「サッカー部、見学だけでも行ってみない?」
放課後、教室で荷物をまとめていた久美子に、川島緑輝が声をかけてきた。
その声はいつも通り明るく、けれどどこか自然体で、押しつけがましさはなかった。
「……見学?」
「うん。練習だけちょっと見て、気が向かなかったら帰ればいいし!」
そう軽く言ってから、緑輝はいたずらっぽく笑った。
「でも、きっと黄前さん、好きになると思うよ」
その根拠のない自信に、久美子は一瞬だけ吹き出してしまった。
……見に行くだけなら、いいかもしれない。
*
校庭の端。小さなベンチに腰かけながら、久美子はグラウンドを見つめていた。
夕焼けが落ち始め、芝の上に長い影が伸びる。サッカー部の声とボールの音が、風に乗って耳に届いた。
ドリブル。パス。声出し。スライディング。
一つ一つの動きが、胸の奥をざわつかせる。
懐かしさ。憧れ。そして——少しの痛み。
そのとき、鋭いパスを受けてゴール前を駆ける選手が目に入った。
力強いステップでディフェンスをかわし、軽やかにボールを蹴り込む。
ネットが揺れた。
「おーっし! 今の、決まったよねっ!」
高らかな声とともに、弾けるような笑顔で跳ねる少女。
——加藤葉月。オレンジ色のヘアゴムが、彼女の明るさそのものを象徴していた。
「すごい……」
思わずもれた久美子の声に、隣の緑輝が嬉しそうに笑う。
「うん、あれが加藤葉月さん。明るくてパワフルで、実は久美子ちゃんと同じ2年生なんだよ」
「同学年……なんだ」
「そうそう。それから——ほら、中央にいる子。昨日、屋上から見てたでしょ? あれが高坂麗奈さん。同じクラスで、同じく2年生」
視線の先には、ピッチの中央で真剣な表情を浮かべる少女の姿があった。
無駄のないパス。冷静なコーチング。空気を引き締めるような緊張感。
久美子は、見てすぐにわかった。この人は、ただ“上手い”だけじゃない。
「勝つために必要なもの」を、すべて持っている——そんな選手だった。
そして、その視線がふとこちらを向く。
目が合った瞬間、久美子は思わず背筋を伸ばしていた。
(同じ2年生、なのに……)
心が、ほんのわずかに揺れた。
*
その日の帰り道。久美子は空を見上げた。
夕焼けはもう、藍色に染まりはじめていた。
ただ練習を見ていただけなのに、胸の奥が、ずっと熱を帯びていた。
動き出した気持ちを持て余したまま、彼女は小さくつぶやく。
「……もう一回、やってみたいのかな。私……」
その声は誰にも聞こえていなかった。
けれど確かに、自分自身の奥深くに届いていた。
*
次の日。授業が終わるチャイムが鳴った放課後。
久美子は迷っていた。机に手をかけたまま、荷物もまとめず、動けずにいた。
「今日も、行く?」
声をかけてきたのは、緑輝だった。まるで最初から分かっていたかのような、やさしい笑顔で。
「……少しだけなら」
そう答えた自分の声が、思っていたよりもあっさりしていて。
久美子は、胸の奥がわずかにざわつくのを感じていた。
*
グラウンドの端。見学のつもり——だったのに。
「ちょっと、そこの! そこの転校生!」
突然、弾むような声が飛んできた。
「見てるだけなんてもったいないって! ボール、蹴ってみよ! 軽くでいいから!」
手を振っていたのは、加藤葉月だった。
夕日に透けるオレンジ色のヘアゴムと、弾ける笑顔が眩しい。
「え、私? でも……」
戸惑う久美子の背中を、緑輝がそっと押した。
「ボールを蹴るだけなら、いいでしょ?」
それは逃げ道をふさぐような強さではなかった。
ただ、背中をやさしく支えるだけの、あたたかな後押し。
*
——ボールを蹴るなんて、いつぶりだろう。
そんなことを考える間もなく、久美子は軽くステップを踏んでいた。
葉月のトラップを受けて、右足でパスを返す。
自然と、身体が動いた。
「おっ、いいね! パス、きれい!」
葉月の明るい声に、思わず久美子は照れくさそうに笑う。
(……体が、覚えてる)
ボールを蹴る感覚。芝の匂い。汗の気配。
全部、遠くに置いてきたはずのものたち。
そこへ、低く真っ直ぐな声が割り込んできた。
「無駄なステップが多い。姿勢も崩れてる」
ドキリとして振り返ると、いつの間にかそばに立っていたのは——高坂麗奈だった。
その瞳が、真剣に久美子を見据えている。
「蹴る前に、ちゃんと周囲を見て。あなた、プレースタイルは中央向きよね?」
「え、……なんで分かるの?」
「クセが出てる。体の使い方と視線の向きで、だいたい分かる」
あまりに迷いのないその言葉に、久美子は口をつぐんだ。
自分より少し背の高い彼女は、“分析”というより“確信”としてそれを語っていた。
——同じ2年生、なのに。
いや、だからこそ、差が痛かった。
けれど、それ以上に胸に残ったのは、麗奈が自分を「プレイヤー」として見てくれたことへの、不思議な嬉しさだった。
*
帰り道。久美子は、あの瞬間を思い返していた。
芝の上でボールを蹴った、あの感覚。
わずかな振動と手応えだけで、胸の奥が熱を持つなんて。
「……やっぱり、好きだな」
そのつぶやきに、もう迷いはなかった。
*
翌日、放課後の教室。ざわめきが引いて、生徒たちが次々に部活へ向かう中、久美子はまだ自分の席に座っていた。
昨日、足で感じたボールの感触が、まだ足元に残っている気がする。
加藤葉月の声、緑輝のやさしい後押し、そして——高坂麗奈の、鋭く迷いのない視線。
(中央向き……って、言われた)
あれはまるで、自分がもう一度「選手」として呼び戻されたような言葉だった。
それでも、久美子は迷っていた。
またあの場所に戻って、同じことの繰り返しだったら——
また、「通用しない」って突きつけられたら、今度こそ立ち直れないかもしれない。
——だけど。
「それでもやりたい」と思ってしまった気持ちからは、もう目をそらせなかった。
*
部室の前で立ち止まる。
手をかけた瞬間、鼓動が速くなるのがわかる。
「……はあ、落ち着け、私」
深呼吸をひとつ。ノックはせず、そっと扉を開けると——先に来ていた緑輝がぱっと顔を上げた。
「久美子ちゃん! ……って、名前で呼んじゃっていい?」
「う、うん。全然」
「やった! じゃあ……今日は見学?」
どこか期待を込めた声。久美子は、一拍おいてから小さく首を振る。
「……ううん。入部、したい」
緑輝の目がまるくなり、次の瞬間、ぱあっと花が咲いたような笑顔になる。
「ほんと!? やったー! ようこそ、北宇治中サッカー部!」
その明るさに、救われるような気がした。久美子は、小さく笑った。
そこへ、遅れて入ってきたのは高坂麗奈。
何も言わず、久美子を一瞥してから、短くうなずいた。
「入部、するんでしょ。……なら、覚悟して」
「え?」
「北宇治は甘くないから」
それだけを言って、麗奈はスパイクの紐を結び直した。
(……なんか、ちょっとムカつく)
でも、どこか、嬉しい。
彼女はきっと、自分のことをちゃんと「プレイヤー」として見てくれている。
放課後の教室。ざわめきが引いて、生徒たちが次々に部活へ向かう中、久美子はまだ自分の席に座っていた。
昨日、足で感じたボールの感触が、まだ足元に残っている気がする。
加藤葉月の声、緑輝のやさしい後押し、そして——高坂麗奈の、鋭く迷いのない視線。
(中央向き……って、言われた)
あれはまるで、自分がもう一度「選手」として呼び戻されたような言葉だった。
それでも、久美子は迷っていた。
またあの場所に戻って、同じことの繰り返しだったら——
また、「通用しない」って突きつけられたら、今度こそ立ち直れないかもしれない。
——だけど。
「それでもやりたい」と思ってしまった気持ちからは、もう目をそらせなかった。
*
次の日、部室の前で立ち止まる。
手をかけた瞬間、鼓動が速くなるのがわかる。
「……はあ、落ち着け、私」
深呼吸をひとつ。ノックはせず、そっと扉を開けると——先に来ていた緑輝がぱっと顔を上げた。
「久美子ちゃん! ……って、名前で呼んじゃっていい?」
「う、うん。全然」
「やった! じゃあ……今日は見学?」
どこか期待を込めた声。久美子は、一拍おいてから小さく首を振る。
「……ううん。入部、したい」
緑輝の目がまるくなり、次の瞬間、ぱあっと花が咲いたような笑顔になる。
「ほんと!? やったー! ようこそ、北宇治中サッカー部!」
その明るさに、救われるような気がした。久美子は、小さく笑った。
そこへ、遅れて入ってきたのは高坂麗奈。
何も言わず、久美子を一瞥してから、短くうなずいた。
「入部、するんでしょ。……なら、覚悟して」
「え?」
「北宇治は甘くないから」
それだけを言って、麗奈はスパイクの紐を結び直した。
(……なんか、ちょっとムカつく)
でも、どこか、嬉しい。
彼女はきっと、自分のことをちゃんと「プレイヤー」として見てくれている。
*
夜。机の上、昨日のノート。
角のところに書いた一文のすぐ下に、久美子はペンを走らせた。
——『まだうまくなれるかはわからない。でも、もう一度だけ、信じてみたい。』
新しい一歩を踏み出すには、まだ少し怖さもある。
それでも、自分で自分を見捨てることだけは、もう二度としたくなかった。