太陽が天頂に登るまでまだまだ時間がかかりそうな時分、陽に照らされたアビドス高校はいつもと変わらず風に乗った砂を受け入れている。
砂の色はいつしか校舎の色彩の一つになっていて、掃き掃除をする際にわずかな疑問を頭に浮かばせるほどだ。
廊下を歩いている時、ふと胸元の学生証に目を向けてみる。砂狼シロコという文字が見えた。砂という字が私をここに引き寄せたのだろうか、なんて事も考えると、この名前には感謝しかない。
先輩、同級生、後輩、そして先生。全てに恵まれている。
リノリウムの床に、静かに1人だけの足音が響く。私の歩みは特にどこかに目標を定めてはいない。今日は対策委員会の仕事もなく、学校の備品も足りていて、掃除もすることがない。授業のBDは履修済みで単位も足りている。私は珍しく時間を持て余していた。
人気のない静かな廊下はどこか暗くて、目を背けるように窓を覗き込んだ。そこからは砂で化粧された家や半ば沈んだビルが見えた。昔はたくさんの人が息づいていたんだろうな、と思うと人恋しくなってしまったのか、この時間を使って買い物はどうだろうと思いつく。
ロードバイクの潤滑剤が足りなくなっているし、確かホルダーも劣化でヒビが入っていた。
「D.U.にでも行こうかな」
普段は直接ロードバイクで向かうのだが、この時は無性に人を視線に納めたくなり、電車を乗り継いで向かった。
ほとんど乗客がいない座席に座ると、電車の揺れを感じながら自転車では見ることはない景色をのんびり楽しむ。揺れるたびに、触れ合う肩がないのが寂しかった。隣に誰かがいたら良いのにな、と頭の片隅になぜか先生の顔がチラついた。
電車がD.U.の駅に着くと、私は席から立ち上がった。ロードバイクじゃない分、気楽に歩けるのが少し新鮮だ。
サイクリングショップのカウンターで潤滑剤とホルダーを手に取って会計を済ませると、袋に入れてモールの通路に出た。人々のざわめきが心地よく響く。頭の中でアビドスの寂しい廊下とのコントラストが生まれると、つい活気を求めるように歩みを進めた。
その時、視界の端に大きな買い物袋を抱えた見慣れた背中が映った。思わず声をかけてしまう。
「こんにちは、先生。買い物?」
「こんにちは、シロコ。シャーレの買い出しでね……しばらく時間が無かったものだから」
疲れたような顔でそう返すと、先生は片手に持った買い物メモに視線をやって何か呟いていた。どうやら買い物はまだまだ続くみたいだ。
先生の手にある大きな買い物袋を見ると、随分中身が入っている。
「ん、先生。手伝うよ」とだけ言って、私は買い物袋を持とうとした。
「シロコも用事があるんでしょ?悪いよ……」と先生が申し訳なさそうに言うので、「もう済ませたから」と返した。じっと目を見つめると、先生は根負けしたのか、「じゃあ、お願いね」と言って荷物を私に預けてくれた。
その後、私たちは一緒に買い物をしていった。先生は日用品から保存食、本まで、色んなものを購入していく。買い物の途中、先生が玩具コーナーに視線をやって慌てて戻す姿を見て、私はつい微笑んでしまった。普段は誠実で頼りになる先生なのに、どこか子供っぽいところがある。それを見て、なんだか心が温かくなった。
フードコートに人が並び始め、モールの賑やかさは色を増していく。
電化製品店が最後だったみたいで、先生は買い物メモにチェックを入れると、ポケットに仕舞った。
「これで買い物は終わりだよ。シロコ、ありがとう。とても助かったよ」
「ん、構わない。私も、色々良いものが見れたし」
「良いもの?」先生が顔に疑問符を浮かべた。しばらく考えていたようだが、結論を求めるのは放棄したようで、やがて穏やかな表情に変わった。
「ちょうど良い時間だし、何か食べたいものはない?手伝わせちゃったし、お礼をさせて」
こんなに荷物があるからしっかりしたところには行けないけど、と先生が続けた。
その時、私の頭に「デート」って言葉が浮かんできて、心なしか顔が熱くなる。昼食用に用意してたポケットの中のカロリーメイトを奥に押し込むと、「……わかった」と掠れた声が出た。
フードコート内のクレープ屋に向かった私たちは、それぞれ注文して、ようやく腰を落ち着けた。
手に持った買い物袋は先生から受け取った時より一回りは膨らんでいた。それをフードコートの床に置いて、気になっていた事を聞いてみた。
「そういえば当番の子はどうしたの?」
「急用で来れなくなっちゃってね……。それで、丁度いいから溜まってた買い出しをする事にしたんだ」
先生は頼んだコーヒーにシロップとミルクを混ぜながらそう答えた。
生徒に付き合わせるのは悪いからね、でも結局こうなってしまったよと、顔には苦笑いが浮かんでいる。
私はクレープを口にしながら、先生の当番を待ち望んでる生徒たちのことが頭に浮かんだ。その子たちなら何を放っても代わりを申し出るだろう。そういえば、一度シャーレのオフィスで見たミレニアムのセミナーの2人。菫色の髪の子は隠してるつもりでも、あからさまに好意を寄せてた。その子と先生のやり取りを微笑んで見てた白い髪の子も、あの視線は先生に向いていたのを覚えている。少し心がチクリと痛んだ。
私は先生の中では、その他大勢の中の一人なのかな。アビドス高校の廊下の静謐が頭をよぎった。切なさを感じて俯き加減になると、クレープの甘味もどこか遠く感じた。
「そういえば」と先生が言った。
「こうして2人でいると、アビドスでの事を思い出すね」
私が顔を上げると、「アビドスのこと?」と聞き返した。
「ほら、私が行き倒れになってて。シロコが助けてくれたよね。君がいなかったら、今こうして美味しいクレープを食べてることはなかったんだろうなって」
先生の優しい顔を見た。ひとくちクレープを食べて、口の端にクリームがついたままの先生。
なぜか先ほどは感じなかったクレープの甘味が口内に蘇ってきた。
先生と私の出会い。もう随分前のことだと思ってたけど、先生はしっかり覚えててくれたんだ。
「ふふっ」
私が笑うと、先生の顔に疑問符が浮かんだ。
「あ、あれ?何か面白いことでも言ったかな…。あぁ、そういえばあの時は情けない姿だったよね……」
ハハっと苦笑いする先生。
「先生、口」
私は一言言うと、手に持ったハンカチで先生の口を拭った。自然と目と目の距離が近づいて胸が高鳴る。浮かせた身体を戻すと、気持ちを誤魔化すように「先生、なんだか子供みたいだね」と言う言葉が口に出た。
「シロコには情けない姿ばかり見せてるね……」と先生が言う。
「そんなことない。先生はいつだって頼れる大人だよ。私の方が、きっと助けられてる」
私は今までキヴォトスで起きた事件を思い返した。先生はいつも最前線で解決してきた。心も身体も救われた生徒たちは数知れないだろう。信頼も親愛も思慕も先生に集まるのは当然だ。
「でも、子供っぽいのは本当。買い物のときも、玩具に目移りしてたよね」
「ハハ…バレてたんだね……」
でも、先生の中で、私はどこかの誰かじゃない。アビドスで出会った砂狼シロコ。それが分かっただけで、心に温かいものが染み渡っていった。
「あのミレニアムの子には黙っておいてあげるね」
「頼むね……」
私はクレープを食べ終えて、アイスコーヒーを飲んだ。胃に冷たいものが注がれるのに、胸の奥は温かいままだった。砂糖もミルクも入れてないはずなのに、どこか長引く甘さを感じた。
私たちはクレープを食べ終わると、しばらく雑談を交わした。そのうち、先生が時計を一瞥して切り出した。
「改めて、今日は本当にありがとう。助かったよ」
もう帰る時間なんだ、と気づいた。
「私も先生と久しぶりに話せて嬉しかった」
「そういえばそうだよね。アビドスには最近行けてなかったから……」
そのひとことに、ひとつ思いついたことがあった。
「先生。私も当番やってみたい」
自分から会いに行けばいいんだ。
「シロコが?私としてはとても有難いけど、いいの?色々手伝ってもらうことになるよ?」
「今日の荷物持ちも、当番の仕事みたいなものでしょ?」
「はは、そういえばそうだね。もうシロコは手伝ってくれてたんだ」
「後で連絡するね」と言うと、先生は席を立って買い物袋に手を伸ばした。私はそれより先に買い物袋を持った。
「じゃあ、今日の当番は私だね。シャーレまで持っていく」
先生と少しでも長くいたい気持ちが、その言葉を紡がせた。
先生は申し訳なさそうな目で私を見ると、「じゃあ頼むね」と言った。
人々の行き交う足音が絶えないショッピングモールを抜け、電車の待つ駅に向かう。
電車で隣り合う肩があることを想像しながら、先生と一緒にシャーレへの家路を歩いた。