春の風が、肌を優しく撫でる。新学期の匂いが、朝の空気に溶け込んでいた。
北宇治中学校の校門の前に立つ少女の姿は、どこか所在なげで、周囲からほんの一歩だけ距離を置いているように見えた。
肩まで伸びた髪が、風にふわりと揺れる。
——黄前久美子。二年生。
今日から、この学校の生徒になる。
彼女は足元に目を落としたまま、ゆっくりと校門をくぐった。
スニーカーの靴底が、アスファルトをやわらかく擦る音だけが響く。
「……もう、やらないって決めたんだから」
小さく、呟いた。誰に聞かせるでもなく。自分に言い聞かせるように。
かつて在籍していたのは、桜ヶ丘女子中等部——全国屈指の女子サッカー強豪校。
部員は百人を超え、三軍まで編成された巨大な組織の中で、久美子はその二軍……それも、ベンチだった。
試合に出た記憶は、ほとんどない。
ユニフォームが土で汚れることもなく、ベンチに座ったまま、試合の終わりを見送るだけ。
気がつけば、いつからか笑えなくなっていた。
あの場所で、自分は「必要ない」存在だった。
ピッチに立つ子たちは、皆キラキラしていた。何かを“持っている”子たち。
自分には、それがなかった。
努力だけじゃ届かない、確かな壁がそこにあった。
「何が足りないのか」なんて考えてみても、答えは出ない。
才能? 身体能力? 判断力?
……全部かもしれないし、どれでもないのかもしれない。
でも、出た結果はただ一つ——出られない。それだけだった。
だから久美子は、サッカー部を辞めた。
チームメイトたちの視線は、優しさと無関心が入り混じっていた。
引き留められることも、責められることもなかった。
——それが、いちばんつらかった。
(……もう、サッカーはいい)
そう思って、北宇治に転校してきた。
本当は、サッカー部なんてない学校を選べばよかったのかもしれない。
でも、サッカーそのものを嫌いになったわけじゃない。
ただ、自分が“プレイヤー”である理由が、もうわからなくなっていただけだ。
新しい学校。新しいクラス。新しい自分。
すべてを、やり直す場所。
——だから。もう二度と、ボールを蹴ることなんてない。
久美子は、制服のポケットの中で、そっとこぶしを握りしめた。
*
昼休み。教室のざわめきの中、久美子は静かに席に座っていた。
転校生というだけで、妙に注目されるのが苦手だった。できることなら、目立たずに過ごしたい——そう思っていた。なのに。
「ねえ、黄前さん……だよね? あ、合ってる?」
あまりにも明るくて、まっすぐな声だった。思わず顔を上げると、ふわふわした明るい茶色の髪に、大きなリボンをつけた少女が笑顔でこちらを覗き込んでいた。
「わたし、川島緑輝! 同じクラスだから、よろしくねっ!」
人懐っこいその笑顔は、苦手というより——眩しかった。
「あ、うん……よろしく」
久美子は、小さく微笑み返した。それだけで、少しだけ心が軽くなるのを感じた。
「お昼、一緒に食べよ? 屋上、空いてるんだよ。風、気持ちいいし!」
その勢いに、思わず戸惑う。けれど、断ることができなかった。
久美子は、素直に彼女の後をついていった。
*
屋上へ続く階段の踊り場。ふと、窓の外に視線が向く。
運動場。ボールが転がり、ユニフォーム姿の少女たちが走り回っている。
その光景に、久美子の呼吸がふと止まった。
(……サッカー部)
気づけば、目が離せなくなっていた。遠くて顔までは見えない。けれど、ひときわ目を引くプレイヤーがひとりいた。
迷いのないステップ。張りつめた空気をまとうような存在感。スパイクが地面を蹴る音が、ここまで聞こえてきそうな気がした。
——きっと、あの人は、試合に出ている。
そう思った。自分が、たどり着けなかった場所に立っている人。
「……黄前さん?」
声に振り返ると、緑輝が心配そうにこちらを見ていた。
「あっ、ごめん。ちょっと、ぼーっとしてて」
「んー、気にしないで! あ、あそこに見えるの、うちのサッカー部なんだよ。いま昼休みの練習中で……あっ、あの人、高坂麗奈さん。わたしたちと同じ2年生なの」
「同じ……」
「うん。すごく上手で、ストイックっていうか……ちょっと怖いけど、かっこいいよ」
緑輝は無邪気にそう言って笑った。
久美子は何も言わず、もう一度だけ、グラウンドを見た。
ただ走っているだけなのに、胸が締めつけられる。
自分も、あんなふうにボールを追いかけていた時期が……確かにあった。
でも、それはもう終わったこと。忘れなきゃいけない。
——忘れたはず、だったのに。
*
その夜、久美子は自分のノートを開いた。
名前も書かれていない、まっさらなページ。
その隅に、ふと手が動く。
『……本当は、またサッカーがしたい。』
書き終えた瞬間、自分でも驚いた。
けれどその言葉は、心の奥底にしまい込んでいた何かを、確かにすくい上げていた。