季節が一巡し、シルバーダでの暮らしも一年が過ぎた。
サクリアの中で渦巻いていた異世界への戸惑いは次第に薄れ、代わりに日々の鍛錬の成果が形を見せ始めていた。魔力の制御も少しずつではあるが安定し、今では全開放のうち五割まで抑えられるようになっていた。
その進歩にバラムも目を細め、彼を誇らしげに見守っていた。
ある朝、サクリアはいつになく真剣な表情でバラムに言った。
「なあ、父さん。今日は一人でスカイテールに行ってみたい」
バラムは驚いたように目を丸くし、すぐに優しい笑みを浮かべた。
「そうか。自分の足で、自分の意思で……いいことだ。気をつけてな、サクリア」
「うん。行ってくる」
家を出たサクリアは、しばらく村への道を歩いていたが、ふと立ち止まり空を見上げた。
(あれ……俺、飛べるじゃん)
ぽつりと呟き、肩の力を抜いて翼を広げる。小さな体に不釣り合いなほど立派な龍人の翼が風を捉えた。
「せっかくだし、試してみるか」
風を切って空へ舞い上がる感覚に、サクリアの心はふっと軽くなった。視界の先に見えてきたのは、馴染みのある空と山の連なり――龍の村・スカイテール。
村の空を翔ける姿に、下を歩いていた龍人たちがざわつき始めた。
「あれは……!?」「空から誰か来るぞ!」
「ま、まさか……バラム様の……!」
サクリアが地面に降り立つと、村人たちは一斉に駆け寄ってきた。
「サクリア様、お越しいただき光栄です!」
「ようこそおいでくださいました!」
次々に浴びせられる敬語と“様付け”に、サクリアは思わず苦笑いを浮かべて手を振った。
「“様”はいらないって。俺は普通の子供として来たんだ。だから、そんなにかしこまらなくていいよ」
村人たちは一瞬戸惑いを見せたが、やがてその場の空気が和らぎ、温かい笑い声がこぼれ始めた。
そのとき――。
「サクリアぁーっ!!」
元気な声とともに、ピンク色の小さな影が一直線に飛び込んでくる。勢いよく抱きついてきたのは、他でもないメアリ・アインだった。
「わっ!」
不意打ちにバランスを崩しかけるサクリアだが、すぐに苦笑してメアリの頭を優しくぽんと撫でた。
「久しぶり、メアリ」
「うんっ! 来てくれてうれしい!」
二人は再会の喜びを言葉と笑顔で分かち合い、その場の空気はさらに柔らかく、そして賑やかになっていった。
その後、サクリアはメアリ連れられ家へと招かれる。メアリの家は、淡い桜色の木材を基調にした、温かみのある造りだった。木の壁には手彫りの装飾が施され、窓辺には季節の花が生けられている。ふわりと香る花の香りと、ほんのり甘い焼き菓子の匂いが混じり、サクリアの鼻をくすぐった。
「さあ、入って。こっちの席、座っていいよ!」
メアリは嬉しそうにサクリアの手を引き、小さな木のテーブルにつかせた。サクリアは少し戸惑いながらも席に腰を下ろし、辺りを見回す。壁には、メアリが描いたらしい絵や刺繍が飾られていて、そのどれもが優しい色使いだった。
「これ、うちで焼いたクッキー。お母さんが教えてくれたのを、私が焼いたの!」
彼女が差し出したのは、龍人族の食文化でよく見られる、ほんのり蜜の香りがするクッキーだった。サクリアはそれをひとつ手に取り、かじる。
「……美味しい。サクッとしてて、甘すぎない」
「ほんと!? よかったぁ~。サクリアに褒めてもらえるなんて……」
メアリは照れ笑いしながらも、誇らしげに胸を張った。
少しの間、クッキーを食べたり、果実のジュースを飲んだりしながら、二人はぽつりぽつりと話を始めた。
「……この一年、どうだった?」
メアリが尋ねると、サクリアは少し目を伏せ、そして笑った。
「んー……色々あった。特訓ばっかりだったけど、魔力も少しずつ使えるようになったし……あと、ちょっとだけ空飛ぶのにも慣れたかな」
「すごいじゃん! 私なんて、風に煽られてすぐクルクル回っちゃって、まともに飛べないよ~」
「そっか、最初は誰でもそうだよ。……少しずつコツを掴めば、メアリもそのうち飛べるようになる。」
サクリアの言葉に、メアリは嬉しそうに頷いた。
「私はね、裁縫とか覚えたの。それと、薬草の名前とか、おばあちゃんにいっぱい教えてもらった!」
「へぇ……薬草?」
「うん、ケガした時とか、熱出した時に使えるんだよ。……今度、サクリアにも教えてあげるね」
「ありがとう、助かるよ」
その言葉に、メアリはぱぁっと笑顔を広げた。
――外では、村の風鈴が、春風に揺れてチリンと小さく鳴る。
その音を背に、二人の声が重なり、互いの時間が静かに、穏やかに流れていった。
まだ始まったばかりの物語。けれど、こうして交わされる約束と、交わされる笑顔は、きっと未来へと続いていくような気がした。
夕暮れが近づくにつれ、スカイテールの空がほんのりと茜色に染まり始めていた。優しい風が草花を揺らし、どこか名残惜しさを含んだ風景が広がる。
「……そろそろ帰らなきゃな」
サクリアがぽつりと呟くと、メアリは少し寂しげな顔をしながらも微笑んだ。
「うん……じゃあ、私も出入り口まで送るよ」
「えっ、いいのか?」
「もちろん!」
メアリはすぐさま立ち上がり、テーブルの上を片付けながら、くるりと振り返った。
「お客さんをちゃんとお見送りするのは、うちの決まりなの!」
その言葉に思わずサクリアは苦笑いしながらも、ありがとうと一言添えて立ち上がる。
二人は並んで歩き始めた。村の小道には赤みを帯びた光が差し込んでいて、二人の影を長く伸ばしていた。
「ねえ、サクリア……」
メアリがふいに足を止め、顔を上げて問いかけた。
「次は、いつ会えるの?」
その言葉にサクリアは立ち止まり、少しの間だけ空を見上げてから、メアリの方を見て答えた。
「……毎日は、さすがに無理だけど、いつかまた会いに来るよ」
「ほんと?」
「ああ、嘘はつかない。約束する」
メアリの瞳が一瞬潤んだように見えたが、彼女はすぐに明るく笑ってうなずいた。
「わかった、じゃあ楽しみに待ってるね!」
「うん。またな、メアリ」
サクリアはひらりと手を振り、軽く膝を曲げて勢いよく飛び上がる。小さな翼が空気を切り、彼の姿が宙へと舞い上がる。
メアリはその姿を見上げながら、そっと両手を胸の前で重ねた。
「……またね、サクリア」
茜の空を背景に、サクリアの影はどんどん小さくなっていった。
――互いの心に、小さな約束が灯された夕暮れだった。