"ツムギ、この綺麗なサングラスも不思議なものなの?"
そう言って先生が手に取ったのは大きめのサングラス。レンズは真っ黒なのだが反射する光が虹色に輝いており、先生はそれが面白くてまじまじとその反射光を眺めていた。
「お目が高いですね先生、私が選んで買ったものなんです」
"あ、じゃあツムギの私物で普通のサングラスなんだね"
「いえ不思議なものです」
"そ、そっかぁ……、不思議なものではあるんだね……"
途端にサングラスから顔を遠ざける先生。その反応が面白かったのか、その眼鏡の持ち主である少女……椎名ツムギは口元に手をやり、コロコロと淑やかに笑って見せた。
ここは椎名ツムギの自宅。先生は彼女に招待されてここに来た。音楽を嗜む彼女の家なのだから、きっと楽器や楽譜やそれらの機器がいっぱいあるのだろうと先生は思っていたが、果たしてその予想は大きく外れていた。(もちろん楽器もちゃんとあるのだがそれ以上に)広々とした室内に雑多に、大量に置かれているのは人形やお面や絵などの品物。これらはただのインテリアではなく、特異現象を引き起こす不思議な物品なのだとか。
「まあこれは………成った、と言ったところでしょうか」
"……不思議なものに?元は普通のサングラスだったってこと?"
「ええ。あれは⬛︎ヶ月前のこと……」
先生からサングラスを受け取り、その時のことを語り出すツムギ。彼女の脳裏には、あの波打ち際の景色が色褪せることなく残っていた。
________とある昼下がり、ツムギは新曲のアイデアを練るために1人浜辺を散歩していた。少し暑いが心地よい海風のおかげで過ごし易く、遮るものがなく照りつける陽射しも、当時買ったばかりのサングラスが和らげてくれていた。
「作詞作曲……それは己の内側にある情熱を見つめ直すことであり、己の外側にある感動を見つけ出すことでもあります。静かな場所を散歩するのはそのどちらもできるんです。内側と外側を同時に見ることができて……おっと、これは今関係ない話ですね。すみません先生、早速脱線してしまって」
"ツムギのその考え、私は好きだよ。今度その話も聞かせてね"
「フフッ、ありがとうございます。して、話は戻りますが……そこに行くのは初めてでした。ワイルドハントの自治区にある場所ですが、特にそこに行く用事が今までなかったのです。他の散歩コースを開拓したくなったから、今までにない曲を作りたかったから、何より……新しいサングラスを買ったから。それらの要因が重なって私はそこに行ったのです」
________波の音。潮の匂い。履いていたサンダルを脱いで渇いた砂に足を踏み入れてみる。指の隙間に砂が入り込む感触が心地いい。それらの刺激が外側からやって来て、自分の内側と混ざり合ってインスピレーションとなる。そうして舞い降りたアイデアを鼻歌にして、ツムギは砂浜を軽やかに歩き続けた。
「人間の死が社会の福祉……うん、いい詩ですね………おや?あれは」
不意にツムギの足と鼻歌が止まる。あちこち揺れて景色を見ていた視線が真っ直ぐ一点を見つめ出す。その先には浜辺の端に広がる岩礁があり、その中でも一際大きな岩の上にお地蔵様が建っていたのだ。
「こんな所にお地蔵様、ですか。珍しいなんてものじゃありませんね」
好奇心に駆られてツムギはお地蔵様へと歩み寄る。サンダルを履き直して頑丈に踏み入り、海水で湿った岩を気をつけて登ってどうにかお地蔵様の真横まで辿り着いた。
そのお地蔵様の大きさはツムギの腰くらいで、青い海原を見つめながら優しく微笑み、祈りを捧げている。その姿にツムギは困惑した。彼女が持つお地蔵様のイメージと違ったのだ。
(街中にあるお地蔵様は歩道……人のいる場所を見つめて祈りを捧げていますよね。でもこれは海……人のいない場所を見ている。どうしてこのような場所に、この向きで建てられたのでしょう?)
恐らく意味がある、それは理解できたがその意味までは理解が及ばす、ツムギはお地蔵様の横顔をじっと見つめながら小首を傾げた。そんなツムギに振り向くことなくお地蔵様は海を見つめ続けている。しばらくそうしていると大きな波が岩にぶつかり、水飛沫がツムギの足を濡らした。
「おっと、もうすぐ満潮ですね。帰りますか。お地蔵様もお元気で」
手を合わせて軽く会釈し、ツムギは浜辺を後にした。そして家に帰って湧き上がったインスピレーションを楽譜にして、無事に新曲を生み出すことができたのだった。
"________岩礁にある、海を向いたお地蔵様。それは確かに不思議だね"
「そうですよね。一体何のために建てられたのか、謂れなどを調べてみたのですが判らず終いでした。何か事故があってその鎮魂のためなのか……とも思いその方面も調べたのですが、あの浜辺で大きな事故は今までなかったそうです」
"そっか……あ、じゃあアレかな?お地蔵様って閻魔大王でもあるんだって。だから悪いものが海から来ないよう見張っているとか!"
「閻魔大王とは、そういうものでしょうか?………いえ、なるほど、そういうこと………納得しました。先生のその考えは正しいのだと思います」
"え、本当!?"
「はい。だから私はあの時アレに会い、このサングラスは不思議なものになったのでしょう」
"…………え?"
「先生。先程あの浜辺で大きな事故は無かったと言いましたが、それは私が散歩に行った時までのこと。実はその後に、大きな事故が起こったのです………」
________散歩から数日後、付近の海域で石油タンカーが嵐に遭い沈没。漏れ出した重油は海を汚染し、あの浜辺まで広がってしまった。
そのニュースをテレビで見たツムギは、何となくお地蔵様のことが気になり浜辺に向かった。陽射し対策にサングラスも掛けて。
果たして辿り着いた浜辺は数日前とは似ても似つかないほどに汚れ切っていた。海原は黒い油が浮き上がり、砂浜も打ち上げられた油のせいで黒く固まっている。刺すような悪臭が鼻の中に入ってむせ返る。美しい景色と潮の匂いは完全に失われていた。
「散歩どころじゃありませんね。お地蔵様は、この様子ですと……」
察してしまうがこの目で見ないことには分からない。そんな薄い望みを胸にツムギはお地蔵様の元へと向かう。ぐるりと大回りをして浜辺の端に行き、油を踏み越えて岩礁に辿り着き、手足や服を汚しながら岩をよじ登る。道中、「どうして私はこんなに必死になっているのでしょうか?」と自問自答したりもしたが、その答えはただの衝動だとすぐに結論付けることができた。そしてその衝動に身を任せるのも青春だとツムギは理解していたのだ。
そしてようやっとツムギはお地蔵様の元へと辿り着いた。先日のように真横からお地蔵様の様子を伺うと、どうやら満潮の時に油まみれの波を浴びたようで、前面が黒いタールで覆われていた。
(かわいそうに。これではお祈りどころか、海を見ることも出来ませんね。……今の海を見せたいかと言われたら何とも言えませんが、せめて顔くらいは拭いてあげましょうか)
そう思い、ツムギは懐からハンカチを取り出そうした………瞬間。
ぴちゃ、ぴちゃ。
(……ん?雨でしょうか?)
周囲が薄暗くなり、頭上から水滴が落ちてツムギの体に当たる。だがさっきまで雲一つない晴天だったはずだ。急に降るなんておかしい。その違和感からツムギは手のひらを開き、落ちてくる水滴を受け止めて観察しようと試みる。水滴はすぐにツムギの手のひらに落ちて来て、そして手のひらを汚した。
(これは………油?)
雨だと思っていたのは、この浜辺に漂い汚染を続けている重油だったのだ。薄まって透明になっているが粘性は保っており、手のひらの上で油膜が虹のような光を乱反射させる。これが頭上から垂れているのか。ならこれは雨じゃない。ならこれは………これは何だ?
(私の周りが薄暗くなったのは雨雲ではなく、何かが上にあるから?いや……誰か、でしょうか?私は今、もしかして、覗き込まれている?)
結論を証明するために、ゆっくりと顔を上に向けるツムギ。瞬間、『ソレ』から垂れる油の雫がサングラスのレンズに落ちて広がった。
「________『ソレ』が何で、どういった存在だったのか。お地蔵様共々分からないままです。ただ私は『ソレ』を見た瞬間………青春と言う衝動を酷く後悔しました」
"そ、そんな……ツムギは大丈夫だったの?"
「はい、咄嗟にお地蔵様の顔を拭ったら『ソレ』はいなくなったんです。そうしなければならないと思ってそうしたのですが……先生の予想は正しいのでしょう。きっとお地蔵様は、あの海から『ソレ』が来ないよう見張っていたんです。でも重油の波に乗って、お地蔵様の目を潰して、それは私の前に現れた………フフッ、そんなよくある物語です」
"よくあるものじゃないかなぁ……。まあ、とにかく、そのサングラスが不思議なものになったってのは、その油の雫がレンズに付いたからってことだね"
「はい、今も取れないんです。それが虹色の油膜になってて、だからこのサングラスは虹色に輝いているんですよ」
微笑みを絶やさずに悍ましいことを言ってのけるツムギに、先生は顔を歪めて半歩後退りする。彼女の実体験を聞いた後だとサングラスがさっきよりもずっと恐ろしいものに見えたのだ。しかし先生はここでふと疑問が浮かび、それが恐怖をかき消して好奇心をくすぐる。先生はすぐにツムギに問いかけた。
"……あ、ツムギ。結局そのサングラスは、どんな不思議なことが起こるの?"
「ああ、これですか」
ツムギはサングラスを開き、カチューシャのように頭に乗せる。そしてその淡い青色の瞳で真っ直ぐと先生を見つめた。
「……先生、私の目は色んなものを見ることができます。先生には見えない、色んなものを。だから先生、このサングラスを掛けて見ませんか?私と同じものを見ることができますよ。そう、たとえば……虹などが」
"え、遠慮しとくよ……"
「フフッ、ではまたの機会に……」
そう言ってツムギは悪戯っぽく笑い、サングラスを頭上から降ろして掛け直した。真っ黒な重油のような黒いレンズが、彼女の瞳を覆い隠した。