「…あの、今更ですが本当にやるんですか?」
「無論よ。でも、安全策は講じるわ」
立ち並ぶ建物の影、薄闇の中で二人の少女が言葉を交わしていた。
一人は従者で、もう一人はその主である。
先に声を発した者の声には不安が滲んでいた。
「安全策、ですか。それが」
「ええ。知り合いに見つかったら厄介だもの」
それに相反するように、応えた少女の声には自信があった。
カチャリという音が静かに鳴った。それが彼女曰くの『安全策』だった。
その様子を数秒眺め、
「御武運を」
と従者の少女は言った。主は頷き、薄闇の奥へと消えていった。
その後ろ姿を、従者はずっと眺めていた。その視線に宿る不安は、終ぞ拭えることが無かった。
「…はぁ」
溜息の様な声を出し、鹿目まどかは自販機から飲み物を取り出した。
プルタブを開け、一気に飲み干す。
飲み終えてから、顔をしかめた。
時の概念が希薄な高次元存在となったが、味覚は人間の時と変わらない。
なので、ブラックコーヒーの味は旨味よりも苦味を強く感じてしまう。
幼い味覚について、彼女は脳内でそう言い訳した。
苦味を摂取すると、思考がクリアになってきた。
先ほど観た夢の世界の光景が、脳内に再び紡がれる。
あのまま眠り続けても良かった、という誘惑が滲むくらい、あの世界は素晴らしいものだと思えた。
マジンガーZが永遠の存在として人々に愛されている、というのも素晴らしいのだが、あの世界には真の平和があった。
思い悩みつつも、少しでも良い結果を出すために誰もが努力し、そして互いに手を差し伸べ合う世界。
明日に希望を抱き、英雄の理想像とでもいうべきマジンガーZと兜甲児の活躍に胸を躍らせ、そのように自らも生きるべしと心に誓って誰もが生きている。
強制されたのではなく、自らの意思でそう選んで生き、世界がより良い方向へと向かっていく。
あれこそが世界の理想像。鹿目まどかにはそう思えた。
しかし、その世界が壊れていく姿を彼女は見た。
何処の馬の骨かも分からない者が製作した自主製作映画。
『マジンガーZvs暗黒大将軍』を発端として、世界には無数の作品が発生した。
それはその世界で神にも等しい存在となっているマジンガーZの存在を脅かすような存在に思えた。
無数の作品に押し流され、マジンガーZが忘れ去られていく。
そんな光景を見たわけではないが、いずれそうなるような気がした。
世界が壊れる。
彼女はそう思った。
あれは自分の夢の中の出来事であり、妄想に過ぎないと分かっているが、だからこそ気が重かった。
あの世界は自分から生まれ、そして自分が壊したように思えてならなかった。
「…うう………」
夢の光景を思い浮かべると、口内に残っていた苦味は、より濃厚になって蘇った気がした。
思わず、缶を握る手に力を籠めた。
全くとして、缶の形は変わらなかった。
自分の非力さに、口内の苦みは更に増した。
ああ、そうか。
ふと彼女は納得した。
自分が弱いから、こうなったんだ。彼女はそう思った。
あそこで意識を無くしたから、「自分が観た夢」という物語は終わってしまった。
目が覚めたら終わる物語だったとしても、終わり方というものがある。
あれは良くない終わり方だった。
そもそも、最後まで観る事が出来なかった。
自分は負けたのだと、鹿目まどかは思った。
強引な理論であるとは分かっている。だからさっきと同じように、だからこそ気が重かった。
口の中の苦みは刻一刻と増しているようだった。
とりあえずこれを拭おうと思った時、缶を握る右手と反対側の左手が柔らかい質感を捉えた。
ここは鹿目まどかの創造した世界なので、無から有を生み出すことは簡単だった。
その生み出したものとは。
「アンパン?」
顔の前に持ってきてから、鹿目まどかは疑問の声を発した。
「甘いもの」と自分は望み、その結果がこれだった。
間違ってはいない。だが奇妙だった。
アンパンは別に嫌いではないが、格段に好きというわけでもない。甘いものならケーキのほうが好きである。
「…はむっ」
とはいえである。自分が生み出したものなのだから、無意識的にでもこの味を求めてるのだと感じ、思いっきり齧り付いた。
米粒の様な歯が柔らかい生地を破り、中の餡子が甘みと共に口内に広がる。
舌先はパンの上に掛けられた胡麻の質感と香ばしさを捉えた。それが口の中に広がっていた苦味を押し流していく。
アンパンも悪くない。むしろとても良いと彼女は思った。
そして気が付くと食べ終えていた。程よい満腹感に幸せを感じた時、彼女の口は動いていた。
「アンパン」
今摂取した食物の名前を口ずさむ。鹿目まどかは自らの行為に疑問を抱いた。
「餡子。あんこ」
自分は何を言っているのか。ひょっとしたら、音読みにすればその発音になる魔法少女の事を考えたのかもしれない。
だが思考の中には彼女はいない。ただ代わりに、ノイズのように何かが奔っている。
「あんこ、あんこ…あんこを、たべる」
喃語のように繰り返していくと、その原因が分かってきた。
決定的になったのは、「食べる」という言葉の別の表現である。
これまで生きてきて、一度も使った言葉ではないので連想までに時間が掛かったのだった。
「食べる」ではなく「食う」である。
「あんこ…くう……?」
口の中で餡子を転がしながら鹿目まどかは首を傾げる。
友達の少女の名前の訓読みが、そうなることを思い出していた。きっと彼女もアンパンは好きだろうと思った。
だがその思考を、ノイズじみた感覚が塗り潰した。
「あん、こく…………暗黒!?」
その瞬間、彼女の心に稲妻が奔った。それは、怒りの光であった。
「暗黒大将軍…!!!!」
ぺこん、という音が彼女の右手から生じた。
それは怒りと共に握られた缶が経こみ、そして戻る音だった。
普通なら缶を握り潰すのだろうが、彼女は非力だった。
しかしそれでも、その行為は彼女の怒りを示していた。
「~~~~!!!!」
声にならない声を挙げる鹿目まどか。
今は夜であり、騒ぐの迷惑だからよくないといった常識的な思考が彼女の叫びを押し留めている。
空を見上げると、半月となった月が見えた。
三日月ではなく、新円の右半分が消えた月だった。
それが見えた時、ガタンという音が聴こえた。
それは先ほど自分も聞いた音だった。
音の方向へ視線を送ると、少し離れた場所に並ぶ自販機の前に人影が見えた。
こちらに背を向けたその姿には見覚えがあった。
翼のように長く伸びた黒髪に、どこか制服を彷彿とさせる衣装。
見間違えようもない。
自分が「最高のお友達」と称した存在だった。
「ほむらちゃ」
鹿目まどかが名を言い終える寸前、その存在は振り返った。
そして目にしたものが、彼女の言葉と思考を途絶させた。
「驚かしてごめんなさい。でも私は」
その声はくぐもっていた。その顔は仮面で覆われていたからだ。
「この世界では、私は貴女達の敵だから」
悲哀に彩られた声と言葉は鹿目まどかへと届いている。
彼女が哀しみ、苦悩している事が分かる。
その思いはしっかりと伝わっている。
だが、しかし、という思いがこみ上げてくる。
その原因は、少女が被った仮面にあった。
それを前に、鹿目まどかは言葉を失っていた。
沈黙が流れた。仮面の少女はそれを打破すべく言葉を紡いだ。
「ええと、どう、かしら。結構良く出来たと思うのだけど」
そう言って少女は仮面に手を這わせた。
繊手の先が触れたのは武骨な鉄の隆起。
武骨であり先鋭的でもあるそのデザインに、鹿目まどかは見覚えがあった。
「…グレート……マジンガー………」
震える声で名前を紡いだ。それは呪詛にも似ていた。
「そう…そうなのよ!」
仮面の少女の声に鹿目まどかはびくっと震えた。それは恐怖によるものだった。
仮面の少女はそれを感嘆の震えと受け取った。視界はそれほど良いものではないらしい。
「先に話しておくと、あなたの思考と繋がって色々な世界を見たわ。その中で、私はこの存在を知ったの」
感嘆の声で、少女は恭しい手つきで仮面に触れる。それはまるで、珠玉の芸術品に触れるかのようだった。
「主人公の窮地に颯爽と現れ、圧倒的な力で敵を駆逐する……本当に、名前の通り偉大な勇者だわ」
違う。と鹿目まどかは思った。
違くはないし正しいのだが、問題はその結末である。
自分が望んでいたのはあの終わり方ではない。
少女の語る偉大な勇者とは、鹿目まどかにとっては世界の破壊者に他ならなかった。
主人公という存在、ここで言えばマジンガーZを物語の中の神として捉えるなら、グレートマジンガーとは神の摂理を壊し世界を蹂躙する者に他ならない。
「私とは大違いの存在ね。だって私は」
その存在を評するのなら、その名前とは。
「悪魔だもの」
仮面の少女がそう告げた時、鹿目まどかの中で何かが切れた。
鹿目まどかは自分の頭の中で「プチりん」という音を聞いた気がした。
その瞬間、彼女の体は動いていた。
性格に暴力的な傾向が少しでもあれば、仮面の少女を殴打していたかもしれない。
その傾向が更に高ければ、首を締めるという選択肢もあっただろう。
しかし、鹿目まどかは暴力とは縁遠かった。
戦うということは決めていたが、殴ったり蹴ったりはしたくないし首を締めるなんてもっての外だった。
それでも体の奥からは衝動が湧き上がってくる。
それは怒りではなかった。
ただ、衝動という他の無い感情の爆発が起きた。
彼女の体は、その衝動に突き動かされた。
「まどか!?」
仮面の少女が叫んだ。その身体は、鹿目まどかに抱かれていた。
地面を蹴って跳び、正面からぎゅっと抱き締める。
体重は軽いが速度が乗せられた体の全力と、完全な不意打ちであった為に仮面の少女は彼女を受け止められずに後ろに倒れた。
「え、ちょっと!?」
体が傾いた先は緩やかな傾斜となっていた。
少し前は街並みだったはずが、鹿目まどかと接触した途端に世界が変容したのだった。
少しの間、浮遊感を味わった後に仮面の少女の背が地面に触れた。
ふわっとした、スポンジ生地の様な感触がした。
痛みはなく衝撃もない。
だが止まる術もなく傾斜を転がり続ける。
「まどかぁぁぁああ!?」
叫びながら、少女は仮面越しに回転する世界を観た。
欠けた月の浮かぶ夜空の下に、闇の帳の降りた街並みが広がっているのが見えた。
転がり落ちていく斜面には、無数の彼岸花が咲き誇っていた。
この光景には既視感があり、これを見た時にも鹿目まどかと一緒だったことが思い出された。
だが、今の雰囲気とは全く違う。
あの時はもっと切羽詰まっていて、心が苦しくて張り裂けそうな時だった。
今は…いや、今も確かに似たような気分だが矛先が違う。
そしてその感情をどうにかするために、自分はここに来たのだった。
しかし今はこの現状をどうにかすべきであった。
体を絡ませながらゴロゴロと転がっているが、地面は羽毛かスポンジのように柔らかく苦痛は無い。
恐らく落ち切ってもふんわりと受け止められ、損傷などは一切ないと思われた。
むしろ抱き合っている今の状態はとても心地よい。
このまま時間が止まればいい。世界はここで終わっていい。
そんな気分さえ浮かんでいた。
懸念すべきことはただ一つだった。
接触したら相手を傷付けそうな場所が一つだけある。
そう気付いた時には、相手の顔が前にあった。硬い仮面と柔らかい肌の顔との接触ではなく激突になる。
危惧した時、鹿目まどかの顔が何かに覆われた、と見えた瞬間に號という音が鳴り響いた。
顔同士が激突し、衝撃が互いを弾き飛ばした。
ころっと転がり、仰向けになった。
隣同士になり、夜空を見上げる。
こういう風に並ぶ事には覚えがあり、思えばこれが全ての始まりだった。
崩壊した街で雨が降る中、瀕死になりながら互いに並んでいた。
「は…」
でも今は違う。それは遠い過去であり、消え去った事象であり紛れもない事実であった。
「はは、ははははは」
過去の事象を思い出しつつ、二人は今の現状がおかしくなってきた。
そう思った時、感情は声となって口から出ていた。
「ははは!ははははは!っは、アハハハハハ!」
何をやっているんだろうと思いつつ、喉を震わせて笑った。
その笑い声はくぐもっていた。二人は同時に、顔に被さっている仮面を外した。
鹿目まどかもまた、仮面を被っていた。
当然というべきか、それはマジンガーZの仮面だった。相手がグレートなら、対抗するにはこれしかないと思ったのだろう。
二人は恭しい手つきでそれぞれの仮面を外すと自分の胸の上にそれを置き、横を向いて互いの顔を見た。
改めて確認するまでもなく、仮面の少女は暁美ほむらだった。
声に出さず、視線で意思を交わす。
『お久しぶり。ほむらちゃん』
『お久しぶり。まどか』
意思を交わすと、互いにぷっと噴出した。
なんだか気恥ずかしくなり、頬が赤く染まる。
恥ずかしいから、それがおかしくて笑った。薄い腹筋が痛くなるまで、二人は笑い続けた。
楽しい、と二人は思った。
こんなことをやっている場合ではない気がするし、そんな間柄ではない気もする。
でも今は、ただひたすらに笑いたかった。
そんな中、笑い声以外のものが聞こえた。
それは地面を乱暴に踏みしめて、ずかずかと進んでいく足音だった。
そしてその音は、両者に近付いていった。
「シャアラァァァアアップ!!!!!!」
二人の笑い声を引き裂くような咆哮が上がった。
怒りと傲慢さに満ちたその声には、独特のイントネーションがあった。
声が発せられた方向へと、二人の少女は顔を向けた。
視線の先にいたのは、毒々しさと軍服めいた嗜好が施された衣装の少女だった。
「ガキ女神に叛逆デビル、今何時だと思ってるノ?近所迷惑なんですケド」
毒が滴るようなキューブを手に持った少女は、不機嫌さと怒りの一切を隠さない傲慢さに満ちた問い掛けを放った。
それを受けて、鹿目まどかと暁美ほむらは同時に顔を見合わせた。
不思議な事に、両者の顔に困惑は無かった。
むしろ納得というか、丁度良いとでもいうような表情があった。
この二人の少女は、少なくとも暁美ほむらの方は、この魔法少女に用事があって円環の理に赴いたのであった。
世の果てに来てもなお、異界の美を追求する魔法少女。
『アリナ・グレイ』の元へと。