空が茜に染まりはじめた頃、二人の影が静かに伸びていた。
ここは、見滝原市の裏通りにある寂れた商業施設の跡地。かつて人の出入りで賑わったその空間は今や空きテナントだらけで、日が落ちると不気味なほど静まり返る。
その静寂の奥——路地裏の薄暗がりに浮かぶ、うっすらと揺らぐ空間の裂け目。魔女の結界だ。
「……いたな」
虎杖悠仁は視線を上げていた。隣に立つ巴マミも軽く頷き合う。
「気を引き締めていきましょう、虎杖さん」
「もちろん、油断は禁物だ」
マミはソウルジェムを掲げて、光の膜を纏いながら衣装を構築する。
絢爛な魔法少女姿を纏えば、心は臨戦体制へと切り替わり、マミを鼓舞する。
ーーさあ、今日も魔女退治よ。
そう思いながら足を踏み出したときだった。マミはふと、虎杖の視線に気づく。視線の矛先は頭上に飾られた魔法少女の象徴ーーソウルジェムだった。
現在、マミのソウルジェムは花形のオーナメントがあしらわれた豪奢な髪飾りとなっている。
「……虎杖さん? ソウルジェムがどうかしたの?」
「ん、ああ。何でも、ない。相変わらず綺麗だなーと思って、さ」
マミは、変な虎杖さん、と軽く微笑むとーーやがて、二人は無言で結界へと足を踏み入れた。
ーーー
目の前に広がったのは、現実離れした異空間だった。
黒と赤とクリーム色が入り混じった筆致のような床。天井は渦を巻く空、まるでゴッホの『星月夜』が立体化したかのよう。景色一面にはピカソの『ゲルニカ』を思わせる歪んだ人影の絵が並び、どれも悲鳴を上げるかのように捻れている。
その中心——ひときわ異彩を放つ巨大な構造物があった。
少女の彫刻と解読できない文字が記された巨大な門。その姿は、まるで“コンスタンティヌスの凱旋門”を魔術的に歪めたかのようで、威容と狂気を同時に感じさせる。
この“建築そのもの”のような魔女の名は、”芸術家の魔女”。捕食者を絵画世界に引き入れ殺害し、住人とする悪辣さを持つ。
門の奥から、キャンバスを破るように“絵画の具現”がぞろぞろと現れる。
鉛筆のクロッキーのようなスケッチ体の使い魔たちが、ゾンビのように不規則に這い寄ってくる。
「なるほど……絵画の世界か」
「動きは読めないけど鈍い。タイミングを見極めればいけるわ。私が正面、虎杖さんは左側をお願い」
「任せとけ!」
マミに近づく使い魔を排除するため、即座に走り出す虎杖。その拳が“使い魔”の頭部を打ち砕くと、油絵の具のようなしぶきが舞った。
同時に、マミの銃声が響く。四方に展開されたリボンが巧みに敵を絡め取り、動けなくなった使い魔を容赦なく撃ち抜いていく。
連携は完璧だ。
次から次へと現れる絵画世界のゾンビたちは、二人の攻撃の前に成す術もなく崩れていく。
痺れを切らしたのか、魔女の中心部であるアーチが不穏に脈動した。
魔女が本気を出そうとしている——二人は直感する。
凱旋門のアーチから、新たな“絵”が飛び出す。
それは、油絵調の巨人じみた右腕だ。
「……来るわ!」
「避けるまでもねえ!」
マミを守るように割って入る虎杖。同時に繰り出した拳は弾丸のように疾く、重い。
虎杖の拳と油絵調の腕が衝突する。赤黒い閃光がスパークし、魔女の右腕は押し負けるどころか勢いよく砕け散る。
(やっぱり、こいつらは”呪い”だ。感じる……! 呪力と呪力の衝突!)
確信を得た虎杖は腕をさらに振り抜き、拳は魔女の本体にまで到達した。
拳による衝撃と呪力の衝突が誤差なく行われ、黒い火花を散らす。
見た目とは裏腹に凄まじい衝撃が、芸術家の魔女全体を巡る。支える柱が軋んでひび割れ、音を上げて崩れ落ちていく。
マミがすかさず空中から仕留めにかかる。
「ティロ・フィナーレ!」
炸裂する黄金の一撃が、門の中心へと直撃した。凱旋門は崩れ、その構造ごと崩壊していく。
使い魔たちは煙のように消え、世界が色褪せ、やがて——。
結界の崩壊とともに、夜の静寂が戻る。
瓦礫のように散らばっていた“絵画”たちは幻のように溶け、そこには街の灯りと、淡い戦いの余韻だけが残されていた。
ーーー
帰り道、虎杖とマミは並んで歩いていた。肩越しの風にまだ戦いの匂いが残っている。だが、どこか穏やかで、温かい沈黙が流れていた。
「……やっぱり、二人だと魔力も温存出来るわ」
マミがふと呟くと、虎杖は苦笑気味に応じた。
「そう? ってかマミさんが雑魚を片っ端から片付けちゃうから、俺の肩身が狭ぇ….」
「ふふ、相性の問題ね」
微笑み合いながら、交差点の信号が青に変わるのを待つ。そのとき、ふと思い出したようにマミが言った。
「ねえ、虎杖さん。連絡、いつも私の方からばかりしてるけれど……スマートフォン、持ってないのよね?」
「ん、ああ、それね。正確には“使えるやつ”がないって感じでさ。前の世界にいた時の端末はあるんだけど、こっちじゃ使えないし……今のバイト先の連絡用に借りてるのがあるくらい。でもプライベート使用は厳禁だからお手上げだ」
肩をすくめる虎杖に、マミは軽く頷いたあと、迷いなく言った。
「じゃあ、今度一緒に買いに行きましょう。スマホ。契約は私の名義でしてあげるわ。ちょっと親戚の方に連絡を取ることになるけど……」
「……は? いや、ちょ、それって――」
明らかに動揺しながら、虎杖が両手を振る。だがマミはそのまま、歩調を緩めず言葉を重ねた。
「大丈夫。これもチームワークの一環よ。連絡がつかないと、お互いに困るでしょう? 魔法少女でない貴方はテレパシーも出来ないし……」
「そりゃ……そうだけどさ。だけど、オレ……何も返せてないし、そんなことまでしてもらうなんて……」
視線を逸らして苦笑する虎杖に、マミはふっと笑って――けれどその瞳は、ほんの少しだけ厳しさを宿していた。
「私はそこまで甘くはないわ。もちろん、払える分は払ってもらうつもり。通信費も、機種代も、しっかり割り勘。いい?」
虎杖は一瞬呆気に取られてから、ぽりぽりと頬を掻いた。
「……はは、だよな。マミさん、案外きっちりしてる。なんか大人びてるってかさ。なんかさ、年上を相手にしてるみたい」
「“案外”って言わないの」
ぷいと視線を逸らしつつも、どこか嬉しそうなマミの横顔に、虎杖はふっと肩の力を抜いた。
「わかった。じゃあ、オレもちゃんと稼がないとな。次の給料入ったら、一緒に行こう」
「ええ。そのときはついでに、ケーキでもご馳走してもらおうかしら」
「……うっ、それが一番の出費かも」
二人の軽口が、静かな夜道にささやかに響いた。
そのまま二人は並んで歩いた。
会話の余韻が落ち着いた頃、再び静けさが戻ってくる。
住宅街の灯りが等間隔に続く中、虎杖はポケットに手を突っ込みながら、ふと視線を空に投げた。
夜空には薄雲が流れ、星の光はまだ見えない。だが、虎杖はその奥にある星々の輝きを思い浮かべる。釣られるように、彼の意識は魔法少女の象徴へと向かっていった。
(ソウルジェムって、なんなんだ……?)
数日前から、マミがソウルジェムを出すたびに何度も確認した。魂を観測出来る虎杖は直感的にあの宝石の眩い輝きがただのエネルギーではないと強く感じていた。
光を放つあの宝石は、一体なんなのか。なぜ、あれが曇ると“危ない”のか。
今回の戦いで虎杖は観察し、推測していた。
ーー間違いない。魔力を使うと蓄積するのは、呪いの力だ。術師が内包するような”負の呪力”がソウルジェムを満たすのだ。
虎杖の見立てでは、魔法少女の力である”魔力”は呪術と真逆ーー反転術式のような呪いと相反する力だ。
ソウルジェム内は常に”正の呪力”を発しており、”発生する負の呪力”を抑え込んで”均衡”を保っている。
だが、もし、あれがーー均衡を保てなくなり、負の呪力が魂を覆ったら。
その末路は、おそらく破裂。
正の呪力で抑え込まれていた負の呪力が爆発し、ソウルジェムごと魂は砕け散る。そして、行き場を失った”呪い”は”呪霊”と似た何かに変貌するのではないか。
ーーいや、これはただの憶測だ。あまりに飛躍した論理だ。
だが、虎杖はこの世界に漂着して間もないため、魔法少女たちのことを知らない。そんな己が確証も得ず、まどかやさやかが魔法少女になるような選択肢を与えていいのか。
虎杖の懸念はそこだった。迷いと揺らぎが胸中を巡る。
マミの力にはなりたい。だが、その選択で2人の少女が不幸になるというのなら止めるべきだ。
それに魔女を正義感だけで倒してきた潔白なマミが、まどかとさやかを”そんな危険性”を孕む魔法少女へと勧誘するとは思えなかった。
ーーむしろ、戦いから遠ざけるのが道理だ。
戦場で背中を預け合って、魔女の結界を共に越えてきた中で——その問いは、いつの間にか虎杖の胸中で別の形を取っていた。
虎杖は彼女を“信じている”。
マミの助けようとする”善意”は紛れなく本物だ。
だからこそ、はっきりさせねばならない。
「……マミさん。聞きたいことがあんだけど、いいかな」
「ん?」
名前を呼ぶと、マミは歩みを止めて、振り返った。
街灯に照らされて、その頬には淡い橙色の影が落ちている。
いつもの笑顔。けれどそれは、何かを誤魔化すようなものではない。ただ真っ直ぐで、優しくて、温かい。
ーーそれを見た瞬間。
虎杖の喉元までせり上がっていた言葉が、音になる前に霧散した。
「……いや、なんでもない」
「ふふ、何それ。拍子抜けだわ」
笑って、再び前を向いて歩き出すマミの背中を、虎杖は数歩遅れて追いかけた。
(……知りたい。けど、今はよそう。……聞くなら、きゅうべぇだ。契約を持ちかけるあいつなら、何か知ってるだろ)
この穏やかな時間が。マミの微笑が。自分の中で築きつつあった何かが、ぐらりと揺れる。薄氷の上に立たされているような感覚に、背筋が凍る。
ほむらの言った”責任”という言葉が虎杖の肩に重くしかかようだった。
拳を握るでもなく、ただ黙って歩いた。
風がそっと通り抜ける。
その背中を見ながら、虎杖は胸の奥で、小さな決意の火を灯していた。
——ソウルジェムの話題を切り出すなら、魔法少女に詳しいきゅうべぇに聞くのが筋だ。
ーー今は、まだこの日常を壊すわけにはいかないのだから。
ーーー
授業のチャイムが鳴り響き、見滝原中学校の教室内が一瞬だけ静まり返る。
春の日差しが窓から差し込み、カーテンがふわりと揺れた。
けれど、その柔らかな日常の光景の中にも、非日常は確かに息づいていた。
「……今日、虎杖さん、パトロールなしだって」
教室を出て並んで歩きながら、まどかがぽつりと呟いた。
「やっぱり、お金を稼がないとダメみたい。なんとかならないのかな……?」
「ほんと、おかしな話だよね……街の平和を守ってるのに、家がないからネカフェやカプセルホテルで寝泊まりなんてさ」
さやかは眉を寄せながら、お弁当袋を小さく揺らした。
二人は階段を登って屋上へ向かう。どこか浮かない表情のまま、話し続けるさやかの口ぶりも、重たさを帯びていた。
「なんか、バイトは土木系って言ってたじゃん? 朝早いとかなんとか……。しかも身元不明だからいいように使われて、相当ブラックみたい」
「……うん」
まどかの返事は小さく、どこか寂しげだった。
風に吹かれて髪が揺れる。扉を開けて、屋上に出た二人は、そこで手招きする巴マミの姿を見つける。
「マミさん!」
「二人とも。こっちよ」
ベンチにレジャーシートが敷かれ、その上にお弁当が並んでいた。三人はそれぞれベンチの端に腰を下ろし、肩を寄せるようにして昼食を広げた。
「そういえば昨日、虎杖さんとちょっと話したの」
ふと、マミがそんなことを口にした。
「戦いの後、少しだけ歩きながら……次の休みに、スマートフォンを買いに行こうって約束したのよ」
「えっ、本当?」
嬉しそうに手を合わせるまどか。
「ええ。契約は私の名義でしてあげるわ。連絡がつかないとお互い困るでしょう? ずっと私経由じゃ、鹿目さんたちも連絡しづらいでしょうし」
「それは助かる! やっと文明の利器が届くのね、あの人にも!」
さやかが大げさに肩をすくめて笑う。まどかも安心したように微笑む。
けれど、マミはふと目を伏せ、小さく溜息をついた。
「本当はね……少し、寂しくもあるの」
柔らかな声だった。けれど、その響きには、ほのかな陰りが混じっていた。
ふと、風が吹いた。
陽射しはあたたかいのに、その空気にはかすかに影が混じる。
「虎杖さんは、元の世界に帰らなきゃいけない人なのよ。きっと、いつか……その日が来る」
その言葉は、あまりにも静かに、けれど確かな重さで三人の間に落ちた。
魔女相手に一歩も引かないマミが初めて見せた”弱み”だった。
魔法少女の過酷さを改めて知る二人。
魔法少女の戦いとは孤独。本来ならば誰にも知られず、肯定されず、理解もされないのだろう。ただ、そこに”虎杖悠仁”という例外が現れたのだ。
きっと、心強かったに違いない。
まどかの手が、制服の袖をぎゅっと握りしめた。
さやかもまた、なにかを噛みしめるように黙り込む。
風が吹いた。高く遠く、どこかへ連れていってしまいそうな風だった。
淡い光の中、三人の弁当の匂いがほんの少しだけ冷たくなっていく。
言葉を選ばなければ、すぐに壊れてしまいそうな時間だった。
「それまでに、どれだけ一緒にいられるか……それを大切にしたいと思ってるの。だからこそ、スマホだって持ってもらいたい。連絡先を残して、繋がりを残しておきたいの」
マミの言葉の端々からは静かな覚悟がにじんでいた。
(……マミさんは、わかってるんだ。いつか、自分のそばから虎杖さんがいなくなるってことを)
さやかの胸に、何かが重く落ちた。
マミの微笑みはいつも綺麗で、強くて、眩しくて——けれど、そんな人だからこそ背負っているものがあるのだと思った。
「いっそのこと虎杖さんが、元の世界に帰れなければいいのに……」
思わず、心の声が口をついて出る。
その瞬間、自分でも少し驚いた。けれど、それほどに——マミと虎杖の関係が、これから失われていく未来が、胸に重たくのしかかっていた。
戦場で共に戦う”戦友”との別れ。その喪失感はきっと、自分とは比較にならないだろう。
マミの“覚悟”は、決して軽くはない。
誰よりも先に、一人で大人になろうとしているマミに、さやかは胸が痛くなった。
「……美樹さん」
マミは小さく息を呑んだように見えた。そして少しだけ間を置いて、柔らかく目を細める。
「それを言ってくれるのは、嬉しいけれど……そう思っても、言葉には気をつけて」
マミの声は静かで優しかったが、その奥には自分を律するような強さもあった。
「誰かを縛る気持ちは、時にその人を追い詰めてしまうから。……私も、忘れないようにしているの」
さやかは小さく頷いた。
まるで心の奥を見透かされたような気がして、少しだけ照れくさくもあったが、不思議と救われる思いもあった。
「……あたし、やっぱりマミさんのこと、すごいと思う」
「え?」
「だってさ……あたしだったら、そんなの受け入れられないよ。誰かと仲良くなって、その人がいつか絶対にいなくなるって、わかってるなんて……」
言葉にしながら、さやかの脳裏には、病院のベッドに横たわる上條恭介の姿が浮かんだ。
彼が傷を負い、ヴァイオリンを弾けなくなったその日から、ずっとずっと、さやかは迷っていた。
幼馴染を救いたいという想いと、それが叶わないかもしれないという現実との間で——。
「でも……マミさんは、それでもちゃんと向き合ってる。あたしも、見習わなきゃなって思う」
マミは、目を丸くしてから、やがて柔らかく微笑んだ。
「ありがとう……そう言ってもらえると、嬉しいわ」
その笑顔は、ほんの少しだけ陰を引きながらも、確かに、あたたかかった。
チャイムが鳴る。
昼休みの終わりを告げる予鈴に、三人は顔を見合わせ、ゆっくりと立ち上がる。
春風に髪をなびかせながら、まどかたちは空を見上げた。
ーーー
夕暮れの病室。未だ電灯が灯らないその奥の暗闇に、見えない何かが潜んでいるような、そんな予感が胸を掠めた。
病室のカーテン越しに、ベッドに横たわる少年は、窓の外に視線を投げたまま、その表情は昏い憂いを帯びている。
「……恭介。これ、持ってきたの。好きだった曲、いっぱい入ってるよ」
さやかは、少し遠慮がちに差し出したCDプレイヤーとヘッドホンを、小さなテーブルに置いた。
「前に話してたじゃん? シューベルトとか、チャイコフスキーとか……。ほら、癒しの時間って、大事だと思うし」
微笑もうとしたその瞬間だった。
恭介と呼ばれた少年の表情が、苦しげに歪んだ。
「……やめてよ」
「え……?」
「今の僕には……そんなもの、必要ないっ!」
弾かれたように手が動き、さやかの差し出したプレイヤーが床に叩きつけられる。
「価値なんか、ないんだ……僕には、もう。医者にも言われた。神経が死んでるって……二度とヴァイオリンは弾けないって……!」
恭介の声は震えていた。
「それなのに……音楽を聴くなんて……そんなの、地獄だよ……」
視線を伏せ、涙を流しながら、恭介は自分の腕を抱えた。
「見てよ、血が出ても全然痛くない。もう、感覚がないんだよ……僕の、腕……っ」
その腕を、自分で爪を立てるように掴み、皮膚が赤く腫れるまで押し込んでいく。
さやかは、動けなかった。
ただ、目の前の“好きな人”が壊れていく姿を、見つめるしかなかった。
——そのとき。何かが、さやかの胸の奥で音を立てた。
もし、自分が魔法少女になれば、恭介の腕を治せるかもしれない。
もし、奇跡が叶うのなら——。
そんな願いが、胸の奥で静かに芽を出しはじめていた。
ーーー
恭介の病室を出て、扉が静かに閉まる。
無言のまま廊下を歩くさやかの背中を、外で待っていたまどかは少し離れて追いかけていた。
何かを言おうとして、それでも口を噤む。さやかの足取りは重く、けれど真っ直ぐだった。
無機質な廊下の先、ガラス扉を押して外に出る。
空気が変わった。
外の空気はほんの少し冷たく、さやかの頬を撫でた風に、日中の熱気の名残はなかった。見滝原総合病院の中庭——四季折々の植栽に囲まれた静かな空間。
小さな噴水の水音が、絶え間なく流れている。その片隅に置かれた白いベンチに、さやかは力なく腰を下ろした。
まどかも隣に座るが、どちらからともなく言葉は出てこなかった。
風が木々を揺らし、葉が静かに擦れ合う。
沈黙の中でさやかの指先が、震えていた。
「……ごめん、まどか。せっかく来てくれたのに、こんな姿見せちゃって」
「ううん……さやかちゃん、大丈夫……?」
まどかの声は優しく、そっとさやかを包み込むようだった。
さやかは、膝の上で両手を組み、ぎゅっと握りしめる。
空はすでに茜色に染まりはじめ、噴水のきらめきにも、少しずつ夜の色が差し込んでいた。
さやかの目は泣き腫らした跡があった。頬はわずかに赤みがかり、目にはうっすらと涙が滲んでいる。
まどかは黙っていた。さやかが落ち着くまで、背中を摩り、ただ寄り添う。
そうして、ようやく、さやかが口を開く。
「……ねえ、まどか。もし、奇跡が本当に叶うならさ。……誰かが、代わりに何かを背負うことで、人を救えるならーー」
その言葉に、まどかは小さく目を見開いた。
「……あたし、魔法少女になってもいいのかもって。そう思った」
「さやかちゃん……」
さやかは喉から搾り出すように声を震わせる。
「マミさんだって、ずっと一人で戦ってきた。街を守るために、誰かのために命を懸けてさ。でも、それじゃあ……虎杖さんまで、帰れなくなっちゃうかもしれない」
まどかは、はっと顔を上げた。
「え……?」
「きっと、気を遣ってるんだよ。マミさんに。自分がいなくなったら、また彼女一人になるって。だから残ってる……そんな気がして、怖くてさ」
言葉にしながら、さやかは強く唇を噛んだ。
「だったら、あたしが魔法少女になればいい。マミさんが一人じゃなくなる。虎杖さんだって、元の世界に帰れる。恭介の腕だって、治るかもしれない」
まっすぐな瞳に、まどかは何も言い返せなかった。
さやかの正義感は、時に無茶でーーでもそれ以上に強くて眩しい。過去に助けられた覚えも、沢山ある。
それなのにーー大切な親友が悩んでいるのに。
空虚な言葉で、ただ慰めることしか出来ない。
まどかは役に立てない自分が情けなくて、いたたたまれなくなった。
そのときだった。空気が、ふと変わる。
じっとりとした湿った風が吹き、大気が淀む。
遠くの空間が揺れたように見えた。まるで、世界そのものが波打つような歪み。
ーー瞬間。
さやかとまどかの身体中に奔ったのは言いようのない怖気。あってはならない怪物の巣窟が、空間に波紋を広げている。
「……魔女……?」
さやかとまどかは、視線を交わす。
病院の外れ、フェンスの向こう——そこに、ほのかに光る結界の縁が見えた。
それはまだ、人を飲み込まぬ不活性。
だが、確かに存在する“魔女の結界の卵”だ。
放っておけば、いずれ羽化し人の世に呪いをばら撒く災厄となる。
まどかとさやかが結界に気を取られている時だった。
ふいに背後から届いた、澄んだ声。
「ーー美樹さやか、鹿目まどか。すぐにマミへ連絡するんだ。まだこの結界は休眠状態だけど、もし目覚めれば多くの人間が巻き込まれてしまう」
まどかが驚いて振り返る。
そこにいたのは、いつの間にか現れていた白い小動物——きゅうべぇ。
すましたような顔で、まどかとさやかを見上げている。
見た目はぬいぐるみのように可愛らしいのに、なぜか姿を見つけたときの安心感よりも、少しだけ胸の奥に引っかかる“静かな違和感”があった。
でも、それが何かまでは、まだ分からない。
きゅうべぇはその紅い瞳で二人を見つめながら、柔らかく続けた。
「でも、安心して。マミの力があれば、きっと大丈夫さ」
さやかはむっとして口を尖らせる。
「最近見ないと思ったら、調子の良いこと言っちゃって! マミさんが街の平和を守ってるんだよ? きゅうべぇも任せっきりじゃなくてさ、少しは顔を出してもいいんじゃない?」
「仕方ないよ。ボクだって暇じゃないんだ。それに今のマミには虎杖悠仁という協力者がいるじゃないか」
そう言って、口元をわずかに綻ばせる。
にこり、とした笑みは、愛らしささえ感じさせた。けれどもその笑顔は、どこか“つくられた”ものにも見えた。
まどかもさやかも、その違和感に名前をつけることはまだできなかったけれど——。
その笑顔が、まるで猫をかぶったようだと、ほんの一瞬だけ思った。
気を取り直して、さやかはスマホを取り出した。すぐにマミへと繋げる。
マミは二つ返事で駆けつけると即答してくれた。
「虎杖さんは?」
さやかの問いに、マミの返事は簡潔だった。
『今日はバイトなの。……私が行くから、場所を教えて』
電話越しのマミの声が、どこか張り詰めていた。
魔女はまだ動いていない。けれど、このまま眠り続けている保証はどこにもない。
夕暮れの空に、ひそかに滲み始める緊張。
そんな中、きゅうべぇだけが無機質で、ただ静かに、二人の魔法少女候補の姿を見据えていた。
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