暗黒の中で、光輝く巨大な闇があった。
闇からは無数の小さな光が溢れていった。
巨大な闇に対し、それらはあまりにも小さかった。だがしかし、その数は膨大に過ぎていた。
十重二十重に、闇は光に取り囲まれた。そして光の大群は、一斉に光を放った。
それは元の光の大きさよりも巨大な、凄絶な光の奔流だった。
一つ一つに、対象物を確実に滅するという意思と威力が込められていた。
『遍く必殺』、とでも呼べる現象だろうか。
遍く光の形は様々だった。迸る閃光のものもあれば、巨大な大渦もあり、または日輪と三日月を思わせる形状の破壊光であったり。
電磁を纏っての斬撃や光自体が形を変えての突撃や強烈な蹴りであったり、更には槍と思しき形状であったりと、その様相は様々だった。
殺到する無数の光の奥に、一際強く輝く二つの光があった。
その二つもまた光を放った。一つは闇を打ち砕く雷撃であり、もう一つは闇を切り裂く二条の閃光だった。
遍く必殺たちは、巨大な闇へと炸裂した。
闇の輪郭が崩れ、崩壊していく。その間にも、闇は内側から数多の光を生み出していった。
新たな光たちもまた、破壊の光を闇へと放った。
為すすべもなく、闇は崩壊の一途を辿った。
その中で、闇は問うた。
これで良いのかと。敗北が私の末路であるのかと。
問われたものは答えた。
この光はお前から生まれたのだと。
だからお前は負けたんじゃない。
『勝ったんだ』
二条の閃光を放った光の中、それを操る少年はそう断言した。その言葉に、闇は周囲を見渡した。
既に眼の一つは砕け散っている。残る左眼で、闇は自らを破壊していく数多の光を見た。
自らそのものであるとされた光に、闇は微笑んだように見えた。
闇は既に、闇ではなかった。
崩壊寸前の、辛うじて原型を留めていた姿が刻一刻と壊れていく。
かつて数多の世界を焼き尽くした超高熱を放った放熱板。
夥しい死と破滅を撒き散らした、神の息吹を放つ異形の口顎。
鋼の武人を砕け散らせた剛腕。
創造主をも踏み潰した剛脚。
偉大な勇者を切り裂いた鋼の刃。
そして、円環を表す真紅の翼。
そのどれもが、まるで虫食いのように穴だらけとなっている。
しかしながら、髑髏を模した鉄仮面の様な、悍ましささえ覚える異貌には苦痛ではなく安堵の穏やかさがあった。
そこには自分という個体以外の存在を良しとせず、万物に対して抱いていた絶望は無かった。
自らから生まれていく可能性を認め、これから生まれるであろう無限無窮の新たな世界への希望があった。
その時、崩壊していく巨体からまた新たに一つの光が生まれた。
それはあまりにもか弱く、そして華奢な光だった。
周囲の光にも個体差があり、その開きは大きかったが、その中でもその光は異常とも思えるほどに小さかった。
それまでで最も小さかった光が開いた掌に乗ってしまうような、そんな大きさだった。
小さな光は、無数の光の間を縫って飛んでいた。細い胴体と手足を懸命に動かしているその様は、生まれた喜びか、或いは必死さゆえのもがきか。
その光は、薄い桃色を発していた。そしてやがて、崩壊していく巨体の前に辿り着いた。
そこは、光の生みの親の顔が存在していた場所だった。
既に原型を留めておらず、城塞の様な頭部に嵌っていた深紅の頭脳も千々と砕けていくところだった。
それを前に、小さき光もまた己の光を輝かせた。
それは、弓矢の形をしていた。
構えた時に、桃色の光に変化が生じた。
体全体が光に包まれ、その中で形を変えていく。
背面からは、一対の輝く何かが生まれた。髪のような光は流れる水のように一気に伸びた。
そしてその変化が終わらぬ内に、桃色の光は矢を放った。
それが、最後の『遍く必殺』であった。
最後に残った一つの欠片を、桃色の鏃が撃ち抜いた。鏃と欠片は同時に砕けた。
その瞬間、光が全てを包み込んだ。
闇で覆われていた世界の隅から隅まで、煌々たる輝きが行き渡る。
どのくらいの時間が過ぎただろうか。
世界を覆っていた光の沙膜が、ゆっくりと消えていく。
その後には闇と、闇の中で輝く無数の光が残った。
そしてそれは宇宙と呼ばれ、広大な世界を埋め尽くさんばかりに広がっていった。宇宙の拡大は止まらず、今もなお続いている。
それは閉じ込められていた可能性達が、自らの誕生を祝い、歓喜に狂っているかのようだった。
無様に這いずれ、のたうち回れ。
かつて遠い場所で、そんな言葉が発せられた。
少女の現状は、正にそれだった。
横たわり、両腕で体を抱き、細い足をバタバタと激しく動かしている。
閉じられていた最悪の記憶を思い出し、それが少女の心と意識を切り刻んでいた。
その他に、その最悪の記憶の奥に少女は何かを感じていた。
それはいつか、夢の中で見た光景だったのだろうか。それにしては全ての感覚が生々しい。
だがその感覚とは何だろう。何を思って何に対してそう思ったのか。
その思考は、地獄の体験によって塗りつぶされ、時折ふっと思考の波の合間に思い出される程度になっていた。
その傍らに、その少女と同じ姿の存在が片膝を着いていた。その表情はまるで能面のような無表情だった。まるで、機能を停止しているかのようだった。
それは眼の前で苦しむ少女に対する無関心であるというよりも、何をすべきか分からない、という風に見えた。
震える少女に向けて、ゆっくりと右手が伸ばされていた。
しかしそれは触れる寸前で停止し、美しい形の彫像となっている。
触れた結果を恐れているような、更に苦痛を与えるのではないかと思っているような、壊してしまわないかと躊躇しているようだった。
それでも手は動いた。伸ばされた場所は少女の背中。
死んだ海老のように無惨に沿った背を擦ろうと、黒いロングシャツに覆われた手が伸びる。
しかし触れる前に、相手の方から触れてきた。
最初は拒絶だと思った。だが苦痛に呻く少女は、鹿目まどかはもう一人の自分の手を取った。
少女の非力な力で、それでも必死に力を込めて強く握る。震えが止まらない足で立ち上がる。
立ち上がった反動で、細い体が大きく震えた。
今の自分には、骨もあり肉もある。ただ、その実感が希薄だった。
体の中にちゃんとそれらが入っているのか、今の彼女にはそれが疑わしかった。
立ち上がるには、身を支える柱が欲しかった。
倒れ込みつつ、鹿目まどかはもう一人の自分を抱きしめた。
もう一人の自分、マドカは小動もせずに鹿目まどかを受け止めた。
激突に近い状況だったが、反動による衝撃も痛みもない。
鹿目まどかは荒い息を吐きつつマドカを見た。
気を失う前にマドカに施していたアイラインは、倒れる際に目に触れたことで指が触れた形に乱れていた。
今のマドカは、眼から血の涙を流しているような姿となっていた。
表情は無表情であったが、彼女には相手が何も考えていないとは思えなかった。
泣きたいのに泣けないというか、泣き方を知らないというか。
例えるのなら、機械が泣くことがないように、とでもいうような。
何を言っているんだろうと鹿目まどかは思った。
機械であるはずがない、というのではなかった。
仮にそうだとしてなんだというのだと彼女は思った。
大事なのはこの存在が味方であり、何処の誰かも知らないが、自分の為に来てくれたという事だけだった。
そう思い直すが、相手の事を見下したというか、疑ったという思考が彼女を苛んだ。
繊細で、優しすぎる少女だった。
それが契機になったのだろう。今まで受けてきた暴虐の記憶が一斉に彼女の心に牙と爪を立て、毒々しい負の感情が白く美しい心の中で溢れかえった。
電撃を受けたように白目を向き、細い体が折れそうなほどに体を反らせる。
体を電気で焼かれた拷問の回数は比較的少なかったが、それでも億を下回ってはいないはずだった。
それだけ苦しめられても、苦痛には慣れなかった。上を仰ぎ見ていた口の中で、何かが溢れ出す。
「我慢しなくていい」
マドカの声がした。だみ声ではなく、抑揚を抑えた低い声だった。
自分の声と分かるが、今までで一度も出した事の無い声を聞いた。
「全て、吐き出すといい」
声の高低と声の質感は、かつて聞いたものの声に似ていた。かつて自分はその存在を母と呼んでいた。
それが安堵感を生んだのか、鹿目まどかはその言葉に従うように顔を前に倒した。
その瞬間、しまったと思った。
「私に構うな。吐け」
命令口調は不思議と優しく感じられた。
従うというよりも、そこで限界が来た。
内奥から込みあがってくるものを抑えることを、鹿目まどかはやめた。
傾けた口からは、黒い液体が、いや、塊が溢れた。
どろんとしたそれはスライムの様であり、または餡子のような無数の粒の集合体でもあった。
『闇』という表現が正しそうな存在だった。
表面からは闇の粒子か、瘴気とでもいうようなものが立ち昇っている。
少女の口からはそれが吐き出された。少女から生まれた闇は、その少女と同じ姿の存在の胸へと降り掛かった。
マドカは僅かに後退した。吐しゃ物を避ける為ではなく、自らにぶつかったそれが、鹿目まどかを汚すまいとするためである。
離れた事を察し、鹿目まどかはびくっと震えた。
「私は何処にも行かない。貴女の全てを受け止める」
静かで強い口調だった。決して背いてはならない、絶対の法を告げるかのような。マドカのこの言葉は、誓約だったのだろう。
鹿目まどかは再び口を開いた。黒いシャツで覆われたマドカの胸が、見る見るうちに闇に染まっていく。
闇は地面に落下し、そして煙のように立ち昇っていく。
鹿目まどかの嘔吐は止まらず、マドカも闇に染まっていく。
震える鹿目まどかの背を、マドカの右手が支えた。残る左手も後を追う。
距離は少しあるが、抱き抱える形となっている。
「不愉快であったら、すまない。言い訳になってしまうが、私はこういう事に慣れてはいない」
吐きながら、鹿目まどかは小さく首を左右に振った。
不快さは無かった。むしろ、どこか懐かしさがあった。
母に抱かれている、というのに近いが、それとも違う。
不思議な感覚は、少しだけであったが彼女を癒していた。
鹿目まどかは自ら近づき、マドカの胸に顔を埋めた。シャツを隔てた先に、鼓動が聞こえた。
それは心音とは異なるものに思えた。しかし今は構わなかったし、気にしてもいられなかった。
闇の嘔吐はいまだ止まる気配を見せない。
既に鹿目まどかの体積を大きく上回る闇が、彼女の中から吐き出されている。
落ちた闇は地面に落ち、その上を覆うように広がっていく。広がった闇は、まるで樹木のように上空へ向かって伸びていった。
マドカはその様子をじっと見つめた。そして、鹿目まどかの背を撫でていた右手で彼女の後頭部を支えた。
「もう一度言う。不愉快であったら」
言っている間に、鹿目まどかは首を振った。額が胸の上で擦れる感触で、マドカはそれを知った。
その間、マドカの視線は上空から離れなかった。立ち昇っていく闇が幾重にも重なり、形を成していく。
その大きさは、どこまで広がっているかも分からない、広大な空間を埋め尽くさんばかりであった。
超巨大な大渦、または大山脈、または無数の繊維の集合体。
そのどれもが正しいと言った風の異形が、鹿目まどかから吐き出されている闇から生まれた。
果てしなき大きさのその頂点には、天を仰ぐ腕を掲げた闇色の人の姿があった。
「………ああ、これが」
マドカが呟いた。悲哀と、そして感嘆が混じった声に聞こえた。
そして、マドカは息を吸った。大きくではない。
ただ人間が、日常で行う程度の呼吸であった。
つまりは、意識しない程度の微細なもの。この時まで、マドカは息を吸っていなかった。
息を吸うと、マドカは鹿目まどかの後頭部を支えている手の指を開いた。そしてほんの少しだけ、既に彼女が顔を埋めている自分の胸に、更に彼女を引き寄せる。
それはこれから起こることから、彼女を守るためだった。
異形からではなく、自らの行動の結果から。
マドカは可愛らしい唇を少し尖らせ、少しだけ息を吐いた。吐息よりも気持ち少しだけ多いといった呼吸量だった。
声ではなく、その言葉は思念で紡がれた。
鹿目まどかは、それを感じる事が出来た。ルスト、という意味は分からないけど、ハリケーンなら分かる。
細かい意味では暴風雨を伴う強い熱帯低気圧。社会の授業で習ったのを覚えている。
どこの地域で起こるものかを忘れてしまって、テストでは失敗したのだけれど。
要は強い風だよねと、鹿目まどかは思った。その時に彼女は、自分の苦痛が消えている事に気付いた。
首の後ろでは、微かなそよ風と熱を感じる。
意思の気配がした。
その言葉は知っている。その次に続く単語も覚えている。名乗った訳ではないが、自分の名前でもあるからだ。
何故区切ったのだろう、と鹿目まどかは思った。
ついでに『グレート』という単語を言い終えるのが妙に遅かった。
不思議だったので、首を傾げた。角度が変わり、背後が少し見えた。
そこには一切の闇が無く、空中には雪のように散る光子の輝きが見えた。
それはまるで、新しい世界が生まれたかのような、美しく荘厳な光景だった。
そこで、鹿目まどかははっとした。顔を埋めているマドカの胸は、彼女が吐き出した闇を直接受けていた場所だからだ。
気配を察したか、マドカは手を離した。ゆっくりと、鹿目まどかはマドカの胸から顔を離した。
「如何なされた?鹿目まどか」
平然とした口調でマドカは言った。シャツの色は黒だが、そこに闇の気配はない。
下に履かれている藍色のスリムパンツや黒いスニーカーも同様である。
マドカの体の何処にも、更に言えば周囲の何処にも闇は無かった。
「ああ、先ほどのことなら気にする必要は全くない」
右手を軽く振りながらマドカは言う。
「口から何か、例えば酸性の何かを吐くなんて珍しくもなんともない。私もよく吐いている」
歩くときには足を使う、ボタンを押すときには指を使う。
そんな事を言っているかのような口調だった。
それでいて、マドカの顔は真顔である。それがおかしくて、鹿目まどかは思わず笑ってしまった。
先ほどまでの苦痛は忽然と消えていた。
今度はマドカが首を傾げていた。急な変化に戸惑っているように見えた。
それが少し悪い気がして、鹿目まどかはマドカに歩み寄ろうとした。
これからどうしよう、という思いがあった。何から話そうかはまだ思い描いていないが、マドカは力になってくれそうだった。
そう思っていた時、鹿目まどかの手が動いた。
下げられていた両手は、マドカの方へと向かった。異変を感じた時には、鹿目まどかは両手でマドカの首を締めていた。
鹿目まどかは必死に腕の力を抑えようとするが、圧搾は止まらない。
彼女の細い指は、マドカの首に食い込んでいた。その指の形状、というよりも表面に変化があった。
指から数ミリの隙間を開けて、黒い輝きが五指の第二関節から先を覆っていた。
それは小さな黒の集合体であり、まるで鱗のようだった。
五指の先端は、マドカの首にめり込んでいた。肉と指の境には、血のように紅い爪が見えた。
「ああ……貴女はやはり、そこにいたのか」
首を締められても、マドカは平然としていた。声の発音にも変化が無い。
だがその表情には、どこか安堵の色があった。首を締められてる現状としては、異常に過ぎているだろう。
「見つからないのは当然か」
マドカの眼は、鹿目まどかの胸を見ていた。正確には、その奥というべきか。
鹿目まどかという存在の中にいるものを、マドカは見ているのであった。
『黙りなさい』
マドカの言葉を断ち切るような、静かで烈しい思念の声が鳴り響いた。
怨嗟と敵意に満ちた思念であった。
『この…』
声を発する者は、そこで言葉を噤んだ。何を言いたいのかは分かっている。
分かっているが、それを言う事は憚れた。
だが、それしか思い浮かばなかった。
目の前にいる、愛しきものの姿を模した存在を形容する表現と言葉は。
『この、悪魔』
鹿目まどかの内から響いた思念と共に、首の圧搾は力を増した。全ての指が、第二関節までマドカの細首に食い込む。
鹿目まどかは心配と悲しみの表情で見ていた。止めようと思っても止まらなかった。
首の圧搾は更に強くなっていった。そして鹿目まどかは、指の先端が皮膚を突き破るのを感じた。
その時、鹿目まどかの顔に異変があった。それは右眼で生じていた。
桃色だった瞳の色が、紫へと変わっていた。闇を孕んだ、美しくも恐ろしい色だった。
瞳の中の瞳孔は縦に長く、獰悪な捕食者のそれへと変わっている。
それは人ではなく、爬虫類の眼だった。
闇と紫を宿した爬虫類の瞳は、感情を排したような冷酷で残忍な色で輝いていた。
それはその奥にある、深い悲しみを塗り潰すかのようだった。