夕暮れの風が木々を揺らす中、病院の中庭には不穏な気配が空気を重くしている。それでもまだ穏やかな余韻が残り、噴水の水音が細く響く。さやかとまどかは、結界を不安そうに一瞥するものの、何もすることは出来ず、その場に立ち尽くすだけだった。
「マミは向かって来ているよ。もう少しだけ、待ってて」
そう言って去っていったきゅうべぇの姿は、もうどこにも見えなかった。マミと合流するのだという。
まどかは制服の袖を握りしめていた。風が冷たく感じられるのは、気温のせいだけではない。
一方で、さやかは紙袋を抱えたまま、じっと結界のゆらめきを見つめていた。
「……私、本当にここまで来ちゃったんだな」
ぽつりと漏らしたさやかの声に、まどかは顔を向けた。
「さ、さやかちゃん……まさか」
目を丸くするまどかに、さやかは微笑して告げる。
「ちょっとね、びっくりしてるだけ。——自分でも、こんなに迷いなく踏み込もうとしてるのが」
ぎゅっと紙袋を抱きしめる。その中には、恭介に渡す予定だったCDがまだ入っている。一部は壊されてしまったが、また残りは——-“腕が治った”ときに渡せばいい。
「まどかは……どうするの?」
さやかの問いかけに、まどかは一瞬答えに詰まる。
「……私は、まだ迷ってる。マミさんにも言われたの。“誰かを助けたいと思ったら、まず自分の願いをちゃんと考えて”って。虎杖さんも”戦う覚悟がなければならない方がいい”って……」
「……そっか。うん、それでいいと思う。まどかは、そうやってちゃんと悩んでいいんだよ」
さやかはそう言って、小さく笑った。
その笑みの奥にある決意に、まどかは言葉を失った。
——そのとき。
遠くから足音が近づいてきた。
二人が顔を上げると、そこには巴マミがいた。制服姿のまま、急ぎ足でこちらへ向かってくる。マミの肩にはきゅうべぇも乗っている。
「お待たせ。二人とも、無事でよかった」
いつも通りの微笑み。けれど、その瞳には確かな緊張が宿っていた。
「きゅうべぇから聴いたわ。魔女の結界はまだ不活性状態って。でも、この感じ、長くは保たない。今なら使い魔とも戦わずに済むし、早めに動くわ」
マミは手早くソウルジェムを取り出す。空気がきらめき、金のリボンが彼女の制服を魔法少女の姿へと包み込んだ。
「鹿目さん、美樹さん。ここで待っていて。すぐに戻るわ」
その言葉を聞いて、さやかが立ち上がる。
「待ってください。マミさん、私も……行かせてください」
その瞬間、空気がぴんと張り詰めた。
さやかの声は決して大きくはなかった。けれど、迷いの一切ないその響きは、風の音や水のせせらぎすら押し黙らせる力を持っていた。
その決意に、マミの足が止まる。
まどかの目が見開かれる。さやかの横顔を見つめるまどかの手は、無意識のうちに強く握られていた。
「さやかちゃんダメだよ……! マミさんと虎杖さん二人が揃ってからじゃないと、実地見学はなしだって!」
しかし、さやかは頑なだった。
「ごめん、まどか。結界に入って怖がってるようじゃ———“あたしは魔法少女”にはなれない」
「……本気、なのね」
マミは目をわずかに見開くと、そっと問う。さやかは短く頷いた。
——マミの肩で、きゅうべぇが小さく笑った。
「彼女は覚悟を決めた。マミ。見届けるだけなら、きっと問題はないはずだ」
その声はどこまでも澄んでいて、乾いた風のように淡々としている。
マミは視線を落とし、ほんの少しだけ目を閉じて、短く息を吐いた。
「……今回は“特例”よ。危険を感じたら、すぐに外へ退避すること。約束できる?」
「はい!」
さやかはまっすぐに頷いた。その瞳は、揺らぎも曇りもなかった。
その横で、まどかが不安げにさやかの手を握っていた。けれども、離れていく勇敢な親友の手。
まどかは結局さやかの決意に気押され、止めることはできなかった。
マミとさやかが、結界のゆらめきへと足を踏み入れようとした、その瞬間。
「……その判断、本当に正しいのかしら?」
鋭く冷たい声が、中庭に響いた。
その場に緊張が走る。まどかたちが驚いて振り返ると、そこには黒い魔法少女——暁美ほむらがベランダの上に立っていた。
魔法少女の身体能力を生かし、跳躍して降りてくる暁美ほむら。
彼女は周囲を一瞥すると、息をふっと吐いた。
——やはり……信じられるのは、自分だけ。
かつてと似た状況。繰り返すこの光景。
隠しきれないほむらの落胆は嘆息となって外へ出た。
魔法少女の運命も、まどかの未来も、繰り返す時間の果てで、誰も変えてはくれなかった。誰よりも強く、時には脆い真っ直ぐな巴マミは、やはり最悪の結末を防ぐことはできなかった。ならば——。
(虎杖悠仁。あなたも、そう……)
一瞬、胸に小さく波紋が広がる。
ふと、ほむらの視線が中庭の奥へと滑る。病院の出口、夕闇の駐輪場、そのどこかから彼が現れるのではと、ほんの一瞬だけ——期待した自分に気づいて、ほむらは胸の奥に静かな痛みを覚える。
いない。
その現実が、ひどく冷たく胸に落ちる。
(肝心な時に、いない……)
それでも、ほむらは知っていた。
虎杖悠仁が、どんなふうにこの見滝原で過ごしていたかを。
学校にすら通えず、戸籍もない異邦人として、過酷な現場で働き、それでも——巴マミたちの知らないところで、魔女と戦い続けていた。
まどかも、さやかもいない場所で。誰に褒められるでもなく、ただ、それが“そうあるべきだ”と思っているかのように。
(私だけが……見ていた)
最初はイレギュラーだと危険視していたが、マミや見知らぬ人を助けようと命を賭ける虎杖を監視している内に心境は変化していった。
—-もしかしたら、マミと共にあの”最悪の魔女”への戦力となってくれるはず。
けれど、そんな彼でさえも、期待を裏切る。
この世界の住人ではない。この戦いの“終わり”に責任を持つ立場には、決してなれない。
(……いえ、違う。信じたいと思ってたのは、私の方)
自嘲めいた感情が、胸の内にひとしずく落ちる。
だからこそ、彼の不在が——こんなにも痛い。
(私が止めるしかない)
彼にすべてを委ねるなどできない。優しさでは、救えない未来がある。彼のような人間を信じることは、きっと——裏切られることだ。
ほむらはすっと歩み出た。表情は無表情のまま。だが、その瞳の奥には、静かな怒りと焦燥、そしてそれでも誰かを守ろうとする意志が、確かに宿っていた。
「この魔女の気配……尋常じゃないわ。貴女も気づいているはず。こいつは今までの魔女とは訳が違う。それに——足手纏いの美樹さやかを連れていくなんて愚かにも程がある」
巴マミは、僅かに目を細めていた。
確かに、ほむらの言うとおりだった。結界の揺らぎが、明らかに“通常”ではない。羽化せずとも分かる強力な悪意の気配がある。
——おそらく、手強い魔女。
しかし、マミはそんな魔女を何匹も葬ってきた。今更、逃げようと思うほど怖気づく訳もない。
「気づいてるわ。でも……だからこそ、今、叩かなくてどうするの?」
マミはまっすぐに言い切った。
そして、そっとさやかに目を向ける。
まだ脆い。だが、確かな意志を持っている。魔法少女になろうとしている者の、覚悟を測るに足る視線をしていた。
視線を戻し、マミはほむらを見据える。
「今回、美樹さんは見届けるだけ。もちろん、責任は私が持つわ。貴女の言いたいことは分かる。でも、私は美樹さんの意志を尊重したいの」
淡く、凛とした声。
だが、ほむらの眉がぴくりと動いた。
「あなたが責任を取れると、誰が保証してくれるの? それとも貴女が”死なない”裏付けなんてあるのかしら? 万一に備え、虎杖悠仁を同行させていた”賢い”貴女はどこにいったの?」
一陣の風が吹き、ほむらの長髪が揺れてなびいた。紫がかった黒い瞳がマミを見下ろす。
「愚かな貴女に代わって、この魔女は私が倒す。手を貸さなくてもいい。グリーフシードもそちらに譲ってあげる。だから、今回は手を引きなさい、巴マミ」
その言葉は冷酷にも聞こえたが、ほむらなりの譲歩でもあった。彼女にとって最優先は、まどかを巻き込まないことのように思える。そう仮定すれば魔女の排除など、手段に過ぎない。
「……いい機会ね、暁美さん。私は貴女とは争いたくないと思ってるの。厳しい意見も忠告も、すべては鹿目さんや美樹さんを想ってのことなんだって考えれば辻褄は合うもの。ただ、つい最近まで面識のなかった二人にそこまで執着する理由は分からないけれど……」
マミは穏やかに、けれどどこか釘を刺すように言った。ほむらは一言も返さず、その黒い瞳だけをじっと向けてくる。
「賢明な判断ね。そこの猪突猛進を連れて結界内に入るなんて言い出した時は、気でも触れたのかと思ったわ」
ほむらの声音は、嘲るようで、しかしその裏には焦りに似た切迫感が滲んでいた。それは、あまりに無謀な賭けへの怒りであり、理不尽に脆く崩れゆく未来への苛立ち。けれど、その語調だけを切り取れば、ただ他人を見下しているようにしか聞こえなかった。
「だ、誰が猪突猛進だって……?!」
「落ち着いて、美樹さん」
さやかの怒気をはらんだ声に、マミはやさしく制止をかけた。
「暁美さんの言う通りにしても構わない。貴女が魔女さえ倒してくれれば、確かにそれで解決する。……無理をするべきではないかもしれないわ」
ほむらが口を開きかける。
「なら——」
「でも、貴女の忠告を受け入れる前に、条件があるわ」
マミは一歩、ほむらににじり寄った。そのまま、鋭く問いかける。
「——なぜ、きゅうべぇを襲ったの?」
その場の空気が凍りつく。
まどかが思わず息を呑み、きゅうべぇは何も言わずにほむらの顔を見上げた。
ほむらの目尻がわずかに上がる。普段は感情の波を見せない彼女が、初めてわずかに眉を寄せる。
「……答えられないのね? 私の友達を襲った挙句、腹を割って話せない。そんな人を信用できるほど、私は甘くない」
マミの声は冷たくなかった。むしろ、静かで、痛みを湛えていた。
「本当に、残念だわ……。暁美さん」
それは、かつて誰にも頼れず、孤独を噛み締めてきた彼女の強さと優しさが滲んだ声だった。
マミの肩に乗るきゅうべぇが甘えるように寄り添う。
それを見たほむらの双眸に確かな敵意が宿るのを、マミは見逃さなかった。
「行きましょう、美樹さん」
その言葉は、命令ではなかった。
どこまでも穏やかで、静かな決意に満ちた呼びかけだった。さやかはその背中に、たしかな信頼と誇りを見た。
誰かの道しるべになれる人間を、彼女は知っている。——今のマミは、まさにその姿だった。
「はい、マミさん!」
さやかの返事は凛としていた。二人は、ほむらを背に、結界のゆらめきへと歩を進めていく。
魔女の結界へ消える巴マミ。それに続く美樹さやかときゅうべぇ。
後に残されたまどかは、ぎゅっと制服の袖を握りしめ、足を一歩も動かせずにいた。
そして——立ち尽くすほむらは、しばらくその場から動かなかった。マミとさやかの背中を見つめながら、まるで、消せない過去の亡霊を見ているようだった。
———
結界の内部は、まだ完全には活動を開始していなかった。けれど、空気はぴんと張りつめている。壁の歪み、浮遊するお菓子のような意匠、どこからともなく聞こえてくる不協和音。まるで不気味な胎動が、この空間の奥で息を潜めているかのようだった。
「うわっ……! マ、マミさんっ! なんか出てきたあっ!」
時折、このように使い魔が前を横切り、驚かせる時もままあるが、敵意はない。球体に足をはやしたようなこの使い魔達は結界内の法則に従って動いているようだった。手にはクレヨンで描かれたようなお菓子を持っている。
それは魔女への供物かもしれないし、何の意味も持たない御飾りなのかもしれない。知っているのは、結界の主人である魔女だけだ。
マミは結界の中央付近、やや開けた場所で足を止める。手には銃を握ったまま。けれど、構えることもせず、代わりにさやかの方へと視線を向けた。
「大丈夫よ、美樹さん。……まだ、魔女は完全に目覚めてない。でも、すぐに動き出すわ。今は使い魔も敵意はないけど、準備を始めてる」
その声は冷静だった。だが、ほんのわずかな揺れが混じっている。
さやかは黙って頷いた。けれど、その表情に恐怖はない。目の奥に、確かな火が灯っていた。
マミはその瞳を見て、小さく息を呑む。
「……やっぱり、今のうちに言っておくわ。美樹さん、貴女はまだ、戻れるのよ。魔法少女になる必要なんて、本当はないのよ」
「マミさん……?」
「魔法少女ってね、華やかだって誤解されがちだけど……孤独なのよ。恋愛も、部活も、放課後の寄り道も……そのどれもが、どこか近いようで遠い。誰にも言えない秘密を抱えて、戦い続けるの。……“頼りたくても、頼れないの”。それが、魔法少女なのよ」
その言葉には、優しさよりも痛みがあった。経験した者にしか語れない、苦さがにじんでいた。
さやかは迷わなかった。しっかりとマミを見つめて、力強く頷いた。
「それでも、私は叶えたい願いがあります……! マミさんとも一緒に戦いたい。虎杖さんがいなくなったら、マミさん、また一人になるじゃないですか。そんなの、嫌なんです。だから、あたし——」
小さく深呼吸して、彼女は胸の奥から言葉を絞り出す。
改めて美樹さやかは宣言する。
「——魔法少女になります!」
マミの瞳が見開かれる。
続く言葉はなかった。しばしの沈黙。そのあとで、マミはそっと銃を下ろした。
「……どうして、そんなに優しいの、美樹さん」
それは、問いというより、自嘲に近かった。
「私ね、駆け出しの頃、とても苦い経験をしたの。助けを求めてた男の子を、魔女に襲われるのをただ見るしかなくて……負けて、怖くて、何もできなかった。……ずっと、後悔してるわ」
さやかは、静かにマミの言葉を受け止めていた。
「そして……かつて一緒に戦った仲間とも、すれ違って、仲違いしてしまった。もう取り返しがつかないの」
声が震える。
「願いを叶えたときも、死ぬのが怖くて……我が身可愛さで両親を助けることすら、咄嗟に言えなかった。情けなくて……ずっと、自分を責めてきた。そんな私に、貴女は……」
マミの視線が、ふと逸れる。けれど、すぐに戻ってきた。
「……こんな私でも、貴女はついてきてくれるの?」
さやかは、その手を握った。しっかりと、力強く。
「当たり前じゃないですか。マミさんは、ずっと独りで頑張ってきたんでしょ? でも、もう一人じゃない。あたしがいます。まどかだって事情を知ってる。……それに、しばらくは虎杖さんもいるじゃないですか」
マミの表情が崩れる。
「そうね……私には、仲間がいる。もう、ひとりぼっちじゃないのね」
涙が頬をつたった。けれど、その顔は晴れやかだった。
「ありがとう、美樹さん。私……もう、何も怖くない!」
マミは袖で涙を拭い、銃を構える。
「だから……さっさとこの魔女を倒しましょう。活動を始めて、外界を飲み込んでいく前に!」
そのとき、遠くから低いうなり声のようなものが聞こえた。結界の奥、黒く染まりはじめた空間の彼方で、何かが目を覚まそうとしていた。
マミの髪がなびく。さやかも、呼吸を整える。
二人は、動き出した。
——彼女はまだ知らない。この”お菓子の魔女”の恐ろしさを。
けれどこのとき、確かにマミとさやかは、共に戦う者として、その一歩を踏み出していた。