かくして唐突に始まった幻想郷での生活。その幕開けは、決して順調とは言えなかった。
「ぁだーーっ!」
真新しい傷口からじわりと血が滲み、スバルは半泣きで悲鳴を上げる。血の出る左手を振るスバルを見て、隣で同じ作業をしている霊夢が目を細めた。
「あれだけ意気込んでた割には……見てられないわ」
「箸以外の調理器具に触ったことないの忘れてた!」
「箸を調理器具にカウントする時点でお察しね……」
言い訳しながら切った指を口に含み、口内に鉄の味を感じながらスバルは膨れる。
場所は厨房で、時間はお昼前より少し前。霊夢と一緒に境内の掃除を終え、二人は昼食の準備へと取り掛かっていたが――、
「なんで、ただの皮むきでそんな有様になるのよ」
霊夢が切った野菜を手際よく鍋に放り込みながら、冷めた視線を向ける。対するスバルは皮むきというかつてない強敵に翻弄され、名誉の負傷を重ねていた。
「手伝ってくれるのはありがたいけど……これじゃ危なっかしくて見てられない。今日はもう私がやるから、その傷、なんとかしてきて」
そう言いながら、霊夢は自分の袖口に手を差し入れる。取り出したのは柔らかな白布。手巾のようなそれでスバルの両手を包んでくれた。
「神社の裏手に井戸があるから、そこで洗ってきて」
「うぐっ……マジで申し訳ない……」
布越しに感じたぬくもりを指先に残しつつ、スバルは厨房を後にする。そのまま神社の裏手へと回り込んみ、渡された手布を脇に置いた。
そして、手桶でくみ上げた冷たい水を、そっと左手の切り傷にかける。
「……っ、冷たっ」
鋭い冷たさが傷に染みるが、同時に血のぬめりが流れ落ちる感覚は心地いい。
一通り綺麗になった事を確認した後で手桶を戻し、それからスバルは大きく息を吐いた。
「はぁ……まさか、ここまで役立たずだとは。自信失くすぜ……」
――幻想郷生活、二日目。
博麗神社での手伝いは、今日から本格的に始まった。
とはいえ、その初日はどう贔屓目に見ても好調とは言い難い。境内の掃除こそ無難にこなしたが、料理は皮むきの段階でリタイア。昼前の時点で既にこの有様で、午後に待つ雑務のことを思うと気が重い。
先ほど霊夢が見せた「こいつマジか」という視線は、どこか昔のクラスメイトに向けられた無言の落胆と重なって――、
「って、やべえやべえ。これ以上は俺のメンタルが死ぬ」
顔をぶんぶんと左右に振って自分に喝を入れる。すぐネガティブになるのは昔からの悪い癖だ。
「それに、今やるべきは項垂れることじゃない。なるはやで戦力になるための努力だろ……!」
ここまでポンコツだとは思っていなかったけど。最初から何もかもが上手く行くと思うほど驕ってもいない。あと何日いられるかも分からない幻想郷で、博麗霊夢に恩を返す。ただそれだけを胸にスバルは拳を握って立ち上がる。
そして、どうすればそれを成せるかと頭を悩ませていた――そのときだった。
「……ん、誰だお前?」
霊夢とも違う少女の声音が、背後から響いた。
振り返ると、そこにいたのは黒いとんがり帽子とローブを纏った少女。帽子の下からは金髪が除き、瞳は快活そうな色が溢れていた。
少女の見た目をざっと観察したスバル。その喉が、心をかき乱されて思わず震える。
「馬鹿な……この世界には、魔法少女も存在するっていうのか!」
白と黒を基調としたローブは、日本文化が生んだ魔法少女よりは、古風な中世風の魔女に近い。だが、胸元や袖口の所々には可愛い装飾が施されており、整った童顔の彼女によく似合っていた。
「日々追い求めてきた魔法少女のイメージとは若干異なるが……これも悪くない!」
「いや、ぶつくさ言ってないで質問に答えてくれよ。普通に怖いのぜ」
現実に引き戻すようなそのツッコミに、スバルはようやく意識を切り替える。
「あ、悪い。俺はナツキスバル。昨日から博麗神社でお手伝いさせてもらってるんだ」
「へぇ? お手伝い? 霊夢の奴、そんなの雇うほど余裕があったっけか?」
少し眉をひそめてそう言いながらも、少女は「ま、いいか」と軽く肩をすくめる。そしてすらりとした脚を揃え、スバルの方へ向き直ると、胸を張って堂々と名乗った。
「私の名前は霧雨魔理沙。幻想郷一の魔法使いで、霊夢とは腐れ縁のライバルってとこだな。ここで働くってんならよく覚えとけ!」
――霧雨魔理沙の屈託のない笑顔が、コミュ障であるスバルの心の壁を溶かしていった。
2
「外来人……なるほどな。神社にお手伝いなんて変だと思ったぜ」
ちゃぶ台を囲んで昼食をとるスバルと霊夢の横で、魔理沙が納得したように拳をぽんと打つ。
あの後、神社に上がった魔理沙には、スバルのこれまでの経緯を一通り説明していた。幻想郷に偶然迷い込んでしまったこと。そして、八雲紫という妖怪が不在のため、しばらく博麗神社に居候させてもらっていることを。
ふと、魔理沙は頭をポリポリとかきながら、恐る恐るといった感じで口を開く。
「にしても、霊夢も素直じゃないなあ……」
「……何がよ?」
「だってさ。妖怪退治は分かるけど、わざわざ匿ってやるなんて巫女の仕事じゃ――」
「――っ、ちょっと!!」
突然、霊夢の声が鋭く跳ね上がった。ぴしゃりと魔理沙の言葉を遮るように。スバルはやりとりの意味が分からず、きょとんと二人の間を見つめた。
魔理沙は言葉を止め、顔を赤くした霊夢を見て、ふっと口の端を上げる。
「……ああ、なるほど。相変わらず不器用なやり方してるわけだ」
魔理沙の軽口に、霊夢の肩が小さく震えた。だが魔理沙はその変化に気づかず、楽しげな調子のまま言葉を続ける。
すると次第に、赤面程度で可愛げのあった霊夢の顔が強張っていった。
「私は嫌いじゃないけどな、そういうの。世間的には美徳なんだろうし」
「…………」
「お、おい。よく分かんないけどやめとけって!」
徐々に震えが大きくなる霊夢を前に、事情を知らぬスバルでさえ、何かしらの地雷を感じ取り魔理沙に小声で静止を促す。だが、ノンデリカシーな魔女は煽ることを止めず、
「でも、いっつもそういうことばっかりしてると、いつか損することに――」
「――うるさいわねっ!!」
ついには、バンッ、とちゃぶ台を叩く音が響いた。怒気を含んだ霊夢の声は、部屋の空気ごと震わせる。
あまりの迫力に、魔理沙もスバルも一瞬で静まり返る。話についていけないスバルはともかく、恐らく原因となった魔理沙までが言葉を失っているのはいかがな物なのか。
「……なんだよ。わ、悪かったって」
「ちょっと、外の空気……吸ってくるわ」
そのまま音も立てずに立ち上がり、霊夢は縁側へと歩いていく。背中には怒りというよりも、どこか居心地の悪そうな陰りが滲んでいた。
残されたスバルと魔理沙の間に、ひときわ静かな空気が流れる。そして、一つ肩をすくめ、大きく息を吐いた少女は、
「やっちゃったぜ☆」
「やっちゃったぜ☆ じゃねえよ!?」
舌をペロッと出し、片手を頭の後ろに添えたドジっ子さながらの可愛らしいポーズをとって見せた。その場違いすぎる行動に、スバルは思わず突っ込む。
「いや、だよなぁ……」
「なんの話か知らんけど、途中から明らかに空気凍ってたろ。コミュ力ゼロの俺でも分かったぞ」
今更ながら後悔したように息を吐く魔理沙に、スバルは呆れたような視線を向けた。単に明るく活発な美少女だと思っていたが、この子は自分と同じノンデリカシー&空回り人間の波動を感じる。
「こうなると霊夢、三日は口聞いてくれないんだよ。何とか機嫌直してもらわねえと」
「さては常習犯だなお前……くっそ、居候させてもらってる俺の方が気まずいのに!」
そこから魔理沙に、方法を一緒に考えてほしいと頼まれた。
正直スバルにとっては完全なとばっちりなのだが……、魔理沙は本気で反省しているようだし、こっちに火種が飛んでこないとも限らない。だから、一緒にあれこれを考えてあげることにした。
だが、片や無神経な魔法使い、片や空回り型引きこもり。そんなペアから名案が出てくるわけもなく、会議はあっという間に袋小路へ。
そんな煮詰まった空気の中で、スバルの服の内ポケットから、ふと一枚の白い布が滑り落ちた。それを見たスバルの思考が一瞬止まり、そして――ぱちりと何かが弾ける。
「……そうだ」
彼の脳裏に浮かんだのは、さっき厨房で霊夢が自分に巻いてくれたあの手布の記憶だった。それが、ある一つの妙案へと結びつく。
「――いい案、なのかは分からないけど……ひとつ、思いついた」
「お、本当か!?」
「ああ。ちょうど俺の目的とも合致するし、協力するよ。役割分担と行こうぜ」
スバルは身を乗り出し、魔理沙の耳元へとひそひそと作戦の概要を伝える。話を聞き終えた魔理沙は、一瞬、微妙な顔つきでスバルを見つめた。
「……ほんとにそんなんで大丈夫か? どっちかって言うと、スバルの目標が前面に出てる気が」
「まあまあ。現状手詰まりなんだから受け入れとけって。利用する気がゼロとは言わないけど」
スバルの言葉に、魔理沙は懐疑的な視線を向けながらも「まあいいか」と提案を受け入れる。別に彼女にとっても悪い話じゃない、無難な提案をしたつもりだ。
和やかになった空気の中で、ふとスバルが思い出したように声を上げる。
「あ、そうだ。これとは別に、ちょっと個人的にお願いしたいことがあるんだが」
そう言ってスバルが懐にあるビニール袋の中身をゴソゴソと漁る。そして中から取り出したのは手のひらサイズで金属製の箱。予想通りの困惑顔を見せる魔理沙を前に、スバルはカメラ機能を起動し、
「食らえ! 秒間九発連続撮影!」
「うわ、眩し!!」
白い光が閃き、機械的なシャッター音がすさまじい速度で連続する。
スバルのマナー違反な撮影に魔理沙は文句を言いたげな顔をしたが、その口が開くより前に形態の画面を彼女に突き付けた。表示された自分の姿に彼女は目を見開く。
「これって……」
「そう、これは時間を切り取って形に残す道具だ。個人的なお願いの方は、これを報酬に引き受けてくれ」
「別に報酬とかいらんのに律義な奴だな……。まあ面白そうだし、くれるんならもらっとくけど」
魔理沙はスバルの差し出した交換条件、「ガラケー」を受け取り、写メを眺めたり画面をパカパカして遊んでいる。まあ充電の問題とか使い方の説明はおいおいだ。
「よし、それじゃ交渉成立ってことで。仲直り作戦、開始だな!」
そう言って魔理沙が笑えば、スバルもつられて肩の力を抜いて笑う。
霊夢との仲直り(魔理沙のみ)。そして、自分の目的を果たすための作戦が、静かに動き出した。
3
空が茜に染まり、木々の影が長く伸びる頃。
博麗神社の鳥居をくぐり、霊夢が静かに戻ってきた。草履が玉砂利を踏むたび、さくりさくりと柔らかな音が響く。
「……ふぅ、思ったより遅くなっちゃったわね」
軽く額に汗をにじませながら、霊夢は境内を一瞥する。外の空気を吸うと称して飛び出したが、なんだか戻りづらくて気づけば人里にまで足を延ばしていた。そして巡回と称してうろちょろしている内に、いつの間にかこんな時間に……。
「あーあ……」
別に、本気で怒っていた訳じゃない。ただなんとなく逃げてしまった。言葉にできない気持ちが胸の奥に引っかかって、足が神社へ向かなかった。
――過去の出来事にいつまでも引っ張られて、人と深く接することを避けている。そんな自分が、無性に不器用で、面倒な存在に思えてしまったから。
「……こんな自分が、一番嫌になるのよね」
と、ふいに……神社の奥から、何やらいい匂いが漂ってくる。不審に感じながらも神社に入り、奥の扉を開けると、
「「おかえりなさいませーっ! お嬢様っ!!」」
「…………」
お腹の前で無駄に丁寧な所作で手を揃え、深々とお辞儀する謎の二人組。その光景に、霊夢は思わず絶句した。
静まり返る室内。空気が凍りついたかのような沈黙の中で、二人の引きつった笑顔がじわじわと震え出す。ついには堪えきれず、
「おい、スバル! この挨拶で完璧って言ったのお前だろ! どーしてくれんだよ!」
「あれぇ!? 我が日本が誇る喫茶文化の定番おもてなしのはずなのに!?」
勝手に空回って自滅し、ギャーギャー騒ぎ出す二人。だが霊夢の視線はその様子を素通りし、ふとちゃぶ台の上に並べられた料理へと向けられる。
「……これ、どうしたの?」
ちゃぶ台には、焼き魚に味噌汁、煮物に小鉢。どれも派手さはないが、手間のかかる品々が丁寧に盛り付けられ、きちんと三人分が揃えられていた。霊夢の声に、どこか驚きと戸惑いが滲む。
「あー……その、昼間は悪かったなって思って。二人で作ったんだ、これ」
スバルがどこか気恥ずかしそうに頭をかきながら答える。その隣で、魔理沙が勢いよく胸を張った。
「材料は私が調達してきたんだぜ! だからスバルを神社から無断で連れ出したりはしてない!」
「で、俺が調理担当。まあ……色々あったけど」
「料理したって、あなた確か……」
「そうそう、俺ってばやればできる子だった! たった一日でここまで成長するなんて、我ながら感動だ!」
胸を張って笑うスバル。その手元に、霊夢の視線がふと吸い寄せられる。指にはいくつもの絆創膏。昼間より明らかに増えた小さな傷が、その不器用な男の奮闘を物語っていた。皮むきすら満足にできなかった男が、これだけの食事を用意するには、相応の苦労をしたのだろう。
魔理沙も、汚れたのか別の服に着替えている。おちゃらけた態度の裏に、二人なりの真剣さと優しさが見えて――、
なんだか、胸に温かい物が広がっていった。
「あと霊夢、これ」
ふと、スバルが服の内を探って、何かを取り出す。彼が取り出したのは手のひらほどの白い布だった。
「……今度は何?」
「これは別件。昼間に霊夢がくれた手巾、汚しちゃっただろ? だから自分で新しく縫ったんだよ」
それは魔理沙に頼んで、持ってきてもらった針と糸。それらを使ってスバルが編み込んだ「ハンカチ」イメージの布だ。
白い布を基調とし、中央にデカデカと紅いリボンの模様が添えられた、妙に凝ったデザインの手巾。それを彼の手から受け取って、まじまじと見つめる。
「めっちゃ上手くね? 俺、家事は軒並みできないけど、裁縫だけは得意なんだよなー」
自信満々にニカッと笑みを浮かべるスバル。その顔を見た霊夢は一瞬固まり、ふっと顔を反らして、
「……ずいぶんと無駄なことだけ器用なのね」
「ええーっ!? そこは褒めてくれる流れだろ!」
予想に反した辛辣な言動。盛大に肩を落とすスバルに、霊夢はぷいと顔を反らして後ろを向く。
霊夢が顔を反らした方向。そこに偶然立っていた魔理沙は何か信じられないような物を見たような顔でぎょっとし、それから懐を探った。
取り出したのは金属製の小さな箱――スバルに貰った「ガラケー」なる魔道具だ。
そしてパカリと蓋を開け、スバルの言っていたボタンに指を押し付け――、
「……魔理沙? 今何かした?」
「な、なんもしてねえよ? ほらほら、料理冷める前に食べようぜ!」
霊夢に隠すようにして両手で「ガラケー」を包むこむ。そして、「まあいいわ」と霊夢がちゃぶ台に並ぶ料理の方へ興味を示したところで――再びガラケーの画面を見た。
魔道具によって切り取られた、あの瞬間の霊夢の顔。手巾を大事そうに握りしめる博麗霊夢は、
「……こりゃ、滅多に拝めるもんじゃないぜ」
――まるで年相応、友達からのプレゼントに喜ぶ、普通の少女の笑顔をしていた。
〈了〉――番外編1、2
次回、第二章→『踏みぬかれる地雷』