星暦876年、この地の暦で、新学暦272年、3月2日。
そこにあったのは ──── 大廈高楼、なんてものではなかった。
チハーキュの者が、彼女らの帝国の最良の同盟国たる日本の時代がかった言い回しを使うならば、 “摩天楼”。まさに、天をも擦る楼閣だった。
そんな建築物が立ち並ぶ。1つや2つではない。見渡す限り……
道路は……それを道路と呼ぶべきものなのか……バカバカしいほどに広く……6頭立ての荷馬車が余裕で3両並ぶことができるような幅が、それも、路面電車の軌道を挟んでそれぞれの方向に確保してある。しかも、レンガとも石畳とも異なる、何かが塗られるように敷き詰められており、平滑で、目立つ継ぎ目はほとんどない。そしてその上を、無数の自動車が行き交っている。
歩いて行き交う人々の姿もかなり多く……当然、交通整理は必要だが、それも交通管制官の姿はなく、電灯式の信号機が、それも自動で行っている。
建物に光る看板が掲げられ、鮮やかな色の光を放っている。それも、多くのビルに掲げられている。
しかもこれが、夜の10時を過ぎた光景なのだ。引率の2人は、これでもだいぶ静かになっていると言う。夜が静まりつつある光景なのだと。
改めてこの国、この地で ────
帝都レングード。
郵政会館の宿泊施設内で、ディネルースは簡単な日記をつけていた。
室内はフローリングで、質素。液晶テレビが置いてあるが、
ベッドではなく布団敷き。とは言っても、まるっきり日本の布団ではなく、フローリングに敷くための、マットレスと折衷したようなタイプだ。
それが二組敷かれ、片方にディネルースが脚を伸ばして座りつつ、日記を書いている。もう片方には、イアヴァスリルが横になり、すでに就寝しようかというところだった。
湖畔製紙産業『コードー』ブランドのB6版のノートは、表紙の装丁に鮮やかな染料を使っていること以外は、驚くほどのものではなかったが、筆記用具として渡されたノック式シャープペンシルには唖然とした。
なにせ彼女達の “世界” では、まだボールペンは実用化されていない。万年筆もまだ完成された形態ではなかった。ある程度簡素な筆記用具としては鉛筆があったが、「いつでも、どこでも」という筆記用具はようやく登場し始めたところだった。
「姉さま……まで寝ないので?」
イアヴァスリルが、声をかけてきた。
「ん、ああ……もう寝るよ」
ディネルースは、ちらっとイアヴァスリルの顔に視線を向けてから、そう言った。
「私達……どうなるんでしょうか?」
ディネルースが日記を書く事を再開すると、イアヴァスリルは、布団に横になったまま、不安そうに、問いかけるように言った。
「悪いようにはしないだろう……少なくとも」
ディネルースは、楽観そうな表情を取り繕って、そう答える。
だが、
「言い方を変えますね」
と、イアヴァスリルはさらに問いかけの言葉を発する。
「私達、何をして生きていけばいいんでしょうか?」
イアヴァスリルに言われ、ディネルースは口元の笑みを消した。
チハーキュ帝国は究極的には資本主義国家だ。その一員となるということは、原則としては生活の費用を自身の労働で稼がなければならない。
それに、ディネルース達にしても、労働もせず国家によって怠惰に生かされることは本意ではなかった。
「ウィンズ補佐官との面談でその話も出た。政府は考えてくれてはいるらしい」
「具体的な話が?」
「公営の農園をつくり、住居を兼ねてそこで働いてはどうかと提案されている」
「…………しばらく時間の掛かりそうな話ですね……」
「ああ、春夏作付けの作物に間に合うかどうかだそうだ」
「なっ!?」
ディネルースの言葉に、イアヴァスリルは、驚愕し、短い声を上げた後に絶句した。
「お前も見ていただろう? カイヴェンの仮設キャンプの建物、仮設といいながらあれほどしっかりしたものを、空き地からたちまち作り上げてしまったのを……」
「なるほど、この国では造作もないってことですか……」
「ああ、最も、農地の再整理と拡大の計画が元からある場所だそうだが。流石に灌漑や土地の性質まで考えると、突然というわけにはいかないからな」
「つまり、小作人を集めようとしていたところに、ちょうどよく私達がチハーキュに渡ってきたと……」
「そう言うことだな」
イアヴァスリルが理解したというように言うと、ディネルースは一瞬だけ苦笑気味の笑みを浮かべた。
「けれど……だったら、私達をなぜ帝都まで? レイリョーヤ地方は大農業地帯と聞いていましたが……」
「それは2つの理由がある」
イアヴァスリルが新たな疑問を口にすると、ディネルースは即答した。彼女自身もラミディロスやカティナに訊ねた内容の一部だった。
「まず、私達の “移民” を皇帝の権威で保護したいという考えだ。チハーキュはキャメロットに近い政治体制で、皇帝大権はあるが、よほどのことがない限りは民選制の議員とその議会が推薦した内閣によって決定される」
実際には、憲法に「この国に存在するあるゆる政治的特権はすべて臣民の幸福と安寧のためにのみ存在する」とされているため、皇帝大権も濫用はできない。もっとも、皇帝は国主として、憲法自体を効力停止や破棄することも、純粋にできるか否かで言えば “できる” のだが。
「だが、それでも皇家の権威は強い。その皇帝の意向も含めてそのお膝元に置くのだから『なんか文句あるか』、ということなのだそうだ」
「なるほど……それで、もうひとつの理由は?」
ディネルースの説明を聞いて、イアヴァスリルは納得したように言いつつ、次を訊ねる。
「ああ、つくりたい農園は穀物ではなく、野菜類を主に栽培する農園にして
中央大盆地は、夏場の気温はそれなりに上がるが、その日数は長くない。湿気は多すぎず少なすぎずといったところで、特にナス科、ナス、トマト、ピーマン、トウガラシ、ジャガイモなど、チハーキュの食文化に必要な農作物の栽培に適していた。
もっとも水源としてレングリア湖が存在するため、稲作もできない環境ではないのだが。
「そう言うことなんですね」
「ただ、チハーキュには “職業選択の自由” という概念がある。それだけを選択肢にしないし、他の職業を希望するなら “職業訓練” というものもしてくれると」
「ふむ…………」
ディネルースの説明を聞いて、イアヴァスリルは、その内容には納得した様子を見せたが、
「…………私達にも黙っていたということは、姉さま自身、その “職業選択の自由” を行使したい……のではないですか?」
「……………………そうだ」
短いが、とてつもなく重い沈黙を挟んだ後、ディネルースはまず、短く答えた。
「姉さまが就きたい職業となると……────」
イアヴァスリルが、僅かに逡巡する。
商売人をしているディネルースの姿は、ちょっと想像がつかなかった。
「──────── 軍人だ」
そう言ったディネルースの様子を見て、イアヴァスリルはギョッとした。
「この国には感謝している……だが、やはり胸の奥のどす黒いものは抑えきれない……」
ディネルースは、日記帳にしているノートを掴んでいる手を降ろし、もう片手で胸を押さえながら、蹲るようにして、唸るように言った。
確かに1万4千のダークエルフが助かった。だが、もう彼女達の白銀樹はない。その寿命を考えれば、それでも意味は十二分にあっただろうが、エルフィンドから脱出してきたダークエルフには、いずれ途絶の未来しかないのだ。
「チハーキュはエルフィンドのことなど何も歯牙にもかけていないだろう。技術差、国力差から言って、エルフィンドに攻め込んだところで得るものは無い……エルフィンドにしても、シルヴァン川を越えて北側……おそらく、まだそれを南側だと思っていると思うが、とにかく出ては来ないだろうから、お互い砲火を交える可能性は低いだろう」
「それでも?」
「ああ……」
イアヴァスリルの言葉に答えつつ、ディネルースは己の右手を見た。
「地続きになっているのは事実なんだ。戦いになる可能性は低くてもある」
呻くように、ディネルースは本心を吐露した。
「しかし……この国の軍人は……」
そう ────
現代のこの国の軍隊に、「ただの一兵卒」などという言葉は、事実上使うことができない。
チハーキュ帝国、帝国陸軍、帝国海軍、帝国空軍、総計兵員、新学暦272年度定数、平時112万5千、予備37万5千。
その戦い方は、ロザリンド会戦どころか、デュートネ戦争ですら “実に単純” と評することになるだろう。
ロザリンド特別軍事作戦でも、その片鱗だが垣間見ることができた。
高度な機械仕掛けを的確に使いこなし、装備の適材適所を考え、最小の損失で最大の結果を得る。それが将校だけの責務ではなく、末端の兵1人に至るまでもが求められる。
「郵便局で電報を扱っていた中尉」
「教師だった少尉」
「鳥カツの屋台を引いていた兵」
「染物屋を営んで家庭を支えていた兵」
「歓楽街の下働きだった兵」
「博徒として街の纏め役だった兵」
平時には隊内にいない予備即応員は存在しているが、それも含めて、軍に志願し、教育・訓練期間を終え、階級章と部隊章を受け取った時点で、自身の属する兵科におけるプロフェッショナルたる、
「軍人」
以外の何者であってもならないのだ。
軍人に求められる資質が、自分達の考えているものとは、あまりに違いすぎた。
「現状で無理があるとは解っている……が……それでもウィンズ補佐官やフロメラス提督には内々という約束で話はしている……」
「そうだったのですね……」
呻くように言うディネルースに、イアヴァスリルはただ、そうとだけ言った。
「…………いいか?」
ディネルースは、枕元にあったタバコの箱を手繰り寄せつつ、言う。
「ええ」
イアヴァスリルの答えを待ってから、ディネルースはタバコの箱を開けた。
アサヒ・フィルトレ・100S。雲のかかった朝日の絵に、上下に無数の桜の花が添えられているパッケージから、1本取り出し、咥える。
ディネルースは
クリアボディのターボライターで火を点ける。安っぽく見えるが、ガス再充填孔のあるタイプだった。
ディネルースはアサヒ・フィルトレをじっくりと吸い込み、紫煙を吐き出した。
「姉さまが軍に志願する、それが受け入れられるというのであれば……」
落ち着きを取り戻したように見えるディネルースに、イアヴァスリルが覚悟を決めたような顔で言う。
「そうだな……アルディスやエレンウェ、ラエルノアやリアも傍にいて欲しいところだ。 ──── それも、認められればの話だが」
ディネルースは、落ち着きを取り戻した穏やかな表情でそう言うと、再度アサヒ・フィルトレを口に運び、紫煙を燻らせた。
国防参謀本部。
チハーキュでは、陸軍省、海軍省、空軍省が存在しているが、それは、戦力を整備維持する為の、早い話がカネ勘定をする役所でしかない。
実際の作戦行動は、大元帥たる皇帝の名代として、この国防参謀本部が統括して執り行う。
そのトップ、現職の国防参謀本部長、レナータ・マリル・シンクレア上級大将は、まもなく日付も変わる頃だと言うのに、自身の執務室に在室していた。
そこへ、
コンコン
と、扉がノックされる。
「カティナ・チアカ・フロメラス大将です」
ドアの向こうから、そう名乗る声がした。
「どうぞ」
レナータが応じると、扉を開いて、カティナが入ってくる。カティナが後ろ手に扉を閉める、その動作を終える直前までに、レナータも椅子から立ち上がった。
カティナが敬礼すると、間髪入れず、レナータは返礼した。
レナータはヴォルクスだ。女性だが、身長はそれなりに高い。カティナより頭半分以上に身長が高く、それ以上の全体的な体格差がある。
それに、レナータは上級大将、国防参謀本部長という肩書に見合う年齢だ。ヴォルクスやフィリシスの寿命は人間族と大して変わらない。ヴォルクスやフィリシスの老化は人間族に比べるとかなり遅いが、レナータの見た目は相応のものになっていた。
──── が。
「大戦の英雄が、今では私の方が上官とは、慣れないものですね」
「またその話ですか……私は英雄ってほど活躍してませんよ……」
お互い敬礼を解きつつ、レナータが照れ隠しのように苦笑してしまうと、逆にカティナは決まり悪そうな顔で言い返した。
カティナ・チアカ・フロメラス。現代の戦史研究家で彼女の名前を知らない者はモグリだ。66年前、チハーキュ帝国海軍地球派遣艦隊の第一陣として、南太平洋支隊指揮官の肩書で地球、ニューブリテン島ラバウルの司令部を構えた。その後も、太平洋戦線の上級指揮官を歴任している。
「それで? 報告があるのですよね?」
レナータが、カティナを促す。
「まだざっとした内容なんですが ────」
カティナはそう切り出す。
「エルフィンドは、危険です。最悪直接侵攻を受ける可能性があります」
「…………これほどの軍事的、技術的較差があっても、ですか?」
険しい顔で言うカティナに、レナータは、意外そうにしつつ、真剣な表情で聞き返した。
「エルフィンドは鎖国に近い状態で、しかも、割と根拠もなく他国を見下す傾向がある、 ──── これについては、すでに内閣府の方に正式な報告書が上がっていると思いますが」
「それだから、正確に戦力の較差を把握できない、ということですか」
「はい」
「けれど、鎖国体質と言うことは、他国に領土的野心を持っていないのでは? 報告の方でも、基本的にシルヴァン川を境界線にそれを越えてくることは稀だと」
「ですが、飢えればそういうわけにはいきません」
カティナのその言葉に、レナータはぴくん、と右眉を動かし、そして険しい表情になった。
「後ほどより詳しい調査をする事になると思いますが、エルフィンドの食料生産は元々貧弱なものだったようです。三圃式農法が使われているほどで……当然、備蓄と言えるような食料の余裕在庫もないようです」
「そこへ、今回の “半島転移” というわけですか……」
星欧大陸世界と、エボールグとでは、暦はほとんど一緒で、両者の同じ月、同じ日に転移が起こったらしい。
だが、そこには重大な問題があった。
星欧大陸は、…………果たしてエボールグや地球のように惑星のような姿をしているのかまでは不明だが、少なくともベレリアント半島での季節による気候の遷移は北半球サイクルになっていた。
ところが、転移の際に南北が入れ替わってしまった。
緯度的には大きく変わらないため、大した問題はない ──── わけがなかった。
特に農業にとっては大打撃だ。突然、季節が半年ズレてしまうのである。農業スケジュールはムチャクチャになり、食料生産は大きく減少しただろう。
どこぞの脳内おピンク国家も同じ目に遭っているが、あそこは曲がりなりにも21世紀の準先進国だったので、一先ずの備蓄は確保してあったし、諸外国から食料を買う財力もあった。
だが、三圃式農法をやっているような国だと、影響は今年だけにとどまらず、輪作全体が崩壊、さらに種子の入手も困難になって、数年に渡って食料生産が低迷する可能性が高い。
そうなれば、どうなるか ──── どうするか。諸外国を見下す性質、と合わせて考えれば、もっとも単純に考えれば、略奪目的の侵略である。
なにせ目の前には、レイリョーヤ地方の大農作地帯が広がっている。極限状態におかれれば、状況判断をする能力も低下して、暴発する可能性は充分以上にある。
「…………政府としては実力行使の事態はあくまで最悪のものでしょうが、軍としてはこれを無視はできない……ですか」
「ええ、軽視はしないほうがいいと思います。向こうが技術格差を理解する事も含めて」
レナータが険しい表情で言い、カティナが、同意しつつ付け加えた。