「………」
気が重い。鹿目まどかはそう思っていた。
マジンガーZの最終回。それはあまりにも過酷に過ぎていた。
正直、そう言った予感はしていた。
物語はいつか終わりを迎える。
終焉とは物語だけではなく、あらゆる事象にとっての必然である。
自分自身がその概念であるために、鹿目まどかはそれが痛いほど理解出来た。
理解した上で、また出来るからこそ胸の痛みに苦しんでいた。
目を瞑り、机に突っ伏していても眠りは訪れず、世界の終わりが鮮明に瞼の裏を巡っている。
理解はしても納得には遠い。
この状態ももう長くなってきたと思い、彼女は顔を上げることにした。
その時ふと、どうせなら、と思った。
目覚めるのなら、言ってみたい、というか叫んでみたい言葉がある。
ここは自分の部屋なのだし、誰に憚ることもない。
よし、決めた。
「マジン…」
一度叫んでみたかった。
そうすれば気分もきっと晴れるだろう。
しかしそこまで言った時、彼女は奇妙な音を聞いた。
「うう…ううう…」
それは人の、しかも少年の声だった。
正確には変声期を終え、少年から青年に至る途中の男子の声だった。
「…俺は負けない」
快活そうな声で、ぶつぶつとした言葉が聞こえた。
彼女は思わずぎょっとした。世界の観測ならともかく、男の声を生で聞いたのは幾星霜ぶりである。
明らかな異常事態に、鹿目まどかは退避を決意した。
必要ならば存在の抹殺さえも辞さない。そう思った。
「Zは絶対に負けない…」
非情な意思と共に力を溜めておこうとした時、思考に溝が奔った。
『Zは絶対に負けない』。その言葉は聞き捨てならなかった。
「負けてはいけないんだ」
そう。負けてはいけない。絶対に負けちゃ駄目。
彼女もそう思った。少年はZが何であるかは言っていないにも関わらず、何を示しているのかについての確信があった。
「…っ…いくぞ…」
少年の声は呟きであったが、そこには確たる意思を感じた。
「そう思わなければ世界が滅びてしまう」。
そんな、鬼気迫る想いが滲む声だった。
そして少年の声が変わった。すぐ隣にいる、鹿目まどかが辛うじて聞き取れる程度の大きさの声から、堂々たる獅子吼へと。
聴いている鹿目まどかの肺腑を震わせるほどの声。
その声に、彼女はどこか聞き覚えがあった。
声の音程というか出し方というか、雰囲気が誰かにとても似ている。
「マジンガー………!」
高々と叫ばれた名前にはっとし、顔を上げる。
ガタリという音を立てつつ立ち上がる、制服を着た黒髪の少年の姿が見えた。
強い意志を示す渦巻く炎の様な髪型の少年だった。その姿には見覚えがあった。
言葉を失い、鹿目まどかは硬直した。
となりの席に立つ少年の姿は、観測した物語の主人公に違いなかった。
『兜甲児』。
マジンガーZを駆り、悪と戦い続けた真の英雄がそこにいた。
しかし、彼はそれで動きを止めていた。
立ち上がった場所は授業中の教室であり、誰もが困惑の表情を浮かべて彼を観ていた。
その場で異なるリアクションをしているのは、眼を輝かせて彼を観る鹿目まどかだけである。
そんな中、少年に周囲から告げられたのは、
「まったく高校生にもなってアニメばかり観て~~~…」
教師からの注意と、
「ヒャヒャヒャ、はしゃぎすぎだぜ」
友人からの親し気な笑い声と、
「最低―――…」
麗しい女子生徒からの冷ややかな軽蔑だった。
兜甲児によく似た少年は、その状況に困惑しているようだった。
寝ぼけて奇行に走ったが故の羞恥と言ったものは見受けられない。
ただ自分の置かれている状況が分からず、戸惑っているようだった。
そして、それは鹿目まどかも同様だった。
今更になって、自分は今のこの状況が異常であると思い始めた。
どうやらここは学校の教室、正確に言えば音楽室のようだが、自分が通っていた学校のそれではない。
周囲の学生たちの制服と自分が着ているものも違えば、そもそも周りの者達は自分よりも人間の年齢にして二歳は年上に見えた。
そしてそんな異端な自分は周囲と同じく、音楽室のピアノを囲むように配置された机の一つに座っている。
兜甲児に似た少年は今も立ち尽くしているが、その隣に座っている異端者の自分には誰も注意を払っていないし、そもそも気付かれていないようだった。
その様子に、鹿目まどかは現状がどのような状態にあるかに気付いた。
「…夢オチ?」
かつて、そう言って目を覚ました事があった。
場所も観たものも異なっているが、同じ言葉と印象を抱いた。
そして、夢とは何かを思った。
ひょっとしたら、今までの自分が記憶してきたことの全てが夢なのでは。
つまり、今までの自分は全て夢?
世界を書き換えて、更に引き裂かれたことも全てが夢オチ?
「いやいやいやいやいやいやいや…」
首を左右に振って、鹿目まどかはその思考を排除した。
「そんなわけ、ないよ」
左右に振られる顔の前で、更に右手を左右に振って想いを拭い去る。
今までの事が夢であるわけがない。今のこの状況こそが夢なのだと。
そう思うと、一瞬でも過去の自分の方が夢だと思った自分がおかしく思えてきた。
口に出した台詞を文字として打ったなら、大量の「w」が付くだろう、と思い彼女は更に笑ってしまった。
笑いながら、隣の少年を見上げた。
彼も同じような動作をしている。
自分と同じような考えに至ったようだった。
そう思うと、今度は一気に冷静になれた。そして周囲を見渡した。
一瞥して分かった。これはやはり、自分の夢なのだと。
隣の少年は兜甲児であるし、その周囲の少年たちは兜甲児の友人であるボスとヌケ、そしてムチャに似ている。
冷たい視線を送った長髪の麗しい少女は、弓さやかにそっくりだった。
なのでこれは自分の妄想の産物、つまりは夢だと確信できた。
周囲の人物たちは観測した物語の登場人物に似ていたが、雰囲気は異なる。
彼ら彼女らが纏う雰囲気は戦士のそれではなく、平和な世界に生きる一般人のそれである。
当然の帰結として、マジンガーZは存在しない。
兜甲児に似た少年の叫びを聞いた女教師の言葉を鑑みれば、アニメとしては存在するようだ。
どうせ夢なら、マジンガーZと兜甲児が主人公として存在している世界を観たかった。
と鹿目まどかは思った。
そう思うと寂しさが心を包み、身体は身支度を整えていた。
とはいえ元から荷物もなく、立ち上がって席を整えただけなのだが。
そしてその動作の中でも、周囲の人々は鹿目まどかに注意を払わなかった。
自分はここに存在しているが、認識されない存在なのだろうと思った。
寂しいと言えば淋しいが、この感覚には慣れている。というか元からそういう存在である。
それでも生徒たちの間を抜き脚差し足、忍び足でそろそろと歩く。
扉の前まで歩くと、最後に一礼して部屋を出た。
部屋を出る際、最後に兜甲児によく似た少年を観た。
彼もすでに着席していたが、困惑はまだ消えていないようだった。
彼の姿を見た鹿目まどかは、少し不思議な気分になった。
周囲が平凡な一般人となっているこの夢の中で、その少年だけは剣呑な戦士の雰囲気を纏っていた。
校舎の中を歩く間も、誰も鹿目まどかを認識しなかった。
高校と思しき場所の廊下を中学の制服を着て歩くのは、なんだか少し楽しかった。
そういえば高校という場所に入ったのは初めてだった。
少し探検してみようかな、と思いながら周囲を見る。
その時ふと、鹿目まどかの足が止まった。
「……?」
彼女自身も、何故足を止めたのか分からなかった。
視界の端、窓の外に何かが観えた気がした。
なので、前を向いていた顔を窓の方へと向けた。
「!!!???」
心臓が跳ね上がり、全身を熱い血液が駆け巡ったのを感じた。
全身に満ちた熱を起爆剤にするようにして、彼女は駆け出した。
廊下は走らないように、と言い聞かせられていた道徳心に心を少し痛めつつ、階段を降りる際はいっそ窓から飛び降りればよかったという後悔に苛まれていた。
校舎を抜け出て街路を走る。街角をドリフトじみた挙動で駆けたその先には広場があった。
そこには大勢の人が立ち並び、皆一様に上を見上げていた。
それは周囲の建物を圧する高さと幅を持っていた。その存在を見上げる人々の表情には驚嘆と、そして笑顔があった。
その存在とは
「マジンガーZ!!」
空に聳えるくろがねの城。
その言葉を体現するように泰然と聳える巨体は、まさにマジンガーZであった。
全身が鏡のように磨き上げられ、宝石の如く美しい光沢を放っている。
荒い息を吐きながら、それでいて陶然とした眼差しで鹿目まどかはそれを見上げていた。
感動に震える中、彼女は周囲を見渡した。
やはりというか、誰も彼もが彼女と似たような状況だった。
写真を撮るのも忘れ、ただその巨体に魅入っている。
それはまるで、宗教の偶像にさえ思えた。
それでも全くおかしくない、と鹿目まどかは思った。
何故ならマジンガーZは名前の示す通り、神である。
人々が夢中になってもなんにもおかしくない。そう思えてならなかった。
聳え立つ魔神の足元にある台座には、一分の一スケールであるという説明文が刻まれていた。
設定では確か18メートルだったと記憶しているが、眼の前の魔神像は30メートルほどもある。
二回り近い巨大化に、鹿目まどかはこの案を採用した担当者を内心で讃えた。
こういうものは、大きければ大きいほどいいに決まってる。
それに大幅な巨大化も、作中で幾度も回収と修理を施されているのだから違和感がない。
感嘆の感情は薄れず、彼女は聳え立つ威容を眺め続けた。
その時、背後で複数の人の気配がした。
振り返ると、兜甲児に似た少年が友人達と一緒にマジンガーZの巨体を見上げている。
歓喜する友人達に対し、少年はどこかピンとこない様子だった。
その様子は、周囲の者達が何故こうも熱狂するのか分からない。
と言った風に感じられた。
「………」
その様子を一瞥すると、彼女は思わずため息を吐いてしまった。
人の好みをとやかく言うつもりはない。何をどう思って行動しようが、人様の迷惑にならなければ自由である。
しかし、と彼女は思ってしまった。
内心では申し訳ないと思いながら、その少年が困惑している様子には待ったを掛けたかった。
あなただけは、この世の誰よりもマジンガーZが好きでなければいけないでしょうと。
呆れと失望に近い感情を持ちながら再び前を見た時、後ろから微かな声が聞こえた。
「すげぇって、確かにマジンガーはスゴイけど」
あの少年の声だとすぐに分かった。
そうそう、スゴイんだよ。観ての通り大きいの。私たちのロボットで、ヒーローなんだよ。
まるで自分の事のように誇らしげに、鹿目まどかはそう思った。
「今更驚くことないだろ」
その一言に、鹿目まどかは血が凍えるような感覚を抱いた。
流石にちょっと聞き捨てならない。
反抗期というものを経験した記憶すらない彼女であったが、この時の鹿目まどかはそれに近い反抗心を抱いていた。
せめて睨むぐらいはやってみようか。でも睨むってどうやるんだろう。
自分の善性により、敵ならともかく他者を攻撃する術に疎い鹿目まどかは迷っていた。
そうしていると、少年は再び口を開いた。
「いつも操縦して戦ってたんだからよ」
「(…?………!?!?)」
少年の言葉に、鹿目まどかの意識はそれを言葉として認識できなかった。
音として聞こえたそれを心と耳の奥で反芻し、やっと認識できた。
そうした時には、心の中はさざめきで満たされていた。
衝撃に体が動かない。
状況を整理しようと、脳と魂がフル稼働していくのを彼女は感じた。
いや、考えている場合じゃないと強引に体を動かした。
振り返った時、既にそこには少年の姿は無かった。
心臓はまだ高鳴っているが、幾分か落ち着いている。
すると少年が言葉を発してから、数分は経ったものと思われた。
少しずつ冷静になってきた脳を働かし、思考する。
考えてみれば、元より寝ぼけて授業中に叫んでいた少年の発言であるので妄言として切って捨てるのが正しいと思った。
だがそれでも、その言葉が嘘には思えなかったし思いたくなかった。
それほどに、彼の姿は兜甲児に似ていたのだった。
ここが自分の夢であるという自覚はある。
それでも、そこには確かに少年がいて、それは確かに兜甲児本人に思えた。
そんな彼は既にそこにはおらず、少年がいたと思しき場所には既に他の人々が集まっている。
そういえば、人々同士の間隔も随分と狭まってきていた。
名残惜しいけどそろそろ移動しようと思い、くろがねの魔神に別れの一瞥をしてから鹿目まどかは身を翻した。
人々の間を歩きつつ、その場所は大きな駅の近くだと気が付いた。
校舎の窓からマジンガーZの像を見た時は、心が沸騰し思うままに走っていたので気付かなかった。
思えば少しお腹が減った気がした。
駅前であれば、お店には事欠かないだろう。
誰にも認識されない自分が買い物が出来るのかは分からないが、それでも行くだけ行ってみよう。
そう思って駅前を眺めた。
思っていた通り、多種の飲食店や雑貨屋にアパレル店が見えた。
どれに行こうかなと思っていると、その中でも一際大きな店舗が見えた。
「!!」
見えた瞬間には走っていた。
空腹の様な感覚など、既に消し飛んでいた。
「はー…はー…はぁ…」
鹿目まどかは息を切らしていた。
走った距離は数百メートル程度だったが、短時間の間の二度の全力疾走は元より大した体力のない彼女にとっては酷だった。
それでも夢であるからか、苦痛はすぐに引いていった。
しかし、なおも心臓は高鳴っていた。
運動の負荷ではなく、興奮によって。
辿り着いた場所を見上げると、巨大な液晶画面があった。
そこに映っていたのは、両手を振り上げた雄々しい構えを取った魔神の姿があった。
ブレストファイヤーを放つポーズを取った、マジンガーZの威容が映し出されていた。
その下には『マジンガーショップ』と書かれ、見ている間にも人々が入っていく入り口の両サイドには、守護神のように等身大のマジンガーZの像が配置されている。
迷いもなく、鹿目まどかはその店内へと喜び勇んで入っていった。
無論、順番をちゃんと守りながら。
「…凄かった」
額に汗を浮かべ、机の椅子に座って天井を見上げながら鹿目まどかは呟いた。
喜び勇み入店した「マジンガーショップ」を離れて一時間ほど経過したというのに、未だに脳と心が痺れている。
それは自室に戻っても変わらなかった。
夢の世界とは便利なもので、頭の中で漠然と家について思い描けばすぐに自宅が発生した。
どのようにそこへと至り、その過程をどう歩いたかは覚えていないが問題ではなかった。
今は別の事に頭を使うべきだった。
椅子に座ったまま、首を背後へと傾けダラリと下げる。
逆さまになった視界には、当然逆さまの部屋が見える。
整理整頓がされた部屋であったが、今は大量の物品が並んでいた。
それは大量のDVDやCDであり、漫画に小説に設定資料集などだった。
それらは大量を通り越して、異常ともいえる数だった。
鹿目まどかの部屋は元々一人用として十分な広さがあったが、今は空間が延長されており、景観は変わらずとも広大な幅と奥行きを持っている。
それらの空間を埋め尽くすように、それらは並び敷き詰められているのだった。
そしてそれらの題材は、ただ一つ。
「マジンガーZ…!」
そう呟くと、鹿目まどかは手を伸ばした。
机の上にも大量の物品が置かれている。そのうちの一つを彼女は手に取った。
それはマジンガーZの映像作品だった。両手を掲げ、ブレストファイヤーを放つマジンガーZの勇壮な姿が描かれている。
だが、その表紙に刻印された数字は異常であった。
「最新、2003巻…!」
驚愕と歓喜が滲む声で鹿目まどかは呟いた。
そして少し前の記憶を思い出す。
あの「マジンガーショップ」には全てがあった。
映像作品はもとより、漫画に絵画にフィギュアにゲームなど。
人を楽しませる娯楽に満ちていた。
来店者は多かったが、互いに道を譲り合い混雑がトラブルになっていることもなかった。
売り切れたものはすぐに補充され、欲しい人の手に渡らないということはない。
転売という見苦しい行為も皆無だった。
人々の顔には笑顔があり、その場にいると気分がとても落ち着いた。
落ち着きつつ、心は弾んでいた。
何を買おう、そう思って彼女は一つの商品に手を伸ばした。
それが、鹿目まどかが今手にしている映像作品のケースだった。
触れた途端、それは形が二重にぶれた。
驚く間もなく、それは彼女がいつの間にか手に持っていた買い物バッグの中に入っていた。
あるか無いかの極薄の存在と化し、本物とは別に幻のようになって彼女の所有物となっていた。
奇妙な現象だったが、夢だからそういう補正が働いているのだろうと思った。
それからの事はあまりよく覚えていない。
ただ片っ端からマジンガーZのグッズに触れて、それら全てを収集したことと、その際に感じていた歓喜の感情を覚えている。
料金を支払っていない、という罪悪感はあったが、そのことについて誰も困る者はいない。
覚えている事の中に、山の様な金銀財宝を創造して店内に置いておいた、ということがあった。
ただそれは誰にも気付かれず、ただ光の塊となってその場に残っていた。
夢だからと割り切るようにしようと思ったが、その自責が消えるのはもう少しかかりそうだと思った。
その感情を忘れないようにしつつ、鹿目まどかは手に入れたものを机の上の端末にセットした。
全2003巻ある映像作品の中の第一巻目から、鹿目まどかは再びマジンガーZの視聴を開始した。
長い時が過ぎた。
全2500話に達する物語は一話を24分としても単純計算で1000時間にも及ぶ。
日に直せば42日ほどになる。
気が遠くなりそうな時間である筈だが、鹿目まどかには全く以て苦ではなかった。
時を超えた存在であるために、時間の経過に対する負荷が希薄であった。
そもそも負担ですらなかった。
92話で終えた物語が、この世界では延々と続いている。
そう、最終回に至っていないのである。
マジンガーZは放送開始から40年を経ても最終回に至らず、その上で並行して多種のスピンオフ作品が創られ続けているのだった。
放送済みの本編を観終えてから、彼女は派生作品の履修に取り掛かった。
夥しい時間が過ぎたが、それは彼女にとって一瞬に過ぎなかった。
映像作品を観終えた後は、今度は書物を手に取った。
こちらもまた、マジンガーZの関連書籍を数千冊は入手していた。
しかもこれは店頭にあった分だけであり、その他にも無数に存在している。
漫画や小説、絵本はもとより、経済学や心理学に、また当然というべきかロボット工学にも及んでいた。
鹿目まどかは、それらを貪るように読み漁った。
頭と魂の中を既知であり未知の物語と知識が乱舞する。
その感覚に、彼女は大きな満足感を覚えた。
物語が面白い、というのが満足感の大部分であったが、それ以外の要素もあった。
それは、ある存在の不在であった。
「グレートマジンガー…」
複雑な想いを抱いて、鹿目まどかはその名を呟いた。
その脳裏には、先鋭的な機械の魔神の姿が浮かぶ。
偉大な勇者を名乗るその存在は、マジンガーZが苦戦、或いは手も足も出ずに完敗を喫した相手を完膚なきまでに叩き潰した。
その様は圧巻であり、思わず見ていて高揚した。
だがそれ以上に、この存在は脅威に思えた。
自分が好きになった世界を終らせ、新たな世界の主役となる存在。
立場的にはマジンガーZの味方なのは間違いないが、それはグレートの物語を紡ぐためにZの世界を破壊する存在でもあった。
最終回を迎えた作品が、次の主役に物語を繋げる。
それは物語としては正しいし、繋がるという事は完全な終わりでもない。
マジンガーZは確かに敗北したが、それでも世界を次の主役に繋いだ。
つまりは世界を守り通した証明でもあり、これは敗北ではなく勝利といっても過言ではない。
しかし、しかしそれでも、自分が見たい世界はこれではないという考えが渦を巻く。
本当ならグレートの事も否定したくはない。
否定したくはないのだが、どうにもあの終わり方が納得できない。
主人公が主人公を全うできずに終わる物語などは。
「…えいっ」
そう思ったあたりで、鹿目まどかは小さな手で自分の両頬を軽く叩いた。
ぺちっという音が小さく鳴った。手が頬に与えた衝撃は、蚊に直撃しても生存を赦しそうなほど非力だった。
「いったぁ…」
それでも鹿目まどかにとってそれは痛打であり、意識を覚醒させることに役立った。
ループに陥りかけた思考が途切れ、また動き出す。
自分が抱いている「解釈違い」という思考は、少なくとも今は気にしなくていい事柄であると思い直した。
何故なら、今日手に入った限りの映像作品や書籍の中に、「グレートマジンガー」は存在していなかった。
マジンガーZと兜甲児は唯一無二の主人公であり続け、主役を全う出来ていた。
これが世界の正しい姿。
鹿目まどかはそう思った。
だからこそやはり、この世界は夢なのだと思った。
これは自分の願望が生んだ世界であり、虚構に過ぎない。
夢の原型となったのはマジンガーZの物語と、自分が生み出した概念の世界。
それらが自分の頭の中で交じり合い、この夢の世界になったのだろうと思った。
それはとても素敵な事で、そして淋しい事だと思った。
夢は何時か醒める。それが良いものでも悪いものでも。
夢があるから人は生きていけるのだし、人は生きているから、夢は醒める。
この世界もいつかは終わる。そのいつかは、そう遠くはないと思った。
溜息を吐きかけたが、息を吸っただけで留めた。空しさが増すだけだと思ったからだ。
名残惜しさを持ちつつ、鹿目まどかは机の上に置かれた端末を操作した。端末に手を添えているだけで、世界の様子が伝わってきた。
夢の世界の中は、やはり夢のように平和な世界だった。
犯罪のニュースは皆無であり、世界の何処にも戦争はない。
災害があったのならば、国の垣根を越えて助け合い、また何かの問題があっても国同士が協力し合って解決していた。
それは国同士のスケールだけではなく、地域や個人間でも同様だった。
争いが起こりそうになっても、話し合いで解決している。いじめなどのトラブルもない。
法律で強制されているのではなく、人々が自分達の意思で考えて行動し、その結果平和が世界の隅々まで行き渡っている事が分かった。
誰もが他者の事を思って行動し、誰もが見捨てられず明日に希望を抱いて生きられる世界。
完全で完璧な理想郷が、この夢の世界だった。
それは自分が生み出した、少女達の楽園ですら未だ及ばない境地に思えた。
そして世界を読み取っていった先に、何故この世界に平和が行き渡ったかが分かった。
世界がそういう風に変わったのは、1970年代のある日からのことだった。
とある漫画家が、その天才によって生み出したキャラクター。 そのキャラクターを主役とした物語が世に出てから、この世界は少しずつ平和になっていった。
そのキャラクターの名前とは。
「マジンガーZ」
厳かに、鹿目まどかはその名前を口にした。
神である鹿目まどかからしても、それは神に思えた。
曖昧な意味ではなく、真なる意味でマジンガーZは神として人々の世界に存在し、世界に平和をもたらしていた。
物語の中で描かれる正義という概念が、人々の意識を優しく気高いものに変えていったのだろうと思った。
この世界が永遠に続けばいい。
鹿目まどかはそう思った。それが例え、自分の妄想の世界で在ったとしても。
夢の主である自分が今ここにいる限り、この世界は続くのだからと。
そう思った時、より殊更に、この夢を終らせたくはなかった。
怖い夢を見て、早く目覚めたいと思った事はある。
しかし、目覚めることが怖くなる日が来るとは思わなかった。
そう思っていた時、端末の中で、いや、世界の中で異変があった。
平和な世界の情報が行き交う電子の世界が、急にざわめき始めたのだった。
何事かと思い、端末に触れる指先に意識を集中させる。
戦争や犯罪の類ではなかった。
だが指先から伝わってきたのは、阿鼻叫喚とでも言うべき感情の波濤だった。
それに圧倒されながらも、鹿目まどかはその根源を探った。
そして見つけた。
認識の瞬間、彼女は絶句した。
それは一つの、自主製作のアニメ映画だった。
「…嘘」
声を絞り出せたのは、数分も経っての事だった。
指先は、寒さに震えるがごとく痙攣していた。端末からはなおも、世界に渦巻く混乱の感情が伝わっている。
「『マジンガーZ vs 暗黒大将軍』………!?」
声を上擦らせながら、鹿目まどかは電子の世界に放たれた作品の名前を口にした。
それこそが、この完全平和な世界を乱している根源だった。
なんで、どうして、という感情が彼女の中を駆け巡る。
その想いに続き、世界の中で生じた他者の感情が彼女の思考に流れ込んだ。
『呆れる。今までのマジンガーZの感動が台無しだ』
『マジンガーZを汚すな』
『なんだこの素人脚本は』
数々の悪罵に嘆きが鹿目まどかの思考を巡る。
そのいくつかは、少なくとも嘆きに関しては彼女も同様だった。
悪罵に至らないのは、彼女が心優しき存在であるからだろう。
だがそれでも
『世界を壊すな』
この思いに関しては、完全に同意せざるを得なかった。
世界が壊れる。
その作品を観ていなくても、その言葉だけで全てが分かった。
それは、この世界にあってはならない。
誰もがマジンガーZを敬愛しているこの世界で、その存在はあってはあらない。
そう感じた時、新たなものが電子の世界を巡った。
それは無数の光だった。
「!?」
鹿目まどかは驚愕に胸を貫かれた。
電子の世界を駆け巡る光は、文字でありイラストであり、映像だった。
それは、それらは無数の物語だった。
まだ書きかけ曖昧で朧げな、形を成していない不定形のものもあった。
それらの物語の主人公は、マジンガーZと兜甲児ではなかった。
それら新しい物語の主人公は少年であり少女であり、成人であり老人であり、または人間ですらなかった。
彼ら彼女らには共通点があった。
機械で出来た巨体に乗り込み、戦う者達。
それらが電子の世界の中で、夥しい数を為して発生していた。
多くの物語の主人公をマジンガーZが担うこの世界において、それは大いなる叛逆に思えた。
「あ…ああ…」
鹿目まどかは呆然とした声を出した。
頭の中は、これまで存在してきた中でも前例があまりないほどの混乱の極みにあった。
「や、やめて………お願い!やめて!世界を…この世界を…」
端末に縋りつき、哀願する。
自分の狼狽と焦燥感は普通ではない。
そう思ってはいても、理性を感情が上回っていた。
「夢を…夢を終らせないで!!」
まるで我が身のことであるかのように、鹿目まどかは必死の祈りと叫びを放った。
しかし無情にも、夢の世界の中で数多の物語が生まれていく。
初期に生まれた物語を参考にしてまた新たな世界が、そしてまた新しいものがと、光の物語は止め処なく溢れていく。
それは、長きに渡るマジンガーZの神話を塗り潰していくかのようだった。
そしてそれは、彼女の視界にも表れていた。
目で見える物が、急速に色を無くしていく。
色彩が希薄化していく中、端末の中を駆け巡る光はやがて、無色となった画面を飛び出し彼女の周囲を雪崩れか洪水のように、または繭のように覆っていった。
抗うことも出来ず、彼女はその中に呑まれていった。
「そん…な……誰か、誰か、助けて…!」
光に圧倒されながら、鹿目まどかは叫んだ。
だが声は光に覆われ、その外には届かない。
彼女の叫びは誰にも聴こえず、誰も答えない。
鹿目まどかは、光の中に沈んでいった。
その時だった。
―――愚カナオコナイダ
声が聞こえた。
というよりも、文字が見えた。
それは自分を覆う光よりも煌々と輝く、光の文字だった。
―――でりーとスルマデノコト
冷淡で苛烈な意思を、鹿目まどかはその文字から感じ取った。
全ての文字を認識した時、彼女は意識を失った。