眼前に吸い込まれそうな黒い宇宙がどこまでも広がっていた。背後には遠ざかっていくDJ号の巨大な船体。そのさらに向こうには、青い海を抱いた惑星ウーサが揺蕩っている。
真空の宇宙は沈黙していて、しかしコックピットは賑やかだった。
エアロックのブザーのときも思ったが、どうもこの機体の持ち主はシステム音を最大に設定するタイプだったらしい。そのくせスピーカの状態には無頓着だったのか、聞こえてくる大音量は露骨に音割れしてしまっている。はっきり言って、賑やかを通り越して非常に喧しい。
「ああもう! さすがにその辺りの設定の弄り方は記憶が曖昧だってのに……」
篠宮が伝えてきた座標はすでに目的地としてセットされている。型落ちの自動航行システムに進路の補正を任せながら、僕はせめて音量だけでも調整しようとコンソールと格闘していた。
表示される画面をいくつか遷移させて、ようやく環境設定のページに辿り着く。最大値に設定されていた音量の項目を40%の目盛りまで引き下げた。
溜め息が零れる。無駄な手間を掛けさせられた。
けれどそのおかげで、思考にある種の余裕が生まれたような気もする。
「犯人は何者なのか」と僕は応える者のいないコックピットで呟いた。
外部の人間による単独犯ではない。
廊下には僕や黒服の目があったから、犯人が外部から侵入したのであれば、ベランダからということになる。僕らが部屋に入ったとき、ベランダのガラス戸は鍵が開いていたが、割れたり破損したりしていたわけではなかった。
つまり、内側からガラス戸の鍵が解錠されたということだ。クァニャンが侵入者を招き入れたという可能性もなくはないが、やはりホテル内に実行犯自身もしくはその協力者がいたと考えるのが妥当だろう。
そもそも客室に麻酔ガスを充満させるなんて方法が取られていることを踏まえると、その下準備にもホテル関係者の協力があったと考えた方が自然である。
推測だが、誘拐の実行犯は客室内のどこかにあらかじめ潜んでいたのではないだろうか。警備部門の黒服のように麻酔ガスに対応した呼吸器を持っていれば、室内にガスが充満しても行動に支障は出ない。クァニャンが客室に入った後、麻酔ガスの発生装置を起動して、彼女が眠ったのを確認してから連れ去った、といったところか。
「メガネがオフラインになったのもそのタイミングだから、通信を遮断できる運搬手段を準備していた、ってことかな」
たとえば、反射性の高い素材で作られたキャリーケースとか。
クァニャンは女性としても小柄な方だから、極端に大型のケースが必要だったということもないはずだ。
「……もし実行犯が客室で待ち構えていたというなら、クァニャンがどの部屋に宿泊するかの情報を犯人グループは把握していたってことになる」
つまり、クァニャンをDJ号に乗船させる計画について、詳細を把握できる地位にある人物から情報が洩れている。
薄っすらと想定はしていたが、やはりそういうことなのか。
大体においてウーサ人である彼女がDJ号に乗艦すること自体が、急遽決定されたことであり、限られた範囲にしか伝えられていない情報なのだ。その情報を知る立場に犯人(もしくはその関係者)がいなければ、誘拐なんてそもそも計画されることもなかったはずだ。
「誘拐犯について、監査部の見解は?」
通信に乗っていることを意識しながら呟いた。
DJ号から離れているといっても、この程度の距離であればネットワークの接続は維持できる。
「現時点では特定できていない。爆破事件とも情報が錯綜している」
篠宮の口調は悩ましい。
実際、こちらは後手に回ってしまっている。
「
「それも確認されていない。まったくもって、何が目的なのか……」
犯人は麻酔ガスで眠らせたクァニャンに対して、その場で凶行に及ぶのではなく、誘拐という手段を選択している。それはつまり、彼女の身柄に価値があると考えているということだ。
DJ号において誘拐という犯罪の発生件数は非常に少ない。傾向としては、700年の旅路の中で、指数関数的に減少している犯罪形態だった。
しかし、そういった形態の犯罪は、出発から100年もすると劇的に減少した。
地球で生まれた世代が寿命を迎え、かつての生活と今の生活を実体験として比較できる者がいなくなったことや、艦内の社会システムがひとまず安定期に入ったことが主な理由とされている。
個人の命の価値が軽くなったというのも一因だろう。
地球時代の人類は、それがどんな個人であっても、遥かな過去から連綿と続く遺伝的な繋がりの一部を成していた。自身の出自を辿れば、親から祖父母、祖父母から曾祖父母といった具合に、枝分かれしながらどこまでも続く『線』を描くことができた。
個人の命が失われるということは、その『線』が途切れ、次の世代への繋がりが途切れることを意味する。過去と未来とが断絶するのだ。だから命には重い価値があり、誘拐という手段が有効性を持っていた。
けれど、DJ号の
僕たちは『保存庫』の遺伝子から生まれた一世代限りの人類だ。地球時代に収集された遺伝子から生まれているという点で、年齢がどれだけ離れていても、同じ世代の人間なのだといえる。
つまり、僕らは過去と未来を繋げる『線』の一部としてではなく、ぶつ切りの『点』として存在しているわけだ。より正確に言うなら、過去の遺伝子とは繋がっているけれど、未来とは繋がっていないということになるだろう。
だから、個人の命は価値を減らしている。
誰かが死んでも、その人物の遺伝子が未来との繋がりを断たれるわけではない。
もとから途絶えているというだけだ。
事実、ここ数百年で発生した数少ない誘拐事件では、犯人の要求は完全に無視されている。人質の命よりも犯罪者の逮捕、つまりは社会の安定性を取り戻すことが優先されてきたのだ。
過去の誘拐事件の解決率は100%だが、それは犯人を逮捕できた件数という視点であって、人質が無事に解放されたかという点は考慮されていない。人質が犯人のもとから生きて帰れるかでいえば、むしろ地球時代よりもその割合は低くなっている。
僕たちはそれを疑問に思わない。
けれど、クァニャンは違う。
僕らとは命の重さが違う。
惑星ウーサの人類は今も自然生殖で次の世代を産んでいる。
だから、個人の命というものに対する見方が僕たちとは違っている。むしろ、僕たち以上に地球時代の人類に近いのかもしれない。人命を重んじるのは、彼らにとって当然の常識なのだ。
もちろん、クァニャン自身が異星文明からのゲストという替えの利かない立場にあるということも、彼女の身柄の重要性を高くしている理由のひとつである。
そういった『個人の価値』があるからこそ、誘拐という犯罪が実行されたのだろう。そこまでは理解できる。
わからないのは、最終的な目的だ。
クァニャンを誘拐して、そのあとはどうするつもりなのか?
ホテルへの侵入の手引きや連鎖する爆破事件の規模を考慮すると、単独犯ということは考えにくい。まず間違いなく複数名により集団犯罪だ。つまり、これは個人的な動機ではなく、集団の利益ないし信条によって引き起こされた事件といえる。
DJ号の治安維持機構は優秀だ。同時多発的に事件を起こせば初動の混乱は狙えるかもしれないが、いずれは犯行グループに捜査の手が及ぶことは確実である。テロは重罪だ。『処分』は徹底したものになるだろう。
それをわかっていて、彼らは何を目的として事件を起こしたのか。
篠宮が言うには、犯人から何らかの要求が届いているということもないらしい。現体制に不満を持つ勢力のテロ行為の一環であれば、艦の指導部になんらかの要求なり声明なりのメッセージが届きそうなものだが、それもないとのことだ。
金銭や怨恨が目的という線も考えにくい。
そう考えると、DJ号とユミツ国との関係を悪化させるという動機が浮かんでくるが、これも微妙な推測に感じられた。犯行グループに旨味があるとは思えない。というか、
しばらく考えを巡らせてみたが、やはりピンと来る目的というのは思い浮かばない。
まさかとは思うが、両惑星の文明が共倒れになることを望む破滅思想の集団が起こした犯罪だとでもいうのだろうか……。
「いずれにせよ、それは犯人が捕まればわかることではある、か」
僕は頭を振って気持ちを切り替える。
機体に入力した目標座標まであと僅かだ。
スラスタの出力を抑えて観測機器の感度を上昇させる。
ノイズ混じりのデータがコックピットに表示される。予想通りではあるが、あまり精度はよろしくない。もともと
それでも高倍率のカメラや赤外線の捕捉機能といった、宇宙空間で作業を行うために必要とされる装備はひと通り備わっている。少なくとも、僕の眼球だけで周囲を見渡すよりはよっぽど効率が良い。
「なにか引っ掛かってくれよ……」
透き通るような宇宙だった。空気がないからそう見えるだけだと知っていても、吸い込まれそうな透明感が彼方まで広がっているように感じられる。無数の星々は輝くこともなく、漆黒の背景に静かに浮かんでいる。
「……あそこか?」
ワーカーのカメラがなにかの
複数の小惑星が一定の範囲内に密集しているエリア、といったところだろうか。ここからだと死角が多く、全貌を見通すことはできなかった。
つまり、小惑星の陰に件の小型艇が潜んでいる可能性もあるということだ。DJ号の観測システムがこの付近で光源を見失ったという情報とも合致する。
「接近します」
DJ号との通信を繋げたままで呟いた。返事はないが篠宮と黒服にも聞こえたはず。
スラスタの短噴射で進路を変える。箱型の機体が回転しないように制御しながら、前方の空間に向かって滑っていく。
オレンジ色のワーカーは、今のところ快調だ。本来の所有者の趣味的な
機体は安定して前進を続けている。
操縦桿を握り直した。
カメラの捉えている
「なんだ?」
目標にある程度近づいたところで違和感に気が付いた。
想像通り、カメラの捉えたシルエットの大半は小惑星だった。宇宙に浮かぶ大小さまざまな岩石の塊。それらが集まって迷路のような空間を形成している。
その中に混じって、明らかに小惑星とは違った物体が浮遊していた。岩石ではない。しかし、金属や人工物とも違う。
どこか生物的な艶やかさを持った巨大な物体だった。硬質な見た目で、暗褐色に染まっている。
サイズはおよそ10m。その大きさに比して形状は薄く、空洞を抱くような半円柱の構造を取っている。まるで内側にあった何かがくり抜かれたかのような印象だった。
「ひょっとして……、殻?」
口に出してみると、しっくりくるものがあった。
そう、昆虫、あるいは甲殻類の外殻だ。
僕には目の前の物体がそういう風に見えていた。
生きてはいない。
死んでいる、というよりは、殻から中身が抜け出して、外側だけがここに残されていたという雰囲気だ。抜け殻なのだ。
「……災獣、なのかな」
なぜ宇宙にこんなものが、と自問して、浮かんだのがその言葉だった。
惑星ウーサの人類が認識している通り、災獣たちが空から降ってきたというのであれば、彼らの痕跡が宇宙に残っているというのもおかしな話ではない。
災獣はこの宇宙のどこから惑星ウーサにやって来たのか。
その疑問の答えは今も謎に包まれている。
しかし、こういった痕跡が他にも宇宙に残っているのだとしたら、それを追跡することで、彼らの旅路を遡ることも可能なのかも……。
「いや、それを考えるのは今じゃない」
不思議なほどに目を引く殻のような物体から視線を引き剥がす。
僕の目的は別にある。今この瞬間は、あの謎めいた物体も小惑星と同じく周辺を漂う障害物のひとつでしかない。
滑らかな減速を意識して、僕はワーカーを20m級の小惑星に接近させた。小惑星の迷路の外縁に位置する岩石だ。箱型の胴体の左右から伸びるロボットアームを使って、ソフトタッチで機体を小惑星に張り付かせる。
小惑星を盾にして迷路の中心から隠れるような格好だ。障害物の向こうに何者かが潜んでいるかもしれない、という想定である。探知される可能性を下げるため、スラスタもカットしている。
推進剤を使わずに、ロボットアームで小惑星の表面を掴んで機体を移動させる。球形の小惑星に張り付いたまま、奥の空間を少しずつ覗き込んでいく。
慎重な操縦を意識した。ワーカーの構造はステラ・コネクタほど頑丈ではない。『敵』が近くにいるのだとしたら、ほんの僅かな油断が致命傷になりかねない。
張り付いた小惑星を回り込んで、カメラを迷路の中心に向けた。
オレンジのワーカーのコックピットで僕は息を呑んだ。
瞬くことのない彼方の星々の光を遮って、黒い人型の機体がそこに存在していた。
「……ソーンウッド。渋いチョイスだ」
間違いない。ステラコネクタだ。
ソーンウッドと呼称されるあの機体は、リリースこそ
15mのイブキよりもやや小型で、全高は14mほど。
頭部の
人間を模しているはずの顔面は、黒い塗装に潰されていて、はっきりとした形を認識することができなかった。
「普通の塗装じゃないね。……それから、あっちが例の小型艇か」
僅かに視線を動かすと、ソーンウッドの背後に宇宙用のクルーザーがみえた。舷側を小惑星に接する形で停泊している。外見から推測するに定員は10人前後だろう。篠宮の情報通りである。
異様な黒塗りのソーンウッドに対して、こちらは常識的なカラーリングだった。白を基調にして鮮やかな青色が塗られている。高級感のある塗装だ。塗料の掠れもなく、丁寧に手入れされている印象である。
小型艇に繋がれているコンテナも確認できた。5m四方の正方形で、こちらの
コンテナとクルーザーは牽引用のワイヤで繋がれていたが、それとは別にクルーザーの船室から蛇腹の簡易通路が伸びていた。どうやらコンテナとクルーザーとで行き来ができるようにしているらしい。
あのコンテナにはいったい何が入っているのだろうか。
気になるところだが、外側からではそれを窺い知ることもできなさそうだ。
「ともあれ、最初の目的はこれで
カメラに映るステラ・コネクタを注視しながら、コックピットのコンソールを操作する。篠宮が使用している監査部のプロトコルを用いて、僕は小型艇を捕捉した座標をDJ号に送信した。
数秒もしないうちに「確認した」と篠宮の声。「すぐに追加の人員を送る」とのことだ。
僕は小さく息を吐く。ひとまず保険は掛けられた。これでもう僕が墜とされたとしても、篠宮が手配した追っ手は確実にここまでやって来る。
「さて、それで、ここからどうするんだ、京奈院?」
操縦桿の感触を確かめながら、僕は自分に向けて呟いた。
後続の人員を待つべきか、それともなにかアクションを起こすべきか。
誘拐されたクァニャンがあの小型艇の中にいるのだとしたら、今すぐにでも救出に向かいたい。誘拐犯がいつ彼女に危害を加えるのかわかったものではないからだ。
けれど同時に、僕の行動が誘拐犯を刺激して、そのために彼女が危険な目に遭う可能性も頭の中にあった。小型艇の内部の状況が分からない以上、このケースも無視することはできない。
ジレンマである。僕はどちらを選択するべきか。
息が詰まりそうな重苦しさを感じながら、思考だけが目まぐるしく回転している。
「問題なのは、あのステラ・コネクタもか」
小型艇との間には黒塗りのソーンウッドが立ち塞がっている。
おそらく小型艇を護衛しているのだろう。パイロットも犯行グループのひとりに違いない。
同時にそれは、ステラ・コネクタを持ち出してまで守るだけの価値が、あの小型艇にあるということを示唆している。となるとやはり、クァニャンが囚われているとしたら、あの小型艇の中だ。
しかし、あのステラ・コネクタはどういう来歴のものなのだろうか。
確かにソーンウッドは古いモデルだ。武装企業で使用されていたものが民間に払い下げになるということもあり得ない話ではない。
とはいえ、それはかなりのレアケースだ。運用期間を終えたステラ・コネクタは、市場に放出されることなく再資源化されるのが通常である。理屈の上では購入も可能なのだろうが、実際に個人が
そう、それこそ、
しばらく前に安藤と話したこともあったが、職業パイロットでなくても正規の教習を受ければ、ステラ・コネクタの
しかしそれはあくまで、非武装企業の非戦闘業務において武装解除したステラ・コネクタを大型作業用機械として運用することを想定したものであって、個人所有の機体を乗り回すことが大々的に認められているというわけではない。
安藤が以前言っていた『趣味的なライセンス・ホルダ』に至っては、ステラ・コネクタを操縦する体感ゲームにのめり込んだユーザが、現実における一種の勲章として免許を取るようなもので、やはり誰かが実物の機体を所有して操縦したという話は聞いたことがなかった。
そういうわけで、企業所属ではないステラ・コネクタが実際に運用されているのを見るのは、僕もこれが初めてのことだった。
誘拐犯はいったいどういうルートで、あのステラ・コネクタを入手したのだろうか。
クァニャンを攫ったように、あの機体もどこかから強奪してきたものなのか。
それとも、ステラ・コネクタを所有できるような立場の人間が、誘拐事件に関わっているということなのか……。
「あ」
僕が思考の海に沈んでいたのは、ほんの数秒のこと。
視界内の僅かな変化をきっかけに、意識は瞬時に現実へとフォーカスした。
漆黒のソーンウッドが頭部の向きを変える。
黒塗りの顔が向いたのは、ちょうど僕のワーカーが張り付いている小惑星の方向。
真空の宇宙を挟んで、
反射的に操縦桿を引き、フットペダルを引き寄せる。
機体正面のスラスタが吼えた。
ワーカーが急速で後退する。
張り付いた小惑星の死角へと逃げ込む。
後方への激しい加速度。
シートのベルトが肩に食い込む。
箱型の胴体に続いて、機体のカメラが小惑星の陰に隠れる。
その寸前、ソーンウッドが銃を構えるのが見えた。
黒く塗られた
次の瞬間、機体を隠した小惑星に連続した衝撃が走る。
小惑星を掴んだロボットアームを通じて、岩塊が削り穿たれる音が伝わってきた。
撃たれている。
それを認識して、舌打ち。
当たり前だが、民間に払い下げになるにしても、ステラ・コネクタの武装は必ず解除される。
企業所属でない機体が専用規格の武装を所持しているということは、基本的にあり得ない。
どこぞの金持ちが道楽で自己所有の機体を飛ばしている、という元からゼロに等しかった可能性が、これで完全に掻き消えた。
「後手に回ったな」
けれど、これで踏ん切りがついた。
コンソールを叩いて、ワーカーに設定されていた
個人認証は篠宮から渡された
短いブザーが鳴り、コックピットのモニタに警告が走る。
宇宙服の下で何度か指を曲げ伸ばししてから、僕は操縦桿を強く握り込んだ。