祈りの名を、いつか呪いが覆うとしても   作:名もなきうちは

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結構ショッキングな話なので覚悟して欲しい






今度こそ、その手を離さぬように

 

 魔女の結界には、濁った風が静かに流れ込んでいた。

 

 境界は軋みを上げながらその色を微かに変え、巴マミと美樹さやかが足を踏み入れたその内側で、確かな“異変”が目覚めようとしていた。

 

 鹿目まどかは、じっとその歪みを見つめていた。

 

(私は……また、見ているだけなのかな)

 

 指先が冷えていく。風のせいなのか、それとも胸の奥に根を張る焦燥のせいか。あの中には、マミとさやかがいる。二人とも、優しくて、誰かのために戦える人たちだ。

 

 まどかは、そんな二人を思いながら、自分がまた何もできずにいることを自嘲する。だが、それでも——じっとしていられなかった。

 

 虎杖も、ここにはいない。

 頼りになる彼がいない今、自分だけが安全な場所に留まり、誰かに助けを求めるなど——。

 

 それでも。

 

(行かなきゃって、思うの。マミさんのところに、誰かが……)

 

 マミとさやか、そしてきゅうべぇが足を踏み入れたあの結界。

 

 先ほどまで静かだったその揺らぎは、今やかすかに軋みを上げ、唸るような音を伴って震えていた。

 

 不安と焦燥が胸を締め付ける中、まどかの隣には、無言のまま佇む暁美ほむらの姿があった。

 

「ねぇ、ほむらちゃん……」

 

 まどかが口を開いたその瞬間、風の音が一瞬だけ止んだように感じられた。

 

「私じゃ、みんなの役に立てない。でも、ほむらちゃんなら、マミさんとさやかちゃんを助けられるんじゃ……」

 

 ほむらは静かに視線をまどかに向け、そして首を横に振った。

 

「……行かないわ」

 

 その声は淡々としていた。感情のない声音でありながら、そこには微かな苦渋が滲んでいた。

 

「“鹿目まどか”が結界に入らなかった以上、私の目的は果たされた。これ以上、深入りする必要はない」

 

 その態度に、まどかは理解の色を浮かべる。マミに「信頼できない」と突き放されたことが、ほむらの心に影を落としているのだと。

 

 それでもなお——まどかは止まらない。まるで何かに突き動かされるように、深く頭を下げる。

 

「……自分は安全な場所にいて、ほむらちゃんだけに危ないことお願いしてる。そんなのズルいって分かってる……。いつもなら……マミさんは強くて負けない。でも、あのほむらちゃんの必死さを見て思ったの。何か嫌なことが起こるって……」

 

 まどかの声は震えていた。

 そこには、罪悪感と切実な願いが入り混じっていた。

 

 そのまどかの様子に、ほむらは驚きを隠せなかった。

 

 あの“自己犠牲を厭わない少女”が、今回は契約に心を動かされていない。普段であれば、ここで魔法少女になる選択に揺れるまどかが、今だけは違っていた。

 

「ほむらちゃんが行きたくないなら……”虎杖”さんを、呼んで。お願い……!」

 

 その名が出た瞬間、ほむらの眉がかすかに動く。視線が、無意識に中庭の奥へと滑っていった。

 

 ふと、そこに虎杖悠仁の姿があるような気がして——

 

(あの男が、まどかに影響を与えた、とでも?)

 

 原因は分からない。ただ一つ言えるのは、これはまどか自身にしか知り得ない“変化”であること。

 

(……虎杖悠仁。あなたは、この時間軸に“突然現れた”異邦人。私が知る限りのすべてのループにおいて、唯一の例外)

 

 幾度となく繰り返された時間遡行。その中で、一度として彼の姿は存在していなかった。

 

 何かが変わった。そして、何かが割り込んできた。その得体の知れなさこそが、彼の本質であった。

 

(ただの例外。それ以上でも以下でもない。いずれ元の世界へ帰る存在である以上、この戦いの“結末”に責任など持てるはずがない)

 

 虎杖が、マミの知らぬところで人々を守っていたことは、ほむらも知っている。まどかも、さやかもいない夜に、独り魔女と対峙していた。

 

 誰に褒められるでもなく、それを当然のように——。

 

 その姿を見た時、ほんのわずかに——ほむらの中の“何か”が揺れたのは事実だった。

 

(……利用できるなら、いずれ“駒”にはなる。だとしても、それは今ではない)

 

 だが——

 

 今この時、まどかの不安に応える材料として、彼ほど適した存在は他にいなかった。

 

「……虎杖悠仁は風見野にいる。今はバイト中よ。間に合わない。そういう距離よ」

 

「それでも……! きっと、間に合わせてくれる。私、そんな気がするの」

 

 まどかの言葉は、懇願というよりも確信に近い響きを持っていた。

 

 その願いは、ただのお人好しではない。ほむらには、それがわかった。

 

 まどかが“自らが犠牲になること”を選ばないのは、彼がなんとかしてくれるという、根拠のない信頼があるからなのかもしれない。

 

(……彼なら、きっと助けに来る。そんなふうに思い込んでいるだけ)

 

 ほむらは、そう思考を切り捨てようとする。

 だが、完全には割り切れなかった。

 

 しばしの沈黙ののち、ほむらは懐から小型の黒い業務スマホを取り出す。

 その動きには、確かな迷いがあった。

 

「これは、彼の非常用端末に繋がる番号。私は——通話記録を取っていただけ。だから、渡すのに深い意味はない」

 

 言い訳じみた言葉が、口をついて出る。

 

「通じたとしても、来るとは限らない。……無理だとわかってるのに、連絡を入れる意味なんてない」

 

 それでも、ほむらはその端末をまどかに手渡した。

 

 まどかは驚きに目を見開き、深く頭を下げてそれを受け取る。

 

「ありがとう、ほむらちゃん!」

 

「……どういたしまして」

 

 その一言は、感謝に応えるものというよりも、己の矛盾を許容するための呟きのようであった。ほむらは、そっと視線を落とす。

 

 

 まどかは、そんなほむらの姿に心からの感謝を抱いていた。

 

——本当は、不器用で、口下手なだけなのだ。

 

 確かに、きゅうべぇを襲った理由は明かされていない。だが、それにもまた深い事情があるのだろうと、まどかは感じていた。

 

 もし本当に“敵”であるならば、マミやさやかを引き留めようとする道理はない。

 

 きっと彼女は、誤解されやすいだけで、ただ不器用な少女——それが暁美ほむらなのだ。

 

 まどかは気を取り直し、教えてもらった番号を頼りに、スマートフォンを手に取る。

 

 虎杖に繋げるため、その番号を指先で慎重に入力していく。

 

(……私には、魔法の力がない。誰かを守る術も、あの人たちと並んで戦う勇気も——今のところは)

 

だが、それでも——

 

(——あの人なら)

 

 それは不思議な感覚だった。論理ではなく、理屈でもない。ただ、共に魔女と向き合ううちに、自然と心に芽生えた信頼。

 

 この世界に突如として現れた存在。血と汗と埃にまみれながらも、人を見捨てることなく魔女と戦い続ける異邦人。

 

 孤独なマミに寄り添い、沈黙の中でその背中を支えた男——虎杖悠仁。

 

「信じられる」と断言するには早計かもしれない。けれども、彼には「信じたい」と思わせる何かが確かに存在していた。

 

「お願い、出て……!」

 

 まどかは、ほむらから受け取った業務スマホの番号に震える指で通話をかけた。

 

 

その頃——

 

 風見野市・中央工区の資材搬入口。夕陽が鉄骨の影を長く伸ばし、構内に重苦しい赤を差し込んでいた。

 

「おーい虎杖! こっちの荷、積み込み終わったかー?」

 

「もうちょい待って!」

 

 ヘルメットの下、汗に濡れた額が覗く。シャツの袖には土埃が付き、虎杖悠仁は鉄棒を肩に担ぎながら指示に応えていた。

 

 そのとき——ポケットに忍ばせていたスマートフォンが、振動を発する。

 

「え……?」

 

 工事現場で支給された業務用スマホ。私用は禁止されており、滅多に着信が来ることはない。だが、液晶に表示された番号を見て、虎杖の表情が引き締まった。

 

 虎杖は、まどか・さやか・マミの電話番号だけは記憶していた。何かあれば公衆電話からでも構わない、そう告げられていたからだ。

 

「これって……まどか、か?」

 

 胸の奥に、嫌な予感が走る。

 まどかが規則を破るとは考えにくい。だからこそ、これは“急を要する”連絡であることを意味していた。

 

 そして、最も想定されるのは——

 

(……魔女関連か?)

 

 虎杖は迷わず通話ボタンを押す。受話口から響いてきたのは、切羽詰まった少女の声であった。

 

『い、虎杖さんっ!?』

 

「お、おう? どうした!?」

 

『マミさんと、さやかちゃんが……今、結界の中に……! 私……わかんないけど、でも、ただの魔女じゃないって思うのっ! 場所は見滝原総合病院っ! 多分、虎杖さんなら魔女の気配を追って正確な位置が分かると思うのっ!』

 

 焦燥、震え、そして祈りにも似た叫び。

 

 虎杖は、それだけで状況を察した。正確な位置すら伝えられないほど、まどかは追い詰められている。

 

 間違いなく、ただ事ではない。

 

「——わかった。すぐ行く!」

 

 まどかが何かを言いかける前に、虎杖は通話を切った。

 

「おい、どこに行くんだ!」

 

 現場主任の叫びが背に飛んできたが、それに構わず虎杖はヘルメットを外し、荷を放り、現場を飛び出す。

 

 バイクの手配も一瞬考えた。無免許でも構わない、バイト仲間に借りられないか、と。

 

(……無理だ、間に合わねぇ。じゃあ——)

 

 方法はただ一つ。

 

 兄が教えてくれた術式。その片鱗を引き出すしかない。

 

 かつては敵であり、不器用で、教え方も雑だった兄。

 

 だが、彼の生き様だけは今も鮮烈に脳裏に刻まれている。

 

「……赫燐躍動——」

 

 術式が応じる。血が熱を帯び、筋肉が膨張し、心臓が激しく脈打ち始めた。

 

 未完成の技。赤血操術はまだ発展途上にある。“百斂”の習得もようやく形になったばかり。その精度で言えば、まだ加茂憲紀の方が上かもしれない。

 

——だが、それがどうした。

 

 今は出来るか否かではない。“やるかどうか”なのだ。

 虎杖は静かに目を閉じる。集中。発露。そして、決意を言霊へと乗せる。

 

「——載!」

 

 赫燐躍動・最大出力。全身の血潮が爆発的に巡り、体内の熱が限界を越える。足元を蹴り出せば、アスファルトが音を立てて崩れた。

 

 それはもはや“走る”という次元ではなかった。“連続する飛翔”——それに近い。

 

 一歩ごとに跳躍のような推進。常識を逸した膂力が、それを可能にする。

 

 虎杖の肉体に備わった素体強度。それに呪力と術式が融合することで、常人には制御不能な強化が完成する。

 

 だが——虎杖悠仁は“宿儺の器”であるがゆえに、その強化を耐えうる。

 

 その結果、車両など優に追い越していく速度。

 音速すら視野に入るかもしれない。

 

(負担はデカいけど……これなら!)

 

 まどかの伝えた見滝原総合病院。その方向へ最短ルートで駆ける虎杖。

 

 民家を飛び越え、河川を越え、橋を駆け抜ける。

 

 風見野から見滝原まで——もはや距離も時間も意味を成さない。

 

 虎杖悠仁は駆ける。その背に、“未来”を背負って。

 

 

——そのときだった。

 

 異様な速度で移動する虎杖の姿を、ビルの屋上から見下ろす者がいた。

 

 赤毛を後ろに結い、胸元に紅いソウルジェムを佩く少女。その目が、風に靡く虎杖を鋭く見据える。

 

「——魔法少女でもないくせに、あの速度。なるほどね……マミと手を組んでる魔女狩りの“野郎”ってのはマジだった訳だ」

 

 そう呟いたのは、佐倉杏子。

 

 かつて、巴マミと共に戦った魔法少女のひとりであった。

 

——-

 

 その頃、魔女の結界はついに完全な“覚醒”の兆しを見せ始める。

 

 外界の風景は異質な色に侵食され、街の音は遠く霞んでいった。このままでは、病院が飲み込まれるのも時間の問題だろう。

 

 まどかは、空間に広がる波紋を複雑な感情で見ていた。

 

「大丈夫よ。私が貴女を守るわ」

 

 ほむらが結界とまどかの間に、すっと割って入る。

 

「鹿目まどか、いい? 巴マミと美樹さやかの行く末を見守りたいなら……私のそばから離れないで」

 

「ほむらちゃん……ありがとう」

 

 まどかは、自分の胸の奥で心臓の音が激しくなっていくのを感じる 。

 緊張で呼吸が早まり、胸が苦しくなる。

 

 「来て……お願い、来て……!」

 

 祈るように握りしめたスマートフォンの画面には、通話履歴が残っている。

 応答の切れたその先を、まどかは信じていた。

 

 そのとき——。

 

 風を裂く急ブレーキのような音が響き、爆音とともに、何かがたどり着く。

 

「まどか! 間に合った——のか!?」

 

 叫びながら駆け寄るその声に、まどかは振り向いた。

 

「い、虎杖さん!」

 

 名前を呼ぶまどかの瞳には、確かに“希望”の光が宿っていた。

 

「まだそんなに時間は経ってないはず……」

 

 ほむらは早すぎる到着に、目を丸くする。

 

「悪い、遅れた! 状況は!?」

 

「入ってそんなに経ってない! マミさんたちをお願い!」

 

「ああ、任せろ……もう行く!」

 

 虎杖は、到着したその足で、迷いなく結界の中へと駆けていった。

 

 まどかは、その背に祈りを託すように、静かに目を閉じる。

 

 かすかに震える指先の奥で、希望の鼓動が脈を打っていた。

 

———

 

 魔女の結界。その深部で空間が激しく歪む。あまりにも鮮やかな色彩、甘ったるい空気、空を泳ぐケーキの群れ。現実の常識を蹂躙するこの空間が遂に、胎動し始める。

 

 先ほどまで、無関心を決め込んでいた無数の使い魔たちが、二人の少女へ牙を剥き始めた。

 

「や、やばっ……こっちに来るっ!」

 

「下がって美樹さん。どうやら始まったようね」

 

 巴マミはすでに戦闘態勢に入っていた。スカートの裾からすらりと落ちる無数のマスケット銃。

 

 次の瞬間、周囲にひしめくように現れた無数の使い魔たちが、奇声を上げて飛びかかってくる。

 

 「来なさい。私が相手よ!」

 

 マミの声と共に、銃撃が踊る。閃光と轟音が咲き乱れ、使い魔たちが次々と菓子くずのように砕けていった。

 

 さやかはその場で目を奪われ、声もなく見守っていた。頼りなくも拳を握りしめ、その背に向かって呟く。

 

 「……マミさんはやっぱり、すごい!」

 

 そして、ついに結界の最奥——魔女の部屋へとたどり着く。

 

 そこには、玉座のようなお菓子の山に鎮座するぬいぐるみの魔女がいた。”お菓子の魔女”シャルロッテ。愛らしく、間の抜けた顔をしたその姿は、一見すれば害意の欠片も感じられない。

 

 しかし、マミの表情は変わらない。むしろ、ぬいぐるみの姿を目にした瞬間、かすかに警戒の色を強めていた。

 

 「ここが最深部という訳ね。なら、遠慮なく行かせてもらうわ」

 

 そう言い切ると、マミは銃を構え、突進。まずは至近距離からマスケット銃の柄で殴打、ぬいぐるみの魔女は大きく吹き飛ばされる。

 

 「これで終わり!」

 

 吹き飛ばされた直後の空中、複数の銃撃が立て続けに炸裂し、魔女を滅多撃ちにして絶壁へ叩きつけた。さらに銃撃後の弾丸はリボンに変換され、逃げようとする魔女の全身を縛りつける。

 

 だが——

 

 「おかしい……抵抗がない……?」

 

 マミは銃口を向けたまま、一歩だけ後退した。いつもなら凶暴に暴れまわる魔女が、まるで何かを“待っている”ような静けさを見せている。

 

 ティロ・フィナーレの構えに入ろうとして、マミは一瞬、動きを止めた。

 

 ——その一瞬が、兆しだった。

 

 拘束されたぬいぐるみの口が、ぐにゃりと大きく裂ける。

 

 中から這い出してきたのは、蛇のように長い胴体と、メルヘン調の顔に不気味な笑みを浮かべた“本体”だった。頭上には羽飾り。進化した魔女”シャルロッテ”の“本性”が姿を現す。

 

 「出たわね……!」

 

 マミは即座に銃を構え、応射。弾丸が魔女の体をかすめ、軌道を読んだリボンが巻きつく。

 

 一見すれば優勢だった。だが、銃撃を何度浴びせても、魔女は体をくねらせるだけで、大きな反応を見せない。

 

 それでもマミは攻め続けた。リボンで魔女の動きを妨害、さらに連続射撃を加えた末、再び拘束に成功。

 

 「今度こそ……!」

 

 ティロ・フィナーレの大砲が形成される——その直前。

 

 魔女はまるで予期していたかのように、体の表面が剥けるように脱皮して拘束から抜け出す。中から現れたのは、さらに一回り小さくなった“本体”。その姿はまるでマトリョーシカ人形のように、幾重にも姿を持っているかのようだった。

 

 「なっ——!」

 

 マミの目が見開かれる。その時、魔女の目線が、少し離れた場所に立つさやかへと向いた。

 

 「あ……」

 

 動けない。マミも、さやかも、一瞬その異様な進化に呑まれていた。

 

 次の瞬間、魔女が伸ばした顎が、真っ直ぐさやかに向かって迫る。

 

 「美樹さん——っ!!」

 

 マミは跳ぶ。リボンで跳躍の軌道を変え、さやかの前に飛び出した瞬間——

 

 がぶり。

 

 乾いた音が響いた。

 

 さやかの目の前で、マミの片腕が、肩口からごっそりと食らいつかれていた。

 

「マ、マミさんっ……!?」

 

 何が起きたのか、即座には認識できなかった。

 ただ、巴マミの身体が傾ぎ、その身から“何か”が信じ難い形で引き剥がされていくのを、この目で見た。

 

 鮮血が飛び散り、宙を舞っていたリボンが崩れ落ちる。

 

「———あっ…ああっ! い、んっぎぃっああっ!」

 

 続いて耳に届いたのは、痛ましくも鋭い悲鳴。

 

 (……今のは、いったい……?)

 

 鼓膜の奥に、どこか割れるような鈍い衝撃音が残響した。

 視界は揺れ、両脚は地面に縫い留められたように動かなかった。

 

 ——巴マミが、自らの身を挺して私を庇った。

 

 その事実だけが、遅れて脳裏に刻まれてゆく。

 

 (嘘、だよ……だって、マミさんは……)

 

 誰よりも強く、誰よりも美しく、誰よりも“魔法少女”であったはずの人が——

 

 今、目の前で、腕を喰われている。

 そして、普段の姿からは想像できないような絶叫を上げている。

 

 現実の像が、音もなく崩れていく。

 恐怖を抱く余裕すらなかった。

 思考という名の器が、崩壊の淵に立たされていた。

 

 (私……助けられたんだ。それなのに……)

 

 何一つ、応えることができなかった。

 

 叫ぶことも、手を伸ばすこともできず、ただ茫然と立ち尽くす。

 庇われ、見守られる側でありながら、自らは何も成せなかった。

 

 ——彼女の悲鳴が、彼女の痛みが、己の無力をこれ以上なく突きつけてくる。

 

 ごきん。

 

 悲鳴が唐突に止んだ。

 

 巴マミの身体は、糸の切れた操り人形のように力を失い、宙にぶら下がるようにして揺れていた。 その表情はすでに蒼白に染まり、半開きの瞳からは生気の光が消えかけている。

 

 さやかは、ただそこに立ち尽くしていた。

 理解が、現実に追いつかない。否、理解したくなどなかった。

 

 つい数秒前まで、毅然と魔女と対峙していたはずのその姿が、今では餌のように吊り下げられている。

 

 否応なく迫る終焉の気配。

 魔女の顎が、異様な静けさをもってゆっくりと開かれていく。

 その口元へ、マミの身体はずるずると引き寄せられていく。

 

 残された時間は、もはや一瞬すら許されぬほどに僅かだった。

 

「さやか! はやく契約をっ!」

 

 きゅうべぇの声が、凍りついた空気を割るように響いた。

 

 抱きかかえられていたその白い獣は、変わらぬ調子で選択を突きつけてくる。

 

 喰われる。 このままでは、巴マミが——尊敬してやまなかった“理想”そのものが、目の前で呑み込まれてしまう。

 

(止めなきゃ……! でも、私に——)

 

 動かない。足が。声が。魂が、何かに縛りつけられているようだった。

 

 きゅうべぇの声が、さらに苛烈に響いた。

 

「さやか! 願いを口にすればいいだけだ! 君にはその資格がある!」

 

 心が、軋んだ。

 

 もし、自分が願えば。

 たった今、この瞬間に命を賭ければ——マミは救えるかもしれない。

 

 だが、その代償も知っている。

 

 それは“普通の人間”としての道を捨て去ることに他ならない。

 さやかの躊躇いが、この危機的状況が、出かかった言葉に蓋をした。

 

 もう、間に合わない——咀嚼の瞬間。

 

 ———何かが、その隙間に割り込んだ。無音のまま、風を切り裂いて。

 

 刹那、空気が爆ぜる音と共に、魔女の顎と巴マミの身体の狭間に拳が叩き込まれた。

 

 黒い火花が散った。

 

 さやかは、何が起こったのか即座には把握できなかった。ただ、世界の空気が変わったことだけは、確かに感じ取っていた。

 

「離せよ」

 

 その声音は、叫びではなかった。

 怒気を内に沈めた、低く、そして凍てつくような静謐な声。

 

「いいから、離せ」

 

 再び、火花が黒く爆ぜる。

 

 次の瞬間、魔女の顎が砕けるように歪んだ。鋭く乾いた破砕音が響き渡る。

 

 跳躍した影は——虎杖悠仁。

 

 彼の身体は、まるで熱を帯びたように膨張し、皮膚の内側から何かが噴き出すかのような迫力に包まれていた。

 

 さやかの知る彼とは、まるで別人にすら見える。

 

 虎杖は迷いなくマミを抱き留めた。

 その動きは力強く、それでいて驚くほど慎重であった。

 

 顎に囚われた彼女の身体を、まるで奪い返すようにして引き寄せる。

 

 咀嚼は、成されなかった。

 だが、“救出された”と呼ぶには、あまりに血が流れすぎている。

 

 魔女の牙は空を噛み、噛み損じた顎の隙間から、黒ずんだ体液が迸る。

 

 虎杖はそのまま地上へと降り立った。

 片腕にマミを抱きかかえたまま、その瞳は一切魔女から逸れることなく据えられている。

 

 語る言葉はない。叫びもなかった。

 

 だが、さやかにはそれで十分だった。

 

 虎杖悠仁の背に宿るのは、確かな殺意——

 そして、深く沈んだ怒りの焔であることを、彼女は本能で悟っていた。




誤字報告感謝しかないです

現在、転換期となる次回以降のプロットを書いてます。
かなり悩んでます。とりあえずエタることは絶対にないです。
まどかのように全て救えたら、とは思うのですが…まどマギ世界の魔法少女が完全に詰み過ぎていて、いくら考えても一人の呪術師じゃあどうにもならないの笑えない。
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