とにかく足を止めるな、というシュヴァルのアドバイスと呼べるかも怪しい助言の意味を、アインは間髪入れずに理解することになった。
接続の完了を神機の重みで理解するより早く、視界が戻ったと同時に捉えたのはおびただしい数の記憶の結節。物音ひとつ立てようものなら四方八方から襲われるからと警告は受けていたものの、想定以上に状況が悪い。
「アイン連れてきたら、解決ってわけには、いかないかぁ!」
わかってたけどねと言いながら神機を縦横無尽に振り回すシュヴァルの顔には、悲壮感はないが疲労感が滲んでいる。前回、倒れるまでやられ続けた経験がそうさせているのだろう。
そして予想していた通りに五分、十分と時間が経つごとに二人の動きは鈍り、足はたたらを踏み始め、一撃で結節を除去できなくなった。減少よりも増加のスピードが大きく増すと、そもそも身動きが取れなくなる。
また物量に押し切られるのかとシュヴァルがげんなりした顔になったところで、アインは怒号を飛ばした。
「邪魔だ!」
白いイーブルワンの背で前方に群がる結節たちを薙ぎ払い、空いた空間へシステマチックに足を運ぶそれらにチャージクラッシュを叩き込む。霧散したオラクル細胞のような何かが視界を覆うが、構わず再び神機を振りかぶった。
「リーダー!」
アインはテツコの無意識の集合体たちを怒鳴りつけた。
「シュヴァルに俺を連れて来いと言っておきながら、このクソッタレな歓迎はなんだ! 言っておくがな! 俺はお前と同じで、自分のこと以外は諦めが悪いぞ!」
蹴り飛ばし、叩きつけ、引き裂き、吠えた。
アインの罵声に応えるように、シュヴァルからエンゲージの支援が入る。小型を相手にエンゲージが可能になる程の戦闘時間がかかっている事実からは、テツコの拒絶の度合いの高さを理解させられる。
だが、それがどうしたと言うのか。かつて全てを拒絶していたアインの手を、テツコは一度だって離さなかった。ここが地獄だと耳を塞いだアインのことも、ここで終いだと別れを告げたリンドウのことも、決して許さなかったのがテツコである。
そう。許さなかったのだ。テツコはテツコの選択において、諦めないと決めてきた。そんなことをわざわざ言葉にして確かめたことはないが、聞かなくとも雄弁である。
だからテツコは、灰の海を超えてここまでやってきたのだ。ただ一人、アインの無事を確かめその力になるために。
コアエンゲージの力によってフルバーストしたアインとシュヴァルが、恐ろしい勢いで密集した適性反応を消失させていく。ひとつふたつと増える間に、ふたつみっつと打ち倒す。二人のバーストが切れる頃、辺りは何もない薄暗がりが広がっていた。
肩で息をするアインとシュヴァルの前に、人の形をした記憶の結節が現れた。シュヴァルは今までの積み重ねから、等身大のテツコのシルエットが出てくると予想していたが、それは外れた。
色味がないため確信は持てないが、テツコであろうそれはシュヴァルの知る彼女とは似ても似つかない姿をしていた。
まず、背が小さい。シュヴァルの鳩尾より下くらいまでしかなく、さらには髪も随分と長いようだった。肩より少し下で切り揃えられているいつもの姿の倍はあった。
加えて、身につけているのはワンピースのように見えた。脚のラインをはっきりと出した隊服を一張羅としているテツコは、衣服に求めるものは機能美だと断言している。
あらゆる齟齬が、シュヴァルを大いに困惑させる。
『先輩? 敵性反応は消えたみたいだけど、なにか問題が起きてる?』
「いや、大丈夫、だと思う」
それでも何故か、問題はないだろうとシュヴァルの直感は告げていた。
灰色の小さな子供に手を伸ばす。シュヴァルの指先がそれに触れたのと同時に、開けた地面と暗がりしかなかった空間に色がついた。
「お父さま」
幼さを感じる声が、父を呼んだ。どうしたんだいと応える声は柔らかく、慈愛を含んでいる。また別の声が、おそらく最初の声の主である少女を呼んだ。
「テツコ」
腰まであろう黒髪を揺らして、ボリュームのあるスカートでくるくると周りながら、テツコはお母さまと返事をした。
テツコと呼ばれた幼い少女は、多くの大人に囲まれていた。父、母、十を優に超える使用人と思しき、揃いの服を纏う男女。
「お嬢様、今日はどちらの服になさいますか?」
「たくさんあって迷っちゃうから、あなたに選んでほしいわ」
こういうのを、穏やかで、裕福とかいうんだろうな。おそらく自分が生まれるより前の出来事であろう光景をしばらく眺めながら、シュヴァルはそんなことを思った。妬ましい気持ちは微塵もなく、本当にこれが現実なのかと疑うほどの空気がそこにはあった。
二、三十年を遡った過去を見ていると仮定しても、それでも世界中でアラガミの被害は出ていたはずである。衣食住を欠く人間が数えきれないほど存在していたはずの時代に、こんな。
「ねえ、あなたに選んでほしいのよ」
信じがたい気持ちでその場に佇むしかできないシュヴァルに、記憶の中の人物にすぎないはずの少女のテツコが、目の前に立ち、シュヴァルをまっすぐに見つめ、意志を持って問いかけた。
「は?!」
反射的に神機を構え後ろに飛び下がったシュヴァルの横に、半歩前に出たアインが並ぶ。アインは静かに左手をシュヴァルの前に出し、神機の柄を持つ右手を下げたまま言葉をかける。
「お前は、誰だ」
「倉橋テツコと申します。まだ七歳ですので、あなた方とは初めましてになると思います」
二人に簡素な挨拶をして、テツコはようこそいらっしゃいましたとネグリジェをうっすら持ち上げほのかに膝を折った。カーテシーと呼ばれるその作法を、当然シュヴァルは知り得ない。
「寝巻きで失礼いたします。それでは、お洋服を選んでいただける?」
一番飾りが少ないという理由で選ばれた真っ白なワンピースに袖を通して、七歳のテツコはどこへともなく歩き出した。いつの間にか両腕に収められていた大きなクマのぬいぐるみは、父親から誕生日にもらったものだそうだ。
この頃のテツコはアラガミという存在を言葉でしか知らず、衣食住に一切の不安も感じたことがなかったという。
「いいかい、テツコ。でもそれはお父様の会社の人たちの働きあってのことだ。大きくなったらお前がお父様の跡を継ぐんだ、これからも多くの人の生活を守っていけるよう、お前も努力を欠かしてはいけないよ」
「はい、お父さま。たくさんお勉強するし、できることはなんでも取り組みます」
言葉遣い、食事のマナー、姿勢の良い歩き方にさっき見たスカートを摘んだお辞儀。シュヴァルから見ておよそ生きていくのに不必要としか思えないあれそれを、テツコは毎日毎日熱心に学んでいた。
「私が習った歴史の中には、アラガミというものは存在しなかった」
そして、世界のすべては家の中で完成していて。
食事を作る人、部屋を掃除する人、礼儀作法を教えてくれる人、服を選んでくれる人、テツコを愛して守ってくれる人。
「だから、家の外に出たいと思ったことすらなかったの」
一つの扉の前でテツコは立ち止まり、シュヴァルとアインに振り返る。
「シュヴァル・ペニーウォートさん、ソーマ・シックザールさん。大人になった私を助けにきてくれてありがとう。本音を言えば、とても上手くいくとは思えないけれど、それでも、子ども私は応援してるわ」
「……大人のお前は応援していないか」
「もちろん」
にっこり笑顔でテツコはアインの言葉を肯定した。
「テツコはね、もう二度と、自分のために誰かに犠牲になってほしくなんかないの」
「それは」
どういうことかと問いかける声を無視して、テツコは後ろの扉を開けた。目線と手で通るように促され、くつずりを跨ぐと視界がぼやけた。切断シーケンスに移行したのだ。
「さようなら、テツコのお友達。ここで見るべきことはほとんどないの。私は自惚れるほど恵まれていた。ただそれだけ」
シュヴァルとアインの姿が消え、辺りはすっかり何もない空間に戻っていた。七歳のテツコの腕に抱かれていたクマのぬいぐるみもどこかに消え去っている。あのクマは今もあの部屋にいるのだろうか。
テツコがぐちゃぐちゃに踏み潰したくてたまらなくなった、それでも、そうはできなかった自分の部屋に。
知る由もない。遠い遠い昔、背を向けたまま。見ないふりをしたまま消えてしまえるのならどれだけ幸運なことだろうと、本当にそう思っているのだ。
──シュヴァル・ペニーウォート/倉橋テツコ 感応同期率20%
仕事がばかみて〜〜〜〜〜に残業増えた&難産で全く書けなかった。ちな仕事は辞めて丸1ヶ月は経っているのでただの怠惰です。無職ってさいこ〜!(なお無責任に人に勧めてはならない)