「さあ、行こうか。新しい生活の始まりだよ」
そう言ったバラムが手を差し伸べた瞬間、空間がぐにゃりと歪んだ。
光が弾け、足元がふわりと宙に浮いた感覚。目を閉じる間もなく、景色が一瞬で変わる。
風の匂いが変わった。
次に開いた目の前にあったのは――巨大な洋館のような建物だった。
白を基調とした外壁に、龍の意匠が刻まれた重厚な扉。背後には果てしなく続く森と、空に浮かぶ淡い月。
「ここが……お前の家?」
「うん。これからは君の家でもある。遠慮はいらないよ」
豪邸という言葉が似合う場所だった。なのに、どこか温もりがある。
その時、不意にバラムが振り向いて訊いた。
「そうだ。君の名前だけど……このまま“暁”でいいかな?」
その問いに、暁は少し考えてから、ふと呟く。
「いや……自分で考えるよ。せっかくだし、ここでの名前を」
しばらく沈黙が流れる。
風が頬をなで、空に浮かぶ雲がゆっくりと形を変えていく。
その中で、暁はぽつりと呟いた。
「……“サクリア”。なんとなく、そんな気がした」
その名を口にした瞬間、自分の中の何かが静かに収まったような感覚があった。まるで、それこそが本当の自分だったかのように。
「……サクリア・レインか。うん、いい名前だ」
微笑むバラムを見て、暁――いや、サクリアは少しだけ照れたように目をそらす。
「それで……俺は、これから、どうするんだ?」
その問いに、バラムはふっと優しく笑った。
「まずは、ここで暮らすこと。家族として、だ」
「家族……」
その言葉が胸に刺さった。人間の頃、自分には“家族”と呼べる存在がいなかった。だからこそ、その響きはどこか重く、同時に暖かかった。
少し戸惑いながら、サクリアはつぶやく。
「……じゃあ、俺……お前のこと、“父さん”って呼んでも、いいか?」
バラムの目が、驚きと喜びで見開かれる。
そして次の瞬間、何も言わずにサクリアをぎゅっと抱きしめた。
「……ありがとう、サクリア。こんなに嬉しいことはないよ」
バラムの腕はとても大きくて、でも力強すぎず、優しかった。抱きしめられるなんて、どれくらいぶりだろうか。
胸の奥がじんわりと熱くなる。
「ったく……大の大人が、こんなに抱きついてくるなよ」
「ふふ、すまない。ついね」
バラムが照れくさそうに笑う。
ひとしきり温もりを感じたあと、サクリアはふと思い出す。
「そういえば……俺、こんな身体になったけど……ちゃんと使えるのか?」
「それは……試してみるといい。君の翼は、もう“君のもの”なんだから」
バラムに促されるまま、サクリアは肩をそっと回す。意識を集中すると、背中から突き出した新しい“翼”が、大きく広がった。
「……おぉ」
風をつかむように羽ばたく。
思ったよりも軽い。地面から足がふわりと離れる。
「マジか、飛んでる……!」
最初はぎこちなく、けれど次第に安定してくる。
夜空に向かって、銀色の翼がゆっくりと舞い上がった。
「すごいよ、サクリア!」
地上のバラムが手を振っている。その姿が、月明かりの下でまるで家族のように、温かく見えた。
――“サクリア”としての新たな人生が、今、始まった。