さて、時刻は午後の1時である。
当然ながら、僕は昼食をとってから合流したのだが、クァニャンたちはそうではなかった。
彼女たちは日も出ていない早朝に地上から打ち上げられて、
「というわけで、まずは昼食に行こう」
「うん……」
クァニャンは借りてきた猫のようにおとなしかった。ついさっき病院から出てくるまでは、午前中に受けていた検査の疲れなど微塵も感じさせない元気さだったのに、玄関から一歩外に出たら途端にこれである。
所在なさげに左右をキョロキョロと見回してみたり、ふと視線を頭上に向けて表情を歪めてみたり。迷子になった子どものような仕草だった。
その様子に首を傾げつつ、僕が付近のマップを端末で確認していると、なにか引っ張られるような感じがした。隣を見ると、いつの間にか彼女が服の裾をちょこんと指で掴んでいる。
「クァニャン? どうかしたの」
「酔いそう……」
「え?」
「だって、地面も空も、普通じゃないから……」
彼女の混乱した視線が、おそるおそる地面を這っていって、そのままぐるりと頭上を一周した。
その目の動きを追いかけて、僕はようやく彼女の不調の原因に思い至った。
シルキィ・トゥエルブは円筒形の宇宙都市だ。遠心力で疑似重力を発生させているこの空間は、回転軸から垂直方向に地面が傾斜し続ける構造になっている。クァニャンから見て左右の方向は、どちらも緩やかな登り坂が延々と続いていて、頭上の天候スクリーンの向こうでひっくり返った地面になっているわけだ。
確かに惑星ウーサの地上とはまるで異なっている。普通じゃない、と彼女が評するのも納得だ。
僕自身は、生まれたときからこの環境で生活しているので、この空間に違和感を覚えたことすらないのだけど、クァニャンにとってはそうではなかったらしい。
「頭の上に地面がある。……変な気分になりそう」
「あー、あんまりじっと見ないほうがいいかもね。首が疲れるでしょ」
「あそこに落っこちたりしない?」
「しないしない」
僕は苦笑しながら両手を挙げた。DJ号の管理システムが正常に働いている限り、シルキィ・トゥエルブの回転が止まることはなく、疑似重力がカットされることもない。もし仮に回転が止まったとしても、重力が反転するわけではなく、無重力になるだけだ。空に落ちる、というのは、古典的な錯覚である。
「というか、落ちたとしても、飛べばいいんじゃない?」
「そういう問題じゃないの……」
ウーサ人なら『飛行』の魔法を使えばいいのでは、と軽く言った僕を、恨めしそうなクァニャンの瞳がじろりと睨みつけた。
平衡感覚の混乱は、DJ号の
「うーん、そのうち慣れるとは思うけど……」
「ほんとにぃ?」
服の裾を指で摘まんでいたクァニャンは、気がつけば僕の腕を両手でしっかりと掴んでいた。
「さっそく要対策の課題が見つかったか……」
僕らから少し離れたところで、三船がぽつりと呟くのが聞こえた。
クァニャンの混乱した様子を見るに、使節団の受け入れのときまでに何かしらの対策を打っておく必要がある、ということだろう。
どういうわけか、クァニャンの案内は僕の仕事ということになっていた。隊長である三船がその様子を観察しつつ、周囲の警戒にも当たるという割り振りである。
ぞろぞろと三人で行動するより、二人組で行動していた方が目立たない、ということもあるのだろうけれど……、なにやらお偉いさんの思惑がありそうな配役だった。
「とりあえず、屋根の下に入ろう。狭い空間なら、それほど違和感はないはずだから」
「うん……」
頼りない足取りのクァニャンの手を引いて、僕らはすぐ近くの店に入った。
少し遅れて、三船が素知らぬ顔で自動ドアを潜ってきて、離れた位置のテーブルに座る。
非人間型の給仕ロボットが、来客を感知してすぐに水を運んできた。台車に乗ったコップを取ってテーブルに置く。向きを変えて厨房に帰っていくロボットを、クァニャンが興味深そうに見つめていた。
店内の椅子に座ってしばらくすると、彼女も多少は落ち着いたようだった。最初はそわそわと周囲を見回していたが、地面の傾斜がほとんど感じられず、天井にひっくり返った床が張り付いてもいないとわかると、次第に調子が戻ってきたようである。
「どう、大丈夫そう?」
「うん、落ち着いてきた」
「よかった。無理はしないで、気分が悪くなったらすぐに言って」
「ありがとう。……ここは、なんのお店?」
給仕ロボットの運んできた水で喉を潤すと、彼女は好奇心を復活させて尋ねてきた。
「公共食堂っていうんだけど、ざっくり説明すると、料理店。」
「公共……? つまり、町が運営しているってこと?」
「そんなところ。通称、注文の少ないレストラン」
「注文の少ない?」クァニャンが不思議そうに目を瞬かせた。
「色んな意味でね」と、僕は自分の端末を店舗に接続させて注文用のページを開く。
食事は人間の素朴な楽しみのひとつだ。地球時代の人間がそうだったし、彼らの遺伝子から誕生しているDJ号の
過酷な宇宙の旅であっても、それなりの量のそれなりに美味しい食事さえあれば、それだけでも
だからこそ、DJ号の初期の指導層は食糧事情に細心の注意を払っていた。
拘っていたと言ってもいいし、執着していたと言ってもいいだろう。
記録を見るに、
一方で、食糧の生産能力において、深宇宙探査艦には大きな制限があった。
艦内の閉鎖生態系と資源循環の構築、そして食糧生産に利用できる面積の問題である。
DJ号の艦内には厳密な意味での自然環境は存在しない。
この閉じた生活空間に存在するのは、環境維持のために人為的にデザインされた生態系だ。地球の自然環境と同じものではない。
加えて1万人の
「だから、DJ号における食糧生産は、地球時代とは異なるスタイルになってるんだ」
「具体的には?」
「メインは品種改良で生産効率を上げた植物の高密栽培。恒星の光が届かないこともあるから、人工照明を使った工場での屋内生産になる。他には高たんぱくの藻類とか、循環効率の良いキノコ類とか。動物畜産は資源効率が低いから不採用だね」
「……お肉は食べないの?」
「培養肉なら製造可能だけど、高級品の類になるかな。肉料理のレシピには、代用肉が主流だよ。豆とか穀物から肉っぽいものを成形したり。……厳密に言ったら、それはもう肉料理じゃないのかもしれないけれど」
艦で生産されている食材は、生産効率と栄養効率に優れたものがほとんどだ。コーヒーのような嗜好品は現代ではまったくといっていいほど生産されておらず、もっぱら地球時代のそれと類似した風味の代用品で賄われている。
当然ながら、食材の
その単調さをカバーするべく、調理方法と仕上げの味付けに特に力を入れるというのが、DJ号における食文化の基本だった。
同じ食材を用いて、どれだけ別の味の料理を作れるのか。地球を発ってから700年、
「もちろん、食べ物を粗末にしない、っていうのが大前提」
「私の国でも、その考え方は同じ。ご飯を大事にしない人は『母の樹』にそっぽを向かれるの」
「面白い言い回しだね」
地球時代から変わらないその思想を現実化するための手段のひとつが、この公共食堂というシステムである。
僕は店舗のシステムに接続させた端末の画面をクァニャンに示した。注文用のページに表示されているメニューはたったの二つ。どちらも日替わり定食という名の、生産調整(正確には、消費調整)のためのメニューである。これこそが、注文の少ない料理店と呼ばれる所以だった。
「艦全体の食糧の生産量と消費量は、ネットワーク上で常に管理されている。で、消費される食材の種類に極端な偏りが出ないように、余剰のある食材を用いたメニューを日替わり定食ってことにして艦内に複数存在する公共食堂に提示するわけだね」
なぜこんなシステムが必要なのかといえば、
味の好みや嗜好はひとそれぞれ。朝昼晩、その日なにを食べるのかは個人の自由なのである。
もちろん、同じ料理ばかり食べるような偏食は推奨されていないし、健康を害するレベルの偏りがあれば警告と是正の措置が取られるけれど。
窮屈な食事は
その理念はDJ号が宇宙の孤独な旅を続けられている理由のひとつであり、だからこそ発生してしまう食材の偏りとその解消のために、公共食堂の設置は必須のシステムだった。
「ふぅん……」
僕のそんな解説を聞いたクァニャンは、端末に表示されたメニューの片方を選んでから、素朴な表情で口元を柔らかくした。
「なんだか、昨日の残り物と睨めっこしてるお母さんみたいだね」
僕は咄嗟に言葉を返せなかった。
生きた両親が存在しない僕にはその情景が思い浮かばなかったというのもあるし、クァニャンの両親がすでに亡くなっていると知っていたからでもあった。
結局「そうなのかな」なんて意味のない一言を呟いて、コップの水を口に運ぶ。
どことなく落ち着かない気持ちの僕に反して、テーブルを挟んだクァニャンは穏やかな雰囲気で微笑みを浮かべていた。
………
……
…
クァニャンの日替わり定食に対する感想は、「普通の美味しさ」という無難なものだった。
主菜は代用肉のハンバーグというありふれたもので、味付けは合成調味料のデミグラスである。
地球人とウーサ人の味覚は似たようなところがあるとすでにわかっていたから、ある程度は想定できていた感想だった。
「うーん……、これって、お肉……、じゃないんだよね? そう言われると、確かに……」
味の良し悪しはともかく、代用肉の真贋については彼女はかなり首を捻っていた。日常的に『本物の肉』を食べているウーサ人をここまで騙せるのだから、DJ号の加工技術も大したものだ。これまで外部の人間に評価してもらう機会のなかった料理研究部門も喜ぶに違いない。
「ちょっと怖いんだけど……。これってお肉じゃないなら何が素材になっているの?」
「今日のそれは味付けした豆類のペーストを成形したものかな」
「豆。……なるほど、豆かぁ」
「キノコとか藻類が素材になると、また違った風味になるね」
僕がそう補足すると、クァニャンは腕を組んで難しい顔になってしまった。なんでもかんでも代用素材にしてしまうのは、彼女にはちょっと受け入れがたいのかもしれない。
「この料理って、誰が作ってくれたの?」店の奥を覗き込みながら彼女は尋ねる。
「人間じゃないよ。公共食堂の料理は、機械による自動調理だね」と僕は答えた。
「魔法の機械じゃなくて、チキュウの機械だよね」
「そう。魔力じゃなくて電力で動く道具」
「人間の料理人はいないの?」
「いるけど、もうちょっと高級なお店だけかな」
なにしろDJ号における料理人といえば、子どものころの適性検査の段階で素質を見い出されて、専門の
ちなみに、公共食堂の料理の値段は、非常に安価なものに設定されている。
味が悪いというわけではないが、食糧生産の調整という政策的な意味があるため、行政から価格に対する補助が出ているのだ。その安さがあるからこそ、メニューの不自由さというハンデを抱えながらも、一定の来客数を見込めるというわけである。
「ま、『人間が作った料理』は正式な使節団の会食には出されるだろうし、クァニャンもいつかは食べる機会があるんじゃないかな」
空いた食器の回収にやってきたワゴン・ロボットに皿を戻しながらそう言うと、クァニャンが小さく首を傾げて尋ねてくる。
「ケイナインは、料理をしない人?」
「僕? するけど、全部機械任せだね」
「ふーん……」
それを聞いた彼女は、テーブルの向こうで思案顔。なにか思うところでもあったのか、口を小さく結んでひとつ結びにした菫色の髪を指で弄っている。
「それ、食べてみたいな」
「え?」
彼女の口から小さな呟き。予想外の言葉に思わず聞き返してしまう。
指を髪に絡ませたまま、彼女はどこかそっぽを向いている。店内のなにかを見ているというよりは、僕と視線を合わせないための仕草のように思えた。
生ぬるい沈黙がしばらく漂った。空調の音だけが白々しく聞こえている。視線の隅で、三船が呆れたように肩を竦めるのが見えた。
「いいけど、大したものは出せないよ?」苦笑いを浮かべながら僕は言う。
「うん。それでもいいから」と、相変わらずそっぽを向いたままのクァニャン。
「本当に機械に作らせるだけだし……」
「いいから」
「うーん……、わかった。それじゃあ、夕食はそうしようか」
「約束ね」
「約束って、そんな大袈裟な……」
「約束」
「……オーケイ。約束するよ」
僕は両手を挙げて手のひらを見せる。さっきまで横を向いていた彼女とようやく目が合った。
テーブル越しのクァニャンは満足そうに笑みを浮かべていた。桜色の唇が綺麗な三日月を描いていて、実に嬉しそうな様子である。
困ったな、と僕は眉を傾ける。
クァニャンの態度には、さすがに察するものがある。要するに、彼女は『僕が』作った料理を食べてみたい、ということなのだろう。完成した料理の良し悪しではなく、そこに至る過程を重視しているというわけだ。
しかし、興味津々な彼女の顔を見ていると、どうも『料理』という作業について認識の齟齬があるような気がしてならない。僕の自炊の工程というのは、本当に機械に食材を入れてスイッチを押すだけなのだ。料理人の個性だとか拘りといったものが介在する余地のない規格化された手順なのである。
一応、味付けの調整くらいは可能だけど、それも調理機械にデフォルトで設定されているものの中からひとつを選ぶというだけである。凝り性のユーザであればその辺りの設定を自分好みに変えていたりもするらしいのだが、生憎と僕はそこまで食事の味に凝ろうとするタイプではなかった。
「お夕飯が楽しみ」
「そう……」
上機嫌なクァニャンの顔を見ていると、なんとも後ろめたい気分になってしまう僕だった。
………
……
…
DJ号に招かれたクァニャンのスケジュールは、比較的シンプルなものだった。
午前中に各種の検査、それから僕と合流しての昼食。
その後、しばらく都市を案内する時間が取られていて、夕方に大道寺財閥の関係者と面会する予定となっていた。面会もそれほど形式ばったものではなく、大道寺宇宙開発株式会社(つまり、惑星ウーサとの窓口を担当している部門)の役員が簡単な歓迎の挨拶をする程度のものらしい。
面会後は再び都市内での自由時間となり、夕食、それから就寝。翌日の午前中には惑星ウーサへの帰途に就いてもらう、という予定となっていた。
まさしく『お試し招待』という雰囲気である。本命の使節団に備えるためだとしても、もう少し事前に計画を練ってからの方が良かったのでは、とついつい考えてしまう。
まぁ、
「ケイナイン、考え事?」
「
「そうかなぁ」
「実際のところ、どう? 退屈だったりしない?」
居心地の良いソファに腰掛けた僕は、少し離れたところに立って後ろ手を組んだ背中をこちらに向けているクァニャンにそう尋ねてみた。彼女が首だけで振り返ると、ひとつ結びの髪がふわりと揺れる。
厳然たる事実として、DJ号には観光名所というものが存在しない。そもそも観光業界そのものが事実上壊滅してしまっている。
惑星探査の
いくらDJ号が巨大といっても、その内部都市であるシルキィ・トゥエルブは人口1万人を収容する程度の規模しかない。その内部におけるちょっとした移動を観光と呼んでしまうのは、さすがにちょっと厳しいだろう。
ゆえに、かつて存在した観光旅行という文化は完全に廃れてしまっていた。なにしろ物理的に不可能なのだから仕方ない。生き残っているのは
それと同時に、外部からやって来る旅人に対してアピールするための、『名所』という概念も忘れ去られてしまったというのが現実である。
加えて、今回のクァニャンの行動範囲には制限があり、艦の運営に関わる部門や軍事的な
残念なことに、僕が所属する武装企業のステラ・コネクタの
「退屈ではないかな」
誇張された海の底の青さを背景に、クァニャンは今いる場所についてそう答えた。
結局、僕が彼女を案内したのはアーカイヴ・シアターと呼ばれる公共施設だった。シルキィ・トゥエルブの中心街からは離れた場所にある屋内施設で、施設の利用を申請するとおおよそ5m四方の部屋を時間単位でレンタルできる。部屋の壁が全面モニタになっていて、そこにDJ号が保管する各種のアーカイヴを投影する、というものだ。
VRですらない平面モニタは、映像媒体としてはやや時代遅れの感はあるが、古い時代の記録映像を見るのにはもっとも手軽な手段だった。前後左右360度に映像を展開できるので、迫力もそこそこある。なにより、変に凝ったVRと違って平衡感覚を酔わせにくいのが、この施設を選んだ理由のひとつだった。
防音の施された部屋には、霞のような静けさが漂っている。
三船は部屋の外で周囲を警備している。僕は部屋の中央に置かれたソファに座っていて、クァニャンは壁の近くでモニタに投影された海中の記録映像を眺めていた。地球時代の海の底を、水槽越しに見ているようなものである。
「こういうのって、ユミツでは珍しいものなのかな?」
「技術的には可能。『伝達』と近い系統の魔法で映像の記録はできるから、それを再生するための魔力回路を刻めばいい。仕組みとしては、ゼァリィさんの部屋にあった本と同じ」
「ああ、あの色んな音が録音されていた本か……」
クァニャンの言葉で予言者ゼァリィの部屋を思い出した。
それと同時に、彼女の為した『音響の予言』が頭に浮かぶ。連続した爆発音と鳴り響くサイレンのような音を聞いたと、『耳の予言者』は語っていた。
その予言から連想されるのは、DJ号でなにかしらの事件が起きるのではないか、というものだ。渉外部経由で予言はすでに艦に伝えられていて、保安部が今も警戒を続けているという話である。
聞く限りでは、今のところ艦内で予言に類似した状況は発生していないという話だが……。
「でも、技術的に可能でも、ちょっと前までは実現は難しかったかも」
明後日の方向に飛んでいた思考が、クァニャンの声に引き戻された。
電子の水槽を眺めている彼女の背中に僕は声を掛ける。
「それはどうして?」
「ほんのしばらく前まで、海岸線は災獣の縄張りだったから。軍が通行を規制していたし、海の中の映像を撮りに行くだなんて、まず間違いなく許可が下りなかったはず」
「なるほど。でもそれなら、今はまた話が変わってきてるわけだね」
「うん。ただ、今はチキュウ人のことでも大騒ぎだから、こういう映像を撮りに行こう、っていう人がいるのかはわからないけれど」
「いたとしたら、けっこう変わり者かも」と彼女が小さく笑みを零すのが聞こえた。
「言ってて気づいたけれど、海についての知識って、ユミツ国ではちょっと断絶してるのかも。私も、海の魚って考えたとき、あんまりピンと来るイメージがないから」
「それでも昔の研究記録は残っているんじゃないかな」
「かもしれない。でも、日の目を浴びていないのは確か」
彼女の背中越しに、少し寂しそうな溜め息。
僕はソファに背中を預けて、シアターの暗い天井を仰ぎ見た。
「それを言ったら、僕も同じだね。海の中をじっくり観察したことなんて、一度もないよ」
「今、ここに映っているのは?」
「地球時代の記録映像。もう700年も前のものだね」
「じゃあ、本物は見たことがないんだ」
「そもそも、この映像に映っている魚が、
現在の地球のことについて、僕の知っていることはとても少ない。
DJ号が送信した調査結果は、数十年掛けて地球に届き、そこからまた数十年を掛けて
長距離通信による
地球の生物で絶滅した種があったとしても、その情報がDJ号に届けられることはないだろう。
だから、もし目の前のモニタに映っている魚がすでに絶滅してしまっていたのだとしても、僕にはそれを知るすべがない。
「不思議だね」とクァニャンが言う。
「不思議?」僕はソファに座ったまま首を傾げた。
電子の水槽を眺めていたクァニャンが、いつの間にか僕のすぐ近くに立っていた。
目尻を下げて困ったように微笑んだ彼女は、僕の隣に腰掛ける。肩が触れそうなくらいに距離が近かった。彼女の菫色の髪が投影された海底の青に透けている。
僕も彼女も、今見ている映像が現実に実在するものなのか、わかっていない。
お互い自分たちの惑星の海の中にどんな光景が広がっているのかさえ知らないのだ。
「そう。スペース・不思議」
「ひょっとして、そのフレーズ気に入ってる?」
クァニャンの言葉に思わず口を斜めにしてしまう。
彼女も肩を揺らして小さく笑っていた。
滑稽な話である。
現実かも幻想かもわからないくせに、一生かけても帰り着けない地球の記録映像を見て、いったい何になるというのだろう。
しかし、たとえ意味がなくても、今この瞬間、海の底の時間がゆっくりと進んでいるように感じられるのも確かだった。
※書き溜めが完結に到達したので、明日から日刊更新になります。