星の息吹と宇宙猫   作:子守家守

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ディフォームド・リポート(1)

 大陸亀(イア・ルコグム)の討伐からしばらくして、DJ号は惑星ウーサの静止軌道に到達した。

 

 予定通り、艦そのものは地上に降りてこない。というか、降りることができない。700年前に建造されたこの艦は、地上から資材を打ち上げて宇宙空間で組み上げられたものだ。そもそも地上への着陸を想定していないし、その機能も備わっていない。

 

 DJ号は、言うなれば宇宙を航行可能な移動都市だった。1万人の乗組員(クルー)が今も艦内で生活を続けている。ほとんどの乗組員は、生まれてから死ぬまでの一生をそこで過ごすのだ。当然、艦内には彼らの住居があるし、病院もあれば様々な商店もある。

 人工重力で制御された都市空間は広大であり、それが艦の構造を巨大化させる一因となっている。この巨大艦がうっかり惑星ウーサの重力下に入ろうものなら、自らの構造を支えきれずに自壊してしまうことだろう。

 

 それでも、母艦が惑星に近い宇宙に停泊してくれるとなれば、地上とのやり取りは相当スムーズなものになる。物資の補充はより短時間で効率的に行うことができるようになったし、通信の遅延(ラグ)もほぼゼロといっていいものになっている。

 

 任務から帰還した東部基地のコンテナハウスで、僕は通信端末と向き合っていた。三船と安藤はそれぞれ自分の仕事で外に出ていて、室内には僕ひとりだけだった。

 通信端末を立ち上げて、表示されたリストから目当てのアドレスを選択する。事前にメッセージでアポイントメントは取ってあった。相手に急用でも入らなければ、リアルタイムの通信が可能な手筈になっている。

 

 軽快な電子音が鳴って、端末に接続完了と表示された。

 大気圏を隔てた遥かな高みに停泊する宇宙艦のカメラが、約束した相手の姿を映し出す。

 

「こんにちは。時間通りですね、京奈院さん」

「お久しぶりです、水無(ミナ)先生」

 

 端末に映ったのは、黒髪を腰まで伸ばした女性の姿だった。目元の印象は柔らかく、ほんのりと上品な微笑みを浮かべている。見た目の年齢は二十代の後半といったところ。白と藍色のツートンのワンピースドレスを身に纏っている。

 彼女の姿は僕の記憶にある風貌とまったく同じだった。老いてもいなければ、若返ってもいない。髪の長さも以前と変わりない。たぶん、変更する必要がないのだろう。受け持っている子どもが要望しなければ、彼女が自発的に容姿を変更することはないからだ。

 

 水無という名前を持つ彼女は、人間ではない。

 DJ号の子どもに対して教育を行う、人工知能の家庭教師(チュータ)である。ボディは主に金属と樹脂で形成されたロボットで、一部の外装には生体的なパーツも採用されているモデルだ。

 

「連絡をいただいて嬉しく思っています。地上の暮らしはいかがですか?」

「暮らしと言えるほど地に足は付いていませんけど……。ええ、新しい発見ばかりで、とても面白いですよ」

「それは良かった。京奈院さんたちが上手くやっていけているのか、心配していたんです。異星人との交流という事例は、(フネ)の記録にもありませんから」

 

 水無の声色は非常に滑らかで、口調も人間となんら変わりのないものだった。通信越しに声を聞いただけで彼女が人工知能だと判別するのは難しいだろう。加えて、人工皮膚を纏った彼女の外見は人間に非常に近いものとなっている。実際に顔を合わせても、生理的な違和感を覚えることはほとんどなかった。

 とはいえ、ロボットのボディからは識別信号が発信されているし、乗組員(クルー)であれば外部端末なりインプラントなりでその信号を常に受け取ることができる。うっかり人間とロボットを取り違えてしまうのは、幼い子どもくらいのものだ。

 

「艦の方はどうです? 地上の情報はどれくらい公開されてるのかな……」

「76番惑星で異星人が発見されて、現地のチームが調査を行っている、とだけ報道されています。詳細情報は上手くコントロールされていますね。適度に期間を空けながら少しずつ情報を開示しています。今はウーサという惑星の呼び名と、ユミツという国の名前が公開されたあたりです」

「現場にいるとその辺の流れは伝わってこないなぁ。どういう基準で情報を小出しにしてるんだろう」

「少なくとも、『魔法』の存在は当面の間は伏せる方針のようですね。未知の技術の解析と脅威度の評価、それに対する政府の対応が決定するまで報道されることはないでしょう」

 

 しれっと言ってのけた水無に、僕は思わず片眉を傾けた。

 

「まぁ、納得できる話ですけど……。というか、水無先生は『魔法』のことを知ってるんですね」

「はい。二日前にデータをいただきました」

「一般には伏せられている情報なのに? うーん、経緯がわからないなぁ」

 

 水無を含めて、DJ号で運用されている人工知能はすべて、大元を辿れば艦の管理システムを司る人工知能から派生したものである。

 しかし、だからといって彼女たちが管理システムと常時接続を行っているというわけではない。ロボットのボディを運用して対人業務に従事する人工知能を、管理システム側から常にコントロールするのは負荷が大きくて非効率であるし、セキュリティの面でもリスクがある。

 

 だから、水無のようなサブセットは、基本的には独立した人工知能として活動していて、特定のタイミングで管理システムへの同期を行うという運用形態をとっている。通常業務を行っている間は自身の機能で掌握できる範囲でしか情報の収集を行えないが、同期のタイミングで艦の管理システムから管轄外のデータを提供される可能性がある、ということだ。

 当然、その際にどんなデータを送るのかは、大元となった人工知能と艦の運営チームとに監督されている。一般の乗組員に秘匿されるような情報は、家庭教師(チュータ)のような一般業務用のサブセットには秘匿されるのが通常である。

 水無の口振りだと、今回はその原則が曲げられているようだから、経緯が気になってしまうのも当然のことだった。

 

「理由は単純です。データの提供に伴い、私の業務に京奈院さんの相談役を務めるというものが追加されました。秘匿レベルの高い探査記録は、そのための共有情報として提供されています」

「相談役、って……、僕がなにを相談するんですか?」

「雑談相手と言い換えてもいいですし、備忘録の記録官でも構いません。京奈院さんが惑星ウーサで感じたこと、考えたことについて、好きなように話してください。あなたと意見交換を行い、会話の記録を取ることが私の仕事になります」

「ええと、それはなんのために」

「私たちの会話記録を編集して、後日、ドキュメンタリィに仕立てる計画があります」

「冗談でしょう?」

「仕事で冗談は言いません」

 

 僕は額に指を当てて呻き声をあげた。正直、気が進まない仕事だった。

 自分の行動が記録(ログ)として残るのは、DJ号ではごく当たり前のことなのだが、それを編集して作品に仕立て上げるとなると話は変わってくる。プロパガンダなのか大衆娯楽なのかはわからないが、見世物にされるぞと言われれば、やはりそれなりの心理的な抵抗があった。

 

 ……とはいえ、ここでぐだぐだ言ったとしても、会話記録を取ることが既定路線なのは間違いない。だとしたら、僕にできることなんて、せいぜい企画がお流れになって忘れ去られることを祈るくらいである。

 

「正確に説明するなら、主たる目的としては、データ形式のレポートとは別の形で惑星ウーサの情報を取得することとなります。こういった対話形式の情報収集は、京奈院さんだけでなく、三船さんや安藤さんにも実施される予定です」

「ああ……、まぁ、それならまだ呑み込める話ですね」

「収集された会話記録は艦のシンクタンクで解析を行います。解析結果は惑星ウーサとの交渉においても活用されることになるので、積極的な協力をお願いします」

 

 上品な語り口で決定事項のように語られると、どうにも反論するための気勢が削がれてしまう。もしかしたら子どものころにそういう刷り込みをされていたのかもしれない、と最近になって考えるようになってきた。もっともそれは、ごく普通の教師と教え子の関係性として、一般的な範疇でのことだとは思うけれど。

 

「うーん、でも、こういう風に改まって『さぁ、どうぞ』って言われると、なにを喋ればいいのかちょっと困っちゃいますね」

「それでしたら、美人の異星人に接待された感想などはいかがですか?」

「……本当になんでも知ってますね、先生……」

「いいえ、なんでもは知りません」

 

 通信機越しの水無が優雅に微笑んだ。

 稼働時間700年の人工知能が行う表情操作は、膨大なデータ集積の成果なのか、人間よりも人間らしい笑顔に見えた。

 

「どうでしょう? 接待を受けて、性的な興奮を覚えましたか?」

「いや、別にそんなこともないですけど……。あの、これって最初にピックアップするほど重要な話ですか?」

「ええ、もちろんです」

 

 水無はかつての教え子に言い聞かせるように、滔々と言葉を紡いだ。

 

「人口の制限と出生調整を前提とする社会制度が、人間の精神を抑圧して異性に対する欲求を減退させたと仮定しましょう。その前提において、生存可能な地上環境の発見は、あなたたちにとって非常に大きな意味を持つことになるはずです」

 

 僕の反応を窺いながら、滑らかな口調で水無は言う。

 

「将来的なプランとして、一部乗組員の入植ということも考えられます。その場合、『保存庫』に頼らず次の世代を生むことができるのかということが、ひとつの大きな課題になるでしょう。宇宙から降りて大地で生きると決意したとき、果たして地球人類はかつての自然生殖の欲求を取り戻すことができるのか。京奈院さん、あなたはその問いの答えにもっとも近い場所にいるのですよ」

 

 

 

 ………

 ……

 …

 

 

 

 外宇宙探査艦DJ号の交渉チームは、大道寺宇宙開発株式会社の渉外部という肩書で惑星ウーサに降りてきた。

 

 当然のことながら、彼らは地球人類の代表者というわけではない。あくまで大道寺財閥という民間グループに属する一企業の人員である。

 とはいえ、DJ号が発信した異星人発見の報告が地球に届くのは、現行の光速通信を用いても今から数十年が経過した後のことになる。それを受け取った地球から使節団が来るとしたら、(超光速航法のような革新的な技術が開発されていない限り)ほぼ間違いなくさらに数百年後の未来になるわけで……。

 事実上、財閥の中心企業である大道寺宇宙開発こそが、DJ号という地球人類の社会(コミュニティ)の代表であると、僕らの説明を聞いた惑星ウーサの人間たちは認識しているようだった。

 

 渉外部の面々を乗せた降下艇は、東部戦線の基地にほど近い荒野に着陸した。

 ユミツ国の東部に位置するそのエリアは、ヅィヅィザ将軍の勢力圏であるらしい。渉外部の降下地点について意見を求めたとき、将軍やマハナ中佐は「そこなら安全」と口を揃えて言っていた。大海蛇のような災獣に狙われることもないし、()()()()()もないだろう、と。

 

 やはりというべきか、ユミツという国も一枚岩というわけではなく、それぞれの派閥やら思惑やらが色々とあるらしい。

 

 降下艇からタラップが伸びて、乗員が姿を現した。

 高級なスーツをかっちりと着こなした初老の男性が先頭だった。皺の刻まれた顔に人好きのする微笑みを浮かべている。しっかりとした足取りでタラップを降りてくる。

 惑星ウーサの大地に降り立った彼を、歓迎のユミツ人たちが出迎えた。三十人ほどの集団で、両サイドに赤と青のコートを纏った軍人たちが整列している。中央にはヅィヅィザ将軍が立っていて、その周囲にゆったりとした装束のユミツ人が三人ほど控えていた。基地では見かけない顔だった。マハナがいうには、彼らはユミツの首都に住む政治家で、ヅィヅィザの派閥に属する者たちだという話である。

 

「ようこそ、チキュウの方々。我々ユミツの民は、あなた方を歓迎します」

「はじめまして、ユミツの方々。ありがとう、歓迎に感謝します」

 

 ヅィヅィザが日本語で挨拶を述べると、渉外部の男がユミツ語で返した。

 二人はにこやかな表情で互いに歩み寄り、周囲にアピールするかのように大袈裟に握手を交わしてみせた。友好を示すジェスチャは、偶然にも地球とウーサとで共通していた。おそらく、お互いに武器を持っていないことをアピールすることが、友好関係の表示として象徴的な意味を持ったのだろう。地球人もウーサ人も手先の器用さが発達した種族だから、それゆえに収斂した慣習なのかもしれない。

 

 もちろん、代表者同士の握手は、そういった互いの文化背景を事前に話し合ったうえで演出されたものだった。

 

 僕と三船、安藤の三人は、降下艇のタラップからは離れたところに整列していた。歓迎のウーサ人たちからも距離を置いている。今日の主役は渉外部の代表者で、僕たちは準備係の裏方だった。

 目の前の光景は、地球人にとってもウーサ人にとっても、まさしく歴史的な瞬間なのだけど、その準備のためにあれこれと気を回した僕らからすると、ひとまずファースト・コンタクトが無事に済みそうでホッとしているというのが正直な感想である。

 

「あれって、本社の人っスよね」安藤が隣で囁く。「てか、渉外部とか存在してたんスね……」

「普段は艦内企業の根回し役って話」顔は動かさずに答える。「本当の意味で艦の外部と交渉に臨むのは、今回が初めてってことになるんじゃないかな」

 

 渉外部の代表である初老の男に続いて、DJ号の乗組員が降下艇から降りてくる。

 今回の派遣は総勢30人のチームで構成されると聞いていた。渉外部の人員を中心として、彼らを多方面からサポートするスタッフたちが帯同している。

 

 その中にひとりだけ、知った顔があった。

 

 その人物が降下艇の乗降口から姿を見せたとき、僕は無意識に眉を顰めてしまった。

 正直、苦手な相手だった。確かに、交渉団の名簿にも名前は書かれてはいたけれど……。彼の所属を考えると、こういった場には姿を見せないものと思っていた。

 

 儀礼的な歓迎の挨拶が終わり、DJ号とユミツの一行は、ひとまず東部基地へと移動する流れになった。ユミツの軍人たちに護られながら交渉団が移動を始めたタイミングで、件の人物がふらりと集団から離れて、自然な足取りで僕の方へと歩み寄ってくる。

 無言で手招きをされた。思わずため息。横目でちらりと三船を見ると、さっさと行ってこいと視線で促される。僕は肩を竦めて、その男へと歩み寄った。

 

「話がある。少し付き合え」

 

 事務的な口調でそう言うと、男は肩越しに降下艇の乗降口を指差した。タラップの足元では帯同のスタッフが荷物の運搬を準備している。彼らを横目に見ながらタラップを上がり、無人となった降下艇の客室に入る。

 

「僕に何の用があるんですか、篠宮さん」

 

 客室で向き合った男は、三十代後半のいかにも堅物そうな男だった。黒い髪をきっちりと七三に分けて、グレイのシンプルなスーツを着こなしている。顔には四角いメガネを掛けていた。体格こそ平均的ではあるが、眼光は鋭く、立ち居振る舞いに隙が無い。

 

「一応、僕も仕事中なんですけど」

「手短に済ませる。そう長くはならない」

 

 座席に並んで腰掛けた。乗降口から二列ほど後ろだった。前の席の背もたれで、外からは口元が隠れる格好になる。内緒話にはうってつけのロケーションである。当然、篠宮のことだから盗聴や録音の警戒もしてあるのだろう。

 

「この星はどうだ?」と篠宮が尋ねてくる。

「抽象的ですね」僕は鼻を鳴らした。「仕事の報告書ならちゃんと提出してますよ」

「知りたいのは、君の個人的な感想だ」

 

 メガネ越しの暗い眼球が、僕の目を覗き込んでくる。

 

「主観でいい。惑星ウーサと地球とを比較したら、どう思う?」

「……そもそも僕の地球の知識なんて、過去のデータで知ったものでしかないんですけど」

「そのデータ上の故郷と比較して、という話だ」

「別に、特別な感想はありませんね」

「聞き方を変えよう。どちらの星が住みやすいと思う? 我々地球人は、この星で生きることができると思うか?」

 

 その問いかけに、僕は困惑気味に首を横に振った。

 

「住むことはできると思いますよ。呼吸のできる空気があるし、水も食料もある。土地だって交渉次第で手に入るでしょう。その生活が地球と比べてどうなるかだなんて、僕には想像もつきませんし、比べる意味もないと思いますけど」

 

 篠宮の蛇のような視線がじっとりと絡みつく。

 しばらく沈黙が続いた。篠宮が発言を待っている様子なので、結局、僕の方から口を開いた。

 

「そんなことを聞くために、わざわざ地上に降りてきたんですか?」

「それだけが目的というわけではないが、この聞き取りも仕事の一環だ」

「監査部の管轄する任務とは思えませんね」

「今は出向して、渉外部の所属ということになっている」

「……それはまた、大掛かりなことで」

 

 僕が呆れたように言うと、篠宮が声を潜めた。

 表情を一切変えずに顔を近づけて、囁いてくる。

 

「どうにも帰郷派がきな臭い」

「……」

「接触があったら、すぐに連絡しろ」

 

 顔が離れる間際、ポケットに紙片を捻じ込まれた。ずいぶんと古典的な手法である。しかし、電子データのやり取りよりもセキュリティが高いのは確かだ。

 篠宮が椅子から立ち上がった。どうやら話はこれで終わりらしい。彼に続いて立ち上がり、降下艇の出口に向かう。タラップの下で荷物をまとめていたスタッフはすでに準備万端で、篠宮を待っていつでも出発できる状態だった。

 

「この星での任務は、人生に一度あるかないかの大仕事だ。京奈院、君も頑張れよ」

「ええ、わかっていますよ」

 

 別れ際、景気付けるように背中を叩かれた。蛇のような視線はいつの間にか暖かみを帯びていて、口調も血の通ったものになっている。社交的な企業人の仮面は、彼の正体を知っている僕から見ても堂にいったものだった。

 

 なんとも白々しい。やはり、この男はどうにも苦手だった。

 

 

 

 ………

 ……

 …

 

 

 

「京奈院、お前、本社の人間に目をつけられてるのか?」

「いや、別にそういうわけじゃないんですけど……」

 

 篠宮から解放されて元の場所に戻ると、三船からそんなことを尋ねられた。

 実際、目をつけられているわけではない……、と思う。

 

 切っ掛けは数年前のことである。

 色々と偶然が重なった結果なのだけど、当時、僕は一冊の本を購入する機会に恵まれた。本の内容自体は珍しくもなんともない地球時代の小説だ。

 ただし、それは電子化された文書データではなく、物理的な紙の書物として形が残っているものだった。しかも、艦の中で作成されたものではなく、出航当時の地球から持ち込まれたアンティークである。

 

 こういった骨董品は、DJ号で滅多にお目に掛かることがない。小説やコミックのようなコンテンツは、基本的に電子化されたものが流通していて、あえて紙媒体で発行されることはないからだ。

 とはいえ、それらを持っているだけで違法になるだとか、法外な高値がつけられるということもなかった。書かれている内容そのものは電子データとして閲覧が可能なのだから、紙媒体の所有にこだわるのは風変わりな好事家ぐらいで、市場でもさほど需要がないからだ。

 

 確かその書物も、値段としては僕の月給の半分かそこらだったと思う。

 

 当然ながら、同じ内容を電子データとして購入するなら、その何百分の一とか何千分の一とかで済む話である。それを分かっていてなお手を伸ばしたのだから、僕もそこそこ変わり者ということになるのだろう。

 

 書物の持ち主は、艦内の市街にある目立たない通りに住んでいた。

 まばらな白い髪の年老いた老人で、分厚い眼鏡を掛けていたのを覚えている。オンラインのメッセージのやり取りで買い取りの約束をしてから、彼の住居に出向いていったのだ。

 取引そのものはあっさり終わった。持ち主の老人とは二、三の言葉を交わしただけである。本が趣味なのか、とか、好きな小説のタイトルは、とか、そんな程度のことだったと思う。

 

 買い取った書物を鞄に入れて、老人の家を出た。懐は寒くなったが、僕はほくほく顔だった。

 なにか特別な記念品を手に入れたような気分だった。さきほど店内で触れた書物の表紙の肌触りを思い出すと、どういうわけか顔がほころんでしまう。奮発した甲斐があった、と言うにはまだ早い気がしたけれど、無駄な浪費をしてしまったとはまったく思わなかった。

 

 足取りも軽く、自宅に向かう狭い路地に入る。

 次の瞬間、肩を掴まれて路地の壁に背中を押し付けられた。

 咄嗟に相手の腕を掴む。目の前には、僕より少し年上の堅物そうな男。

 

 それが、篠宮という男との出会いである。

 言うまでもなく、印象は最悪だった。

 

「話がある。少し付き合え」

 

 今も昔も、彼が僕を捕まえるときは決まって同じセリフである。有無を言わせず近くの喫茶店の個室に連れていかれて、僕は彼から取り調べを受けることになった。

 篠宮が監査部の人間だと知ったのはそのタイミングだった。

 監査部は艦内の治安維持を担う部門にひとつだ。所属する人員が表舞台に出てくることは稀で、DJ号を構成する企業の内偵を主な業務としている。末端の武装企業のパイロットでしかない僕は、噂話でしか彼らの存在を聞いたことがなかったし、当然、自分がそんな連中に絡まれるだなんて、夢にも思っていなかった。

 

「あの老人から、なにを受け取った?」

 

 単刀直入に聞いてきた篠宮に、僕は首を傾げて紙媒体の書物を見せてやった。

 あとから知ったことだが、書物の持ち主だった老人は、かつては帰郷派の大物だったらしい。当時の時点でほとんどの活動から手を引いて、静かに余生を過ごしていたらしいのだが、珍しく他人と接触する気配があるということで、念のため篠宮がマークしていたのだという。

 

 その接触相手というのが、僕のことだった。

 本の取引があっただけと説明すると、篠宮は奇妙なものを見るかのように額に皺をよせていた。どうやら紙媒体の書物というアイテムに価値を感じないタイプのようだった。あまり納得がいかなかったらしく、それから数日の間、彼は僕の行く先々に現れて、こちらの行動を監視している様子だった。

 

 発端となった老人は、数日後に老衰で死亡した。

 僕との書物の取引は、どうやら単に生前整理の一環だったらしい。

 

 その晩、篠宮は僕に夕食を奢ってくれた。合成食材のラーメンだった。一応、付きまとった詫びということのようだ。

 曰く、僕が件の老人から帰郷派の重大情報を受け取ったのではないかと疑っていたらしいのだが、老人の死亡と彼の遺品から出てきた諸々の情報により、その疑いも晴れたという話だった。

 

「監視は打ち切る。迷惑をかけた」

「いや、正直、なにがなんだかよくわかってないんですけど」

「わからないなら、それでいい。ラーメン喰って、ここ数日のことは忘れてくれ」

 

 などと言って、話は終わり。……だったら良かったのだが。

 

 どういうわけか、篠宮という男は、その後もたびたび僕の前に姿を現すことがあった。頻度は決して高くない。年に一回あるかないかというレベルである。

 ただそのたびに、僕の周囲がちょっと騒がしくなる。具体的に言うと、大規模な喧嘩が発生したり、治安維持機構のサイレンが鳴り響いたり、近所の家の窓ガラスが割られたりだとか、そんな感じである。

 そういうことが起こる数日前に、篠宮はふらりと僕の前に現れては、毎回違った連絡先の書かれた紙片を押し付けていくのだ。

 

 最近になって気づいたのだが、どうも僕は釣り餌にされているようだった。

 より正確に言うなら、僕が老人から受け取った紙の書物が、騒ぎを惹き付ける元凶のように思えるのだ。

 

 書物の内容には何度か目を通している。書かれている内容は、ありふれた地球時代の小説で、電子データで一般に流通しているものとまったく同じものだ。媒体(メディア)である書物自体にもおかしなところは見当たらない。装丁もその内側のページも、古びてはいるが、ただそれだけのことだ。秘密の仕掛けもなければ、奇妙な暗号が書かれているということもない。

 

 しかし、この本がただの本だと知っているのは、もしかしたら僕と篠宮だけなのかもしれない。

 監査部が言うところの帰郷派という過激主義者たちが、かつての大物が残したこの本になにか秘密があると勘違いして、篠宮の張った蜘蛛の巣に足を踏み入れてしまうのかも……。

 

 そういう騒ぎが終わった次の日の晩には、決まって篠宮がラーメンを奢ってくれる。もはやルーティンだった。ひょっとして、ラーメン一杯で懐柔できる甘いヤツだと思われているのだろうか。

 起こった騒ぎの説明をしてくれたことはなかった。たぶん、僕には知る権限もないし、どちらかといえば聞かないほうがいい話なのだろう。沈黙を守るのは、むしろ彼なりの誠意なのかもしれない。

 

 しかし、そうはわかっていても、この男に対して苦手意識を抱くなというのも無理な話だった。

 僕自身が巻き込まれるかはさておき、周囲で厄介事が起こるのはほぼ間違いないのだから。

 

 その彼が、惑星ウーサにも現れた。

 どうにも嫌な予感がする。気のせいで済めばいいのだけれど、過去の事例を考えると、楽観的な観測はどうにも難しかった。

 

 

 

 

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