雪原で目を閉じたクァニャンは、木製のベンチの上で目を覚ました。
身体の芯に滲むような冷気が遠ざかり、うららかな日射しの暖かさが肌を撫でる。そよ風に吹かれた草の香りが鼻をくすぐった。
ベンチに横たえていた身体を起き上がらせると、目に入ったのは広々とした公園だった。
眩い緑色の芝生が一面に広がっている。見知らぬ子供たちが高い声をあげて駆け回っていた。青々と葉を茂らせた広葉樹の木陰では家族連れがシートを広げてお弁当を囲んでいる。
視線を少し横に向けると、整備された小径がなだらかな弧を描いてずっと遠くまで伸びていた。灰色に舗装されたその小径を軽装の大人たちが駆け足で走り抜けていく。
太陽は高く、地上は明るくて賑やかだった。
ベンチから立ち上がったクァニャンはぼんやりとした頭で周囲を見回す。緑の公園で遊ぶ人々の声が自然と聞こえてきたが、彼女には彼らの言葉の意味がまったくわからなかった。異国の言葉なのだろうか。困惑しながら額を指で押さえる。どうも思考に靄が掛かった感じがする。
ふとクァニャンの背に影が差した。
太陽が雲に隠れでもしたのかと振り返った彼女が見たのは、天を衝かんばかりの巨大な建造物だった。磨き上げられた硝子で四方を囲った偉容の巨塔が、遥か天高くまで聳え立っている。
自然のものではない。明らかに人工的な建築だ。けれど、こんな大きさの建物は今まで見たことがない。ユミツの首都ナェゴトの中央庁でさえ、あの建物の大きさと比べればちっぽけなミニチュアのように思えてしまう。
「おかしい……」
あの塔は都市の法則に反している。
だって、あれでは『母の樹』を影に隠してしまう。
そう思考した瞬間、クァニャンは気づいた。
都市の象徴であるはずの『母の樹』がどこにも見当たらない。
大地を伝う根の気配も、家々を守る緑の蔦の彩りも、枝葉が織り成す影さえも。
あるべきはずのものが、どこにもない。
途端に、緑に溢れる目の前の公園が作り物のように感じられた。
強い眩暈を感じて、頭を抱えながら思わず空を仰いだ。
青い空からはいつの間にか太陽が消えていて、玲瓏たる白い月が薄っすらと浮かんでいる。
月の海から見れば、ハリボテの公園も天を衝く巨塔も、砂粒のようにしか見えなかった。
地上のクァニャンから見上げられた月のクァニャンは、クレーターの縁に腰掛けて、名前も知らない青い
身体が雲の底に引っ張られる。足元の月の砂が崩れて、クァニャンは尻もちをついた。
柔らかい砂にお尻が滑って転んでしまう。さらさらとした砂に倒れ込むと、火傷しそうな熱さが皮膚に迸った。反射的に身体が跳ねた。砂を撒き散らしながら慌てて立ち上がる。
ぎらりとした陽光が視界を灼いた。乾いた熱風が肌を撫ぜる。
彼女の目の前には果てのない砂漠がどこまでも続いていた。生命を拒絶するような灼熱の太陽が天空に輝いている。地平線は陽炎に揺らめいていて、無窮の空さえも妖しく歪めている。
また眩暈が襲ってきた。
視界がぐにゃりと揺らいで、立っていることもできず、砂漠に膝をつく。
燃えるような熱さの砂に沈んだ膝から痛みが這い上がってくる。からからに乾いた喉の奥から苦悶の声が漏れた。
ダメだ。ここにいてはいけない。死んでしまう。
逃げ場のない砂漠の真ん中で、頭蓋を締め付けるような恐怖がクァニャンを包み込んだ。
どうにかしてここから離れないと。そのための手段を、クァニャンは知っている。
『跳躍』すればいい。
だけど、どこに?
……わからない。
頭痛と眩暈に耐え切れず、クァニャンは砂漠に倒れた。
彼女の身体を受け止めたのは、白い清潔なベッドだった。灼熱の太陽の気配は遠ざかり、陽だまりのような優しい香りが周囲に漂っている。針を刺されたような頭痛は嘘のように消えて、あれほど辛かった眩暈も一瞬でどこかに飛んでいってしまった。
「……やっぱり、夢?」
ベッドから身を起こすと、そこは居心地の良い雰囲気のログハウスだった。
木材を積み上げた暖かみのある部屋に、シンプルだけど上品な家具がちょこんと置かれている。クァニャンが腰掛けているベッドも部屋の中心に置かれた丸いテーブルも木製で、どこか懐かしい木の香りを漂わせている。小さな四角い窓の向こうには、太陽を反射してきらきらと輝く湖と、涼しげな風が吹き抜ける森が見えた。
湖畔に立てられた小さな別荘の一室。そんな印象の部屋だった。
大きな溜め息を吐いて、クァニャンはゆっくりと立ち上がった。
自分はまだ眠っているのだろうか。そう自問してみたけれど、手足の感覚は思いのほかはっきりとしていた。指先に触れたシーツのさらりとした感触までしっかりと感じ取れる。
だというのに、相変わらず記憶は混濁したままだ。どうして自分がここにいるのか、いつからこんな奇妙な感覚に囚われているのか、まったく思い出すことができない。
身体の感覚と頭の中の思考とが上手く接続できない、とでも言えばいいのだろうか。
起きているとも眠っているとも言い切れない不思議な感覚だった。
「ここは安全、なのかな」
部屋の中を探索しながら、彼女は小さく呟いた。
ログハウスの室内は気温も湿度も安定していて、敵意や危険な気配も感じられない。
現在地の正確な情報がわからないのは変わらないけれど、灼熱の砂漠やら極寒の雪山よりはよっぽどマシな環境だろう。
「でも、いつまでもここにはいられない」
現在地は未だにわからず、自分の置かれた状況も把握できていない。その事実が焦燥感を煽ってくる。とにかく、本当の意味で安心できる場所へ速やかに移動しなければならない。
「……そう、どうにかして軍の基地に戻る、とか」
安心できる場所、と考えて最初に浮かんだのはそこだった。
クァニャンが所属する軍の基地はユミツ国の東部に存在する。そこに『跳躍』することができれば、ひとまず身の安全は確保できる公算が高い。
問題は、自分の現在地が不明であり、基地との位置関係を設定できないことだった。正確な『跳躍』には現在地と目的地の正確なイメージが不可欠だ。そこがあやふやなまま『跳躍』を実行してしまえば、どんな悲惨な失敗を引き起こしてしまうかわかったものではない。
やっぱり、まずは今いる場所の情報を集める必要がある。
クァニャンは室内を見回してみたが、残念なことに地図や住所の表示といった現在地を知るための手掛かりはどこにも見当たらなかった。窓から見える湖畔の様子からすると、冷涼で過ごしやすそうな気候の土地のようにもみえたが、それだけでは地域の特定にさえ至れなかった。
この部屋だけではなにもわからない。別の部屋も探索する必要がありそうだ。
クァニャンが目を覚ましたベッドの対面の壁に木製のドアがある。最後にもう一度部屋の中を見回してから、彼女はノブを回してドアを押し開けた。
ドアの向こうは、ごつごつとした黒い岩で縁取られた火山の山頂だった。
角張った火山岩が不規則に組み上がった足元はひどく不安定で、ドアをくぐったばかりのクァニャンは斜めになった石の断面に足を取られて大きくよろめいてしまった。
熱を帯びた火山岩のざらついた表面に手を付けて、つんのめった身体をなんとか支える。四つん這いの格好になった彼女の目に飛び込んできたのは、今なお鼓動する火山の火口、どろどろと粘性を帯びながら赤く燃え滾るマグマの海だった。
真っ赤に焼け溶けた岩石の沼の底から、ごぽごぽと音を立てて火山ガスの気泡が浮かんでくる。焦げた異臭と硫黄のにおいが鼻を衝く。乾いた砂漠とはまた別の湿り気を帯びた熱気がクァニャンを覆いつくす。
「っ」
息ができなかった。空気が薄い。ガスが充満している。
腕から力が抜けて、黒く角張った岩肌に倒れ込む。尖った岩の角にぶつかって胸に鈍い痛みが走る。ざらついた岩に触れていた手のひらは、まるでヤスリを掛けられたかのように皮膚が破れて血を流している。
クァニャンは立ち上がれなかった。
吸えない空気に喘ぎながら、目を大きく見開いて、痙攣するように身体を丸めてうずくまる。
どうにか首を動かして後ろを見ても、ログハウスのドアはどこにも存在しなかった。
前兆もなく大地が揺れた。
地震か、それとも噴火の始まりか。
足元の火山岩が崩れて、マグマの海を抱いた火口へと転がり落ちていく。
クァニャンも火口に投げ出され、藻掻くこともできずに強かに身体を斜面に打ち付けた。
全身を殴りつけられたかのような激しい痛みに視界が明滅する。
叩きつけられた火口の斜面で身体をバウンドさせた彼女は、痛みに思考を塗り潰されながら、ほとんど無意識に遠い空を見た。
高い空には白い月。
クレーターに腰掛けた彼女は、自分の手のひらを広げてみる。火山岩に擦り切れたはずの傷跡は、もうどこにもない。
けれど、心臓は今も早鐘を打っていた。
月からでもマグマに落ちる寸前の自分の姿ははっきりと見えている。
放ってはおけない。地上の自分が消えてしまえば、きっと月の自分も消えてしまう。
『跳躍』しなければ。
だけど、どこに?
救いを求めるように青い
不思議なことに、クァニャンの意識は雲の向こうの地上で焦点を結んだ。
湖畔に佇むログハウスがそこにある。
ついさっき自分でも確認した安全地帯だ。
あそこに『跳躍』すれば、目前の危機を脱することができる。
しかし、そう考えた次の瞬間、クァニャンの身体は月面から浮遊した。
白い砂に覆われた月の海を離れて、青い
果てしない漆黒の宇宙が彼女を待っていた。
赤い惑星を通り過ぎ、マーブル模様のガス惑星をすり抜け、
彼女は止まらない。どこまでも遠ざかっていく。
青い
けれど、ログハウスの座標だけは今もはっきりとクァニャンの頭に焼き付いていた。
目的地の座標がわかっているなら、『跳躍』の条件のひとつはクリアしていることになる。
あとは自分の現在地を正確に把握するだけだ。
「――クァニャン!」
声が聞こえた。
『彼』の声だ。
届くはずのない声が、確かに耳に届いている。
あらゆる物体は光速を超える速度で移動することはできない。
けれど、クァニャンは今や光よりも速く宇宙を遠ざかっていた。
それは宇宙の法則を歪めているのと同じ意味だ。
自分の肉体すらもはや認識できなかった。
なにもかもが一瞬で置き去りにされていく。
恒星の光が白い直線になって、宇宙の漆黒に眩い傷を刻んでいる。
認識不可能な速度で回転する白と黒が、眩暈の色を織りなしている。
全能の恍惚と孤独の寂寥。
頭の中で極彩色の波紋が乱れて踊る。
時間の圧縮が始まっていた。
青い
クァニャンの主観では、それはたった1分の出来事だった。
200年はもはや遠い過去で、300年は忘却の彼方。
400年もひとりぼっちで、500年経っても誰にも会えない。
600年の諦観に胸を締め付けられて、700年の旅路の果てまで。
そして、すべてが静止した。
光速を超えたスピードが一瞬でゼロになる。
圧縮された時間が標準に引き伸ばされる。
宇宙の浮遊感がクァニャンを優しく包んだ。
眼前には青い
700年の彼方に浮かぶ
クァニャンはその
見間違えるはずがない。
それは母なる星――、惑星ウーサだった。
「帰ってきた……?」
宇宙で呟いた声がちゃんと聞こえた。ちょっとおかしいけれど、些細なことだ。
重要なのは、
彼女の視点は惑星ウーサにほど近い宙域で静止していた。小惑星が集まってできた岩礁のようなエリアだ。周囲にはごつごつとした岩石の小惑星と災獣の抜け殻らしき遺物が浮かんでいる。
視線を動かすと、惑星ウーサの月と太陽を見つけることができた。
これで『跳躍』の準備が整った。
「――クァニャン!」
また『彼』の声が聞こえた。
光よりも速く、時間さえも飛び越えて、どこか遠くから呼びかけてきている。
その声を聞いて、クァニャンの中で魔法の形が生まれ始める。
「ケイナイン?」
彼の名前を呼んだ瞬間、クァニャンの両目が宇宙を横断して像を結んだ。
700年前に置き去りにしてきた青い
数分前に『安全地帯』として座標を認識したその場所に、ケイナインの姿があった。
クァニャンはログハウスのベッドで横になっていた。どうやら意識を失っているらしい。ベッドの上の身体は脱力していて、菫色の髪が枕に広がっている。
ベッドの傍らに膝をついたケイナインは、静かに眠り続ける彼女の手を握りながら、クァニャンの名前を呼んでいる。いつもよりも切羽詰まった声だった。握られたはずの手の感覚は、幻のように遠く霞んでいる。
宇宙の果てのクァニャンは、その光景をはっきりと視認していた。
「私は――」
――ここにいる。
胸の奥で燃え上がった衝動は、言葉にならず、ただ魔法の歯車を回し始めた。
宇宙は信じられないほど広大で、人間はびっくりするほど小さな存在だ。誰かと出会うということは、無辺の砂漠から一粒の砂を探し出すよりも奇跡的なのだと、宇宙の孤独がクァニャンに教えてくれた。
「会いたい――」
――あなたに。
そのための鍵は手の中にある。現在地と目的地。『跳躍』するための2つの座標。
不思議と距離は感じなかった。2つの座標は宇宙を隔てているはずなのに、どちらもすぐそこにあるような感覚がある。なぜだろう。地上にも宇宙にも自分の身体があるからだろうか。
全身に魔力が漲って、指先にまで満ちていく。
猫の耳も厚底靴も必要なかった。
編まれた魔法は精緻な構築で、流麗な魔力の軌跡は美しくさえある。
準備は整った。
あとは『跳躍』を実行すればいい。
「そうすれば――」
――ケイナインのところに行ける。
隙のない魔法の構築とは裏腹に、思考は今も曖昧で、混沌とした感情だけが先走っていた。
頭の中に引っ掛かるものもあったけれど、今はその感情こそがなによりも大事なものだと思えてならなかった。
ケイナインの顔を想像すると呼吸が速くなった。
頬がほんのりと熱い。
だから、宇宙なのに深呼吸。
存在しない空気を肺に吸い込んで、血の流れをリフレッシュ。
始めよう。
2つの座標を意識の両端に置いて、クァニャンは魔法の始まりに指を掛けた。
………
……
…
壁のパネルを操作してコンテナのドアを開く。
スライド式のドアが開ききるのももどかしく、僕は半開きのドアからコンテナの内部へと飛び込んだ。
「クァニャン!」
光に溢れたサロンとは正反対に、ドアの先はまったくの暗闇だった。叫んだ声は反響することもなく消えていく。暗闇に溶けいった声が宇宙のような広がりを想起させる。
コンテナの内部は視覚と聴覚を吸い込むような暗がりの空間で、壁や天井、床さえも存在しないと錯覚しそうだった。けれど、僕の眼球は僕よりも冷静で、まばたきひとつで視覚情報が暗視に切り替わった。明暗の強度が調整されて、部屋の全容が目に入る。
それほど広い部屋ではない。目測で3m四方といったところ。コンテナ自体の1辺が5m程度だったから、構造としては部屋の外側がかなり分厚いことになる。
単純に壁が厚いだけとは思えない。おそらく部屋の外になんらかの設備が収められているのだろう。少なくとも、ただの貨物用コンテナではないことは確かだ。
その部屋の中央に、クァニャンが横たわっていた。
正確には、クァニャンらしき人間が、だけど。
「――クァニャン!」
彼女の名を呼んで、部屋の中央に駆け寄った。
僕の声はやはりまったく反響せずに、部屋の空気に溶けて掻き消えていく。踏み込んだ室内の床は驚くほど柔らかく、宇宙服の靴底が沈み込みそうだった。部屋の中央に走りながら周囲の様子を観察するに、どうやら壁や天井も床と同じ材質のようだ。
無響室、なのだろうか。
発した声の残響時間の短さから、その単語が思い浮かぶ。壁や床の吸音性能が異様に高い。明らかに室内の音を減衰させるためのデザインだ。
けれど、どうしてそんな設計の部屋に人質を閉じ込めたのか、その意図がわからない。
「……クァニャン……?」
部屋の中心に近づいたことで、横たわる人影の輪郭がはっきり視認できた。
シルキィ・トウェルブを案内したときの私服ではなく、彼女は身体にぴっちりと密着するドライスーツを身に着けていた。脚の指先から頭のてっぺんまで、弾力性のある黒い素材が彼女を余すことなく包み込んでいる。暗視モードの眼球には、彼女のボディラインがはっきりと暗闇に浮かび上がっているのが見えていた。
スーツが覆っていないのは、顔の下半分、呼吸のための鼻と口の周りだけ。残りの上半分、彼女の顔の目の周囲にはゴーグル型のデバイスが僅かな隙間もなくぴたりと装着されていた。ゴーグルは顔の横まで伸びていて、一体型のヘッドフォンが彼女の耳を覆っている。デバイスには小さな緑色のランプが点灯していて、なにかしらの処理が今も実行されていることを示していた。
ゴーグルのせいで遠目では断言できなかったが、その人物は間違いなくクァニャンだった。
背格好が一致していたし、見えている部分だけでも顔の造りが彼女のものだとわかる。
身体のメリハリも(服の上から測定されたものだが)記録されているデータのとおりだ。
コンテナの中央に横たわるクァニャンの胸は、規則正しく上下していた。
呼吸がある。その事実を認識して、僕の口から深い吐息が漏れた。
よかった。ひとまずは無事のようだ。
だけど、彼女のこの姿は……。
「
彼女を包む全身スーツとゴーグルとの組み合わせに、僕は見覚えがあった。
一般に普及しているこの手のデバイスは、ゴーグルとヘッドフォンで視覚と聴覚だけをカバーするものが主流で、ちょっと凝ったものでも密閉型のベッドを使って仮想空間を出力するタイプが大多数である。五感すべてを再現する装備は、価格的にも非常に高価であり、そうそうお目に掛かることはない。
クァニャンが身に着けているドライスーツは、その非常に高価な装備のひとつだった。皮膚に密着した素材の圧力を調整することで、仮想現実の触覚を現実に再現する装備である。その性能はピンからキリまであるのだが、手足の指先まで完全に覆いきる極端なモデルは、話には聞いたことがあったけれど実際に目にするのは僕も初めてだった。
ともすれば、医療現場で用いられる特別仕様の可能性もある。市場に出回ることはないはずだが、その手の高度医療機器の中には、神経に直接システムを接続するタイプもあるのだとか……。
……状況を見るに、クァニャンの意識は仮想現実の中にある、ということか?
当然だが、彼女が自分の意思でこのデバイスを装着したとは思えない。誘拐犯が麻酔ガスで眠った彼女を着替えさせたのだろう。
けれど、爆破事件まで起こして彼女のことを攫っておいて、その挙句にやることがこれなのか?
犯人たちの意図が読めないことに困惑しつつ、僕はクァニャンの手を握った。ぺたりとした素材のスーツが宇宙服の指に吸いつく。握ったところからは僅かに反発があった。おそらく外的な衝撃を分散させて相殺しているのだろう。外部からの刺激を着用者から遮断する仕組みだ。
クァニャンはなんの反応も示さない。僕が触れたことにすら気づいていないのだろう。どうやら完全に仮想現実に没入しているらしい。
ふと、周囲の空気に僅かな香りがあることに気付いた。宇宙服のヘルメットは被ったままだが、採取した空気からそれがわかる。
この香りも仮想現実の世界に沿ったものなのだろう。発生源は室内の空調と推測される。
コンテナ内に築かれたシステムは、視覚、聴覚、触覚に加えて、嗅覚までヴァーチャルのものを再現しているようだ。この分だと温度や湿度といった環境も完全にコントロールされているに違いない。おそらくやろうと思えば重力や加速度も仮想世界のものを再現できるはずだ。
それはつまり、このコンテナそのものが、クァニャンに
「そうまでして、彼女になにを見せている?」
……いや、気になることではあるけれど、今は置いておこう。
まずは彼女の安全を確保する。それが第一に優先すべき目標だ。
仮想現実に没入している彼女の身体を引き寄せて、装備しているデバイスを観察する。ゴーグルやヘッドフォンはかなりきつく固定されているけれど、外部からの破壊も不可能ではなさそうだ。
ただ問題は、没入深度の深いVR体験を強制的に中断すると、場合によっては着用者の意識に後遺症が残る事例が報告されていることである。通常であればその対策として、強制中断が発生しても意識の断裂が起きないように安全措置が講じられているはずなのだが、誘拐犯が準備したこのデバイスにもそういった機能が搭載されているという保証はない。
物理的にデバイスを引き剥がせるとしても、それが原因でクァニャンの意識にダメージが生じる可能性がある以上、軽率にその手段を取るわけにはいかなかった。
「となると、正規の方法でシステムを終了させる必要があるわけだけど……」
彼女のデバイスを改めて観察してみたが、スイッチのような外部からの操作を受けるポイントはどこにも見当たらなかった。おそらく物理的に独立した別のデバイスから遠隔で操作を行うタイプなのだろう。当然ながら、それを持っているのは宇宙艇のサロンにいた誘拐犯の誰かのはず。
結局、先ほどのサロンに戻る必要があるのか。
そう思考してコンテナのドアを振り返ったとき、唐突に肌が粟立った。
「っ、クァニャン?」
吸音材の床に横たわるクァニャンに視線を戻す。
彼女の様子は一瞬前と何も変わっていない。インプラントや宇宙服に装備された各種の計器も正常な数値を示していて、客観的にはなんの異常も観測できなかった。
けれど、僕は確かに、ある種の前兆を感じていた。
言葉にするのは難しいけれど、肌がざわつくような、見えないなにかが血の流れと反応しているような、不思議な感覚だ。
もちろん僕自身のバイタルも計器がチェックしているから、数値に現れていない以上は錯覚の可能性が高いのだけど、それを気のせいで片づけてしまうことが僕にはどうしてもできなかった。
「……『跳躍』か?」
そうだ、彼女は『跳躍』しようとしている。
この数値に現れない不思議な感覚は、イブキのコックピットで彼女と『跳躍』したとき、ほんの一瞬、ほんの僅かに感じた肌触りに非常によく似ている気がするのだ。
「待て、クァニャン! ダメだ!」
僕はようやく状況を理解した。
クァニャンはおそらく、
それがどこなのかはわからないが、誘拐犯たちが彼女にVRデバイスを装着させたのは、この瞬間を狙ってのことなのだろう。彼らは仮想現実をナビゲーションにして、クァニャンをどこかに送り込むつもりなのだ。
「クァニャン! 僕の声が聞こえないか!」
ドライスーツに包まれてぐったりと脱力した彼女を抱き寄せた。白い宇宙服と黒いスーツが密着する。耳元で呼びかけたが、彼女に反応はない。抱き寄せた彼女の背中に回した腕の存在も、スーツが触覚をコントロールすることで遮断しているようだ。
「ケイナイン?」
僕の腕の中で彼女が呟いた。
けれど、それは目の前の僕ではなくて、どこか遠くにいる
声の調子でそれを悟って、僕はヘルメットの内側で顔を顰めた。彼女は仮想現実に没入したままだ。それなのに僕の名前を呟いたのは、誘拐犯たちが僕のことを
「私は――」
夢見るように彼女が呟く。
どうする。このまま彼女を『跳躍』させるわけにはいかない。どこに跳ぶのかもわからないし、そもそもコンテナの周囲は宇宙空間だ。VRデバイスを装着したクァニャンは宇宙服のような生命維持装置を装備していない。僅かなミスや座標のズレでさえ、彼女の死へと繋がってしまう。
「会いたい――」
焦がれるような声の音色。
今すぐサロンに戻って誘拐犯たちに
「そうすれば――」
彼女の切望は最高潮に達している。
直感する。もう時間がない。
僕は彼女の身体を強く抱きしめた。論理的な行動ではなく、衝動的な動作だった。
宇宙服のヘルメットを脱ぎ捨てる。コンテナ内の空気が顔に触れた。クァニャンもスーツから顔を出しているのだから、呼吸は心配ない。
「僕は、ここにいる」
僕は彼女の顔に自分の顔を近づけた。
浅く呼吸する桜色の唇が、唯一、ドライスーツに覆われていない場所だった。
………
……
…
唇になにかが触れた。
それだけで、すべての感覚が洗い流されていった。
宇宙とログハウスを同時に見ていた視覚も、
遥か遠くの木の香りを感じていた嗅覚も、
耳が痛くなるような宇宙の静寂とともにあった聴覚も、
ひとりぼっちの寂しさに溺れていた触覚も……。
唇に触れた柔らかい温かさと、舌に触れた初めての味覚が現実だった。
胸の中で『跳躍』の魔法が霧散する。
もうそれが必要ないと、考えるより先に感情が理解したからだ。
唇に触れた感覚が離れていく。
周囲は真っ暗で、なにも聞こえないし、身体の感覚もないけれど、不思議と怖くはなかった。
すぐそこに『彼』がいるのだと、どうしてか自然と理解できた。
だから、夢の中のログハウスではなくて、今この場所こそが安全地帯なのだ。
「そこにいるんだね、ケイナイン」
その言葉と共に、クァニャンは