星の息吹と宇宙猫   作:子守家守

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星の息吹は宇宙猫の夢を見るか(1)

 地上は長い雨が続いていた。

 

 クァニャン曰く、そういう季節らしい。

 鉛色の雲がしつこいくらいに空を覆っていて、太陽も月も顔を出せない日がもう一週間も続いている。気温は低いが、湿度は高い。お世辞にも快適とは言い難い環境だった。

 

 DJ号の人工都市にも雨は降る。

 けれどそれは、コンピュータに管理された天候システムによるもので、水資源の循環の都合上、決められた時間に決められた量の雨を降らせるのがせいぜいだった。だから、惑星ウーサにやってくるまで、僕は自然現象としての雨を体験したことがなかったことになる。

 

「雨は好き? それとも嫌い?」

 

 吐息の届きそうな距離からクァニャンが問いかけてきた。

 東部基地の格納庫に設えられた休憩スペースのソファでのことである。テーブルを挟んで対面の椅子も空いているのに、どういうわけか彼女は僕のすぐ隣に腰掛けていた。

 横を向くと、彼女の瞳がじっとこちらを見つめている。ひとつ結びにした菫色の髪が白いうなじを流れている。

 

「好きか嫌いかなんて考えたこともなかったけど……、うーん、どっちかといえば嫌い寄りかな」

「どうして?」

「端末が湿った触り心地になるから」

 

 右手に持った手帳サイズの個人用端末をひょいと持ち上げて、彼女に向けて軽く傾ける。

 

「クァニャンはどうなの?」

「私も嫌い」

「理由は?」

「仕事が増えるから。濡らしたくない荷物を配達して欲しい、とか……」

 

 彼女は頬を膨らませて、じゃれつく猫のような仕草で僕の端末を奪い取った。端末の重さが消えた右手をひらひらと振って、僕はソファの背もたれに背中を預ける。

 クァニャンは端末のモニタをしばらくを見つめて、斜めに傾けたりひっくり返したりしていたが、1分もしないうちに吐息を零して、「ん」と僕の手のひらに端末を返却した。

 返ってきた端末のモニタに表示されているのは読みかけの電子書籍。挿絵のない文字だけの小説である。僕らとの会話を通して日本語の聞き取りには慣れてきた彼女も、読み書きはまだまだ不慣れなようだ。

 

「うーん、なにを読んでたの?」

「『虎よ、虎よ』」

「それってどんな話?」

「宇宙と復讐と『跳躍(ジョウント)』の話だね」

 

 僕がそう言うと、クァニャンが目を瞬かせた。

 

「ひょっとして、魔法使いが登場するの?」

「いや、この本の『跳躍』は魔法とはまた別の技術だから……」

 

 ガリヴァー・フォイルという人物(キャラクタ)は、僕にとってひとつの象徴(シンボル)だった。

 無秩序で、衝動的で、暴力を厭わない。制御不能な感情に振り回されていて、非論理的で行き当たりばったり。周囲に破滅を振り撒きながら、復讐に妄執して突き進む奇妙な男。

 

 僕には彼のような生き方はとてもできそうにない。この物語を初めて読んだのはずいぶんと昔のことだけど、最後のページを読み終えてそう思ったことをはっきり覚えている。

 その一方で、孤独の宇宙で彼が独白した詩のようなリズムが、その頃から僕の頭に深く刻み込まれていた。ステラ・コネクタの棺桶(コックピット)に独りでいるとき、僕はそのリズムを真似て口ずさむのだ。

 

 

『僕の名前は京奈院

 地球は遥けき異国の地

 無限の宇宙に住んではいるが

 やがては――――』

 

 

「ケイナイン、どうかした?」

「……いや、なんでもないよ」

 

 ふと蘇ったリズムを頭を振って追い払った。最近、最後の一節が遠く感じられてしまう。

 ため息をついて端末の書籍を閉じる。クァニャンが不思議そうな表情で横から僕の顔を覗き込んだ。ソファに座った彼女は厚底靴の支援を受けることができず、身長差そのままに僕を上目遣いで見上げている。

 

 格納庫のシャッタは下りていて、休憩スペースの周りにだけ灯りが点いている。

 外はもう日の落ちた夜だった。格納庫にはしんと静まり返っている。さっきまでイブキの面倒を見ていた安藤も、今日の作業を終えてすでに引き上げた後だった。降り続ける雨の音はホワイトノイズで、静寂をより深いものにしているように感じられた。

 

 僕もクァニャンも、日中はそれぞれの仕事に掛かりきりだった。

 DJ号(フネ)に上がっている間の溜まっていた事務仕事を片付けて、機体や装備のチェックをこなし、あれやこれやの報告書を仕上げているうちに日が暮れてしまう、というパターンが地上に下りてからの僕らの日常だった。

 

 仕事中、僕は基地内にDJ号が借りているエリアに籠りっぱなしだったし、クァニャンは本棟の事務室にいることが多いから、彼女と顔を合わせるのはその日の仕事にケリをつけた夕方以降の時間帯になるのが常だった。

 

 ここしばらく、基地の敷地にはしとしとと雨が降り続けている。

 黒いコートに厚底の軍靴を履いたクァニャンは、これまた黒い大きな傘を差して、夜通し消えることのない基地の白い照明に照らされながら、ステラ・コネクタの格納庫を訪ねてくるのだ。

 

「あれ、なにか用事があった?」

「用事がないと来たらダメ?」

 

 というのが、最初のときに交わした会話。

 良いかダメかでいえば、一応は戦闘兵器を扱う格納庫なのだから、他惑星の軍人をほいほい招き入れるのは本当はよろしくないのだろう。ただ、双方の上司である三船とマハナが、クァニャンの来訪を黙認しているようなので、僕も安藤も彼女を追い返すような真似をせずに済んでいた。

 

 僕の個人的な感情として、彼女の来訪を楽しみにしているというのも事実である。

 

「そういえばさ」

「うん」

DJ号(フネ)に戻る前にもここで会ったことがあったよね」

「そうだね」

「あのとき、クァニャンはあっちのソファに座ってたような気がするけれど」

「そうだったかな?」

 

 テーブルの対面に置かれた無人のソファを指差してそう言うと、僕の隣に座った彼女が首をこてんと傾げた。傾けられた小さな頭が僕の肩に触れる。

 とぼけるような彼女の声からはくすぐられたような気恥ずかしさが見え隠れしていた。

 

「……」

 

 胸の奥から痺れるような重低音。

 こんなことが続くようなら、あのかかりつけの医者に新しい心臓の準備を頼んでおいたほうがいいのかもしれない。

 

 

 

 ………

 ……

 …

 

 

 

「北から雪が近づいてきている」

 

 東部基地の会議室にマハナ中佐の声が響いた。

 筋骨隆々とした体躯のユミツ軍人である彼が、室内に集まった者たちの顔を順に見回していく。戦場経験者の鋭くも冷静な視線はまるで鷹のようだった。

 

「ちょっといいか?」

 

 ネイビィのジャケットを羽織った明るい茶髪の地球人が手を挙げる。

 室内の視線が彼に集中した。マハナ中佐が「どうぞ」と促すと、手を挙げた茶髪のパイロット、九十九は頭を掻きながら大袈裟に困惑した表情を作った。

 

「そもそもの話、『雪』っていうのは、なんなんだ?」

 

 その質問に虚を突かれたのか、マハナが目をぱちくりとさせた。鋭い眼光に宿った猛禽の気配は飛び去って、今は鳩が豆鉄砲を食らったような雰囲気になっている。

 質問者の九十九に負けず劣らず困惑の表情を張り付けたマハナは、助けを求めるかのように室内の他の地球人たちに視線を向けた。

 

「一般的な知識としては知っていますよ」と僕は肩を竦める。

「ええと、俺も一応は知ってるっス」メカニックの安藤も頷いた。

「無論、知っている。知らないほうが少数派だ」と三船隊長がきっぱりと断言した。

 

 会議室になんともいえない沈黙が立ち込める。

 

「あらあらまぁまぁ。チャンピオンともあろう方が、まさかお勉強不足なのかしら」

 

『中央』の軍人、ルビーのように赤い髪のミトが愉快そうに声をあげた。

 

「あなたも一国を代表する戦士なのですから、きちんと常識を身に付けておいた方がよろしいのではなくて?」

 

 ものすごく良い笑顔だった。今にも高笑いを始めそうな雰囲気だ。

 普段の清楚な振る舞いはどこへやら、ミトは九十九にちょっかいを掛けたくて仕方がないといった様子だった。彼女は軍高官を多数輩出してきた名家の令嬢であり、自身もユミツ最強と称される魔法使いのはずなのだが、どうも九十九に対しては気安い態度を取っている様子が散見される。

 

「俺が知らないってことは、俺の人生に必要な知識じゃなかったってことだ」

「傲慢ですわね」

「いいや、謙虚なんだよ。知らないことを知らないって正直に言えるからな」

 

 九十九が傲然と鼻を鳴らす。

 彼の態度を咎めるでもなく、ミトが挑発的な笑みを深くする。

 

「でしたらその謙虚さに免じて、(こうべ)を垂れるなら(わたくし)が手づから常識というものを教えてさしあげますわよ」

「もちろん他人に教えを乞うのはやぶさかじゃない。けど、お嬢様は自分の知識を他人に教えたくてたまらないクチだろう? それこそ、そっちが頭を下げれば話を聞いてやらないでもないぜ」

「あらあら、相変わらず口が達者なことで」

「お嬢様には負けるがな」

 

 ばちり、と両者の視線に火花が散った気がする。

 九十九とミトが災獣討伐を祝う記念式典に参加したのはつい先日のことだ。彼らは災獣を討ちとった英雄(ヒーロー)として、二人揃って式典では主役のような立場にあったはずだが、まさか式典中もこんなじゃれ合いに興じていたのだろうか……。

 

「……話を進めていいか?」

 

 咳払いをしたマハナが龍虎の睨み合いに割って入った。

 疲れと呆れが入り混じった声色で、こめかみの辺りを指で押さえている。

 

「もちろん。中佐殿」と九十九が両手を挙げた。口元は半笑い。

 ほとんど同時に、ミトが「失礼しました、中佐」と模範的な軍人の態度で礼を取る。

 マハナが大きな溜め息を零した。

 

「で、結局、雪ってのは?」

「京奈院。簡単に説明してやれ」

 

 三船から投げやりに指名されて、僕は思わず眉を傾けてしまった。

 まぁ、難しい概念というわけでもないし、説明するのは別にいいんだけれど……。

 

 雪とは、特定の天気の名前だ。

 気温の低い環境で、大気中の水蒸気から氷の結晶が生成されて、地上に降ってくる気象である。

 天気そのものではなく、降ってくる氷の結晶そのものを雪と呼ぶこともある。地表の温度が低ければ、降ってきた雪が地上に積もることもある……、らしい。

 

「どうして、『らしい』なの」クァニャンが不思議そうに合いの手を入れた。

DJ号(フネ)には雪が降らないからね」僕は苦笑した。「僕も実際に見たことはないんだ」

 

 シルキィ・トゥエルブの疑似天候システムに雪の日というものは存在しない。技術的には可能という話だが、環境の設定が厄介なのだそうだ。

 都市内に雪を降らせようとするなら、都市全体を降雪に適した気温まで冷却したり、雪片の核となる微小物質を散布したりと、空気中の水分量を調整する他にも様々な準備が必要になる。エネルギィ効率や各種資源の管理の都合上、DJ号で降雪が実施されたことはこれまで一度としてなかったという話だ。

 一般教養の範囲で雪という概念は学習するが、それは地球型の惑星における気象現象として解説されているのに過ぎない。九十九が雪のことを知らないというのも、わからない話ではなかった。

 

「要するに、雨の親戚だな」と、ひと通りの説明を聞いた九十九が窓の外を見やる。

 地上の長雨はまだ続いていて、降りしきる雨粒が盛んにガラスを叩いていた。

 

「それで? 北から雪が来るっていうのは、どういう意味なんだ。まさか『これから寒くなるので気を付けましょう』なんて話じゃないんだろう?」

 

 とぼけた口調だったが、九十九の目は笑っていなかった。獲物を探す猛獣の目だ。

 暴力的な気配を隠そうともしない視線を受けて、「当然だ」とマハナが頷く。

 

「北の地は災獣の縄張りで、止むことのない雪こそがその境界なのだ。すなわち、北から雪が迫ってくるということは、彼の地の災獣が縄張りを広げつつあることを示しているのに他ならない」

 

 重々しく告げられたその言葉に、九十九が口の端を吊り上げた。

 その好戦的な表情を横目で見ながら、僕は頭の中で地理関係を整理する。

 

 東の大海蛇(イア・アムハブ)、西の大陸亀(イア・ルコグム)、そして南の大森蟹(イア・メルグネ)

 たった今マハナが語った北の災獣とあわせて、ユミツ国は四方を災獣に包囲されていたことになる。これまで他国との国交が途絶していたというのも頷ける話だ。

 

 ユミツの四方を縄張りとする災獣のうち、三体はすでに討伐されている。

 惑星ウーサの他の地域には多数の災獣がまだまだ存在しているのだが、ユミツ国の近隣に限っていえば、北の災獣が最後の一体ということになる。

 

「その最後の一体が縄張りを広げ始めたというのは、他の三体が討伐されたこととなにか関係あるのでしょうか」

「可能性はあるが、断定はできない。なにせ過去に災獣が討伐されたという事例がほとんどないからな……。近所のお仲間を殺された災獣(ヤツ)がどういう動きをするものなのか、我々も確かな情報を持っていないというのが正直なところだ」

 

 僕の問いにマハナが額に皺を寄せながら答えた。

 

「だが、原因がなんであれ、災獣が縄張りを拡大するということは、我々の生存圏が脅かされることとイコールだ。必ずや災獣の進行を押し止めて……、可能であればヤツを討伐する。それが今回の作戦となる」

 

 告げられた内容に特に驚きはなかった。このメンバが集められたという時点で、災獣に関わる任務の話だろうと察しがついていたからだ。会議室の他の面々も似たようなものらしく、大きなリアクションは誰からも発生しなかった。

 

 言うまでもなく、この任務はユミツ国とDJ号の双方から承認された正規の軍事作戦となる。

 両者を繋ぐ窓口となったのは、首都ナェゴトに常駐する大道寺宇宙開発の渉外部だった。本来であればユミツ国からもDJ号に外交官を置く計画が進んでいたらしいのだが、クァニャンの誘拐事件の影響でそちらはしばらく保留となっている。とはいえ、事件はすでに解決していて、犯人も逮捕されているので、そう遠からず外交官の受け入れ計画も再スタートするだろうと聞いてはいるが。

 

「作戦指揮はマハナ中佐が?」

 

 クァニャンが尋ねると、中佐が首を縦に振った。

 

「ユミツ側は私で、チキュウ側はミフネ殿が指揮を執る。大森蟹(イア・メルグネ)のときと同じ形だ」

「では、現場に出るのは(わたくし)とクァニャン、それからアケソラとイブキですわね」

 

 ミトが赤い髪をさらりと梳いて、口元にゆるりと弧を描いた。楚々とした微笑みだが、目の奥に好戦的な炎が燃えている。薄笑いを浮かべつつギラギラとした気配を放つ九十九と、実によく似た雰囲気だった。

 

「今回も僕らだけですか? 追加の人員を投入する予定はない、と」

「そうだ。というのも、前回の作戦でミト大尉とツクモ殿が組んだ際の攻撃範囲(レンジ)の広さが明らかになったからな。下手にこちらの人数を増やしても、彼女たちの持ち味を削ることになってしまうだけだ」

 

 そう言われて、僕は大森蟹(イア・メルグネ)との交戦の記憶を思い出す。

 脳裏に蘇ったのは、ミトと九十九を乗せたアケソラが遥か上空から白雷を容赦なく降らせる光景である。確かに、あの雷撃の嵐が荒れ狂う戦場で、冷静な行動を取れるだけの実力(もしくは度胸)を持った人間でなければ、作戦に参加しても彼らの足手まといになるだけだろう。

 

「ま、栄光あるミトお嬢さまに味方殺しの汚名は被せられないってわけだ」

「どれだけ精確に制御しても威力の下限が高すぎるのがアケソラの欠点ですわね」

 

 口を斜めにした九十九に、ミトが優雅な微笑みを浮かべて応じる。

 

(わたくし)だけの魔法なら、人間が死なない程度に加減するのも簡単なのですが」

「それって結局、味方を巻き込んでるよな?」

「ええ、そのとおり。ですが、(わたくし)の魔法に巻き込まれるのは、軍人にとってある種の名誉になるらしいですわよ? むしろ、最前線で勇敢に戦っていたからこそのご褒美である、とか」

「……なんというか、そっちの軍にはキマってるヤツが多そうだな」

 

 表情をまったく変えずに堂々と言ってのけたミトだったが、同席しているマハナ中佐はあからさまに顔を引き攣らせていた。クァニャンも小声で「それは特殊なケース」と呟いている。

 ……『お嬢さま』のフレンドリィ・ファイアを『ご褒美』と感じている人間がいったいどれだけいるのやら。気になりはするが、あまり深く立ち入らないほうがよさそうだ。

 

「ええと、ともかく、こちらの編成はわかりました。では次に、ターゲットとなる災獣についての情報は?」

 

 僕はやや強引に議題を進める。

 マハナ中佐が引き攣っていた顔をサッと戻して「それについてだが」と渋い声で応えた。

 

「北の災獣については、我々も詳しいことを把握していない」

「どういうことですか?」

「聞いた通りの意味だ。ユミツ国北方の寒冷地帯に災獣がいるのは確かだと()()()()()、その姿を実際に目にして、生きて帰った者は未だかつて存在しないのだよ」

 

 話はこうだ。

 

 ユミツ国の北方は開けた平地が広がっていて、隣国との境界となる山脈に至るまでの領土は古くから広大な農業地帯として名を馳せていた。豊かな土壌と年間を通じて適度な降雨が期待できるという条件のもと、耐寒性の高い野菜や酪農が特に盛んだったという。その頃も冷涼な気候であることは知られていたが、決して極寒の地というわけではなく、雪が降るのは年に数回程度のことだったらしい。

 

 北部地域の自然環境が崩壊したのは、災獣の到来後のことだった。

 

 隣国との国境となる山脈からそれは始まった。気温の低下と降雪の増加である。北の山脈を白く染めつくした吹雪は、一日たりとも止むことなく、北部地域の農村、農業都市を次々に飲み込んでいった。

 

 通常の自然現象でないことは明らかだった。吹雪に呑まれた都市からは一切の連絡が途絶え、誰一人として再び姿を現すことがなかった。生存が確認されたのは、吹雪が到達する前に運よく南の土地に逃げおおせた人間だけである。

 

 時を同じくして世界各地でも未知の怪物――、すなわち災獣が出現することとなった。

 ユミツ国は北方の吹雪も災獣が元凶であると判断。すぐさま国軍を討伐に向かわせている。

 だが、北の地へと進軍した彼らは、そのほとんどが吹雪の奥から帰ってくることがなかった。数万人規模の軍が派遣されたものの、生きて戻ったのは僅かに数人だったという話だ。

 

 生きて帰った軍人の証言だけが、ユミツ国の得た唯一の情報だった。

 

 生存者の軍人が言うには、北の地は太陽の光さえほとんど届かない激しい吹雪に閉ざされていたのだという。積雪は深く、徒歩での行軍は困難。飛行魔法を用いようにも吹雪による視界不良のために牛歩のような進軍速度を余儀なくされたということだった。

 言うまでもなく、極低温の環境は非常に厳しく、防御魔法を纏っていてもじわじわと体力と体温を削られてしまう。一寸先も見えないような吹雪の中、派遣された軍人たちは憔悴しながらなんとか歩を進めていた。

 太陽が見えないため、いつしか時間の感覚も曖昧になっていった。自分たちが吹雪の中に入ってからどれくらいの時間が経っているのか、もはや誰一人としてはっきりとわからない状態に陥ってしまっていたのだという。

 

「それから、声が聞こえたんだ……」

 

 その軍人曰く、突然、吹雪の奥からおぞましい叫び声が聞こえてきたのだ、と。

 人間のものではない、恐ろしい怪物の咆哮だった。と同時に、前方で戦闘が発生したような気配が感じられた。吹雪のせいで視程が届かなかったため、微かな声と物音、そして攻撃魔法の魔力からなんとか察することができたという程度ではあるが、軍勢の先頭付近で何かしらの異常が発生したことは後方に配置された軍人にも伝わってきていた。

 

 本来であれば、杖を抜き、戦闘に備えるべきだったのだろう。上官の指揮に従って、前方の友軍の援護に向かうべきだったはずだ。

 けれど生き残った兵士たちは、怪物の叫び声を聞いた瞬間に狂乱に囚われてしまった。暗鬱たる吹雪と先の見えない行軍にひび割れた精神を、姿さえ見えない怪物の叫喚が容赦なく砕いたのだ。

 

 彼らは逃げ出した。戦闘の気配に背を向けて、()()()()()()()から少しでも遠ざかろうと、遮二無二になって駆け出したのだ。

 当然、方角のことを気にする余裕もなかった。来た道をちゃんと戻れているのか、それともまるで見当外れの方向に迷い込んでいるのか……。そういったことを考えることすらできずに彼らは吹雪の中を闇雲に逃げ惑った。

 

 吹雪の牢獄から抜け出すことができたのは、おそらく単に運が良かっただけなのだろう。

 怪物の咆哮を聞いて逃げ出した兵士の数は、数十とも数百とも言われている。しかし、生きて吹雪から出てくることができたのは数人だけだ。残りは死体すら確認されていない。

 

 幸運にも生還することができた兵士たちも、皆一様に衰弱が著しかった。軍に貴重な証言を残した者たちも、完全に回復することはなく、その後は誰一人として長く生きることができなかったという……。

 

 

 

 ………

 ……

 …

 

 

 

「以上が、我々が把握していることのすべてだ。災獣について詳細な情報がないというのも、これで理解してもらえたと思う」

「生還した兵士が聞いたのは叫び声だけで、災獣の姿を見たわけではない、と……」

「そういうことになるな」

 

 マハナ中佐が頷く。

 

「ホラーかよ……」

 

 九十九がげんなりとした表情で呟いた。

 外の雨は今も降り止まず、照明の点いた会議室もどこか陰鬱な雰囲気が漂っている。マハナ中佐の語った救いのない物語が室内の空気に影響しているのは明らかだった。

 

「あら、チャンピオンはこういったお話が苦手でして?」

「苦手じゃないが、ターゲットの情報が不明瞭なのは気持ち悪いな」

 

 からかうようなミトの問いに、九十九が顎に指を当てながら答えた。

 

「ケイナインはどう?」とクァニャンが尋ねてくる。

「うーん……」と少し考えてから僕は答えた。

 

「物理的に破壊することができる相手ならいいんだけど……。それが通用しない相手なら、どうにかして逃げるしかないだろうね」

 

 地球を出発してから700年。

 残念なことに、地球人は今もお化けに対処する方法を知らなかった。

 

 

 

 

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