉を聴き、暁美ほむらは即座に笑うのを止めた。
「ありがとう、愛生さん」
普段のクールな顔付きへの移行はスムーズだった。
伊達に時間を繰り返した訳じゃないと思いつつ、彼女は茶を啜った。
その瞬間、思わず吹き出しそうになった。今度こそ時間を止め、喉から口内に戻った茶を飲み込む。
そして時は動き出す。
「麦茶じゃないの、これ」
「はい。お茶ですから」
まばゆは何故態々聞くのだろうと首を傾げて見せた。
確かに全く以てその通りではあった。
このあたりで落としておこうと暁美ほむらは思った。
「では、この事は」
「分かってる。まどかには言わないわ」
暁美ほむらは存在にそう告げた。
過去を繰り返すことはもう出来ない。
故にそれしか出来ることは無さそうだった。
自分を納得させるように何度か頷く。気分は切り替えた、と強引に自分を納得させる。
そして漸く、話すべき事を話せそうだと。
「ところで、まばゆ」
「なんでしょうか暁美さん。あ、もしかして作品についてですか?」
「話が早くて助かるわ」
暁美ほむらは自分の心が大分落ち着いているのを感じていた。
当初はとりあえず文句から言おうと思っていたので、これは良い変化だなとも。
「くぅう、疲れました」
「お疲れ様」
存在はまばゆに言った。この者が礼を言う光景は何度も観たが、その中で最もフランクな言い回しな気がする。
まばゆに至っては「いえーい!」とハイタッチを要求していた。相手はつつがなく返した。
とりあえずまばゆに関しては、疲労がピークなのだろなと暁美ほむらは思った。
当のまばゆは何時の間にか用意していたやかんを傾け、直接中に入っている麦茶を飲み始めた。
そういえばこんな風にコーヒーを飲んでいた、魔法少女に非ずの女がいたな、と暁美ほむらは思い返していた。
「いやぁ、色々変わりましたよ。ほんと」
麦茶を飲み干し、アンパン数個を平らげたまばゆはそれで英気が養えたのか語り始めた。
口に含む順番は逆でないかと、まばゆにとっての年下の先輩は思わざるを得なかった。
「『鹿目まどか救出作戦!-これは私の知ってる物語じゃない-scene302875106592253』!」
そう叫ぶや、まばゆは一つの円盤を炬燵の上に置いた。それは古めかしい映画のフィルムだった。
「…随分長く感じたけど、そんなに多く造ったのね」
「はい。とりあえず暁美さんが繰り返した回数乗の暁美さんが繰り返した回数イコール十三の十三乗ほど」
「この立場になってから大きな数字、ここ最近は無限大をよく見てたけどそれでも多すぎるわ」
「ええ。結果的に採用したのは百件くらいでしたので。大体は設定だけ羅列したSSの残骸とかメモの走り書きとかです」
「それでも膨大な量でしょう。お疲れ様」
「いえいえ。これでも光を操る魔法少女ですしぃ」
得意げにまばゆは言った。
そう、と静かに返して髪を掻き上げる。
そうするとまばゆは
「あああ!ここ最近頻度が低下してた暁美さんのレア行動!本心の嬉しさと感謝を押し殺した照れ隠し!」
興奮気味に、こう返してきた。少しカチンときたが、今回は黙っておこうと彼女は判断した。
「それにしても大変だったわね」
自分の身体を抱いて悶えているまばゆをそのままにし、暁美ほむらは存在に向けて声を放った。
相手は頷いた。
「前例があったとはいえ、功を奏してよかった…と言っていいのだろうか」
「こうして話が出来ているのだから、とりあえずそれでいいと思うわ」
肯定はしつつも、暁美ほむらも言葉を濁した。
それだけ今回の出来事が奇怪だったのである。
「心の世界に囚われたまどかの元へ行くために、本来と違う事をする」
振り返り、思考を整理するために暁美ほむらは言葉を紡ぐ。
「そうすることであの子の夢として思考の中に入り込んで」
「鹿目さんに解釈違いを起こさせて!心をザワつかせて!本当の物語を取り戻す!」
話を遮り、まばゆが復活していた。
「なんて熱い展開!……なんですかね、これ。冷静になってきたら、なんか凄く気恥ずかしくなってきました」
そして急転直下でテンションを下げていた。
掛ける言葉が思い浮かばず、ならば行動で示そうとして暁美ほむらはまばゆの頭を撫でる事にした。
数秒後、意気消沈していたまばゆは奇声を上げて床でのたうち回る姿へと変わった。
時間が出来たと、暁美ほむらは思った。
「ところで、あなたの実体は大丈夫なの?」
尋ねてはいるが、彼女自身も曖昧になっていた。ただ自分がこの存在を武器として用いて戦い、敗北したことだけは覚えている。
「邪神が動揺した間に再起動し、始末した」
「あ。その様子記録してたんですが暁美さんも観ますか?『鏖』って言葉の意味が再定義できますよ」
幸せに悶えたまま、まばゆは腕を伸ばした。手にはタブレット端末が握られ、映像を映している。
だがそれを認識することは出来なかった。画面には全体的に砂嵐が掛り、音も風の音のようにしか聴こえない。
「観ない方がいい」
当人はそう言った。表情には勝利の感慨も何もない。
暁美ほむらは気まずさを感じた。なので、黙っている事が忍びなかった。
そして認識の希薄化が更に進んでいる事が分かった。残された時間の中で、出来ることをしようと思った。
「解釈違いの物語、あなたとしてはどう思ったのかしら」
「昔を思い出した。あの時の感覚は未だに鮮明に残っている」
「それは苦しみかしら?」
「それもあるが、今思い返して感じるのは感動だ」
存在は静かに告げた。感動という言葉を噛みしめているように思えた。
「まどかは、どう思ったのかしら」
少し不安げに暁美ほむらは言った。
確認したくとも出来ない事情が、今の自分と鹿目まどかとの間に存在している。
異変が終わったのであれば、自分達の陣営は分け隔てなければならないからだ。
だから、今現状でそれを答えられそうな存在へと尋ねた。
それは願いにも似ていた。
「あなたを見ていた。少なくともそれは間違いない」
暁美ほむらは固唾を飲んだ。それだけだろうか、という予測が彼女の血の気をさっと引いた。
この感覚は、罪悪感だろうかと彼女は思った。
「そして」
言葉が続いた。暁美ほむらはその続きが聞きたかった。
「これは暁美ほむらではないと強く思った事が目覚めの切っ掛けであるのなら、それは深い愛情の印以外の何物でもない」
「ッ…」
存在の言葉を受け、暁美ほむらは呻いた。
この者が用いた一つの単語は、彼女にとって重すぎた。
受けた言葉を反芻し、受け入れるまで二呼吸ほど掛った。
心臓が痛みを発するほど高鳴るのが感じられた。
観測されて評価される。
他者の事など関心が無いはずなのに、それでも自分の行動を肯定されるというのは何故こうも心地よいのか。
「ところで、あの者は何処へ行った?」
「キュゥべえの事でしたら、ほら」
暁美ほむらが心の整理をしている間、まばゆは部屋の隅を指差した。
そこには使い古した襤褸雑巾のような存在が身を丸めて震えていた。
「暁美さんには悪いんですが、キュゥべぇにはちょっと悪い事したかなぁって思ってます。出番の大半をカットしちゃいましたんで」
「形をカットしなかっただけ、感謝してほしいわね。私の言えた事ではないけど」
「暁美さん、それは」
暁美ほむらの言葉を、まばゆは慌てて遮った。相棒の献身に感謝しつつ、彼女は手で静止した。
これは伝えておくべきだと思ったのだった。自分が鹿目まどかに行った所業を。
「何かあったと察するが、それは考え抜いた果てに選んだ選択なのだろう」
暁美ほむらより先に、存在は声を発した。遮ったように思えなくもなかった。
「あなた、この世界をどこまで観たのかしら」
「嵐の中、鹿目まどかが駆けていくところまで」
ああ、と暁美ほむらは呻いた。
「母親との別れは、辛かっただろうに」
存在の声は変わらない。それでも悲哀が伝わってきた。
「その後の事は、知りたくないの?」
「知りたくないと言えば噓になる。だが、知らない方がいい」
「それは何故?」
「これ以上、私と関わって欲しくない」
「さっきあなたが言っていた、鹿目まどかの決定的な敗北も知りたくないのかしら」
「知ってしまえば、私はその事象に対して自分の考えを思う。その結果生じるのは、私の視点による『こうあってほしい』という願望の成立だ」
存在は、自分なら世界を創り返られると告げていた。そしてそれを、行いたくないとしている。
「それ以外なら、一つだけ願いのようなものがある」
少し間を置いて、存在は言った。要した時間は躊躇に思えた。
「お願い。それを教えて」
「あなた方全ての、運命の廻天を望む」
縋りつくような暁美ほむらの言葉に、存在は静かに答えた。
あなた方といった言葉を反芻していた。
その言葉に含まれるのは恐らく、この世界の全てなのだろうと思った。
『廻天』という言葉に、胸の中に熱が宿るのを感じた。そしてそれと同じくらいの、痛みを覚える言葉であった。
「でも、私は」
それを受ける権利はない。そう言うつもりだった。
尊き者を引き裂いた悪魔。それが今の自分であり、永遠にそのままであると思っていた。
「廻天とはまた、抽象的な言い回しですねぇ。色んな意味に捉えられますから、映画のタイトルにでもなってれば考察のし甲斐がありそうですね」
「まばゆ」
割って入ったまばゆに対し、即座に反応する暁美ほむら。
廻天を色んな意味に捉えられるとまばゆは言ったが、本人の名前も暁美ほむらにとっては名称であり静止の言葉であり、その他色々の用途がある言葉だった。
とはいえ彼女の言葉に、胸の痛みが救われたのも確かであった。
「色々と言えば、あなたに色々させられたわね」
「そりゃあもう!暁美さんてば何やらせても絵になるんですもの!」
「私の所為にするつもりなの?」
「ある意味ではそうですね。メイド服で戦って貰ったり、スク水で」
「まばゆ」
「銃器や弓矢での無双も良いのですが、日本刀もよくお似合いでした。その他一通りの近接武器を使っていただきましたがどれも素晴らしい美しさで」
ああ、これしばらく無理だ。暁美ほむらはそう思った。
こうなった相棒は止まるまで時間を要する。
相手をしてやるしかないと思った。
「まぁ確かに。あなたが再現した、紛い物だったとはいえ魔獣達を蹴散らすのは楽しかったわ」
「紛い物とは失礼な!あれはちゃんと本人たちですよ!」
「え、ちょっと。それは安全面として不十分ではないかしら?」
「でしたら尋ねますが、偽物の魔獣相手に暁美さんは本気の殺意を抱けますか?」
「本物でなければ無理ね」
「なら本物を使うしか無いじゃないですか!映画撮影ナメてるんですか!?」
「唾が飛んで来たわ。落ち着きなさい、まばゆ」
「はぁ…はぁ。すみません暁美さん。ヒートアップしすぎました。自重します」
「構わないわ。続けなさい」
「はい、分かりまし…え?」
「お話したいのでしょう?聞くわよ。私も話したいわ」
「では遠慮なく!」
「…うわ」
「引かないでください!そういう態度されると傷つきます!思い悩んで見送ったあの衣装着せても良かったんですよ!ってああ!すみません調子こいてました!今のナシで!!」
「言いなさい。言え」
「ええと、二つあるうちの一つはさやかさんのボンデージで」
「せめて苗字で言いなさい。そしてもう一つ目は察しがついたから結構よ」
「あ、それですそれ。大当たりですよ暁美さん!」
「そろそろ怒るわよ?」
「は、はい!以降気を付けます!」
「軍隊式敬礼までしなくていいわ。じゃあ罰の代わりに私の愚痴というか苦情を聞きなさい」
「どうぞ遠慮なく忌憚のない意見を仰ってください。批評されるのは作家の常ですから」
「では」
「しかしきちんと建設的なものにしてください。今後の参考に出来るようなもので、私のメンタルにダメージを与えないような言葉遣いを選んだもので」
「ごめんなさい。私の負けよ、それは無理」
「そんなぁ!!」
「それに今回みたいなことはもうないわ。だから今後も無し」
「そんなの分からないじゃないですか!ああもう!分かりましたよ!多少のクレームは我慢しますからご意見を」
「無理と言ったわ。私は口下手のコミュ障キャラな悪魔なの」
「謎の路線やめてください!」
「口下手なのは本当よ。それにこういうのなら、もっと詳しい相手がいるでしょう?答えてあげなさい。ぜ……」
流れるように続いていた会話と言葉が止まった。
「暁美さん?」
まばゆは不思議そうな顔で暁美ほむらを見ていた。
彼女は口を二度三度と開閉した。何も言葉を続けられなかった。
思考を巡らせたが、それは直ぐに霧散した。
何かがあって、そこに誰かがいた。
その誰かとは何か。確かに少し前まで覚えていた。盾の中にも何かがあったが今は無い。
記憶ではなく、感覚で残っている。感覚は消えたが、記憶はある。
断片的でちぐはぐに。
それが何かが分からないほどに、原型を留めていない感覚と記憶があった。
幻か夢を見たような気分が、暁美ほむらを包んでいた。
それでも必死に、これを感覚だけで終わらせまいと記憶を探る。
刹那、脳裏に美しい姿が一瞬映った。
金属の光沢を全身に帯びた、美しい女性の姿。
それが誰であったか、そして今何を思い出したのか。
それらを思考しようとしたときには、暁美ほむらの記憶からは多くの事象が抜け落ちていった。
まばゆの部屋の中に静寂が満ちていく。
それは、物語の終焉を示していた。
「長い付き合いもこれで終わりだ」
「ええ、本当に長い付き合いだったわ」
「散々に迷惑を、というか迷惑しか掛けなかった。申し訳ない」
「そう思えるのは成長した証とでも?」
「すまない」
暗い闇の中、二つの存在が対峙していた。
それらは同じ姿をしていた。
鋼の光沢を全身に帯びた、美しい女性の姿。顔は肌色であったが、鋼の女神と称して差し支えない姿だった。
片方の女神には静かな激情が、もう片方には虚無があった。
「ミネルバX。貴女には本当に酷い事をした」
「酷い事、で済ませる気はないわ」
女神、ミネルバXは冷たい声で告げた。その瞬間、彼女の全身に紅の光が映えた。
それは彼女の豊かな胸の上を発生源としていた。
そこには膨大な熱と光があった。
熱と光を前に、彼女と同じ姿の存在は身じろぎ一つしなかった。
冷ややかな怒りの貌でその者を見つめるミネルバの視線は、それだけで相手を殺すかのような憎悪に満ちていた。
だがそれに反して、熱と光は収まっていく。
「撃たないのか?」
「どうせ効かないでしょう。それに」
言葉が絶えた時、ミネルバの顔からは憎悪が薄くなっていた。
「一応聞くわ。本当にやるつもりなの?」
「他に道はなく、それは私にしかできない」
ミネルバの問いに、その者は平然と答えた。
問うた方であるミネルバには、困惑があった。
そしてそこには、恐怖も付随していた。
「既に可能性の光達と、それらの属する世界は彼方へと遠ざけた。無論、あの者達も同じだ」
「そう。安心したわ」
溜息を吐くミネルバ。あの者達と称された存在に、よほど思い入れがあるようだった。
「それでは、そろそろ私は行く」
そう言うと、その者の輪郭が崩壊した。
微細な粒子の群れとなって、かろうじて人型と分かる姿を形成する。
―借りていた名前と姿も返す。これでお別れだ
思念で声が届いた。この時、ミネルバの顔からは怒りが消えていた。
内心では憎悪の渦が巻いている。
だが今のこの存在の姿と、これからの事を思うと表面的とはいえ怒りの業火を鎮めざるを得なかった。
「全てを守ることで、贖罪とするつもりなの?」
―そうではない。遣るべきことを果たすだけだ
「そう」
努めて淡々になるように、ミネルバは返した。
そして自らの内心に動揺していた。
まさか自分が、この存在を憐れに思うときが来るとは思わなかった。
「最後に認めてあげるわ。あなたは」
そこでミネルバは言葉を閉ざした。
一つの称号、とでもいうべき名称を告げるつもりだった。
だが出来なかった。
過去に口に出したことはあったが、今その名前を出すのは憚られた。
永遠の別れを前にしたこの時でさえ。
―それでいい。私にその資格はない
その者の口調は静かで、壁の様だった。
そうね、とミネルバは返した。
「ところで、彼女達にはこれからの事を話したの?」
―知る必要はない。そして、私の事など記憶しなくてよい
―この世の誰もが私をなどを認識せず、覚えることもない
―それが今の私の望みだ
―あなたもそうであるといい
「憎しみを捨てろということかしら」
―私の事で心が苛まれるのなら
「最後の最後まで傲慢ね」
ミネルバは呆れていた。
「望みと言ったわね。なら、私はその願望を叶えるわけにはいかないわ」
―そうか
相手の思念にミネルバは言葉を返さず、そして相手も何も言わなかった。
それが終わりの始まりだった。
闇の中に光が満ちていく。
全てが漂白されて輝きの中に溶け落ちる。
ミネルバはその中で目を開け続けた。
視線の先には、今の今まで会話を続けていた存在がいたであろう場所があった。
そこには何もなかった。
最初から何もいなかったかのようだった。
しかし彼女は、それが誰であるかを覚えている。
忘れたくても忘れられない、忌まわしい悪夢であり怨敵。
だからこそ、彼女は決して忘れないだろう。
覚えておくことが、その者への最大の報復であるからだ。
怨敵にして、創造主である相手への。
そこは広大な空間だった。
ただひたすらに広く、広さは無限大であるといえた。
生物も非生物もなく、ただ静謐だけが満ちている。
そしてその静謐を崩さずに、一つの存在がこの空間に発生した。
発生したといっても、だからといって何の変化も起きない。
この場所はただひたすらに無で満ちており、無の中に無が生じたところで何も起こる筈もない。
それは形を備えることもなく、その姿を見る者は何もいない。
その存在自体も、自分が何者であるかはどうでもいいのだろう。
ただ、無の中に存在する無であったとしても、無には無なりの区分があるのか差異はあった。
無の影が僅かな濃淡を示したといった程度の虚無の色使いにて、それは四肢を備えた人間の姿に似た形をとっていた。
曖昧な姿のそれは、虚空の彼方を見上げていた。
無限の距離がある筈だが、その存在には彼方が眼の前に見えていた。
そしてその無限の距離は狭まっていた。時が喰われ、天が砕け、空間が侵されていく。
それはこの世界の中心に向けて殺到していた。中心には、人の姿の虚無があった。
無限を喰い尽くす何かに対し、人の姿をした虚無は無の声で告げた。
― 貴様も私も、ここから出られぬ
― 逃げぬし、逃がさぬ
― 貴様は私と共に、万物から無縁の存在となるのだ
― では始めようか
― 時天空