重い。体が、心が、全部が――鉛のように。
意識が眠りという海から浮上し、覚醒という水面を破って瞼が開く。
目覚めの涙は毒のように眼球に染みて、ぼやけた視界を指でふき取りながら、スバルはゆっくりと夢から覚めた。
「……ここ、は」
周囲を見渡せば、目に映るのは長閑な景色。障子の壁、差し込む朝日。僅かに軋む畳の音と、遠くから響く鳥のさえずり。
まただ。
また、いつもと変わらない神社での朝が、嘲笑うようにスバルを出迎える。
重たい体を無理やり起こし、ふらふらと部屋を出る。廊下を抜け、障子を覗き、全ての部屋にくまなく目を通す。
やはりと言うべきか――その中に、霊夢の姿はなかった。
「まさかと思うが、これはアレか。信じがたい話だけど……」
――吊るされた妖精たち。
――狂ったように笑う無数の化け物。
――見上げるほどの巨体。
――魔法使いの友達の、最期の姿。
その一つ一つが、夢であってほしいと思うには、あまりに鮮明で。
あの光景も、感触も、死に至る喪失感も。現実の感触として、五体に強く刻まれている。ならばこれは、夢や予知の類ではない。
ゆっくりと、天所に向かって右手を伸ばす。そのまま、指を握って拳を結ぶが、まだ上手く握れない。地からこもらない拳を見つめながら、スバルは呆れるように、
「死ぬたびに初期状態に戻ってる、ってことらしい」
馬鹿馬鹿しいと自分でも思う、そんな考えを結論とすることにした。
◆
「名付けて『死に戻り』か……。負け犬前提な能力なのが実に俺らしいというか」
命を落として初めて発動する能力。敗北必須の状態から大逆転するのが王道だとすれば、敗北してからやり直しの機械を得る実に邪悪な権能。
「もっとまともに言うと……『時間遡行』ってことになんのか、これ」
限定的な条件下でのループ現象。ゲーム的に言えばスバル自身の意志とは無関係に、オートセーブされた位置へ、死亡することで舞い戻っていると考えられる。
スバルがこの幻想郷で命を落とした回数は、これまでに二回。
過程こそ異なるが、一度目も二度目も、死因はグロい顔をした「霊夢もどき」による串刺し及び失血死という訳だ。
「…………はぁ」
特質系とはいえ、常識を超えた能力を手に入れた。スバル的、というよりオタク的には間違いなく胸が熱くなる展開だ。それでも、心の中を満たしているのは「憂鬱」という一点の感情だけ。
――この推測が正しければ、また同じことが起きる。
森に出れば数多くの化け物が待ち構え、神社で待っていても「霊夢もどき」が迎えに来る。ならば当然、スバルは脅威を避ける方向に意識を向けるべきだ。
どうして『死に戻り』なんて状況が用意されたのかは分からないが、せっかく未来のことを知れる技能を得たのだ。避けられる状況は避ける。それが正しい。
「そうとなりゃ、早速行動だ。数日分の水と食料を持って、異変がひと段落するまで雲隠れと行こう」
寝間着の浴衣を脱ぎ捨て、いつものジャージに腕を通す。
箪笥から保存のきく乾物を詰め込んだ竹皮包みを引っ張り出し、風呂敷にくるんで背中に背負う。
竹筒に水を詰め、おまけにマヨネーズまで入れた隙のない一式が、少なくとも形だけは整った。
「ふーっ……よしっ」
縁側に立ち、境内を見渡す。朝の光はまだ柔らかく、風は心地よく涼しい。
幻想郷はいつも通りの顔をして、今日という一日を始めようとしている。きっと誰もが、起き抜けの時間を呑気に過ごしているのだろう。
だが、それも当たり前のことだった。
この光景が数時間後には地獄へと変わることを知っているのは、恐らくこの世界で――ナツキ・スバルただ一人なのだから。
「……馬鹿なこと考えるなよ。仕方ねえだろ、俺には、何も」
非凡な能力があったって、自分自身が凡人であることに変わりはない。
魔法が使えるわけでもなければ、弾幕一つ撃てない。そんな自分が無理に動けば、むしろ邪魔になるかもしれない。
だから、この世界に数多くいるだろう実力者に任せる方がいいに決まっている。
そう、頭では分かっている筈なのに――。
「……なんでだよ。どうして、こんなときくらい動けよッ」
気持ちとは裏腹に、足は前へ出たり止まったりを繰り返すばかり。
神社の鳥居まで、ほんの十数メートル。それすら一向に進めず、境内で空回りを続けていた。
なぜそうなるのか、自分でも理由が分からない。焦りだけが募っていく中、気付けば数分が過ぎていた。
――そしてそのもたつきは、取り返しのつかない形でスバルの前に現れる。
「……そんなとこで、なにしてんだ?」
頭上から降ってきた少女の声に、スバルは弾かれたように顔を上げる。斜め上に視線を向ければ、
「……どした?」
白と黒の衣装に身を包み、金の髪を風に揺らす少女が、そこにいた。
つい先ほど、目の前で命を落としたはずの友人――霧雨魔理沙が、確かに。
しまった、出発に時間をかけすぎた。
今日、彼女が神社に現れるまでの間、自分はずっと、もたもたと悩み続けていたというのか。
「……あ、えっと、これは」
何か適当な言い訳をして、この場をやり過ごさねばならない。
霊夢を探しに行く? ダメだ。前回はそれで魔理沙がついてきた。そもそもスバルが動き出すこと自体、彼女の疑念を煽ってしまう。どうする、考えろ、考えろ、考えろ――。
衝撃。喜び。罪悪感。
渦を巻く感情が一気に全身を駆け巡り、思考が空転する。
そんな挙動不審なスバルを訝しげに見つめながら、魔理沙は箒をゆっくりと降下させ、軽やかに地面へと舞い降りた。そして、
「なんか変だぜ? せっかくの宴会だって日に寝ぼけてんのか?」
「――――」
声。訝しさを隠さず、それでも奥にわずかに心配をにじませた、霧雨魔理沙という少女の声だ。それを間近に聞いた瞬間――スバルの五体は完全に、フリーズした。
死の間際、掠れてかすかにしか聞こえなかった声ではない。涙と絶望に染められていたあの最期の声ではない。――今の魔理沙は、いつも通りの、元気な姿で、
「…………ッ!」
次の瞬間、スバルは衝動のままに魔理沙へ飛びついていた。
予想だにしない抱擁に、魔理沙は目を丸くし、頬をわずかに赤らめて小さく跳ねる。
手にしていた箒と、食材の入った袋が地面に落ち、乾いた音を立てた。
「な、なっ……お、おい!? いきなり何すんだよ! びっくりするだろ!」
突然の奇行に、魔理沙の瞳は困惑で揺れる。
当然、何も知らない彼女からすれば、この行動は奇妙でしかない。――だが。
「……ほんとに、どうしたんだ、ぜ……?」
訝しげだった声色が、少しずつ柔らかくなる。
顔は見えなくても、抱き寄せたスバルの身体が震えているのを、彼女はハッキリと感じ取ってしまったからだ。
「…………ない」
「……え?」
「……逃げるなんて、出来る訳ない」
掠れるように零れた言葉は、聞き返してなお魔理沙の耳に届かないほど小さい独り言。
だがそれこそが、彼女に追いつかれてしまったスバルの答えだった。
同情とか慈悲とか馬鹿馬鹿しいと、そう振舞っていたはずだ。
少なくとも、スバル自身はそれを偽ってきたと思ってはいない。自分は情が薄い人間だと思っているし、現代人は誰もがそんな感情が希薄なものだ。
だけど、もうそれなりに関わってしまった。
魔理沙だけじゃない。行方不明の霊夢だって、この異変に無関係とは言い切れない。だから――、
「魔理沙、レミリアと萃香を呼んできてくれ」
「は? お前、なんでその名前を――」
「今は一分一秒が惜しい。皆を集めて……話さなきゃいけないことがあるんだ」
ナツキ・スバルはまた、逃げることに失敗した。これはただ、それだけの話だ。
2
「――もうすぐ、幻想郷はめちゃくちゃになる」
博麗神社の系内、これから楽しい宴会だという中で、スバルの第一声は酷く場違いに響いた。
「…………は」
開口一番に飛び出した物騒さに、集まった面々は一様に動きを止める。
縁側に立つスバルを見上げるのは、宴会のために訪れた五名。霧雨魔理沙、レミリア・スカーレット、十六夜咲夜、伊吹萃香、そして葬礼のカナ・アナベラル。
遅れてレミリアや萃香が到着して、たった今全員が揃ったばかり。そのタイミングで突飛な発言をした外来人に、少女たちは皆、懐疑的な視線を向けていた。
「ただ異変が起きるって話じゃない。これから攻めてくる奴らは、こっちのルール全無視で容赦なく殺りにくる。妖精も人間も、誰かれ構わず――」
「――待て待て待て、ちょっと落ち着けって!」
まくしたてられるスバルの言葉を、魔理沙が手をかざして遮る。
「急にどうした。攻めてくるとか殺されるとか、何の冗談だよ? 宴会前から悪乗りしてるんじゃないだろうな?」
「冗談でこんなこと言うかよ!」
声を荒げて反論するが、この場に流れる空気は依然として冷えきっている。当然だ。急にこんな話をされて、信じろって方が無理がある。
早速、コミュ力の低さが露呈し、スバルは内心で動揺するが。そんな彼に、意外な人物が救いの手を差し伸べた。
「……どういう意味か、詳しく聞かせてもらえるかしら?」
そう言って、紅茶を静かにソーサーに戻すのは、レミリア・スカーレット。 興味本位か、どこか退屈しのぎのような声音ではあったが、聞いてもらえるだけでも上場だ。
「理由はなんでもいい。聞いてくれるなら助かる」
「早く話しなさい、外来人。私の気が変わる前に」
急かすような視線に一度頷いてから、息を整える。そして、重く慎重に言葉を紡ぎ始めた。
「敵の全容も、具体的な目的も分からない。けど、やばい奴らが大勢ここにくる。殺しを楽しんでやるような連中だ。話は勿論、通じない」
語る声には終始焦りと苦しさがにじむ。あまりに断片的で、信じ硬い程曖昧な説明。悲しい事に、二度の死を通じてもスバルが得られた情報は少ない。
だから、スバルは理性よりも感情の強さでぶつかっていくしかなかった。
「――異形郷。奴らは、自分の出所をそう言ってた。分かってるのはこれだけだ。でも、このままじゃ本当に危ないってのも確かなんだ。だから頼む」
そして、全員に向かって深々と頭を下げた。
「俺を信じて、出来れば力を貸してくれ。一人でも多く、助けたいんだ!」
力を必要としているのは、こちら側だけ。だからこそ、縋りついてお願いする。それだけが、時間も知恵もないナツキスバルに用意できたものだった。
途端に、長い長い沈黙が流れる。
ここから先は考えていない。信じてくれないのなら、警告できただけでも良しとして、スバル一人で動き出すつもりだった。だが、次の瞬間――
「……そう。やっぱり、あなただったのね」
レミリアが小さく呟いた言葉。それ自体は誰の耳にも届かぬほど小さなものだったが、
「今の話、私は信じるわ」
「――っ、マジでか!!」
次なる言葉は、確かにその場に響いた。同時にスバルの目は見開かれ、顔がパアっと明るくなる。思わず「俺の熱意、通じたぁ!」と叫びだしたくなる衝動を抑え、小さくガッツポーズをとった。
「……お嬢様、よろしいのですか? 正直、私にはただの戯言にしか」
「――咲夜。私の考えが信じられないの?」
咲夜が遠慮がちに口を挟むが、レミリアに視線を向けられると「失礼しました」と口にしてすぐに引き下がる。
レミリアはそのまま、流れるように周囲を見渡す。他の面々の顔色を伺うようにして、口を開いた。
「さて……他の皆はどうするのかしら?」
「私は正直、まだ何がなんやらって感じだが……そこまで必死にお願いされちゃあ、協力しない訳に行かないよな」
「ごっこじゃない喧嘩なら任せろ~。あとで酒を奢ってもらうけど!」
「私はパス。憑りついてる神社からあんまり離れたくないもの。……それに、ここも守らなきゃでしょ?」
真剣に受け止めてもらえているかは分からない。けれど、冗談だろと突き放す者はいなかった。とりあえずでも信じてくれた。それが分かるだけで、胸の奥がじんと熱くなる。
怖かった。信じてもらえずに、一人で立ち向かう未来が。
誰も死なせたくないのなら、協力を求めること自体、間違っている。全部を一人でやるべきかもしれない。
だけど、スバルにはそれを成すだけの勇気も力もありはしない。だから、
「皆、ありがとう……!」
スバルは深く、深く頭を下げた。それは、命を懸けてくれる仲間たちへの、心からの感謝の証。
そして、ゆっくりと顔を上げると同時に――ギュッと拳を握りしめた。
今回は、今までとは違う。後手に回るだけの情けない死はもう、繰り返さない。平和な幻想郷を無茶苦茶にしようとする「異形郷」とやらに一泡吹かせてやる。
「勝負と行こうぜ、異形郷――運命様上等だ!!」
幻想郷を救って、自分も生き延びて、三人での約束を果たすために。
3
菜月昴による異形郷の侵略宣言。 突飛な内容ながらも、場にいた者たちは最終的に彼の言葉を受け入れ、話し合いはひとまずの区切りを迎えた。
「……なあ、ちょっといいか?」
「なにかしら?」
出発に向けて、それぞれが準備を始めたタイミング。咲夜も離れて一人になっているレミリアに、スバルはそっと距離を詰める。
一週目、彼女に近づこうとしただけで切られかけたスバルとしては、咲夜の不在を狙ったのは完全にわざとだ。
「さっきはありがとな。最初に信じてくれたの、マジで助かった。レミリアがいなきゃ、たぶん誰も俺の話なんてまともに聞いてくれなかったと思うし」
スバルはレミリアのことを、格式が高い如何にもな「お嬢様」だと決めつけていた。そんな彼女が、外来人である自分の言葉に耳を傾け、真っ先に支持してくれたことは、正直意外だ。
「ふふ、気にしないでいいわ。信じたっていうより……そうね。補強材料が揃っただけよ」
「……補強材料? 俺的には、熱い演説に心を打たれて! 的な展開だと思ってたんだけど」
ちょっと残念そうに口を尖らせて言えば、レミリアはくすりと小さく笑う。その笑みに「それは勘違いよ」と言われた気がして、スバルはバツが悪そうに視線を逸らした。
「まあ、悪くはなかったわよ、勢いはあったし。……でも、最初から言伝があったの」
「言伝……?」
「ええ。『近い将来、幻想郷崩壊規模の大異変が起こる。異変の予兆・兆候が現れた場合、有力者たちは紅魔館に集結せよ』ってね。あなたの話が、それに合致してたってだけ」
その言葉に、スバルは小さく息を呑む。
妖精たちが、ルール無用に殺されていた光景を思い返す。あの凄惨な場面を前に、スバルの中には確かに「これはヤバい」という感覚が芽生えていた。
だが、幻想郷崩壊規模。
その一言が与える重みは、想像以上だ。ひょっとしなくても、スバルが逃げてれば勝手に解決する問題ではないらしい。そして、その渦中に自分が立たされているという現実は、胸の奥から焦燥感を引きずり出す。
「そういうことだから。特に考えがないなら、紅魔館に向かいましょう」
「それに関しちゃもちろん異論なし。そっちに従う」
肩の力を抜いて笑って見せるが、緊張を隠せない。レミリアはそんなこちらの様子に気づいていたのかいないのか、小さく笑って「大丈夫よ」と言葉を返してくれた。
スバルは、数歩遅れて彼女の背中を追う。だがふと、胸の奥で一つの疑問が生じた。
――異形郷の襲来。
もしそれが、何十年、あるいは何百年と続く幻想郷の歴史において、かつてない危機なのだとしたら。その瞬間に、たまたま迷い込んで一か月滞在しただけの自分が居合わせているのは、あまりに運が悪い。
もしかしたら、単なる偶然以上の「意味」があるのではないかと。
「スバル、そろそろ出発するぜ!」
「……ああ、今行く!」
思考を中断し、皆の背に続いて再び走り出す。
――四月二七日・正午。
菜月昴を含む五名の博麗神社出発。それと同じタイミングで、幻想郷のどこかの空では――異形郷による侵略が、始まった。