「がああああああぁっ!?」
突如として響いた喉をつんざく絶叫。それと同時に、スバルはがむしゃらに布団から飛び起きた。
痛い、痛い、痛い、痛い痛い痛い痛い痛い。
呼吸が乱れ、心臓はけたたましく鼓動を打つ。目は見開いたまま焦点が定まらない。目は大きく見開かれたまま焦点が定まらず、ただ両手だけが明確な意思を持って頭へと伸びていた。そのまま頭皮を掻いて、掻いて、掻きむしる。
そこに深々と突き刺さっている何かを、抜き取るために。
「あ、あれ……?」
ふと、両手の動きが止まる。おでこの前で左右に手を往復させ、空を撫でるようにして何もないことを確認した。
――ない。頭には何も、突き刺さっていない。
ようやく少し呼吸が落ち着いてきて、スバルは周囲を見渡した。
障子の壁から差し込む朝の光。僅かに軋む畳と、遠くから聞こえてくる鳥のさえずり。鼻をくすぐるどこか懐かしい木の匂い。
どれも、この一か月スバルが何度も目にしてきた、変わらない博麗神社の朝の光景だった。
「はは……なんだ、これ……」
からからに乾いた喉から、掠れた笑い声が漏れる。
戸惑いながら自分の体に目を向けると、着ていたシャツが汗でぐっしょりと濡れていた。生地が肌に張り付く感触が不快感を煽る。
「最終日の朝だってのに、酷ぇ悪夢だ」
夢、のはずだ。だって現に、頭には何も刺さっていないし、かすり傷の一つもありはしない。
でもじゃあ、こびりついて離れない――そこに何かが刺さっていたようなこの違和感は、なんだ。
「っ、そうだ、霊夢、霊夢は……どこだ」
思い出したように、彼女の名前が口から零れる。夢の内容がそうさせたのか、それとも単に心細かったのか――今はただひたすらに、彼女の顔が見たかった。
なんとも情けない話だと思う。悪夢にうなされ、同年代の女の子に泣きつくなんて。霊夢にもドン引きされて、この一か月で積み上げた地位が崩れ落ちるのは容易に想像できる。
それでも、彼女を求めて進む足を止められない。
ふらふらとおぼつかない足取りで部屋を出て、無我夢中に家中を捜索する。
居間を抜け、廊下を渡り、全ての部屋を隅々まで当たる。仏間、台所、脱衣所、温泉。もはや同居人としての配慮も忘れ、しらみつぶしに彼女を探したが――、
――夢と同様。博麗霊夢の姿は、どこにもなかった。
2
その後の展開も、やはりおおよそ夢の通りに進んだ。
「……霊夢が、いなくなった?」
そう困惑の表情を浮かべるのは、宴会の準備にいち早く駆け付けてくれた魔理沙だ。時刻も、日の高さから察するに日本でいう朝九時頃。夢の内容と何も変わらない。
「ああ、朝起きた時にはもう、どこにも」
自分で言って既視感を感じるやり取りに、スバルは気味が悪くなって下を向いた。
「……ん? この大荷物が気になるのか?」
すると、俯くスバルの視線が、自分の両手に向かっていると解釈したのだろうか。彼女は両手にぶら下げていた袋を視線の高さまで持ち上げてくれる。
――三人での宴会と言うにはあまりに多い、大量の食材やお酒の詰められた、袋を。
「実は、今日の宴会を聞きつけた鬼やら吸血鬼やらが自分も顔を出すって聞かなくてな。だからこんな大量に用意する羽目になったんだ」
その説明に、スバルの背中を冷たい汗が伝う。これ以上は聞きたくない。だが確かめない訳にもいかないと、何度も迷いながら恐る恐る口を開いた。
「なあ、その鬼と吸血鬼って……伊吹萃香と、レミリア・スカーレットって名前じゃないよな」
「……お? よく知ってんな。霊夢から聞いたのか?」
「――――」
瞬間、喉に蓋をしたかのように声が出なくなった。
幻想郷に来てからのスバルの行動範囲は、せいぜい博麗神社と人里の周辺。鬼や吸血鬼なんて大物と出会った覚えは一度もない。にも関わらず、自分は二人の名前を知っている。
いや、名前だけではない。顔も、声も、仕草も。それどころかあの時、全身を串刺しにされた少女の血の色までもが、鮮明に思い出せて。
「うぅっ!」
途端に、胃の中がひっくり返るような吐き気に襲われ、スバルはその場にしゃがみ込んだ。境内に中身をぶちまけてしまわないよう、慌てて両手で口元を押さえる。
「スバル!? どうした、大丈夫か!?」
魔理沙が慌てて荷物を地面へ置き、傍に駆け寄って来る。
けれど、すぐそこまで込み上げてくる吐瀉物を押し戻すので精一杯。大丈夫だと虚勢を張る事すら叶わなかった。
なんとなくの既視感じゃない――確かな記憶だ。
知る由もない情報を有しているのがいい証拠。正直、スバルの心は今も大波に呑まれる嵐の中にいる。だが、この状況は――、
「前にも見た状況――つまり予知夢」
目覚めの瞬間から今までの状況を鑑みるに、そう考えるのが妥当ではないだろうか。
そう思えば、意識の途絶――現実への覚醒と言うべきか。その瞬間の記憶が曖昧なのも納得できる。夢は不思議と、指の隙間からこぼれ落ちて消えてゆくものだ。
あるいはこの予知夢こそが、幻想郷へ招かれたスバルに与えられた特殊能力。だったら、
「……スバル?」
ふらつく足に力を込め、どうにか立ち上がる。
拳を握り、呼吸を整え、不安そうにこちらを見つめる魔理沙へ視線を向けた。
「俺、霊夢を探してくる」
「……は?」
「悪い、宴会の準備は後で手伝うから……っ」
「ま、待てよ!」
だが、神社に背を向けて走り出す直前、魔理沙の手がスバルの腕を掴んだ。
「急にどうしたんだぜ。霊夢ならその内戻ってくるかもしれないだろ」
「分かってる! ちょっと人里まで様子を見に行くだけだ。いなかったらすぐ戻ってくる」
振り返ることなくそう返すが、彼女は手を放してくれない。その声に含まれた困惑と心配が、背中越しにも伝わってくる。
けれど今は、それに答えている時間すら惜しかった。だから、
「……頼みがある。俺が戻るまでは神社の中にいてくれ。出来ればレミリアも、咲夜も、萃香も、みんな一緒に。あと、神社にはカナっていう騒霊が憑りついてるから、そいつにも伝えてくれな」
「……スバル、お前は、何を」
何を、知っているんだ。魔理沙の胸に浮かんだ疑問が形になる前に彼女の腕を振り払った。
だって、何を知っているかなんて、スバル自身にも分からない。今はそれを確かめるために、一人神社の外へと駆け出していく。
ただの勘違いなら、それでもいい。霊夢と入れ違いになって、戻ってきたスバルが笑いものにされるなら、それでもいい。そうなれば、全部思い出話で済む。だから――、
「頼むから、夢であってくれよ……!」
この悪夢が現実になる。その可能性が万が一にもあることが怖くて、怖くて。
悪夢に追いつかれたくない一心で、今はがむしゃらに足を動かすことしか、出来なかった。
3
正直なところ、霊夢を探しに飛び出したのは、恐怖心の裏返しに過ぎなかった。
この先にどれだけ恐ろしいことが待っていようとも、彼女がいればきっと何とかしてくれる。そんな根拠のない妄信が、スバルの足を動かしていたのは否めない。
だから、人里へ向かえば霊夢に会えるというのも、確証のない推測だ。。ただ、買い出しや見回りで彼女が最も頻繁に足を運ぶ場所が人里だということは、この一か月で知っている。少しでも可能性の高い場所へ向かう。それが、この世界について何も知らないスバルにできる精一杯だった。
「は、は、は……!」
現在スバルが走っているのは『魔法の森』と呼ばれる場所だ。幻想郷に迷い込んだ初日にも通った、薄暗く陰鬱な森林。木々の間から差し込む陽光は少なく、まだ昼前だというのにどこか夕暮れ時のような薄暗さが漂っている。
魔理沙と別れて神社を飛び出してから、どれだけ時間が経ったのかは分からない。それでも、スバルはまだ一度も足を止めていない。肺は今にも焼けそうなほど熱く、喉はひりつき、額から流れ落ちた汗が目に入る。それでも、足は止めない。
「こっち来てから体力に磨きはかかったはずなんだが、しょせんは人の子か」
外の世界で引きこもっていたころも、自分なりに習慣化してトレーニングはしていた。幻想郷へ来てからは巻き割りや掃除などの肉体労働も増え、以前より身体が軽くなった実感だってある。
それでも、結局は普通の人間だ。
異世界に来たからといって、突然超人的な身体能力を手に入れられるわけではないらしい。そんな当たり前の事実が、今はひどくもどかしかった。
だが、今は息苦しさ以上にスバルの思考を乱しているものがある。
「……森が、やけに静かだな」
――森が、変だ。
風は吹いている。木々の葉もざわざわと揺れている。けど、それだけだ。鳥のさえずりも、無視の羽音も、生命を感じさせる音がしない。
幻想郷に来た初日、この森を通った時には、確かに妖精達の姿があった。木の影からこちらに顔を覗かせたり、無邪気に飛び回ったりする姿は神秘的で、この世界の『幻想』を象徴していた。
その音が、今はまったくしないのだ。
そして、もう一つの違和感。
「枝も、こんなに多かったっけ」
頭上に低く垂れ下がる枝。道を横切るように伸びたツル。その隙間から覗く、黒くくすんだ何か。
気を抜けば体にぶつかりそうになるため、先ほどからスバルは何度も身をかがめたり、腕で払ったりしながら、慎重に進むことを強要されていた。
ここの獣道が雑なのは今に始まったことではないが、ここまで歩きにくかった覚えもない。
「まさか、植木職人みたいなのが定期的に伐採してたのか? そんで今が偶々停滞期だってんなら、運がなさすぎるぞ俺……!」
半ば冗談めかした泣き言が漏れ出る。
怖かった。増えていく異常が、あの悪夢に徐々に迫っている事の証明に見えて。
――そしてついに少年は、再び悪夢に追いつかれることとなる。
「……っあ!」
不意に、避け切れなかった枝が額に直撃した。
へんに柔らかな感触に押し返されて、スバルはその場で尻餅をついた。
「てて、しくった……あ?」
反射的に額に触れた時、ぬるりとした感触が掌を覆った。何事かと視線を落とせば、手についていたのは、赤黒く粘性のある液体。
最初は、自分が出血したのだと思った。だがそれにしては、量が多すぎる。額に痛みもない。
――ならこれは、今、衝突した枝から付着したものだ。
恐る恐る、視線を上げた。
「――っ、ひ」
そこにあったのは、枝じゃない。枝から吊るされた何か。
歪んだ四肢、千切れた羽、開いたままの、濁った瞳。――それは、妖精だった。かつてそうだった亡骸だ。
小さな体は、首つりの要領で枝から垂れ下がり、原形をとどめていない。腕は不自然な方向にねじれ、腹は裂けて、肋骨が飛び出していた。
その光景を前に、スバルの呼吸が止まった。
時折、神社の境内を無邪気に飛び回っていた命が、無垢な子供にしか見えない存在が。無造作に、弄ぶように、殺されているのだ。
背筋が凍る、肩が制御を外れたように震えだす。これは見間違いであると、咄嗟に目を背けた。
けれど、見たくなかった現実はあまりにも近い。
「――ぁ」
枝、枝、枝、枝、枝、枝。
枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝、枝。
視線を少しずらすだけで、いくらでも見える。森のあちこちの、木の枝が、曲がった蔓が、折れた幹が。枝だと思っていた物が、次々と正体を現し始める。
目が暗闇に慣れるにつれ視界がはっきりし、それら全てが、吊るされた命の成れ果てなのだと理解した。
「あ、ああ、あああああああああああ――!?」
尋常でない光景にスバルの喉が絶叫する。
裏返った悲鳴が出て、出て、出尽くして、そうなれば次に来るのは込み上げる嘔吐感だ。それを盛大にぶちまけた。
「げ、おえっ! げほっ! げほほっ! はぁ……っ」
ほとんど空っぽの胃の中身を吐いて、黄色い胃液を乱暴に袖で払う。吐いて、項垂れている場合ではない。
何だ、これは。何が起きたんだ。誰がこんなひどいことを。
何度自問自答を繰り返そうと、スバル一人しか生者のいないこの狂気の世界では、返事がくるはずもない。はっきりしているのは、一つだけ。
――ここはもう、幻想郷と呼べるような場所ではないということだ。今目の前に広がっているのは、地獄以外の何物でもない。
そして悪夢というものは、簡単には終わってくれない。
「ン゛?」
低い声が、背後からした。
この世の物とは思えない奇怪な音に、スバルがぎこちなく振り返ると、
「ン゛?」
顔の横からじかに手が生え、口元は歯茎がむきだしで、目玉のある場所は空洞になっている――そんな生物として何もかもが理解不能な存在が居座っていた。
「……あ、ああ」
体に付着した大量の血、そこしれぬ狂気、幻想には程遠く、しかしこの場には誰よりも似合う姿を前に、スバルは直感する。こいつこそが、この地獄を作り出したのだと。
だが、その認識はそれでも甘かった。
逃げなければ、そう思って反射的に振り返れば――そこにもいた。
「きゃははははははははははははっ!!」
一見すれば可愛らしい人形のような風貌。だが、その手には明らかにミスマッチな重厚な斧が握られている。そしてやはり、その体は血で真っ赤に染まっていた。
――気づけば、自分は囲まれていたのだ。
周囲を取り囲むのは、形も大きさも、全てが異なる化け物。
「ギャハハハハハハハハハハッ!!」
「ごめんなさいいぃぃぃいいいいいいい」
「わかるよ?」
「チョッキンナ、チョッキンナ、チョッキンナ」
ひたすら笑う者。地に頭を擦りつけ、謝り続ける者。理解不能な言葉を、明瞭な発音で喋る者。八頭身に引き伸ばされた痩せた人型。巨大なハサミを開閉する何か。燃えている者。浮いている者。溶けている者。
まるで、狂気の見本市。一貫性のかけらもないそれぞれが、一つ――これから自分をどう殺すのか。その一点だけに共通して、笑っていた。
「っ、い、やだぁ」
恐怖に溺れて、それだけで死んでしまいそうだった。
殺される、殺される、殺される。そこら中に転がる妖精達と同じように、残虐に、悪辣に。
爆竹が鳴ってるみたいに心臓が鼓動して、とても体を動かせる状態じゃなかった。
だからせめて安らかにと、そう願って目を閉じた――その、刹那。
「マスタースパーク!!」
点滅するスバルの意識を、真っすぐに割く声があった。
瞬間、世界が光に包まれる。轟音と共に、空から極彩色の閃光が降り注いだのだ。閃光は地面を焼き、空気を帯電させ、スバルの周囲を円を描くように取り囲んで爆発する。
衝撃で大地は揺れ、スバルの視界は瞬く間に砂埃で覆いつくされる。
「な、にが?」
目を開けたスバルの視界は光にやられて霞んでいたけど――その中でも、確かに見えたものが一つ。
「様子が変だったから後をつけて見れば、案の上だったぜ」
舞い上がる煙の向こう。気づけば頭上の枝や葉は全て焼焦げていて。その中心に浮かぶのは、白黒帽子とまたがる箒が特徴的な少女。
「……魔理沙?」
「ったく、どこまでも目ぇ離せねぇやつだな、お前は!!」
霧雨魔理沙――彼女の声が、絶望の底にいたスバルの心を、確かに引き戻した。