これは余談ーー美樹さやかが上條恭介のお見舞いに行く前日の話だ。
見滝原の駅前通りには、夕暮れの喧騒がまだ残っていた。
「……よし、これで準備完了っと」
美樹さやかは紙袋を抱え、満足げに頷く。中には、上條恭介の好きだったクラシック音楽のCD。明日のお見舞いに渡そうと、まどかと一緒に選んできたものだった。
まどかとは先に別れ、一人帰路に着く道すがら——ふと、さやかは道路の向こうに見覚えのある姿を見つける。
「……あれって、虎杖さん?」
ヘルメット姿で、汚れた作業服を着た青年が、トラックの脇で資材を運んでいた。見慣れたマミからもらった服ではない、労働者としての虎杖悠仁。
さやかは、迷った末に交差点を渡ると、コンビニで買った缶コーヒーとソーダ、お菓子を片手にそっと近づいた。
「虎杖さーん。お疲れさまっ!」
声をかけられた虎杖は、汗まみれの顔を上げて驚いたように笑った。
「さやかちゃん? こんなとこで何してんの?」
「帰り道に近かったから、たまたま。差し入れ持ってきたよ。甘いの好きでしょ?」
虎杖は照れたように頭を掻いて受け取った。
「まじで、助かるわ……! 今日の現場、休憩入ったの午後三時とかでさ」
「ええっ!」
思わずさやかの眉が跳ね上がる。
「そんなの、倒れちゃうよ! 水分もちゃんととらないと……!」
「まあ、暑くて食欲なかっただけ。もう終わりそうだし、平気だって」
そう笑う虎杖の額にはうっすらと土埃がついていて、普段の彼とは少し違って見えた。命がけの戦場とはまた別の、日常の戦場のような顔だった。
二人は資材置き場の裏手、小さなコンクリートの段差に腰かけて、夕暮れの風に吹かれていた。
時間が止まったかのような静けさの中で、遠くからは鳥のさえずりや、子供たちの笑い声が風に乗って届く。
空はゆっくりと茜から群青へ。街の喧騒が徐々にフェードアウトしていく。
缶コーヒーのプルタブを引いた音が、妙に鮮明に響いた。
「……なんか、こうしてると、普通の放課後って感じするな。高専もこんな感じで、なんか任務を終えたあとみたい」
「えーなんか、イメージと違う! もっと呪術師って言うからオカルト的な……。でも、虎杖さんを見てると体育会系って感じもするし……」
「まあ、そうかもな。体力だけは取り柄だし。呪いより重機の方が分かりやすくて助かってる」
さやかは吹き出した。
「そもそも虎杖さんって本当に高校生? あたしとそんな変わらないって信じられないです。大学生みたいな貫禄を感じます!」
「え? マジ? そんな老けてんの、俺?」
「大人びてるって言ってるんです」
虎杖は缶を傾けながら、ふっと笑った。
「普通っていいよな。こういう何でもない時間が、一番ありがたかったりする」
何気ない言葉に、さやかの目が少しだけ丸くなる。けれど、それ以上は何も言わずに、缶のお菓子を静かに開けた。
ひと息。
風が少し強まり、背後の足場に吊るされたロープがキイ、と軋む。
その、どこか安らいだ沈黙のあと——
他愛ない談笑の中、どこか虎杖は真剣だった。
薄々と感じていた虎杖の決意めいたものの正体が分かる。
「……さやかちゃんって、さ。何であんなに真剣に魔法少女の見学、続けてんだ? 命がけで、さ」
缶コーヒーを飲んで、また一拍。
「——魔女の結界に入ろうだなんて、正直言って普通じゃない。誰かのために命を張るなんて、本来ならすごく……怖いことだろ?」
虎杖の目が、やさしくも真っ直ぐにさやかを捉える。
「よっぽどの覚悟がないと無理だ。だから、さやかが叶えたい願いってなんだろうなって——純粋に知りたいと思った」
ふと、虎杖がそう問いかける。
さやかは、重く頷き、紙袋に目を落としながら答えた。
「……助けたい人たちがいるの。大切な人が、絶望してる。マミさんは頑張って魔女と戦ってる。あたしは何もできない。だったらせめて、何かひとつでも、役に立てたらって思って……」
虎杖は黙って耳を傾けていた。やがて、静かに口を開く。
「誰かを助けるってことは……自分の人生、背負ってでもいいと思うくらいの覚悟がいる。昔、言われたよ」
その声は少しだけ遠く、懐かしさを滲ませる。
「——あんまりおすすめしません……って」
その声には、どこか懐かしさと、寂しさが混じっていた。
誰かを思い出しているような声音だった。もう会えない誰かを。
さやかは、言葉にはしなかったが、胸の奥にひやりとした感覚を覚えた。
虎杖の言葉の裏に、かつての別れが潜んでいるような——そんな哀しみの匂いが、確かにあった。
さやかは、そっと虎杖を見つめた。
「虎杖さんは……助けようとして、どうなったん、ですか?」
「……現実は甘くなかった、かな」
虎杖の視線が、わずかに落ちて、すぐ戻る。
「帰っちゃうかも知れない俺がこんなこと言うのもおかしな話しだけど」
さやかが虎杖を見ると、彼の横顔はどこか遠くを見つめていた。
「自分は出来るから“役目”を果たさなきゃならないって気持ちは痛いほど分かる。でも、俺、思うんだ。役に立つことが全てじゃないって」
さやかは目を見開いた。
「……それ、どういう意味ですか? 誰も助けられないあたしって、価値あるんですか?」
一瞬、風が止む。
ソーダ缶を持つ手の温度が、じんわりとさやかの掌に伝わっていた。
虎杖は静かに言葉を紡ぐ。
「……さやかが、今こうして悩んでること自体すら、意味があると思う。魔法少女にならないと意味がない、美樹さやかなんて、この世界にはいない。少なくとも俺はそう思ってる」
それは、あまりにも自然な声で。
でも、確かに心に届く言葉だった。
やがて、辺りはすっかり夜に染まり始めていた。
「……帰んなきゃね。明日、渡すんでしょ? そのCD」
「うん。ありがと、虎杖さん。なんか、ちょっと元気出た」
さやかは立ち上がり、紙袋を抱き直すと小さく笑った。
背を向けて歩き出した少女の背中を、虎杖はしばらく見送っていた。
(……この子は、もう、決めてる。だからこそ、きゅうべぇに訊かねえと…な)
自分は部外者だ。だが、関わった以上、すべきことはしないと。
虎杖は自分にそう言い聞かせた。
しかし——この夜が、嵐の前の静けさになることを、二人はまだ知らない。