感応同期率が上がったところで、テツコからの無意識の拒絶には特に変化はなかった。ただ広く開けただけの空間に、うんざりする数の記憶の結節の群れ。二人がかりで挑んでも下手を打てば失敗し、視界が狭まり始めると人型の何かがこちらを煽るように手を振って見送りだけをしてくる。
医務室のベッドで目を覚ましたシュヴァルは、全く同じ状況の隣のアインへ視線を送り文句を言った。
「テツコはちょっと頑固すぎると思う」
アインは、俺もお前も人のことは言えないと思うがと前置きした上でシュヴァルに同意した。その上で、この地道な手段で前に進むしかないと答える。
もちろん、シュヴァルもそれに異論はない。と言うよりは、目減りしていくタイムリミットに対してできることがそれくらいしかないだけなのだが。
「ちなみにさ、ロケット方式は使えないの?」
「ダメ、前提条件が全然違うから」
キース曰く、あれは距離を稼ぐ方法であって障壁を突破するためのものではない、とのことだ。
「ハッチが開いてないのにバギーで突っ込んじゃダメなんだよ」
装甲固めたらぶち破れないかな? とシュヴァルは思ったが、口には出さなかった。いたずらにテツコの命を危険に晒したいわけではない。本当の本当に時間切れの場合は、話は別だが。
それもそうか、とだけ返して引っ込んだシュヴァルの考えてそうなことは、キースにもアインにも想像ができた。もちろんお互いに不用意に掘り下げたりはしない。不幸中の幸いというもので、まだその最悪までは時間がある。
その時までには、突破力を増した手段を用意しておくべきかもしれないな。キースは一人心に決めて、しばらく寝ない決意をした。
対して、アインの考えは違う。彼はロケットを上回る反則級のショートカットを知っている。それは真の最終手段であり、手段に数えるのも憚るべきものだ。テツコにも、それはしないと言った。その言葉に嘘はない。あの時は、間違いなく本心だった。
状況は変わっている。言葉通りの強い拒絶、感応同期率の上昇が見えてなお、変化の見えない感応領域内での反応。
テツコの神機を使用する意思は、今のところアインにはない。それはしない、あくまで最終手段だ。ずっと、最終手段なのだ。他の可能性が全て潰えた時、アインは迷いなくそれを使うだろう。自分の命よりも大切にしたいものがそこにある限り。
幾度かの失敗を経て、シュヴァルとアインは再び暗がりの中でテツコとまみえた。幼さの中から顔を出していた品を全身に纏いながら、艶のある長い黒髪は変わらず背中の半分を覆っている。しかし、伸びた背丈の分だけ長さは増して、ピシリと立つ背筋がさらに時間の経過を知らせてくる。
子どもらしさがすっかり抜け落ちたテツコは、それでもまだ十二歳だという。ちょうどアインが神機使いになった頃、テツコはようやくアラガミという存在を知った。
暗がりの中に記憶上の空間が形成されていく。真っ黒の青天井に覆いが生まれ、鉄骨が剥き出しの建屋の中に立たされた。白一色の作業服の人間がレーンに沿って立ち並んでいる。おそらく、何かの工場なのだろう。
人の動きに合わせて生じる衣擦れの音も、人々が交わす言葉も、機械の稼働音すらろくに聞こえない。形容するならば、がやがやという何か音がしているようなそういうものだけが耳に届く。
テツコにとって重要ではない情報だから耳に届かないのだなということは、この後すぐに理解した。
ウゥーーーーー。警報の音が聞こえ、途端にぼんやりした存在だけの音は輪郭を持ち、そして恐怖の色に染まった。
アラガミだ! いや、嫌だ! 死にたくない!! こわい助けて! よく聞け、遠くの地区だ、ここには来ない! 死にたくない! ここは安全だ、大丈夫だ!
「父の工場の視察に連れて行かれた時、警報が出ました」
パニックに陥りかけながら、作業服の人間達はそこから逃げ出すようなことはない。叫び、怯え、その場にうずくまる。声を上げ、宥め、背中をさする。どこかの壁が破壊されたり、天井からアラガミが降ってくるようなことはなかったので、誰かの言葉通りここは安全で、動かないのが正解だっただろう。
白い服の人の中に、背広の男に抱きつかれたテツコがいた。自身を守るように体に巻きつかれた腕に、困惑しながらつかまっていた。
「パニックになる方を目の前にして、アラガミとは何かと聞くほど私は愚かではありませんでした」
パッと場面が変わり、前も見た立派な屋敷の中に移動する。そこでようやく、テツコを抱きしめていた男性がテツコの父であることをシュヴァル達は理解した。どうにもここは、
テツコは父親に、アラガミとはなにかと問いかけた。何かを考える素振りをして、テツコの父はこの世のあらゆる物を捕喰し、進化する存在だと答えた。
「大丈夫だ、安心しなさい。この家も、あの工場も、アラガミが好まない素材で作られた外壁に囲まれた場所にある。ここにいれば、心配なんてない」
テツコの父はそう続けて、テツコを抱きしめ背中を撫でた。何度も大丈夫だと繰り返す父の裾を握りながら、テツコはこの世で安全な場所などないのだと漠然と理解した。理性で、そう認識した。
「しかし、そんなものは当然、真の理解ではありません」
テツコの父の姿が灰色に染まり、ざらざらと空に散っていった。灰がシュヴァル達の横を風に流されるように通り過ぎていくのに合わせて、先ほどまでダイニングのような場所だったはずのそこは、開けた広間に姿を変える。
大きな両開きの扉を背に、女性が一人立っていた。足元にトランクを置き、腕にはコートをかけている。その視線の先ではテツコと両親と思しき二人が並んで立ち、その後ろに一列になって揃いの服を着た使用人らしき人が一列に並んでいた。
一人で立つ女性は、お世話になりましたと深く礼をした。使用人の一人が、テツコの家を離れていくらしい。
「お嬢様も、どうか、どうか、お元気で」
女性の声には、別れを惜しむ悲しみと、テツコを想う慈愛が満ちていた。テツコはそれに同じく、悲しみと慈愛で返事をした。元気でね、寂しいわ。ご病気のご家族をうちに連れてくるのは難しいのかしら。テツコの気遣いとささやかな嘆願を、女性はそれはできないと断った。迷いのない声だった。
女性の意思が変わらないことを悟ってか、テツコはそれなら仕方がないと引き下がる。寂しげな顔を明るいものに変えて、改めて別れの言葉を紡ぐ。
「今生の別れでもないものね、落ち着いたらお見舞いに行ってもいいかしら?」
女性は、いいとは返さなかった。その時は手紙を書く、暫くは難しいかもしれない。曖昧な拒否の言葉のように思えたが、テツコは額面通り受け取った。
「無理はしないでいいのよ、いつでも待ってるから」
「不義理を働くこと、お許しください」
目尻に涙を浮かべて頭を下げた女性に、テツコは再び構わないと答えて抱擁した。
「元気でね」
「お嬢様も」
女性が再度の別れを口にした途端、その姿は灰色にひび割れ空に溶けた。寂しげな顔で見送っていたテツコは表情を変えることなく、これが今生の別れだったと嗤う。
「
テツコの背後に扉が現れる。帰還の合図だ。
「そして今もなお、それは変わりません。そんな人間を、危険を冒してまで助ける意味はありますか? 処分した方が早くて確実なのに。ずっとそうするべきだと主張しているのに」
「意味ならあるよ」
答えたのはシュヴァルだ。意味ならある、当たり前だ。テツコは他に替えが効かないレベルの神機使いで、失った時の損失は計り知れない。
「少なくとも、あなた達二人分には釣り合わない」
同時にシュヴァルも、アインも、テツコと同等以上に替えの効かない存在である。単純な比較で、一を拾うために二を危険に晒す意味。それをテツコは問うている。
アインを連れて来いって言ったのはテツコじゃん。思わず小声で文句を返したシュヴァルだが、シュヴァルとテツコの一対一ではそもそもここには辿り着けなかっただろうことは理解しているのでそこには突っ込まない。
「仲間を助けるのに損得勘定なんて、それこそ意味ないよ」
問答の間に開かれていた扉の中にシュヴァルが足を入れる。またすぐ来るからね! と言うだけ言って、テツコの返事を待つことなく切断シーケンスに移行した。取り残されたアインもシュヴァルに続こうとして、足を止める。
「彼女が、お前が言っていた『犠牲』か?」
「最初の一人です」
「……そうか」
わかったとだけ付け加えてアインは扉をくぐった。最初の一人ということは、最低でも二人目がいるということだ。そして、幼い姿のテツコは「もう二度と」という強い強調の言葉を使った。
テツコが十二歳までアラガミの存在を知らなかったとしても、家の者が同じだとは考えにくい。知っていたはずだ、テツコの家がいかに特殊で安全かを。それを、捨てた。一人ではなく、何人も。テツコのために。
ぼやけていく視界の中で、アインは記憶の中のテツコを探す。初めて会った時、彼女はどんな様子だっただろうか。ろくに人と目を合わせようとしなかった過去を恨みながら、死んでいった友を思い出した。
──シュヴァル・ペニーウォート/倉橋テツコ 感応同期率40%
起憶結果〔テツコ〕
この世には、アラガミという恐ろしい存在がいるらしい。
お父様の会社は、アラガミに襲われた人やその遺族を積極的に雇用しているそうだ。
大勢で立ち向かわないと、人類はアラガミに飲み込まれてしまうから。
足がなくても、腕がなくても、働けるところを作っていく。
そういう心構えを、私は少しずつ組み上げていった。
安全な場所を少しずつ増やしていく。
私にはまだ正確にその恐ろしさを理解できていなかったけど、
それでも、できることがあるのだと信じていた。