「はぁ、はぁ……くそ、どこだ!!」
薄暗い廊下に、焦りを滲ませた声と不規則な靴音が響く。
フランドールと別れて数分、スバルは現在、紅魔館に侵入したであろうタイヤのもう片方を追って走っていた。
居場所は分からない。館の構造すらろくに把握していないスバルにとって、進む方向はほとんど勘だ。それでも必死に廊下を駆けまわるうちに、奴が通ったであろう痕跡が少しづつ目に入ってきた。
破壊され穴の開いた壁、地面に残る焦げたタイヤ痕。――そして、
『――ブウウウゥゥンッ!!』
こちらを嘲笑うように響く、異形のエンジン音。
「畜生、また……ッ!」
自分の不甲斐なさに歯を食いしばり、拳を強く握る。
迂闊だった。侵入したタイヤが二体いることは、最初の時点で気づけていたはずだ。にも関わらず、目前に迫る危機に一杯一杯で、頭が回っていなかった。
徐々に大きくなるエンジン音。恐らくもう一体の居場所は、この通路の先。
息を整えることもせず、その音を目指して一層速度を速める。やがて、突き当りで、ひときわ大きな扉が無残に破壊されているのが見えた。迷うことなく扉に飛び込み、そして、スバルが目にした光景は――、
「捕まえたわ、今度こそ地獄に堕ちなさい!」
「――――」
それは、予想していたものとは大きく違っていた。
確かに、タイヤの異形はそこにいた。但し、鎖のような物で全身を拘束され、既に身動き一つ取れない状態でだ。
そのの周囲には、ふわふわと無数の本が宙に浮かんでタイヤを取り囲んでいる。そして、正面の椅子には、本の群れを統率してると思しき、一人の紫髪の少女。
つまり、タイヤの異形が一人の少女に圧倒されている光景だった。
「…………な」
驚きで息を呑むスバルを他所に、少女が短く呪文を口にする。それを引き金として、本の群れは異形に牙をむいた。
ある本からは焼き尽くす光、別の本からは凍てつく氷、薙ぎ払う風、降り注ぐ巨岩、呑み込む光、覆いつくす闇。
異なる属性を宿した膨大な魔法が一斉に照射され、全弾が異形の顔に命中する。
轟音と閃光が室内を満たし、砂埃が室内を覆う。そして、スバルが再び良好な視界を取り戻したときには、
『ギギ、ギギッ……!』
タイヤの異形は黒焦げになって地面に伏し、既に虫の息となっていた。
「……文字通り、虫の息ですね。とどめは私が刺しましょう」
「小悪魔」
「ご安心を。最後の最後で失敗は致しません」
ピクピクと微かな痙攣を繰り返す異形を前に、紫髪の少女の傍らに立つもう一人――『小悪魔』と呼ばれた少女が一歩、前へ出る。
「それに、これ以上休みなく魔法を使えば、あなたの体に負担がかかります」
「……偉くなったものね。いいわ、任せた」
小悪魔は異形の正面、僅か十メートルほどまで歩み寄り、右手に握った拳銃をその額へと向ける。だが、
「――これで終わりよ」
彼女が引き金に指をかけた瞬間――これまでずっと無表情だったタイヤの口角が、僅かに持ち上がったように見えた。
「………なに?」
その不可解な笑みと違和感に、小悪魔の指が止まる。違和感を覚えたのは彼女だけでない。パチュリーも、遠巻きに様子を見ていたスバルさえも同様だ。
原因は、微かな音と匂い。空気の奥でくぐもるような煙の漏れる音。そして同時に鼻を突く、不快な匂い。どこかで嗅いだ覚えがある気がした。
「ガス……? 言っておくけど、私に毒ガスの類は効きませんよ」
はったりか、あるいは些末な抵抗。どちらにせよ問題ではないと判断した小悪魔は、再び銃口をタイヤへと向ける。そんな彼女とは対照的に、スバルの胸には拭いきれない引っかかりが残っていた。
――この匂い、知っている。
鼻をツンと突く、僅かに甘く腐ったような臭気。工場の裏手で嗅いだ、油と錆びの交じった空気。あるいは冬の教室で、石油ストーブを付けた時に漏れた、あの生暖かく鼻孔を刺激するガスの匂い。
それらは毒なことに違いはないが、注視すべきは、可燃性であるという点で、
「――毒ガスじゃねえ、離れろ!」
「は?」
突如、明後日の方向から響いたスバルの大声に小悪魔は目を瞬かせる。
同時にタイヤが余力を振り絞ってホイールを回転させ、地面と擦れて火花を生んだ。もう事態を避けることは叶わない。周囲の温度が急激に上昇し、肌がチリチリと焼ける感覚に襲われる。
スバルは、頭の中で策などないまま、只々体を前へと進めていた。紫髪の少女よりも前方。より爆心地の近くにいる赤髪の少女へと駆け寄って飛びつき――、
――次の瞬間には、全てを焼き尽くす膨大な熱が、部屋中を爆炎で覆いつくした。
2
大量に並んでいた本棚は全て崩れ落ち、頑丈な天板までもが大きく崩れ、あちこちでまだ炎がくすぶっている。
当然、その場にいた者たちは、衝撃を一身に浴び、誰一人として無事では――、
「――――」
僅かな息苦しさと、耳の奥で続く甲高い耳鳴り。全身が地面に沈み込みような感覚に襲われながら立ち上がろうとしたとき、少年はふと、状況の不自然さに気が付いた。――おかしい。
「……生きて、る」
あれだけの爆風と高熱。至近距離で浴びたなら、死んでいて当然だ。だというのに、自分はかすり傷こそあれ、手足も顔も揃っている。
幻覚などではなかったはずだ。現に、未だにぼやけるこの視界でも、周囲にあった本や棚は全て、黒焦げに崩れているのだけは分かった。
そう。自分、以外は、
「ッ、そうだ、あの子は――!」
タイヤと戦っていた二人の少女、彼女たちの安否を思い出し声を上げると、
「……あの、そろそろどいてもらえますか?」
「へ?」
至近距離から、声が響いた。
それに従って視線を下に向ければ、それはすぐ間近で、息がかかるほどの距離で、目を奪われるような美しい赤で、触れる掌からは本当に柔らかさを感じて――死ぬほど焦る。
「はむらびほうてん!?」
「それってこっちの反応じゃないですか? なんで押し倒した側が驚いてるんですか」
事の深刻さも忘れ後ろに飛びのく。爆発の直前に彼女に覆いかぶさってから、ずっとそのままだったらしい。対して、ゆっくり身を起こして埃を払う少女の振る舞いは驚くほど冷静であり、スバルの百倍漢らしかった。
そして、未だ漂う砂煙の向こうから、ゆらりと別の影が現れる。
「……小悪魔、無事なの?」
「平気ですパチュリー様、変質者に押し倒されはしましたが」
「いや違ぇから!? 俺なりに身を挺して守ろうとした結果だよ!」
タイヤを圧倒していた、紫髪の少女。彼女も無事、爆発から逃れていたようだ。彼女は安堵に滲む声でその名を呼ぶと、目尻にうっすら涙をため、その体をそっと抱き寄せる。
「……良かった、小悪魔。生きてたのね」
「何を言ってるんですか。私が無事だったのは、パチュリー様の防御魔法のおかげですよ」
その仕草は、戦闘中の冷静さからは想像できないほど優しい。
そんな二人の様子から、スバルもようやく状況を理解し始める。
先ほどの爆発から生き残れたのは、彼女が張った防御魔法によるもの。赤髪の少女の傍にいたスバルも、偶然その恩恵を得ることが出来た、ということだろう。
そして、もう一つ分かったことがある。
「……じゃあ、そろそろ話してもらいましょうか。あなたが誰で、私たちを襲った化け物が、何なのかを」
「ああ、俺もちょうどあんたに会って言わなきゃいけないことがあったんだ。パチュリー・ノーレッジさん」
くしくも、この人こそが、自分が紅魔館に来てから探し続けていた少女。パチュリー・ノーレッジ、その人であった。
3
それからスバルは、二人に異形のタイヤによる紅魔館襲撃の一部始終を説明した。
パチュリーと小悪魔はフランドールと違い、幻想郷を脅かす異形郷の存在そのものは、すでに使用人から伝え聞いていたらしい。
――ではどうして、フランドールだけが何も知らないのか。その疑問は深まるばかりだが、それ以上にスバルの注意を奪う出来事があった。
「ナツキ・スバル……ああ。そういえば、さっきそんな子を治療したような」
「繰り返しで申し訳ねえんだけど、マジで忘れてたの? 遠路はるばる、ひき肉にされながらお礼言いに来たのに」
「治した相手の顔なんて、全部覚えていられないわよ。こっちは忙しいんだから」
スバルは――存在そのものを認識されていなかった。
異形郷の襲撃で紅魔館に避難してきた人間や妖怪を、彼女は何人も治療したのだろう。その過程で、一人ひとりの顔を覚えていないのは無理もない。
理屈では分かっている、頭では理解している。けれど、文字通り身を粉にして感謝を伝えに来たスバルにとっては、やっぱりどこかやるせなかった。
そんなスバルの内心など露知らず、パチュリーは苛立たしげに頭をかきむしる。
「そんなことより、最悪よ、もう! 本が全滅するなんて……!!」
「パチュリー様、落ち着いてください。血の気を上げると、また倒れますよ」
爆発で無残に炭と化した本棚と書物の山を前に、パチュリーは涙目で足を踏み鳴らす。
その肩にそっと手を添えたのは、赤髪の少女――小悪魔。因みに彼女はパチュリーが召喚した使い魔であり、小悪魔というのも正式な名前らしい。
勝手に『小悪魔系女子』的なあだ名だと思っていたことを反省せねばならない。
「ムカつく……魔理沙が来なくなったらどうするのよ。犯人、絶対見つけ出してやるんだから」
「犯人? 犯人っていうか、異形郷の仕業だろ?」
「でも別に、詳しいことが分かってるわけじゃないんでしょ」
「……まあ、確かにそうだけど」
スバルの疑問に答えながら、パチュリーはじろりと別の一点に視線を向ける。その先にあるのは――先ほどの爆発で黒焦げになった異形の亡骸。
「確か地下の禁書庫に、『再生』と『洗脳』の魔導書があったはず。それを使えば、こいつから色々聞きだせるわ」
「死体を喋らせるってこと? ザ・黒魔術って感じで、今日日聞かねえな」
スバルの冗談まじりの感想に、パチュリーは真面目に頷いた。
だが、言葉の強さとは裏腹に、彼女はふらつく足取りで、かろうじて無事だった椅子へ腰を下ろす。
魔法を連発したせいか、若干呼吸は荒く、顔を蒸気させている。休憩を取らねばならない――そんな様子だ。
「茶を持ってきます。暫しお待ちを」
「えぇ、頼むわ」
小悪魔がそう告げて姿を消す。スバルも走りっぱなしで疲れ切っており、へたり込むように床へと腰を下ろした。
そして何気なく顔を上げると、パチュリーがじっとこちらを見ていることに気づく。その視線は好奇でも敵意でもない、どこか探るようなものだ。
「……どったの?」
紫紺の美しい瞳に真っ直ぐ見つめられ、スバルは気まずく目を逸らす。しかし、彼女の視線の意味は、そんな照れとは全く別のところにあった。
「……あなたさっき、何をしたの?」
「え?」
質問の意味が本気で分からず、首をかしげる。
さっきと言えば、タイヤの異形と戦っていた時のことだろう。だが、図書館に来てから自分がやった事と言えば――危ないと叫んで、小悪魔さんを押し倒したことくらい。
文字にすると、本当に役立たずすぎて泣けてくる。だけど、
「あれが自爆した時の事よ。私は確かに防御魔法を張ったけど、自分しか間に合わなかったんだから」
「というと?」
「小悪魔までは守れなかったってこと。……正直、私はあの子が死んじゃったのかと思った」
「――――」
次なる言葉は、思っていた以上の衝撃をはらんでいた。
つまり、あの爆発の中で自分と小悪魔が生きていたのは、パチュリーの魔法とは別の要因がある。そして、その原因がスバルにあるのではないかと、彼女はそう考えているらしい。
話をしながら僅かに潤む彼女の瞳から、本気で小悪魔の死を覚悟したのだろうと伝わってきた。――でも、
「俺は何もしてねえよ。武力も魔法もない、唯の引きこもりだし」
スバルは即座に首を振った。タイヤ野郎に傷一つ付けられなかった自分が、どうしてあの爆炎から誰かを守れるというのか。心当たりなんて、欠片もない。
「……ただの引きこもり、にしては妙ね」
「妙って、何がだよ」
否定したと言うのに、パチュリーは何故か追及を辞める気配がない。
自分の弱さを誰より理解しているスバルが、彼女に少し煩わしさを感じ始めた、
「だってあなた、ほんの僅かだけど霊夢と同じ――」
――その時だった。
「――――」
彼女は途中まで出かかった言葉をふいに止め、目を見開く。
「…………パチュリー、さん?」
返事はない。それどころか、さっきまでこちらを射抜くように見つめていた瞳は、いつの間にか明後日の方向を向き、どこか遠くを見つめている。
「――――ぁ」
「どうかしたのか?」
そして、
「そ れ は」
「…………は?」
スバルの問いかけを無視し、信じられないほど低い声で、そう呟いた。
唐突で、かつ明瞭な変化に戸惑いながら、なんとなくその視線の先を追ってみるが――そこには特段、何もない。
「……別に、なにも」
だが、ほんの一瞬パチュリーから目を反らした隙に、それは起きた。
「う゛かはっ! げほっ! ゴホッ――ッ!?」
「なっ、おい!?」
パチュリーは途端にせき込み、椅子を倒して床に崩れ落ちる。荒く喉を鳴らし、大粒の涙をこぼしながら、見えない何かを必死に払いのけるように、両腕を振り回している。
訳も分からず駆け寄ろうとするスバル。しかし、その肩を押しのけ、さらに勢いよく迫る影があった。
「どいてください!!」
それは、戻ってきた小悪魔だった。
床に落としたコップの水など気にも留めず、迷いない手つきでパチュリーの上体を支える。続けて、懐から取り出した吸入器を素早く差し出すと、パチュリーは荒い息のまま必死にそれを吸い込んだ。
次第に咳は収まり、震える肩だけが残る。
「なんで、いきなり喘息が発作するなんて!」
「うっ、やっぱり、少し疲れたのかも……ッ」
「では休みましょう。犯人捜しは後からでもできます」
小悪魔は背中を優しくさすりながら、遠慮がちにパチュリーを抱き寄せる。
彼女は上擦った声で短く返事をし、そのまま小悪魔に抱えられて図書館の奥へと消えていった。
ただ一人、黒焦げの書架と静寂だけが残った空間で、スバルはその背を呆然と見送る。
「喘息……本当にそれだけか?」
胸の奥に生まれた疑念は消えない。
直前までとの落差があまりに大きく、落ち着きを取り戻した後も残る異常な『恐怖の色』は、喘息ではどうにも説明がつかなかった。
そして、なにより、
『そ れ は』
――スバル自身、ほんの一瞬だけ。視界の端に“何か”が揺らめいた気がしたのだ。
【本日の異形解説】
・パチュリー編1
スバルが駆けつけた時には既にタイヤを瀕死に追い込んでいたパチュリーと小悪魔。彼女達がどのような戦いを繰り広げたのかは、『パチュリー編1』を見れば明らかになります。但し、『パチュリー編2』まで見てしまうとトラウマ必須。