はっとして目を覚ます。
がばっと起き上がって目にしたものは、薄闇の降りた自室だった。
体を支えるのは柔らかいベッドの感触と身体を包む着慣れた感覚。
人として生きていた頃に着ていた学校の制服だとすぐに気付いた。
それに髪の長さもこの時の姿に戻っている。
ついでとばかりに胸を触ると、一割ほど減っている。
終ぞ使う事が無くこれからも使わない部位であるが、それでも少し損をした気分になった。
当然というべきか、他の部分も子供びている。
いつもの姿であり、そしてかつての姿だった。
まぁいいか、と思った。
どちらも自分の姿であるし、偶にであるがこの姿にもなって世界を気ままに歩いたりする。
どちらの世界でも自分が導いた者達は自分を等しく扱ってくれる。
ならばしばらくはこのままでいようと思い、彼女はベッドから立ち上がった。
まだ外は暗いが、眠る気にはなれなかった。
この世界には時の概念が無いが、それでも朝と夜は備えている。
住む者の気分に合わせて変えることもあれば、自分の意思で世界の明暗を分けたりする。
そう思い浮かべた時、思わずくすりと笑ってしまった。
この世界では誰も傷付かず傷付けず、飢えも乾きも寒さもないというのに、明暗という不穏な言葉を思った事がひどく不自然に思ったのだった。
それは単なる光の強弱。そう思って彼女は机に座り鏡を見た。
桃色の髪をしたツーサイドアップの少女の顔があった。
鏡の中の少女も自分を見ていた。
『鹿目まどか』。
それが自分の名前であり、鏡の中の少女も同じ名前であった。
「かなめ、まどか」
その名前を口に出す。二度三度、四度五度と名前を繰り返す。
紛れもなく自分の名前で、その名前で生きてきた。
そして人として生きた果てに人ではなくなり、新しい世界を生み出した。
分かり切っている事だったが、どうしても名前を言いたくなった。
この名前は、今では自分とごく限られた存在しか呼んではくれない。
そもそも名前としては既に喪われている。未来も過去にも、この名前は存在していない。
存在の可能性を全て拭い取ったからこそ、今の自分とこの世界があるのだから。
それについては後悔していない、はずなのだが。
それでもどうしても、時折心が軋むような感覚がする。
病んでいるとか、泣きたいほどではない。
ただ少し物憂げになってしまう。
その度に自分はこの部屋に来ることにしている。
かつて人だった少女である自分が過ごした部屋を模した場所へと。
その甲斐はあり、今は大分落ち着いた。
少し高鳴っていた心音は鎮まり、薄めの胸に触れた指先は穏やかな心音を聴いている。
この行為がごまかしのようなもので、自分の心の動揺が本当に解決したわけではないことは分かっている。
おそらく、というかきっと、これは自分が願いによる作用なのだろうと思っている。
絶望を否定した存在である自分が、絶望に至ってはならない。
だから精神が調整され、何度でも健全な状態へと戻る。
心強い、と彼女は思う事にした。そう思っておけばいい。
今度こそ気分を切り替えようと机に向かった。
机に座るのも随分と久しぶりの様な気がする。机の上には勉強道具もあり、時々気晴らしに勉強もしている。
しかしどうも勉強は得意ではなく、英単語も数式もあまり覚えられない。
とはいえどちらも能力として身に備わっているものなので、あくまで雑学の域を得ない。
なら雑学をしようと、彼女は机に置かれた端末を起動した。
大きめの画面のタブレット端末を横に倒して操作する。
彼女が選んだのは、世界の中の娯楽の確認だった。
どんな服が流行っていてとか、美味しそうな料理は、などである。
少し迷いつつも、鹿目まどかは今回それらとは別のものを学ぶことにした。
その対象となったのは、世界の中に存在する漫画やアニメ、または特撮などについてだった。
端末を操作すると、無数の作品群がずらりと並んだ。
それらは世界の中で生まれた無数の世界だった。
世界の中に世界があるというのは奇妙だが、さりとて不思議であっても怖くはない。
怖くないので、知りたくなる。そして自分は知らない事が多すぎる。
当然だろうと思った。自分はあくまで少女達を導く存在であり、その点に関しては全能でも真なる意味で全知ではない。
だからこそ、未知への期待に胸が躍った。先程の胸の感覚とは違い、心音は心地良く跳ねた。
無数の中から何を観ようかと思った時、ふと一つの存在に意識が吸い寄せられた。
「福音の者」
その言葉は呼吸のように自然と口から出ていた。
英語にはあまり明るくないし、学校の知識の中にもない。
恐らく何か、例えば導かれた少女達との会話で学んだ単語の一つだろうと思った。
折角なので、その作品を観ることにした。
時間にして十五時間後、鹿目まどかはその作品、または世界を観終えた。
頭を抱えて、溜息を吐いた。
凄い世界だった、と彼女は思った。
凄かった。そして…。
なんて言っていいのか、分からなくなっていた。
自分達の境遇や世界も相当に酷く、少女の犠牲で成立している世界だった。
だが、この世界は…。
しばらくそのままでいた後に、額を抑えていた右手を離した。
眼の前を開いた右掌が過る。
掌の表面には何も着いてないと分かって安心した。
そしてその場面を思い出して気が重くなった。ああいう事象とはもう無縁なはずだが、突き付けられると結構疲れる。
その場面以外にも性を連想、というかそのままな場面は沢山あった。
拭うように手を振って、そこだけじゃないと思い出す。
汎用人型決戦兵器と称された存在の活躍には胸が躍った。
特に心に残ったのは、巨大な翼を持つ者達の姿だった。
その者達の所業については眼を覆いたくなった。だが何故か印象に残っている。
鰻か蛇のような顔はお世辞にも格好よくはなく、可愛いかと言われたら反応に困る。
だが巨大な白い翼を背負ったその姿は天使に見えた。
作中での行動は酸鼻極まりなかったが、それでもその者達の行動には胸が痛むものがあった。
自分とは異なる女神に仕え、それがどういった結果を招いたとしても新しい世界を生み出す礎となって、その者達は果てていった。
世界を改変してしまった者としては、どうしてもそこが気になってしまうのだった。
少し休み、改めて考える。
納得がいかない、という結論を鹿目まどかはその世界の感想として見出した。
主人公の少年には同情する。家庭環境に生活環境、更に世界を救わねばならないという重圧は想像だに出来ない。
しかし、と彼女は思った。
精神が大分傷付いていたのは分かる。辛かったのは分かる。
だが、彼がもう少し早く動いていたら。
赤い髪の少女の奮闘に参加していたら。
そして最後まで抵抗していたら。
陰惨極まりない物語を観た末に抱いた思いは、祈りですらあった。
しかし物語は完結しており、地球は赤い海に覆われていた。
作中の言葉を信じれば、いつか人は戻るそうである。
物語は既に完結しており、そう願うしかなかった。
自分と同じ同い年の少年と少女は、あれからどうなったのだろうか。
世界を観終えた後も、その思いは余韻となって鹿目まどかの心へと刺さった。
心の中に刺さった針は、音叉と螺旋の形をした槍にも思えた。
その槍が震え、より深く突き刺さる。
槍と心を震わすのは、鬼と鎧武者を合わせた様な姿をした紫色の人造神の咆哮だった。
悍ましい声であったが、それは子を想う母の切なる願いの声だった。
機械と異形が入り混じる、異形の母の咆哮。
今の鹿目まどかには、それが堪らなく尊く思えた。
今の自分には、それが決して手に入らない存在であると分かっているが故に。
胸が抉られる思いだったが、その痛みを消そうとは思わなかった。
覚えておくことが世界を観たものの責務であり礼儀であると思っていた。
胸の痛みはまだ弱まる気配がないが、それでも世界が観たかった。
無数に並ぶ世界の中から鹿目まどかは自分の直観に従い、また一つの世界を選び取った。
それは全身を装甲で覆った者達の物語だった。
騎士のような者達の傍らには、多種多様な魔物達がいた。
魔物達は騎士に付き従っているようにも見えたが、騎士達を獲物として認識し執着しているようにも見えた。
世界を観終えた鹿目まどかは苦悩していた。
最初は真っ当な(という言葉を使うのは烏滸がましい気がしたが)ヒーロー作品だと思った。
だが実際は欲望という名の願いが絡み合った、艱難辛苦の物語だった。
世界を観た視点で考えれば、誰が正義で誰が悪かは多少強引にでも分けられる。
巨大な毒蛇を使役している紫の騎士と、銀の犀を従えた重装甲の騎士は悪であるとしても、他の面々には何かしらの理由があった。
白銀の騎士は度し難かったが承認欲求に飢え過ぎた結果に思え、その点で言えば同情を感じてしまった。
自分の事を誰かから評価されたいというのは、当然の感情だからだ。
そういえばその点では、生きていた頃に自分の事を世界の敵として抹殺を図った白の少女の配下である黒い少女にも似ている気がした。
そもそも、自分達と騎士達は共通点が多い。
願いを叶える為に戦うか、願いを叶えたが故に戦う。
始まりと結果は真逆であっても、つまるところ欲望という名の願いの為に戦っている。
装甲を纏った騎士達と、煌びやかな衣装を纏って戦う少女達の違いはあまり無いようだった。
そう考えると気が重いが、世界はそれだけではなかった。
騎士達が魔物を駆って戦う様には高揚を感じた。
自らの衝動に従って殺戮を重ねる紫の騎士でさえ、その圧倒的な強さには息を呑んで見入ってしまった。
その者の名前は、自分に所縁のある少女の名前に少し似ていた。境遇も遠からずと思ったので、もしも何かがあったら仲が良くなれるのではとも。
とりとめのない思考だと思う一方、自分がこの境遇だったらと思ってしまう。
自分達も戦いを強要されているような存在だが、それでも同族同士で積極的に殺し合いを強いられてはいない。
と、いうのは今はもう過去であり過去でない事実でもあった。少女達の成れの果てを狩るのもまた少女達であり、そうしなければ生きていけない。
戦わなければ生き残れない。騎士と少女達の背負った宿命はとても似ていた。そのものといってもいい。
そこで鹿目まどかはかぶりを振った。
同一視のしすぎは危ういと思ったのだった。
自分達は自分達であり、騎士達は騎士達であると。
だがそれでもふと思ってしまう。
この争いの中に自分がいたら、という思いが。
大きく息を吐いた。それは内部で渦巻く思考を薄めるための行為だった。
完全に追い出すことはしないが、囚われる事も危険に思われた。
世界を観る者として、たとえそれが創造物であったとしても世界の隔たりについてみだりに意識すべきではないと。
名残惜しさを残しつつ、最後にこの世界の主人公の姿を見た。
それは深紅の龍を駆る騎士だった。
その鉄仮面を観た時、鹿目まどかは何かを感じた。
胸の奥、または頭の奥で何かが閃いた。それはそんな感覚だった。
敵から身を守る装甲にも、それを纏うものを苛む拷問具のようにも見えるそれに、どこか見覚えがあった。
完全に同じであるとか、ではない。
ただ部分的な共通点として、何かを感じたのだった。
言語化すると、気のせいとか勘違いとかになるだろうと鹿目まどかは思った。
気にする必要は無さそうだとして、また別の世界を眺めることにした。
思うがままに、鹿目まどかは世界を観測し始めた。
空と海の狭間の世界を観た。
そこでは昆虫の様な姿をした戦士と騎士達が血で血を洗う激戦を繰り広げていた。
災厄に満ちた世界であったが、鹿目まどかはこの世界を知れたことは幸福であると思えた。
それほどに、残酷で美しい世界だった。
自分達よりも少し年上の少女達が、無限の宇宙に夢を馳せて日夜汗を流していた。
だが宇宙は異形が満ち溢れる地獄でもあった。無数ということばすら生温い異形の大群を前に立ちはだかるは、たった一体の黒い巨体。
敵の大群に囲まれた中、腕を組んで泰然と聳え立つそれは体格と数で自らを圧倒する大群を逆に蹂躙していた。
観る者を圧倒するあまりの強さに、鹿目まどかは魅せられていた。
それを操る者が自分達とさほど変わらない年齢の少女であることも、彼女に憧れを抱かせた。
その世界は、なんというか治安が悪かった。というか、野蛮な人間が多かった。
野蛮な上に格闘技を嗜んでいるものが多過ぎていた。健全なる精神は健全な肉体に宿るという言葉を何処かで聞いたが、それと真っ向から相反するものを感じた。
特に主人公と、その父親の大迷惑ぶりには思わず閉口してしまった。
自分が導く少女達にも何かしらの問題を抱えているものは多いが、それでも比較になるか分からなかった。
近い例で中世イングランドで戦乱を巻き起こした一家だろうかと彼女は思った。
ハード・コアな格闘シーンは迫力があり、こちらも気付いたら魅入っていた。
と思っていたら、何やら奇怪な存在が現れた。
それは武骨な外見の人型兵器であり、お世辞にも強そうには思えなかった。
が、その存在の活躍は鹿目まどかの想像を絶していた。
理解の追い付かない展開の多い世界であったが、それは格別だった。
あまりにも刺激が強すぎて、観測を途中で取りやめた。
自分にはタフさが足りない。
彼女はそう思った。
世界の隅々まで、鉄と硝煙と炎の匂いが染みついた世界を観た。
長い長い戦乱は人心と世界を荒廃させていくが、どれだけ荒れ果てようとも争いは止まらず、人の欲望や悪意には底が見えない。
死が量産される世界においてただ一人、死とは無縁、としか思えないほどに不死身を誇る者がいた。
異能者と称された若者は、鉄の棺桶に等しい装甲の騎兵を駆って戦場を駆け抜けた。
戦い抜いた果てに待っていたのは、悲劇という言葉でも生温い結果だった。
赫奕たる異端には、世界の何処にも居場所が存在しないのか。
鹿目まどかには、そう思えてしまった。
どの世界も、観測するのに疲労を感じた。
それでも世界を観ることはやめられなかった。
責務の様な何かを、彼女は心のどこかで感じていた。
それは、何かを探しているかのようだった。それについては、彼女は気付いていなかった。
作品を観始めてから、地球という星の時間にして既に幾日か、または数週間か数か月は経っていた。
ひょっとしたら数年は経っていたかもしれない。
それでも好奇心は止まらなかった。知らない事が知りたいという原始的な欲求に、鹿目まどかは従っていた。
次はどの世界を観よう、と思っていた時にカチッという音を聞いた。
右手で握るマウスがクリックされた音だった。
それは知らず知らずのうちに、右手が動いた結果だった。
時の経過の概念が希薄で身体の負担も合って無いようなものだが、そんな曖昧さであっても作品理解の為に頭と心を働かせたので疲れが出たのだろうと思った。
でも折角なので、その世界を観てみることにした。
それはとても、とてもとても古い世界に思えた。その世界の名前を見た時、口が勝手に動いていた。
『マジンガーZ』
心と声で、一つの名前が唱和した。