夜の博麗神社は、酷く静かだった。
とは言っても、参拝客などろくにいないこの神社は本来、昼夜問わず静かだ。ただ最近は、厄介な外来人のせいで常にやかましいと言うだけで。
髪留めをほどいた長い黒髪を夜風になびかせながら、少女――博麗霊夢は縁側に腰を下ろしていた。地につかない足をぶらぶらと揺らしながら、、中身の冷めきった湯飲みを両手に抱えている。
それを飲むでもなく、ただ器の重みを感じながら夜空を見上げ、
「……明日で、最後」
そうぽつりと漏らした言葉は、誰に聞かせるわけでもない、自分への確認。
――菜月昴。
突如幻想郷に迷い込んだ、騒がしくて、馴れ馴れしくて、テンションの高い男。彼の幻想郷の滞在期間が明日で最後なのだ。
何もかもが凡庸で、話はあまり面白くなく、目つきだけは悪い。――でも、初めてだった。
博麗の名を関し、幻想郷の秩序を守る巫女。誰もが恐れ、距離を置くこの立場に、物おじすることなく、一切の裏表もなく、真正面から接してきた人間は。
「いないと、それはそれで、ちょっとだけ静かすぎるのかもね」
それがいわゆる『寂しい』という感情に当たるのかは、霊夢にも分からない。ただ、明日の宴会が終わったら、スバルはもういなくなる。
その事実を確認する度、胸の奥に、言葉にならないひっかかりが残るのだ。
「――って、やめやめ。私らしくもない」
つまらない思考を振り払うように、霊夢は首を左右に振った。
博麗の巫女は、幻想郷の秩序を守るためだけに存在する。誰か一人に肩入れすることなく、規律に準じて公平であるべきだ。
特定の誰かに情を持つことなど、決してあってはならない。
「……うん。寝ましょ」
自分に言い聞かせるようにそう呟き、霊夢は頬を軽く叩いた。
さて、寝よう。そうして縁側を離れ、布団へと戻ろうとした――その時だった。
「……え?」
――明らかな異常に、足が止まった。
傍から見れば、彼女がひとりでに止まったように見えるだろう。何故なら五感で感じ取れるような変化は何も起きていない。大きな揺れがあったわけでも、轟音が響いたわけでもないのだ。世界は依然として、『平穏』を装い続けている。
だけど、自分にだけはそれが理解できた。
「……う、そ……なん、で」
博麗大結界。自分が管理の一端を担う、幻想郷と外の世界を隔てる結界に、明らかな異常が生じている。
結界の更新日は明日。確かに今日は、結界が最も不安定になる日ではある。いつもならば多少の揺らぎ程度で驚きはしない。
――でも、これは違う。
外側から、何者かがこちらへ触れている。押している。探っている。そして――、
「――っ」
ぞくり、と。向こうからこちらを覗く何かの、あまりにおぞましい気配に総身が震えた。
違う。違う。違う違う違う違う違う。これは、いつもの異変とは何もかもが違う。恐らく敵は、狙ってきた。結界が最も弱まる、今日という日を。
霊夢は、無意識に神社の奥へ視線を向けていた。その先、襖の向こうにある、一つの布団。そこで布団を蹴とばして眠りこけている――菜月昴に。
「すぴー」
「…………」
緊張感のかけらもない堂々とした眠りっぷり。感じ取れるのは自分だけなのだから仕方がないのだが、そう分かっていてもあまりに無防備なその姿はどこか腹立たしかった。
この男は、これから起きるであろう異変を知らない。明日の朝になれば起きあがり、箒を片手に境内を掃いたりするのだろう。そしてきっと、いつものようにくだらないことを言う。だったら、
「そのまま能天気に寝てればいい」
大丈夫。博麗の巫女である私がいるのだから。いつものようにさくっと異変を解決して、朝までに戻ってくればそれで全部終わりだ。
むしろ、今回の異変はいつもに増して手早く終わらせる必要がある。なにせ、
「――宴会の約束くらい、ちゃんと守ってあげなくちゃね」
そう呟く少女の手の震えは、もう止まっていた。
ふと、霊夢は懐から一枚のお札を取り出した。それに力を込めた後、寝ている少年に向けて指ではじく。札はふわりと宙を舞い、スバルの胸元に吸い込まれてぴたりと張り付く。小さな光が一瞬だけ灯って、すぐに消えた。
「私が戻るまで、大人しくしときなさいよ」
それを最後に踵を返し、彼女は神社から飛び立つ。
なんでもない夜のはずだった。けれど、彼女はもう気づいている。――刻々と、この世界に迫る過去最大級の脅威に。
※
それは、最終日の朝の事だった。
「……霊夢が、いなくなった?」
両手いっぱいにキノコと酒瓶を抱えたまま、魔理沙はぽかんと口を開ける。
「ああ、起きたらもう姿がなかった。書置きとかも見つからなかったし」
対して返事をするスバルは、神社の玄関先で箒を片手に、寝ぐせだらけの頭をぼりぼりと書く。現在は日本でいう九時を回った辺りであろうか。珍しく少し遅起きをしたスバルは、午後の宴会に向けた最初の準備として、境内の掃除をしていたところだった。そこに魔理沙が合流して今に至る。
「てかお前、その大荷物なに? 三人で宴会やるのに、そんなに諸々必要ある?」
「それがな、宴会の話を聞きつけて、妖怪たちがちょっと顔だすとか言ってくんのよ。鬼とか吸血鬼とか」
「おいおい、ただでさえ人付き合いとか苦手なのに、俺でも知ってる有名種族たちと対面すんのかよ。胃に来る奴だわ……」
「大丈夫大丈夫。あいつら、肩書ほど大した連中じゃねーよ。避けさえあればすぐに上機嫌になる」
「まあ、それはそれで、イメージ通り、だけど……ははっ」
「……?」
他愛のない会話。その最中で露骨に様子のおかしいスバルに、魔理沙は怪訝な表情をした。簡単な話、他愛話で気を紛らわそうとして、無理だったのだ。
霊夢が無断でいなくなる。それ自体は、この一か月で何度もあったことだ。妖怪退治、人里の巡回、意味もない外出。理由などいくらでもあるし、その全てをわざわざスバルに伝える意味などない。
でも今日は、今日だけは、そういう日じゃなかったはずだ。
「なあ、魔理沙……霊夢は今日のこと、忘れたわけじゃないよな」
「は? そんなわけないだろ……ほら、あいつにしちゃ珍しく、ちょっと嬉しそうにしてたぞ」
じゃあなんで、黙っていなくなったんだと、それ以上は悪い方にしか思考がいかない気がして口を閉じた。
ただ、考えないようにするのはそれを考えるのと同じことだ。霊夢が普段何気なく口にしている言葉、それが今棘となって、スバルに突き刺さってきている。そう――、
「仕事だから、か」
「スバル……」
彼女がスバルを助けたことに言及しようとするたびに帰ってきた『仕事だから』という言葉。それは単なる照れ隠しに見えて、案外本気で言っていたのかもしれないなと、そう、深く深く突き刺さって、突き刺さって、
「ま、宴会までまだまだ時間はあるし、その内ふらっと帰って来るって。私たちは準備しながら、のんびり帰りを待っていようぜ」
「ああ、そうだな……」
その傷はいえないまま、スバルは彼女の言葉に我に返る。
同い年くらいの少女に気を使われながら、がらんどうな返事しかできない現実。どうしようもなく自分が小さく見えて、魔理沙の大荷物を半分請け負った。
そのまま二人は神社の中へと向かう。宴会の準備は、拭いきれない違和感を抱えながら始まった。
2
その後、宴会の準備は思いのほか順調に進んでいった。
魔理沙が持ち込んだ酒や食材を並べ、スバルが料理の下準備を進めていく。一か月と少しの共同生活ですっかり料理の腕を身につけたスバルにとっては、多少料理を口にする人数が増えたところで大した問題ではない。
野菜を切り、魚をさばき、肉に下味をつけ、見るからに怪しいキノコは食材候補から除外する。そうして次々と出来上がっていく料理の数々は、魔理沙の目から見てもなかなか壮観だった。
そんな料理たちを眺めていた魔理沙が、ふと卓上の一点で目を止める。
「……なあスバル、それなんだ?」
そこにあったのは、薄黄色の液体が入った透明な小瓶だった。
台所に置かれた調味料としては見慣れない、絵の具にも見えるその液体に、魔理沙は怪訝そうに目を瞬かせる。
その視線に気がついたスバルは、待ってましたとばかりに小瓶を手に取った。そして、どこか誇らしげな表情を浮かべながら、それを高々と掲げる。
「よくぞ聞いてくれました! これは俺がこの一か月、幻想郷での努力の末に作り上げた調味料。マヨネーズだ!」
「まよ……なんだって?」
馴染みのない言葉に首を傾げる魔理沙を横目に、スバルは言葉を続ける。
「いいか? マヨネーズは卵と油と酢で作れる。炒め物にもサラダにも、焼き魚にだって合う万能調味料だ。直に飲んでも美味いけど、ここだと結構材料が貴重だから勝手に飲むなよ」
「飲まねえよ、そんな得体の知れない液体」
――菜月昴は、生粋のマヨラーである。
マヨラーとは調味料であるマヨネーズをこよなく愛する人々の名称であり、あらゆる食品にマヨネーズをトッピングすることを是とした異端者の軍勢だ。
マヨネーズをかける――俗に言う『マヨる』という動詞が『マヨラー』という名称をこの世にもたらした、かどうかは定かではないが、その認識に従うならば菜月昴は正しくマヨラーである。
その生活必需品、いわば魂の伴侶であるマヨネーズは、幻想郷には普及していない。日本に返れるまでの推定一か月、その期間はマヨネーズを食べれないことを知った時のスバルの手の震え具合は、それはもう酷い物だった。
故にスバルは苦心に苦心を重ね、この世界で自力で作り上げたのだ――魂の伴侶を。
「ああ、思い出した。最近霊夢が「なんで毎回おんなじ白いやつかかってんのよ!」って愚痴ってたやつか」
「知らないとこでぶち切れられてた!? マヨネーズ不評だったのかよ!」
「どんなに美味くても毎日だされたら嫌になるだろ」
冗談じゃなく、本気で驚いてそうなスバルの顔に魔理沙は若干の引き気味だ。あの時の霊夢のうんざりした顔とスバルの妄信ぶりを見るに、毎日どころか、毎食マヨネーズとやらが食卓に出されていてもおかしくない。――と、
「そっか、霊夢……あんまり喜んでくれてなかったのかなぁ」
「は? お、おい……スバル……?」
「オレ、レイムノ、ヤクニタテナイ……」
「なんでまたそういう話になるんだよ!?」
調味料の話から一転、意味の分からない連想ゲームで、スバルは再びブルーになり始めた。
「こりゃ、想像以上に重症だぜ……」
たかがマヨネーズの話からここまで落ち込めるのもある意味才能だ。女々しすぎて少し面白いとすら思う魔理沙だったが、今日で幻想郷を去る彼の境遇を考えれば、茶化したりするのは気が引ける。
魔理沙は顎に手を当て、しばらく黙り込む。十秒ほど考えたところで、やがて何かを決心したように息を吐いた。
「スバル。お前に一ついいことを教えてやるよ」
「……いいこと?」
「ああ、これを言っちゃうと霊夢が怒るから黙ってたんだけどな。今にも泣いちゃいそうなスバルに免じて今日だけは特別だ」
彼女の言葉にスバルは黙って耳を傾ける。一言余計なことに言い返すより、これから語られるであろう霊夢の秘密に興味があった。
「お前と一か月神社で過ごしてた件だけど、霊夢は――」
と、そこまで口にした時だ。
「――――」
石段を上がってくる足音が、二人の耳に届いた。
――霊夢が、戻ってきたのか。そう期待して反射的に目をやると、鳥居をくぐって境内へと入ってくる二つの影が目に入る。
一人は、すらりとした体躯の銀髪の少女。手に日傘を差しながら、ひらひらとしたレースや装飾の施された服を身に纏っている。いわゆるメイド服というやつだ。そしてもう一人、さされた日傘の下を悠々と歩いているのは、
「……子ども?」
どう見ても、十歳やそこらにしか見えない少女だった。
真っ赤なリボンを所々に携えた白いドレスに、紫色の髪。陶器のような白い肌に包まれた顔は人形にしか見えぬほど整っているが、ともかく、正真正銘の幼女である。
「やば、普通に参拝客の人たちっぽくね?」
状況を理解したスバルは、慌てて二人の元へと歩き出した。
今日の宴会に訪れる妖怪は鬼や吸血鬼といった大物揃い。彼らが無暗に人に危害を加える存在ではないことは理解しているが、見た目だけでも怖がらせてしまう可能性がある。
人払いをしていなかったのはこちらの不備だが、彼らには事情を説明し、早めに帰ってもらった方がいい。
しかし、スバルから数秒遅れて来客の存在に気付いた魔理沙は、途端に顔を凍り付かせた。
「すみません、今日はちょっと」
「お、おい待てスバル! そいつが参拝客じゃなくて――!」
魔理沙の叫びが届くよりも早く――ひやり、と。首筋に、冷たい感触が触れた。
「――動くな」
「…………え?」
いつの間にかスバルの喉元には、金属製のナイフが突きつけられていた。
銀髪のメイドだ。ほんの一瞬前まで数歩先にいたはずの彼女が、いつの間にかスバルのすぐそばに立って、頸動脈をなぞっている。そして、
「おい貴様、誰の許可を得てお嬢様に近づいた」
「は? お嬢……様……?」
スバルは動かぬ体のまま、眼球だけを回して『お嬢様』と呼ばれた小柄な少女に視線を送った。
先ほどはただの可愛い幼女にしか見えなかったその姿に、今は奇妙な違和感が重なって見える。
「ちょ、待て待て待て! 俺、怪しいもんじゃないって!」
「怪しいも何も、見知らぬ人間如きが突然お嬢様へ近づいてきたのよ。警戒するのは当然でしょう」
「人間如きって……まるで自分がそうじゃないみたいな……」
そう、自分で放った一言に引っかかった。
そういえば、色々と妙だ。対して強くもない日差しの中で日傘。あまりにも白い肌。徹底して日を避けていることが見て取れる物腰は、スバルにあの有名な妖怪を連想させる。
何より決定的だったのは、幼女の肩越しに見え隠れする――黒い翼。
「……まさか」
思わず息を呑むスバルに、幼女がくすりと笑う。その目は、まったく笑っていなかったが。
「自己紹介が遅れたわね。私はレミリア・スカーレット。こんな見た目だけど、一応吸血鬼なの」
こんな見た目。言葉の端々には、自分をただの幼女であると勘違いしたスバルへの怒りが垣間見えるようで、
「一度目は許してあげる。けど、次はないと思ってね?」
「……はい」
スバルは顔を引き攣らせたまま、乾いた返事をすることしかできなかった。
そこでようやくメイド少女はナイフを引っ込め、何事もなかったかのようにレミリアの背後へと下がっていく。
待ってほしい。確かに初対面でずけずけと近づいた自分にも落ち度はあったかもしれない。でも、その上でこれだけは言っておかなくてはならないのだ。
こいつが吸血鬼って、初見で分かる奴はいないだろ、と。
3
「よし、これであらかた準備は終わったな」
境内に敷かれたレジャーシート。その上に整然と並ぶ料理や酒の数々を見て、満足気に息を吐いた。
レミリアの来訪から数時間。日もそれなりに傾き、空が夕焼けに染まり始めたところで、スバルもようやく、宴会の準備を整えられたのだ。
「……にしても」
だが、その料理を取り囲む面々――宴会に集まった来客に視線を移すと、眉間にしわが寄る。
「鬼に吸血鬼、戦闘もできる系のメイドに……あと騒霊。そこはもう幻想郷だし、今更驚いたりしないけどさ」
この場にいるのは、スバルと魔理沙を含めた計六名。
縁側に胡坐をかき、瓢箪から豪快に酒を煽る鬼。神社にはどう考えても場違いな豪奢な椅子に腰を下ろし、紅茶を嗜む吸血鬼と、その傍らに控えるメイド。そして、実はずっと神社に憑りついていたとかいう騒霊。
どれも、肩書だけなら超ド級の化け物なのだが、
「まさか全員が人型、それも美少女だと思わなかったよ俺は」
「確かに、私の知る実力者は大抵女だな」
「男キャラが不遇なソシャゲかここは!」
当然のことのように受け答えをする魔理沙に、我慢の限界とばかりに声を荒げた。
そりゃそうだ。鬼と聞けば岩のような巨漢を、吸血鬼と聞けば夜空に舞う冷酷な伯爵を、騒霊と聞けば見るからに異形の幽霊を――そういうのを想像していたのに。
目の前に並ぶのは、全員見た目が十代前半から後半にしか見えない美少女ばかりだ。これではアイドルグループか、怪しいコスプレ集団にしか、スバルの目には映らなかった。
「まあまあ~細けぇこたぁ気にすんなよぉ~」
「この犯罪臭すごい見た目のが鬼だもんな。終始酔っぱらってるって点だけはイメージ通りだが……」
項垂れるスバルに近づいてくるのは、自称鬼である『伊吹萃香』という少女だ。
宴会はまだ始まっていないのだが、既に自前の瓢箪から酒を流し込み、完全に出来上がってしまっている。
彼女の見た目は、この場にいる面々の中でも一際幼い。贔屓目にみても小学校低学年ほどの少女が、顔を赤らめながら酒の匂いを漂わせているのだから、絵面はぶっちぎりでアウトだ。
萃香の姿に呆れながらも、スバルはふと、その場にいるもう一人の少女へと視線を向けた。
「そういや、そっちの騒霊の子の名前はまだ聞いてなかったな」
「……私?」
自分に指を向けられ、騒霊の少女は不思議そうに首を傾げる。
肩の辺りで切り揃えられた金髪。どこか儚げな雰囲気を纏った、小柄な少女だった。彼女が騒霊だというのは魔理沙から聞いたのだが、本人は先ほどからほとんど口を開かず、ぼんやりとその場に座っている。
「名前なんてどうでもいいと思うけど……私は騒霊、カナ・アナベラル。カナでいいわ。よろしく、外来人さん」
「おう、よろしく。俺は菜月昴だ……って、俺より前からここに住んでたんなら、名前くらいは知ってるか」
「うん。霊夢がよく話してたから」
そう言って、カナは小さく笑う。
その笑顔には、どこか現世の人間とは違う浮世離れした美しさがあって。なるほど、この子は確かに幽霊っぽいと、スバルは一瞬見惚れてしまった。
「でも、騒霊ってあれだよな。勝手に物が動いたり、誰もいないのに部屋がノックされたりする、いわゆる『ポルターガイスト』ってやつ」
「へぇ、すごい……外来人さん、物知りね」
「まあな。ポルターガイストだの心霊現象だの、格好いい能力はいつか手に入れたときのために妄想で履修済み――」
そこで、スバルの言葉が止まった。
「……あれ?」
「……どうしたの?」
カナが首を傾げる傍ら、スバルは腕を組んで何かを思い出すように眉を寄せた。そして、
「待てよ。そういや俺、この神社で何回か変な現象に遭遇してるんだけど」
「そうなんだ」
「ああ。誰もいないはずなのに、夜中に襖が勝手に空いたり、置いたはずの箒が別の場所に移動してたり……あと、寝てるときに耳元で囁き声がしてビビって飛び起きたこともあったな」
もし違っていたら失礼かもな。そんな罪悪感に躊躇いながらもゆっくりとカナへ視線を向け、
「もしかして、偶に俺を脅かしてたの……お前か?」
「うん」
「即答っ!?」
あまりにも迷いのない返事に、スバルはほんの少しでも罪悪感を抱いたことを後悔した。
「だって、暇だったから」
「暇だったからで人を怖がらせるなよ! 俺、一回夜中に騒いで霊夢にすげぇ怒られたんだけど!?」
「……うん、そういう反応がいちいち可愛くて」
必死の形相で訴えかけても特に悪びれる様子の無いカナに、可愛くてもちゃんと彼女が幽霊であることを実感する。
自分がこの一か月の間に何度も遭遇した怪異の数々。それがまさか、ただの暇人による犯行だとは思うまい。自分を初日に食おうとした奴といい、幻想郷の妖怪は人間を油断させるために擬態でもしているのだろうか。
「今思えば、「そーなのかー」って連呼してたのも完全にこっちを油断させるためだよなー。あんなの誰でも気になって近づくもん」
「あら、あなたルーミアに出くわしたの? それで生きてるなんで中々の豪運ね」
スバルが幻想入り初日のことを思い出してると、ここまで喋らなかったレミリアが興味深そうに口を挟んだ。ついでに、あの恐ろしい妖怪の名前はルーミアらしいと発覚した訳だが。
――幻想郷に来て一か月。ここでの暮らしにも少しは浸透してきた今のスバルは、あの時の出来事に関して、一つの疑問が生じていた。
「なあ、俺って、なんであの時ルーミアに殺されかけたんだ?」
「……それはどういう意味?」
「ルールの話だよ。幻想郷って妖怪は基本的に人を殺めちゃダメなんだろ? じゃあ、なんでルーミアは俺を遠慮なく食おうとしたんだろうって」
スバルが引っかかっているのは、この世界のルールと、あの日に起きた出来事との矛盾だった。
幻想郷では、人間よりも妖怪の方が圧倒的に強い。霊夢のように妖怪と渡り合える人間はごく一握りで、普通の人間が妖怪に襲われれば、まともに抵抗することすらできない。
そして妖怪は、人間から向けられる恐怖の感情が、自分達がこの世界に存続し続けるために必要だという。
するとここで、一つの問題が生じる。
妖怪が本気で力を振るえば、人間は簡単に滅びる。そうなれば当然、妖怪を恐れる者もいなくなり、妖怪も人も滅んでしまう。だが、力を振るわなければ人は彼らへの恐怖を忘れ、やはり妖怪は滅んでしまう。
この問題を解決するため、幻想郷は二つの仕組みを作った。
――『弾幕ごっこ』と『異変』だ。
弾幕ごっことは、弾幕と呼ばれるエネルギー弾を互いに撃ち合う決闘方法で、フィジカル勝負にならない分、人間と妖怪の力の差をある程度埋めてくれる。
そして、幻想郷での決闘方法を全て弾幕ごっこに限定することで、妖怪は人を殺めない程度の迷惑行為――異変に準じ、人から恐怖を集めることが出来るのだ。
早い話、幻想郷での戦いは一定のルールの上で争う『スポーツ』に近く、そこに本当の意味での『死』があってはならない。けど――、
「あれは絶対に、『ごっこ』なんかじゃなかった」
だからこそ、スバルには分からない。
霊夢が偶然駆けつけてくれなければ、自分は間違いなくルーミアに食われていた。そしてその先には――絶対的な死が待っていた。
当時の記憶は今でも鮮明に思い出せ、恐怖に手を震わせていると、
「それはあなたが『外来人』だからでしょ?」
「……え?」
まるで、どうして分からないのかと言いたげな口調で、レミリアは言い放った。
外来人。その言葉の意味を正確には理解できず、スバルが返事に詰まっていると、今度は魔理沙が横から口を挟む。
「妖怪が襲っちゃいけねーのは元々こっちで暮らしてる『人里の人間』だけだ。スバルみたいな外から迷い込んできた奴には、基本そのルールは適用されない。食われても数はプラマイゼロだしな」
「じゃあ、俺は」
「ええ、あの時、ルーミアがあなたを殺したとしても――幻想郷のルール的には何の問題もなかったってわけ」
レミリアの決定的な言葉も相まって、思わず、背中に冷たい汗がにじむ。
皆にとっては、さして珍しくもない事実なのだろう。けれどスバルにとっては違う。それはあの時、やはり自分は死ぬところだったのだという再確認だ。何の保証もなく、咎めもなく、ただあの場で食い殺されていた。
霊夢が、来てくれなければ――、
「あれ? でもじゃあ、なんで……」
――博麗霊夢は、菜月昴を助けてくれたのか。
「スバル、さっき言おうとした良いことの続き、教えてやるよ」
すると、まるで気を図っていたかのように魔理沙がニヤリと笑った。
そう言えば、レミリアが訪れたことで、話が中断されていたことを思い出す。
「お前は霊夢が助けてくれたこと、全部仕事だからって思ってるみたいだけど、それは違う」
「――――」
「今聞いた通り、お前はルールに守られない存在だった。咄嗟で外来人と判別つかなくて助けたんだとしても、そっから先は完全に素性が分かった上での行動だ。だから、今日まであいつが神社で保護してくれたのは」
魔理沙はひと際柔らかな笑みを浮かべ、スバルを真正面から見据えると、
「きっと、あいつが優しかったから。スバルを助けたかったから助けた。それだけだと思うぜ」
「――ぁ」
その、全てを明らかにする言葉に、スバルの喉が弱弱しく鳴った。
胸の奥の重苦しいものが抜けて、代わりに心地よい温かさが広がっていくのを感じる。
それは結局、霊夢がスバルをどう思っているのかが分かる話ではなかった。
彼女にとって自分は、この一か月、面倒ごとを増やす厄介者だったかもしれない。今この場にいないのは、スバルの送別会なんてどうでもいいだけなのかもしれない。
でも、だからなんだ。
彼女が、誰とも知らない人間を一か月以上保護してあげるようなお人よしであると、その優しさに救われたのがスバルであると、それだけは分かったのだ。
仕事だからと言い続けてきたのは照れ隠しか、それともこちらに負い目を感じさせないフォローかだったのか。どちらにせよ、彼女は一度だって、助けた感謝やお礼をスバルに要求すらしなかった。
「そんな生き方、メチャクチャ損するばっかりじゃねぇか」
言いながら立ち上がり、強く握った拳を見据える。そのスバルの姿に、魔理沙もいつものような笑みを浮かべた。
「俺、やっぱり霊夢を探してくる」
このままお別れしてはいけない。あっちがどう思っていようと関係ない。スバルは、スバルが後悔しないために、彼女に伝えなきゃいけないことがある。
愛用のジャージの埃を叩き、鳥居に向けて一歩を踏み出した――その時だった。
「――噂をすれば、なんとやらね」
――レミリアの言葉と共に、彼女は現れた。
4
コツ、コツ、コツ、コツ、コツ。
神社へと続く硬い石段を踏み鳴らす、規則正しい足音が響く。
その場にいた全員の視線が、自然とそちらへ向けられた。そして直後、石段の向こうからその姿が現れた瞬間、スバルの瞳が揺れる。
「……れ、いむ」
コツ、コツ、コツ、コツ、コツ。
紅白の巫女装束に、大きな赤いリボン。
この一か月で何度も見てきた、見慣れた姿。なのに、数時間離れた今、それがどうしようもなく懐かしく感じられて。込み上げてくる安堵に、視界が僅かに滲む。
スバルは堪えがたい激情をそのまま喉から吐き出そうと顔を上げ、
「っ、れい――!」
「霊夢うぅぅぅぅぅ!!」
その叫びは、横から飛び出した少女――伊吹萃香の、さらに大きな絶叫によってかき消された。
小さな体が弾丸のように飛び出し、勢いそのままに霊夢の胸元へと飛び込んでいく。
「待ってたぞぉ! 早く一緒にお酒飲もぉぉっ!!」
どうやら相当に酔っているらしい。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を霊夢の服に押しつけているせいで、紅白の巫女服が早くも悲惨なことになっている。
それを見て若干引き気味になりながらも、彼女が帰ってきてくれた事実に笑顔がこぼれた。
「……帰ってきたなら、まあ……いいか」
周囲を見れば、魔理沙も、レミリアも、咲夜も、そしてカナも、どこか安堵したような表情を浮かべている。どうやら皆、スバルと同じような不安を僅かながらでも感じていたらしい。
ともあれ、これで停滞していた菜月昴のお別れ会を正しく始められると、皆が席に着こうとした。
――その時だった。
ずしゅしゅ。
妙な音が、その場に響き渡った。
固い物が柔らかい物を突き抜けていったときに鳴る、音。
「…………え?」
誰かが漏らした弱弱しい声と同時、皆が再び霊夢と萃香の方に向き直る。
すると、萃香の背中からは無数の遺物が飛び出していた。――針だ。夕焼けに反射する金属製の針が無数に、彼女に突き刺さっている。
頭、喉、肩、胸、腹、足。刺さっていない所を探す方が難しいほど、無数に。
あまりに現実味の無い光景に、誰一人、動くことはできなかった。
次の瞬間、斜めに傾いた萃香の体が地面に崩れ落ちる。衝突の際、突き出ていた針がさらに深く突き刺さって、ぐちゃりと嫌な音を立てた。血飛沫が舞い、スバルの足元まで数的飛んでくる。赤が、じわじわと広がり、萃香を中心に広がっていく。
そんな惨状の一番近くにいても、霊夢は――それは動かない。いや、違う。動いている。音がする。
コツ、コツと、最初はそれが、足音だと思っていた。でも規則正しい音は、それが歩みを止めても鳴りやんでいない。
コツ、コツ、コツ……カツ、カツ……カツ、カチ、カチ、カチ。
「なん、だ……これ……」
音の発生源は、足元ではなかった。それは――彼女の口元から響いていた。
霊夢の顔は、中心で縦に割れている。顔の左側は黒、右側は白。
彼女が普段使っている陰陽玉。それを無理やり人の顔に押し込んだようになっている。しかも白と黒の境界部分は避け、そこが口の役割を果たしていた。
そして裂けめの奥で、無数の鋭くとがった歯がこすれ合い、異音を鳴らしているのだ。
「カチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチ」
「お、おい……霊夢、お前……」
沈黙を最初に破ったのは魔理沙だった。かすかに裏返り震える声を、それでも振り絞って、
「なんで、萃香を殺った!? 争いなら、スペルカードで決着つけるのがルールだろ!!」
「カチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチ」
魔理沙の訴えに、霊夢は歯の擦れる音で返事とする。会話が通じる気配はない。そして、そいつの背中から――さらに生えた。
萃香に刺さっていた硬質な針が、背骨部分を中心に伸び、背中全体へと広がっていく。全身が狂気の集合体。ハリネズミじみた姿へと変貌を遂げていく――その、前に。
「ぎっ!!」
耳を裂くような衝撃音が、スバルの耳を打っていた。
目にもとまらぬ速度で飛び出した騒霊――カナ・アナラベル。彼女がどこからか取り出した標識のような鈍器を、霊夢の顔面へと振り抜いたのだ。
衝撃に遅れて霊夢は吹き飛ばされ、地面を転がり、境内の端にあった灯篭に激突する。
「カナ!?」
スバルが咄嗟に名を叫ぶが、彼女は振り返らない。
「あなたたち、これが霊夢だとでも!?」
そして声音には、先ほどまでの物静かさが嘘だったかのような激情が現れていた。彼女は振り抜いた鈍器を手元に引き戻すと、倒れこむ霊夢に追撃を放たんと、大地を蹴った。
「霊夢はころしなんてしない! こいつは――ッ!」
だが、それは完遂されなかった。
鈍器を振り下ろす直前、それの姿が目の前から掻き消えたからだ。音すら追いつけない速度で、いつの間にかカナの背後へと移動したそれは――彼女の顔に、ぴたりと、手を添えた。
「――――っ、あ、っ、ああああああっ!?」
その瞬間、彼女の絶叫と共にひねり出されたのは、黒い蒸気だ。
手が添えられた顔には一枚のお札が張り付けられていて、そこから皮膚がドロドロに溶け、文字通り消えていっている。
彼女は消える寸前、声にならない声で何かを叫び、こちらに手を伸ばしたが――、
「――――」
それが分からないまま、彼女は塵となって消えた。地面に残されたのは、僅かに焦げた一枚の札だけだ。
「……くっそ」
瞬く間に二つの命が消え、魔理沙が震えながら言葉を零した。
「私はあれと戦うなんてごめんだぜ、逃げるぞ」
「……お嬢様、ご決断を」
目まぐるしく状況が変わる中、レミリアと咲夜、魔理沙は既に生き残るために思考を巡らせている。
その中で一人、スバルだけが、呆然と立ち尽くすしかできなかった。
「…………なんだ、これ」
口の中で、その言葉が何度も反芻される。
「……なんだこれ、なんだこれ、なんだこれ」
だって、意味が分からない。
さっきまで一緒に話して、笑って、霊夢の帰りを待っていた。萃香が、カナが。目の前で、肉が裂けて、焼かれて、苦しんで、消えて――死んだのか?
あれは霊夢じゃないのか。じゃああれはなんで、この状況は現実なのか。
気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。
「――バル!」
足が震えて、必死に吐き気をこらえる中、頭の隅で誰かの声が響いて、
「スバル、伏せろ――!!」
それが魔理沙の声だと気づいた時には、もう手遅れだった。
一瞬、風を切るような音がしたかと思えば、次の瞬間には体が大きく後ろへ吹き飛び、神社の柱に叩きつけられる。
「……あ、っ、ぶ」
内臓が全部ひっくり返るような衝撃に、のたうち回ろうとして、出来なかった。
柱に衝突した体がいつまでたっても地面に落ちない。原因は、頭蓋に突き刺さった針だ。針が柱に縫い留めたスバルの落下を許してくれない。
途端に、たらりと頬を伝った赤い鮮血を手で拭って確認し、自分の置かれた状況を理解する。
――ああ、これ全部、俺の血かよ。
想像を絶する痛みに視界が、ぐるぐると回る。
魔理沙が視界の端で何かを叫んでいるのはかろうじて見えた。レミリアと咲夜の動きは、速すぎて素人の自分には何も分からなかったけれど。
不思議と、恐怖はなかった。ただ願ったのは彼女が、「博麗霊夢」が無事でありますように、ということだけだった。
壁に縫い付けられた体で、精一杯に手を伸ばす。恐らく、レミリアと咲夜と戦っているだろう異形の何かに。それが彼女じゃないのだとしても、これから消えゆく自分に出来るのは、彼女の幻影に追いすがる事だけだ。
「……っていろ」
遠ざかる意識の首根っこを引っ掴み、無理やりに振り向かせて時間を稼ぐ。
『痛み』も『熱』も全ては遠く、無駄な足掻きの負け犬の遠吠えだ。
だが、それでも――、
「俺が、必ず――」
――お前を、救ってみせる。
次の瞬間に彼――ナツキ・スバルは命を落とした。