誰かのために、そっと
午後の陽光が照らし出すも、寒の戻りで肌寒い今日この頃は、吐息が白く染まる。つい先週まで春服だった道行く人々の姿は、再び冬物へと戻っていた。
虎杖悠仁は、巴マミの退院を迎えるため、病院のロビーへと足を踏み入れる。
流石に埃まみれの普段着では失礼だと、虎杖はバイト代で新調したばかりのダウンジャケットとジーンズに身を包んでいた。
荷物を抱えたマミが姿を現す。セーターの下に包帯を巻き、左腕をかばうように歩く姿が痛々しい。だが、魔法少女だからこの程度で済んだとも言える。
本来なら、半年はかかる重傷が一週間も経たずに完治寸前。実際、医者も奇跡だといい、驚愕で椅子ごとひっくり返った。それぐらいの回復速度だ。
虎杖はすぐさま駆け寄り、荷物を引き取った。
「無理すんなよ。部屋まで迎えに行くって言ったのにさ」
笑いながら荷物を受け取る虎杖に、マミも小さく微笑み返す。
「……ありがとう、虎杖さん。ごめんなさい、情けないところばかり見せてしまって」
「何言ってんだよ。生きて帰ってきただけで、十分だろ?」
虎杖は周囲を見渡す。負傷からの退院だというのに、親族の姿はない。虎杖自身も家族を失った身だ。だからこそ、言葉にできない寂しさを、自然と察してしまっていた。
——けれど、マミは何も言わず、笑った。
虎杖は軽く荷物を担ぎ直す。
「そんな腕で……一人で帰るなんてダメだろ」
「大丈夫。……一人は、慣れてるから」
ロビーのガラス越しに、外の冷たい空気が滲む。曇った窓が、春とは思えない寒さを物語っていた。
虎杖は、マミの薄手のカーディガンに目を留める。
「……外、思ったより寒いぞ」
ポケットを探ると、持参していたロングコートを取り出す。
「コート、持ってきた。着といた方がいいって。……傷、冷やしたらヤバいしさ」
そっと広げながら、虎杖は視線を合わせる。
「……着せても、いいか?」
押し付けがましくない、まっすぐな問いだった。
マミは一瞬だけ戸惑ったが、すぐに小さく頷いた。虎杖は丁寧に、マミの肩にコートをかける。片腕をかばうマミに、無理な動きをさせないように、慎重に。
「……暑かったら、ちゃんと言えよ」
静かに言い添え、コートの襟を整える。
春先の寒風を遮るコートの温もりが、マミの頬をほのかに赤く染めた。
こうして二人は、マミのマンションへと向かうバスに乗った。
———
バスの座席に並び、冷えた窓ガラス越しに流れる景色を眺める。
虎杖は、ポケットからそっと小さな包みを取り出した。
「これ。……ちゃんと取ってきたから」
包まれていたのは、グリーフシード。戦えない間も、虎杖が危険を引き受けてきた証だった。
マミは一瞬、手を伸ばしかけ、けれど——ためらった。
(……違う。これは、甘えてはいけない)
甘えればきっと楽になれる。だがそれでは、戦う理由すら、誰かに預けてしまうことになる。
——それだけは、絶対に嫌だった。
マミは、自分の胸の奥にそっと手を当てる。
震える指先で、もう一度だけ覚悟をなぞるようにして、包みを受け取ろうとした、その時。
「その腕……」
思わず、声が漏れた。
虎杖の袖の隙間から、赤く腫れた擦り傷がのぞいていた。
「これ?」
虎杖はきょとんとした顔で自分の傷を見下ろすと、何でもないように笑った。
そして、軽く手をかざす。
微かな光が滲み出し——傷は、みるみるうちに滑らかに消えていった。
「前にも話したじゃん。ちょっと呪力流してやりゃ、こんくらいすぐ治る」
虎杖は限定的だが傷を治せる。
魔女討伐後の反省会で知っていたが、実際の治療を見るのは初めてだった。
マミの胸がぎゅっと締めつけられる。
(虎杖さん……)
こんなにも軽やかに、さも当然のように、異常を生きる。
しかし、その笑顔の裏に隠された戦いと痛みを、マミは痛いほど感じ取ってしまった。
無邪気な背中に、知らない傷が幾重にも刻まれている。
誰にも見せずに、誰にも頼らずに——。
それでも、誰かのために立ち続ける彼の在り方が、胸に迫った。
マミはそっと俯いた。
(……私は、こんな彼に、何一つ返せていない)
重たい沈黙ではない。けれど、確かに胸を満たしていく静かな想いがあった。
バスは柔らかく揺れながら、二人を運んでいく。何も語らない時間が、ほんの少しだけ、二人を優しく包んでいた。
窓の外には、淡く滲む春の陽光。
マミはそれを見つめながら、そっと胸に誓った。
——せめて、強くあろう。
——せめて、隣に立てる自分であろう。
そしてバスは、次第に目的地へと近づいていった。
——
バスが停まり、二人は並んで降りた。外気は春とは思えないほど冷たかった。
虎杖は何も言わずに歩幅を緩め、マミに自然と合わせる。マミもまた、それに気づいて、歩みを重ねていく。
住宅街を抜け、ほどなくして、マミのマンションが見えてきた。見るからに手入れの行き届いた集合住宅。白い外壁と多目のガラス張りが特徴で、煌びやかな雰囲気を持っていた。
エントランスを抜け、エレベーターに乗る。
狭い箱の中、二人きり。
ごうん——と低い音を立てて、ゆっくりと上昇していく。マミは、虎杖の横顔をちらりと盗み見た。
(……こんなふうに、男の人と並んで家に帰るなんて)
慣れていない。むしろ、魔法少女として過ごしてきた日々に、そんな時間はなかった。
虎杖は、何も気負った様子を見せず、無邪気に階数表示を見つめている。その自然体な姿に、マミはふっと胸の奥の緊張をほどかれるような気がした。
——ピン、とエレベーターが到着を告げる音。
廊下を歩き、マミは自室のドアの前に立つ。キーを取り出して鍵を開け、扉を引いた。
「——どうぞ」
小さな声とともに、ドアが開かれる。
虎杖は一歩引き、遠慮がちに荷物を持ったまま立ち止まった。
「えっと、荷物運んだら俺、外で待ってるから」
その言葉には、押しつけがましさも、照れもなかった。ただ、マミへの配慮だけが真っ直ぐに込められていた。
マミは、驚いたように彼を見つめた。
(……こんなふうに、私の気持ちを、当たり前みたいに尊重してくれるのね)
胸が熱くなる。
「それは、かえって失礼だわ」
そう言うと、マミは包帯を巻いていない方の手で、虎杖の袖をそっと引いた。
「……仲間でしょう? 虎杖さんは」
その言葉に、虎杖は一瞬きょとんとした後、あどけない笑顔を見せた。
「……そっか。ありがとな、マミさん」
マミはわずかに頬を赤らめ、視線を逸らす。
虎杖は、にこにこと荷物を担ぎ直し、そして二人は並んで、マミの静かな部屋の中へと踏み入った。
午後の光が、優しく床に射し込んでいた。
———
玄関を閉めると、マミはふっと小さく息を吐いた。まだ片腕が自由にならない不自由さに戸惑いながらも、それ以上に、自宅に誰かを招き入れた緊張で心がざわついていた。
「どうぞ、上がって。靴はそこに置いていいから」
マミの言葉に、虎杖は素直に頷き、靴を脱いで揃える。どこかぎこちない動作が、かえって丁寧だった。
リビングは明るい光に満ちていた。白とベージュを基調にした、清潔感のある空間。家具も落ち着いた色合いで統一されていて、どこか”マミらしい”品の良さが漂っている。
虎杖は、荷物をソファの脇にそっと置いた。
「……うわ、めっちゃオシャレだな。ホテルみてーだ」
感心したようにリビングを見渡す虎杖に、マミは思わず笑ってしまう。
「そんな大したものじゃないわ。ただ……落ち着けるように、とは思っているの」
「めっちゃ落ち着く! てか、居心地よすぎる!」
虎杖の率直な感想に、マミは肩の力が抜けたように微笑んだ。
「……お茶、淹れるわね」
そう言いかけたマミだったが、包帯を巻いた腕を見て、虎杖はすぐに気づいた。
「あ、マミさん座ってて! 俺やるよ。ポットとか、キッチン借りていい?」
「えっ、虎杖さん、お茶淹れられるの?」
マミが意外そうに目を丸くすると、虎杖はえへへと笑って後頭部を掻いた。
「まあ、見よう見まねだけど。料理もするし」
「ふふ……じゃあ、お願いするわね」
マミはソファに腰を下ろし、虎杖は元気よくキッチンへ向かった。
カップとティーポットを探し、水をやかんに入れ、火にかける。
——だが。
「ええと、これでいいんだっけ? マミさんって本格派だったり?」
お湯が沸く前に茶葉を入れようとした虎杖は、食器棚に並べられたティーセットを一瞥していた。
マミが諭すように説明する。
「ふふ、ポットは先に温めるの。お湯が沸いたら、まず空のポットに注いで温めるのよ」
「やっぱ、本格派だ!」
虎杖は目を丸くして、素直に従った。
マミは立ち上がり、そっと虎杖の隣に寄る。ほんの少しだけ距離が近づき、柔らかな紅茶の香りが二人を包んだ。
「……こうして、しっかり蒸らしてから注ぐと、渋くならずに美味しく淹れられるの」
「へー、すげー……。……な、なるほど。ティーマットとか使って保温するってことか?」
虎杖が真剣な顔で頷く。
その無邪気さと、一生懸命さに、マミは思わずふっと笑ってしまった。
(——本当に、不器用なところがないのね、この人)
慎重に、けれど自然に。そうして、二人でいれた紅茶の香りが、リビングいっぱいに広がっていった。
そして——。
玄関のチャイムが、軽やかに鳴った。
「おっ、来たかも!」
虎杖が顔を上げる。マミは頷くと、微笑みながら玄関に向かった。
まどかとさやかを迎えるために——。
———
マミの部屋には、虎杖が準備した紅茶の香りが漂っていた。小さなティーカップと、ケーキの箱がテーブルの上に並べられている。
「ごめんなさい! 虎杖さん。待たせちゃったかな?」
まどかが、紙袋を両手に抱えながら小さく頭を下げた。さやかも手に持ったもう一つの袋を掲げる。
「じゃーん! ケーキ、奮発して買ってきたんだからね!」
元気な声が部屋に弾んだ。虎杖は笑って手を振る。
「全然平気。俺もさっき、マミさんに紅茶教えてもらってたとこだし」
虎杖は、片手を自由に使えないマミをさりげなくサポートしていた。
カップを並べたり、ポットを持ち直したり——細かな気配りを、特別なことのようには見せずに、自然に振る舞う。
そんな虎杖の隣に立ったマミは、ティーポットを手にしながら、ふわりと微笑んだ。
どこか、はにかんだような、けれど確かな温もりをたたえた笑みだった。
和やかな空気の中、まどかとさやかは持ってきたケーキをテーブルに並べる。
そんな時、まどかが頭を下げる。
「虎杖さん、マミさん。ごめんね、ほむらちゃんも呼んだんだけど、忙しいって断られちゃったの……」
「あたしも転校生にあんな態度とってさ……。今更だけど、やっぱりお礼を伝えなきゃって思ったんだ……」
本来なら、この場にいても良い少女——暁美ほむら。
虎杖も、まどかも、さやかも、それぞれが彼女へ声をかけた。だが、ほむらはその全てを断った。
「……ごめんなさい。私には、果たさなければならない目的があるの」
短く、しかし揺るぎない断りだった。
——それでも、虎杖たちはそれ以上を求めなかった。無理に引き留めることは、彼女の”覚悟”への侮辱にほかならないと、皆、自然に悟っていた。
そうして、今日この場には四人だけが集まった。
「マミさん、ケーキ全般は好きって聞いてたけど、いちごタルトは好きだったよね?」
「ええ、覚えててくれたのね……ありがとう、鹿目さん」
マミが優しく言うと、まどかはちょっと照れたように笑った。
さやかも一緒に笑顔を見せるも、その瞳の奥にはわずかな陰りがあった。
(……私だけ、まだ……)
さやかは、ふとマミの左腕に巻かれた包帯に視線を落とす。魔法少女として戦う覚悟を決めきれない自分。それがどこか後ろめたかった。
——加えて、マミには知らされていない魔法少女の真実。
まどかは、そんなさやかの様子に、ふと気づく。けれども何も言わず、そっと隣に座った。
マミもまた、さやかの葛藤に薄々気付いている。しかし、それを指摘するのは酷だと思い、微笑みを崩さないでいた。
それに、マミもまた自分自身を責めていた。
魔女に敗れた自分は、皆に失望されたのではないか——。
そんな不安に、胸を締めつけられていた。
——気遣い合って、かえってぎこちなくなる空気。
そんな中。
虎杖は、紅茶のカップを一つ手に取り、ふわりと笑った。
「せっかくだしさ、まずは景気よく——乾杯しよ!」
軽やかに言うと、みんなの目を見回した。
まどかが小さく笑い、さやかも気まずさを誤魔化すように肩をすくめた。
「うん! そうだね! マミさんの退院祝いだもん!」
さやかが元気よく乗っかると、マミもふっと肩の力を抜いたように笑った。
カップを手に、みんなが軽く掲げ合う。
「「マミさん、退院おめでとう!」」
「ありがとう、みんな……!」
微かな涙ぐみを堪えるように、マミはカップを合わせた。——静かに、けれど確かな絆が、そこにはあった。
虎杖は、集まれたこのひとときを大切にしたかった。賑やかに笑い合う三人を見守りながら、心の中でそっと思った。
(……こういうの、やっぱ悪くねぇよな)
ふと、伏黒や野薔薇と過ごした日々が脳裏をよぎる。肩を並べ、くだらないことで笑い合い、ときに命を懸けて背中を預けた仲間たち。
——挫けそうなとき、必ず隣に立ってくれた存在。
今ここにある光景も、ほんの少しの偶然が違えば——誰か一人でも、ここにはいなかったかもしれない。
この時間は、確かにここにあるのだ。
マミの柔らかな笑顔。
まどかの優しい瞳。
さやかの、少し照れくさそうな笑顔。
全部が、壊れそうなほど脆くて、でも確かに温かかった。
虎杖は、カップを軽く傾け、そっと紅茶を一口飲む。
ケーキを前に、はしゃぐさやか。それを少し心配そうに見守りながらも、隣に寄り添うまどか。マミは微笑みながら、そんな二人を静かに見つめていた。
時折。滲むようなぎこちなさは、ままある。
それでも、互いを想って、小さく歩み寄り、肩を並べる。
さやかが照れ隠しのように笑い、まどかがそっとフォローする。マミもまた、さやかに責めるような目を向けることはない。
——誰もが、不器用に、でも必死に。
(……守りてぇな、こういうの)
心の中で、誰にも聞こえない小さな誓いを立てながら。
虎杖悠仁は、静かに目を細めた。
——午後の陽光が、四人の上に穏やかに降り注いでいた。