旧フェンリル本部──現グレイプニル本拠地に、一台の装甲車がやってきた。
その機体は近隣のどのミナトにも属しておらず、また、感応レーダーにも目視可能範囲に入るまで感知されなかったことにより、グレイプニルは一時大変な騒ぎとなった。
所属不明、未知のステルス技術。機体のサイズを鑑みても、乗っているのは多くて一小隊だ。
それはつまり、装甲車の中にいるのがこの魑魅魍魎が跋扈する灰の中をわずか数名で渡り歩ける実力者であることを示していた。
それは不可能ではない。可能にする組織は存在する。しかし彼らでさえ感応レーダーをすり抜ける技術はまだ実現していない。
「こちらグレイプニル、この無線が聞こえていたら応答せよ」
もしも、その人物に敵対の意思があれば。いやな緊張感に背中をなでられながら飛ばされた無線に応えたのは、落ち着いた女の声だった。
女は自身の所属を明かし、目的を告げ、それなりの立場の者との面会を求めたのち、こう付け加えた。
「信じられないのも無理はない、こんなご時世だからな。だからこそ迅速な回答を要求する。私も君たちも、明日生きている保証はないだろう?」
朗らかに明日の命の危惧を語った女の身元が確認された。フェンリル本部に残されていたデータベースの情報と、腕輪の認証も遺伝子情報も合致した。
「グレイプニルの議会長を務めるエイブラハム・ガドリンだ。来訪を歓迎する」
ガドリンが差し出した右手に、女は快く応えた。その右手首に嵌められた赤い腕輪の数えきれないほどの細かな傷跡が、彼女が歴戦のゴッドイーターであることを証明している。
「倉橋テツコだ。フェンリル極東支部独立支援部隊クレイドル所属のゴッドイーターで、現在の任務は断絶された支部間の協力体制の再構築となる。フェンリル本部は事実上壊滅したようだが、あなた方とよき関係を築けることを願うよ」
途方もない目標を掲げて欧州に突如現れたテツコは、数日旧フェンリル本部に逗留したのちにクリサンセマムにその身柄を移した。いま、欧州で最も技術の粋を集めた場所だからというガドリンの計らいによるものだった。
「……と、いうのが彼女がここにいる経緯です」
テツコが灰域踏破船クリサンセマムにやってきて、最初に引き合わされたのはアインだった。
ミッション帰りに一人イルダの執務室に呼び出されて、商談の話だろうかと神機の入ったアタッシュケースも片付けないままにやってきたアインは、優雅にコーヒーを啜るテツコの姿を見るや否や、固まったまま言葉の一つも発していない。
「聞くまでもなさそうですが、お知り合いで間違いないんですね?」
放心したアインにイルダは言葉を重ねるが、聞こえているのかいないのか、アインからの返答はない。テツコも我関せずといったふうで、沈黙を破るつもりはなさそうだった。
アインと話をすり合わせた上で皆に紹介をしたかったが、仕方がない。クリサンセマムではアインの事情のおおよそは周知の事実だ。であればいっそ全員ここに呼んでしまったほうが話も早いかもしれない。
イルダが腰を上げたのと、アインが口を開いたのはほとんど同時だった。
「どうやってここにきた」
アインの声は落ち着いているのを通り越して、気落ちしているかと思うほど静かなものだった。喜びとはほど遠い感情が彼の中に満ちていることは明白で、イルダは気分と中途半端に空に浮いた腰が沈んだ。
少しだけ、ヴェルナーと再会した日のことを思い出す。確かにあれは、両手を上げて喜色に染まる気持ちになれない。
最初に二人で引き合わせたのは失敗だったかしら。いっそう嫌な沈黙に満ちてしまった部屋の中で、頭を抱えそうになるのを理性でとどめる。ため息も飲み込んだ。
「どうやって、ここにきたんだ」
アインの二度目の問いかけに、ようやくテツコが口を開いた。
「お前、十数年ぶりに顔を合わせる友人に対する最初の言葉がそれで、本当にいいのか?」
テツコの声は、台詞とは異なりずいぶんと楽しそうだった。ソファにどっかりと腰掛け、足を組み、夢中になっていたように見えたコーヒーカップはとっくに空になっていて、挑発的に腕を組んでいる。
「聞かなかったことにしてやる、ほら、私に言いたいことは?」
解かれた右手をアインに差し出してテツコは続けた。アインは握りしめていた右手を開き、アタッシュケースを足元にそっと置いた。ゆったりとした足取りでテツコに歩み寄り、差し出された右手を自身の右手で思いっきり平手打ちした。
パァン! と弾けるような音がして、イルダは反射で一瞬目を塞いだ。叩かれた勢いでソファの背もたれより後ろに投げ出されたテツコの右手を見て、自分の目がおかしくなったのかと疑う。
「元気だったかよ、バカやろう」
信じられないアインの物言いに耳を疑う。それでも、溢れんばかりの声に乗った感情が、嘘ではないのだと教えてくれた。
「見ての通り、元気だよバカやろう!」
お返しと言わんばかりにテツコがソーマの右手を叩いた。二回目の破裂音に、イルダは安堵のため息をついた。そういえばと思い出す。自分はアインについて、なにも知らないのだ。
「会いたかったぞ、ソーマ!」
両手を大きく広げてソファから飛び出したテツコは、真正面からアインに抱きついた。
そのまま矢継ぎ早に、元気だったか、思ったより何倍も早く会えてよかった、話したいことが山ほどあるし、やらなくちゃならないことはそれ以上にある。一方的に話しかけているようで、それでも合間にアインは一つずつ必ず返事をした。その顔は段々と俯き、程なくしてテツコの肩に沈んだ。
「あいたかった」
か細い声に、そばで聞いているだけのイルダの胸も締め付けられるようだった。そこに立っているひとが、まさしくソーマ・シックザールなのだということが理解できた。
「私一人で満足してるんじゃない、まだまだ会いたい人はいるだろうが」
数拍おいて、アインはそうだなと返事をした。喜びを伴う心細さはすっかり消え去っていた。
「頼りにしてるぞ、リーダー」
「もちろん。命ある限り力を尽くそう」
こうして、アインの極東への至る道に一つの希望が増えたのだった。