戦いの余熱がまだ空気に漂っていた。虫の声も、風の音も、先程よりも近くに感じる。虎杖は、手を軽く振って拳の感触を確かめた。杏子は槍を肩に担ぎ、口を結んだまま黙っていた。
しばらくの沈黙。
やがて、杏子の方からぽつりと口を開いた。
「……止めやがったな。最後の一発」
虎杖は目を伏せ、僅かに苦笑を浮かべる。
「本気で殴ったら、喋れなくなんだろ。そんなの嫌だし」
「甘いな」
そう言った杏子の声に、怒りはなかった。肩越しに視線を流しながら、静かに付け足す。
「……そうかもしんねぇけど。誰を倒すかは……自分で決める。俺の目で、ちゃんと見てさ」
虎杖が顔を上げると、杏子は視線を逸らしていた。代わりに、星空を見上げている。
河川敷を流れる風が、二人の髪を揺らす。
「さっきの、“勝つのは俺だ”って台詞、ちょっとムカついたけどさ……」
杏子は小さく笑った。
「でも……あたしも、あんたの覚悟が生半可じゃないってことは、よく分かったよ」
「……おう」
互いに、敵意はもうなかった。ただ、確信にも至らない距離がまだ横たわっている。
杏子が拳を軽く握る。わずかな空気の震えが、確かにそこにあった。
「とにかく完敗だったよ。あたしは負けた以上、あんたのやり方を”認める”しかねぇ」
杏子は軽く鼻を鳴らし、顔をそらす。
「だけどな」
ふと虎杖に向けて視線を戻す。
「ダンスの方は、口ほどでもなかったな。足、リズムからズレてたね。最後の方、踏み外してたろ」
虎杖は目を見開き、即座に反論する。
「ちょ! アレは……! 実力の半分も出せてねぇだけだからな! マジでいつかリベンジすっから!」
その言葉は、飾り気のない真っ直ぐなもの。純粋に楽しんでいたことが伝わる自然体。おそらく、これが虎杖悠仁の本来の姿。
杏子は再び顔を背けた。けれど、その頬に差した街灯の光が、わずかに赤く見えたのは、気のせいではなかった。
「ま……今夜は、これで勘弁しといてやるよ」
「……あんがとな。遊びとか……話に付き合ってくれて」
「喧嘩売ってきた奴に”ありがとう”とか……マジで変わってんのな……。でも、礼を言うのは、まだ早いんじゃねーの?」
杏子の双眸が虎杖を射抜く。
「”理想”なんて長続きしない。その考えが変わった訳じゃねぇ」
根底覆らない佐倉杏子の意思が垣間見えようだった。言い残した杏子は槍を肩に担いだまま、先に歩き出す。
「あんな歯の浮くようなセリフかましといて、すぐ泣き言吐こうもんなら、一目散に飛んで来てぶっ飛ばすから」
ただ、肩の力は抜けていた。
「マジ!? あの槍ブン回すのやめてくんない?! 俺、普通に泣くんだけど?!」
その背に、虎杖が並ぶ。
歩幅はまだ噛み合っていない。けれど、互いに相手の歩調を意識するように、一歩一歩、河川敷の小道を進んでいった。
かつて“敵”とすら思っていた距離は、確かに——少しだけ、縮まっていた。
河川敷を歩く二人の影が、遠くの街明かりに揺られて伸びる。虎杖は、少しだけ間を取ってから、ぽつりと口を開いた。
「杏子は……マミさんと、話さねぇの?」
杏子の足取りがわずかに鈍った。だが、振り返ることはない。
「は? なんで、あたしがあいつと話さなきゃなんねーのさ」
語気は強い。だが、それは怒りではなく、防御のようなものだった。
「別に、あいつがどうしようと、関係ねぇし。こっちのやり方に口出される筋合いもねぇ」
虎杖は、ただ静かに彼女を見た。杏子の背中からは、戦いの余熱とは違う、妙な張り詰め方が感じられた。
僅かな沈黙。
杏子は魔法少女の姿を解く。同時に下げた視線はどこか後ろめたい過去を思わせる。
虎杖は、それでも軽く口の端を上げてみせた。
「……そっか。でも、今度さ。良かったら、また見滝原に来てくれよ」
その言葉に、杏子の眉がぴくりと動いた。
「……は? なんであたしが?」
「いや、なんとなくさ。……こっち来たとき、顔出してくれると、俺もちょっと安心するっていうか。……マミさんも呼ぶし」
さりげなく、だが明確に。虎杖は、あくまで“来てもいいんだ”という余白を渡した。
杏子は、鼻を鳴らす。
「はん。安心だって? 余計なお世話だよ。それとも、なに? あたしが寂しがってるとでも思ったのかい?」
言葉は刺々しい。けれど、その目はどこか泳いでいた。
「勘違いすんなよ、悠仁。あたしは別に、あいつに会いたいとか思ってねーし。ただ……」
途中で言葉を切る。言いかけた何かを噛み潰すように。
「……ま、気が向いたらな」
ようやくそれだけを言って、杏子は視線を逸らした。虎杖は、ほんの少しだけ微笑んで、小さくうなずいた。
「おう、それで十分。……約束だかんな? マジで来いよ?」
その声に、押しつけがましさはなかった。ただ、信じて待つという静かな温度があった。
杏子は、それ以上何も言わなかった。だが、足取りはどこか柔らかくなったように見えた。
———
昼間の見滝原総合病院内。病室の扉を二度軽く叩き、そっと開ける。志筑仁美はベッド脇の丸椅子に腰掛け、窓の外に目を向けていた。病衣姿ではあるものの、顔色に大きな変化は見られず、むしろ拍子抜けするほどに元気そうであった。
「仁美!」
思わずさやかが駆け寄り、続いてまどかが控えめに部屋へ入る。
「……来てくださったのですね。ありがとうございます、さやかさん、まどかさん」
振り返った仁美は、柔らかく微笑んだ。その表情を見て、二人は胸を撫で下ろす。
「本当に……良かった。仁美ちゃんが元気そうで……」
まどかが息を詰めるように呟き、さやかも安堵の笑みを浮かべた。
「もう……どうなることかと思ったよ」
「ふふっ。ありがとうございます、お二人とも。検査も一通り終わりまして、特に異常はなかったそうですの。今日中には、退院できる見込みですわ」
仁美の声音は穏やかだった。だが、さやかの目には、その笑顔の奥にどこか遠慮の色が見て取れた。
三人は場所を移し、病院のロビーでひとときを共に過ごした。形式ばった見舞いではなく、無事であることを確かめ合うような、静かな時間であった。
「仁美ちゃん……その、何か覚えてたりは……?」
まどかの問いに、仁美はわずかに瞼を伏せ、首を横に振る。
「ええ……突然、激しい頭痛に襲われて、それから意識を失って……気がつけば、病室のベッドの上でしたの。夢のような、現実感のない記憶ばかりで……」
まどかは小さく頷き、それ以上は言葉を継がなかった。
確かに、命に別状はない。外傷もなく、意識も明瞭だ。さやかは深く安堵していた。喉の奥に重く絡みついていた不安が、ようやく少しだけほどけてゆくのを感じた。
しかし同時に、思ってしまう。
———もし、自分が魔法少女であったなら。
もっと早く、もっと確実に、仁美を救えたのではないか。あの場にいた虎杖や佐倉杏子のように、迷わず戦う術を持ち得ていたなら――。
自分には、願いも力もない。ただ祈ることしかできなかった。その無力さが、ただ羨ましかった。
やがて、話の一区切りが訪れたとき、さやかは立ち上がった。まどかが訝しげに見上げる。
「さやかちゃん?」
「……ちょっと、寄るところがあるから。まどかは仁美と先に帰ってて」
さやかは微笑を作って返した。
仁美は、彼女のその笑みに込められた意図を察したのだろう。そっとまどかの手を取る。
「……そうですわね。まどかさん、私たちは先に帰りましょう」
まどかもまた、すぐに理解した様子で頷いた。
さやかが今向かおうとしている場所が、どこであるかを。言葉にせずとも、通じ合っていた。
さやかは背を向け、そっと手を振った。
———
白く清潔な廊下には、窓から差し込む午後の陽光だけが静かに落ちている。人工的な静けさの中に、かすかに漂う消毒薬の匂いが、ここが”病院”であることを改めて思い出させた。
そして、もうひとつの病室の前へと、足が向いていた。
———上條恭介。
彼の名前がプレートに記されたその扉の前に立った瞬間、さやかの胸が小さく軋んだ。
面会謝絶。それは、家族以外は病室に入れないという、冷たい文字の並び。
錯乱した後、彼の様子がどうなのか詳しいことはまだ知らされていない。ただ、今、彼は落ち込んでいて話が出来る状態ではないと聞かされていた。
「……っ」
さやかは指先が震えそうになって、思わずスカートの裾をぎゅっと握った。
恭介のためなら、何だって出来ると思っていた。しかし、現実はそうではない。助けるどころか面会すら許されず、会うこともままならない。
さやかの肩が震えた。
あたしはただの、普通の人間で、魔法少女の現実から逃げた臆病者———。
———口だけの”偽善者”。
足元の床が遠くなったような気がして、さやかはその場に立ち尽くした。背中に背負った無力感が、ぐらぐらと心を軋ませていく。
足が動かない。ただ一枚の扉を前にして、手を伸ばすこともできずに、さやかは立ち尽くしていた。
「———そんなに後悔しているのなら、契約すればいいじゃないか、さやか」
そんな時だった。背後から投げかけられたのは軽やかで、無垢な声音。振り返ると、廊下の角に、小さな白い影——きゅうべぇが立っていた。
真っ白な体毛。大きく無表情な赤い瞳。くるりとした耳と、猫にも兎にも似たその愛らしい姿は、魔女化の事実を知った後では擬態のように映った。
「キミは、自分が無力だと思っている。でもそれは、正確には“選ばなかった”だけなんだ。契約すれば、キミは魔法少女になれる。きっと、誰かを助けられたはずの存在になれるよ」
理屈としては正しい。それがまた、どうしようもなく不気味だった。
「……っ、やめて」
さやかは低く唸るように声を絞り出した。
きゅうべぇは動じず、ただ、その紅い瞳をさやかに向け続けていた。それは熱を持たない。哀れみにも、怒りにも似つかない。ただ、目的を遂行するためだけの無機質的な視線。
「願っているんだろう? 誰かを助けたい。守りたい。でも手が届かない。だったら、力を手に入れればいい。願いを叶えれば、すべては変わるんだ」
声色は穏やかでさえあった。まるで、連れ添ってきた友人を想うかのように。しかし、その中には悲しみも、痛みも、一片の感情も存在せず、ただ無情であるだけ。
「キミの願いが“正しい”かどうかなんて、ボクたちにとっては重要ではないんだ。重要なのは、君がそれを“どれだけ真剣に望んでいるか”という一点に尽きる。やがて訪れる魔女化というプロセスは、献身を最終的に完成させる。それは自己犠牲であり、同時に感情エネルギーの最も純粋な形でもある。つまり——その終わりがあるからこそ、キミの正義は“本物”になるんだよ。愛する人間のため、宇宙のため。素晴らしいことじゃないか」
無垢という名の残酷。その姿は可愛らしくさえあるのに、まるで人の“死”さえ、数字のひとつとしか数えていないようだった。
「……やめろって言ってんの……!」
さやかの叫びは、廊下の静けさに飲まれていく。
だが、きゅうべぇはなおも言葉を重ねる。
「さやか、キミはもう分かっているはずだ。“魔法少女にならなければ、誰も救えない”。キミが見た現実は、それを証明している」
鼓動が速くなる。心臓の奥が、ざらりと冷えた感覚に覆われていく。
自分の感情を無視して淡々と迫るその声は、言葉ではない“論理の刃”だった。それは、感情ではなく効率で命を秤にかける、異質な“存在”の声だった。
契約——その一言が、さやかの中で重くのしかかる。
だがその瞬間。
銃声、銃声。そして、銃声。
廊下の空気が震えた。
きゅうべぇの胴体が、頭部が、破裂するように弾け飛んだ。
白い小さな体が吹き飛び、散乱する。
——その刹那。世界が色を失くす。
いつのまにか、全ての音が消失していた。看護師が台車を引きずる音。ナースコールの電子音。先程まで聞こえていた子供達の喧騒。何もかもが不自然に沈黙している。
それだけではない。
視界に入る全ての物体が運動をしていなかった。
窓の外では、小鳥が羽ばたくのを辞め、漂っていた蝶は両翼を広げたまま畳む気配はない。
もっとも異様なのは撃ち抜かれ、飛散したきゅうべぇの肉体。砕かれ弾けたままの状態で停止するその姿は———まるで、動き出す寸前で時間を止められた一コマのフィルムのようだった。
そんな光景が広がっている中、その気配に、さやかはふと、肌を撫でる微かな違和を覚えた。
気づけば、すぐ隣に立つ”誰か”。
制服の袖が視界に入り、次いで手のひらに、確かな温もりが伝わる。先ほどまでなかったその感触が、現実へと引き戻す。
驚きと共に、さやかは顔を向けた。
そこにいたのは暁美ほむらだった。
長い黒髪が静かに揺れ、無表情の仮面のような顔に、微かな怒りとも焦りともつかぬ色が浮かんでいた。まるで、何かを押し殺しているかのように。
「……ほむら……? なんで、ここに……」
掠れた声で問いかける。答えはすぐに返ってきた。
「私の手を離さないことね。下手に動けば、騒ぎに巻き込まれる」
そう言って、ほむらはさやかの手を強く引いた。動きには一切の躊躇いがない。
「もう何度も忠告したはずよ」
静かな声が、張り詰めた空気を切り裂く。
「きゅうべぇは——貴女やまどかを契約へと導く。それが“奴ら”の目的」
そして、一拍置いて、語気を強めるほむら。
「あの存在が、自らを”インキュベーター”と名乗ったことを……忘れたとは言わせない」
相変わらずの淡々とした語調。だが、その冷たさの奥には、炎のような執念が宿るようだった。
さやかはそんなほむらに抗議する暇もなかった。
世界が未だに“沈黙”しているからだ。
(まさか、ほむらの能力って……)
———時を止める?
さやかは辺りを見渡していた。
廊下の途中で凍りついた看護師。姿勢を崩しかけたワゴン。溢れてしまった薬のカプセルすら、落下を忘れたかのように空間に浮かんでいる。
(……だから、ほむらは現れるんだ。音もなく、唐突に)
——まさに、人間の科学など足元にも及ばぬ奇跡。
目前に広がる異様な光景を目の当たりにして、さやかは狼狽えていた。
ほむらはそんなさやかの歩調などお構いなしに、手を引いて歩いていく。
階段を上がり、扉を押し開けた先にあったのは、———誰もいない無人の屋上。
夕暮れの空が、無言のまま二人を迎えた。
時間停止の効果がゆっくりと解けていく中で、さやかは目の前の景色に僅かに息を呑む。ほむらは、ようやく足を止めた。
「言ったはずよ。私は貴女が魔法少女になるなら容赦はしないと」
その横顔には、薄く紅が差している空の色と同じ、静かな影が落ちていた。
「きゅうべぇと一人きりで話す。そんなこと、契約を受け入れたも同然。……迂闊すぎるわ」
視線は前を向いたまま。けれど、その声音には確かに、抑えきれない何かが滲んでいた。
沈黙。
さやかが小さく唇を噛み、目を伏せる。
そして、ぽつりとこぼした。
「……でも、あたしが魔法少女になれば……恭介のことも、仁美のことも、マミさんも……。誰かのことも……もっとちゃんと助けられるかもしれない」
その声は弱々しく、それでもどこか決意めいていた。目の前の現実から目を逸らさずに、ほんのわずかな希望にしがみつこうとする声。
だからこそ——その言葉が、ほむらの胸を強く打った。
「……魔法少女の行く末を聞いて……まだ貴女は……!」
吐き出すように、ほむらが言葉を発する。それは、怒りというにはあまりに切実で。言葉は鋭く、空気を切り裂いた。
「いい加減にしなさい、美樹さやか!」
その声に、さやかの身体がびくりと揺れる。冷静沈着を装っていた少女の仮面が剥がれ、剥き出しになった怒気がそこにあった。
だが、ほむらの怒りは、感情に任せたものではない。むしろ、その奥にあるものは、絶望に似た切実な焦りだった。
「貴女はまだ分かっていないようね。きゅうべぇが、私たち魔法少女に何を“させようとしている”のか」
ほむらは拳を強く握り締める。
「“願いを叶える”という言葉で釣り、奇跡のような力を与えたその先に待っているのは……絶望よ。絶望が極限まで高まったとき、魔法少女はそのまま魔女に転じる」
さやかがごくりと息を呑む。
「それが、インキュベーターの“真の目的”よ。感情のエネルギーを収集し、効率よく搾取するための仕組み……それが魔法少女というシステムなの」
ほむらの声は、かすかに震えていた。そこにあるのは、言いようのない苦悩。
「……あなたが今、もし契約を選べば、そのまま“魔女”へ向かう運命を、自ら歩き出すことになる」
風が、屋上の空気をさらりと撫でた。だが、それでは冷めきった空気は払えなかった。
「貴女は……そんな未来のために、自分を使い捨てるつもり?」
その問いは、命令ではなかった。
暁美ほむら——さやかが”信用ならない”と感じていた少女。その冷たさの裏に、こんな感情が隠されていたのだと、今ようやく知った。
さやかは、しばらくの間、言葉を失ったまま見つめていた。怒りの矛先が自分に向けられていることに、反発よりも先に、驚きと戸惑いが込み上げてくる。
そして——ふっと、笑った。
「……ほむらも怒るんだ」
ぽつりと呟いたその声には、どこか安堵が滲んでいた。その反応は、ほむらにとっても意外だったのだろう。彼女はきょとんとした顔で、さやかを見返した。
「……ねぇ」
さやかはほんの少しだけ視線を落とし、静かに言った。
「……マミさんを、助けてくれてありがとう」
口にした瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなった。
反発したくて仕方がなかった。信じられなかった。でもそれは、彼女がマミを救った事実を見て、誤りだと思い知らされた。
———でも、何より。
暁美ほむらが大切な”何か”を守るために願いを叶え、自らを犠牲にして、いつか来たる”魔女化”を受け入れているのだとしたら。
それは強くて、儚くて、とても悲しいことのように思えて——。
「……感謝ぐらいはちゃんと伝えとかなきゃと思って」
それは、さやかなりのささやかな譲歩だった。今もなお心は揺れている。魔法少女になるべきか否か、自分は無力なままでいいのか。それでも、ひとつずつ、噛みしめるように言葉を選んだ。
「それに……今まで、ごめん」
でも、それだけじゃない。きっと彼女は、さやかや巴マミのことも、本気で守ろうとしていた。自分では言葉にしないだけで——確かに、命を賭けて。
「……何も知らなかったくせに……思い込みだけで、勝手に……ほむらのこと、悪く言ってた……」
その言葉は、小さく、けれど確かに夜気を揺らした。さやかの俯いた肩が震えている。声に悔しさと哀しみが滲み出ていた。
隣で立ち尽くしていた暁美ほむらは、その言葉を聞いて、ほんの一瞬だけ表情を曇らせた。
戸惑っている——そう見えた。
眉がわずかに寄り、視線がさやかに届きかけては逸れる。まるで、どう返すべきか分からないかのように、微かな沈黙が落ちた。
「……何を今更」
ぽつりとほむらが呟いた。けれど、その声は誰に向けたものか、定かではなかった。
「……美樹さやか。貴女は……本当にどうしようもない馬鹿よ」
その声は、静かで、尖っていた。だが、それは責めるような音色ではなかった。さやかは顔を上げた。ほむらと目が合った。
その瞳の奥にあるのは、怒りではない。困惑と、そして、わずかな——安堵。冷たく張り詰めていた二人の空気が、その時、ほんの僅かに解けたようだった。
「———酷いじゃないか」
しかし、聞き慣れた無機質な声が。先ほど砕かれたはずの生命が。——さも、当然であるかのように静謐を割った。
さやかははっとして見上げた。
屋上の貯水槽から見下ろすのは——きゅうべぇ。
さやかの背筋に言いようのない寒気が奔る。
「嘘、でしょ?」
———何故、彼は”生きている”のか。
その身は間違いなく銃弾で散ったはずだった。だが、彼は何事もなかったように鎮座し、赤い瞳で此方を俯瞰している。
屋上を吹き抜ける風が、微かに動く。きゅうべぇは耳を揺らしながら穏やかに言った。
「暁美ほむら。今後は、ああいった無意味な威嚇行動は控えてほしい。感情に基づく衝動は、常にエネルギー効率を下げる要因になる。無駄な消耗は、キミにとっても損失のはずだよ」
まるで友人に冗談を咎めるように、命を奪われたことすら些細な不始末であるかのように、温和な立ち振る舞いで続けるきゅうべぇ。
「ボクたちは、キミたちの願いを叶える存在だ。それ以上でも、それ以下でもない。暴力で対話を遮るなんて、まったく合理的じゃないと思わないかい?」
ほむらは沈黙を守ったまま、きゅうべぇを睨み返す。その眼差しには殺意こそ宿っていないが、引き金にかけた指はわずかに強くなっていた。
「まあ……すでに知っていると思うけど、ボクの個体はひとつではない。この星のどこにいても、すぐに代替が利く。それが生命を効率化するということだよ」
貯水槽から軽快に跳ねて降りてくるきゅうべぇに、さやかは一歩だけ後ずさった。
この生き物は本当に“生きている”のか。そもそも、感情や痛覚を“理解できる”のか。そんな疑念が、胸の内で冷たく泡立つ。
「それでもキミたちは、ボクのことを“命を持った存在”として扱おうとする。それこそが、感情に支配された生命の限界だと、ボクは思っているよ」
きゅうべぇの声は、終始静かで揺らがない。まるで、それが動かしがたい真理であるかのように。
その言葉が空気に沈んでいくと、屋上にはしばしの静寂が訪れた。誰も言葉を返さなかった。返せなかった。
ほむらは何も言わずに、敵愾心を剥き出したように見据えるだけだった。
さやかもまた、得体の知れないきゅうべぇに慄くだけだった。
病院の屋上はまるで世界から切り離されたような、奇妙な閉塞感に包まれていた。
太陽はもう沈みかけている。空が茜と灰の淡さに染まり始め、階下の喧騒が微かに響くが、きゅうべぇと相対する二人の耳には入らない。
だが、何かが変わった、と感じたのは、きゅうべぇの紅い瞳がふと視線を逸らした、その瞬間だった。
足音もなく、ひとつの影が扉の向こうから現れる。制服の裾を翻しながら、階段を上がってきた青年は、迷いのない足取りでフェンスの傍に立った。
——虎杖悠仁。
その名を、さやかは喉奥で思っただけで、声には出さなかった。ただ、彼の姿を見た瞬間――張りつめていた胸の奥が、ほんのわずかだけ、緩むのを感じた。
———
虎杖は、驚くほど静かだった。ただ、何が起こっているのかを察しきった瞳だけが、じっときゅうべぇを見据えていた。
風が再び吹いた。彼は一言も発さないまま、きゅうべぇと、さやかと、ほむら、その全員を視界に収めるように一歩踏み込んだ。
その背に宿る気配は静かで、ただ、彼は全てを把握したうえで、そこに“いる”ようだった。
「まどかから聞いた。さやかが……悩んでるって」
短く、淡々と告げる。その声音に、責める色は一切なかった。
「さっき、まどかとは病院の玄関ですれ違ったから」
申し訳なさそうに目を逸らすさやか。続いて、虎杖は視線をほむらへと移し、小さく頷いた。
「暁美さん。……こんなとこで魔法少女姿とか、すげぇ立て込んでる感じか。……病院内が騒がしいのも、なんとなく分かった」
その一言に、ほむらはわずかに口元を引き結び、腕を組んだ。肩の力を抜かないまま、それでも虎杖に対して敵意を見せることはなかった。
屋上に、風が通り抜ける。
虎杖の視線が、きゅうべぇへと移る。紅い瞳と真っ直ぐに向き合ったまま、彼はゆっくりと言葉を紡いだ。
「きゅうべぇ。……まどかにも、何度も契約持ちかけてんだろ? だから、さやかのとこにも来るんじゃねぇかって思って来てみたら、やっぱ、そうだったか」
その言葉に、さやかの肩がぴくりと震えた。隠されていたことではない。それでも、それが虎杖の口から語られたことが、胸の奥を強く打った。
きゅうべぇは即答せず、ただ瞬きもせずに虎杖を見つめ返していた。肯定も否定もない。あまりに空虚なその沈黙が、逆に答えを雄弁に語っているようだった。
虎杖はそのまま、声の調子を変えることなく言う。
「まどかは……契約の“落とし穴”を冷静に見てる。あの子は、すげぇ強いよ。……とんでもなくさ」
言葉には、心からの敬意が滲んでいた。
「だから……」
虎杖は視線をわずかに横にずらし、さやかを見た。
「切羽詰まってるさやかを魔法少女にさせて、まどかにも揺さぶりをかける。俺みたいなバカでも、さすがにそのくらいは分かる」
淡々とした口調のまま、それでも、確かな重みを宿して虎杖は言い切った。
その分析は鋭く、そして的確だった。同時にそれは、さやかの選択が“ひとりの問題ではない”ことを改めて突きつけてくる。
虎杖はきゅうべぇの前に腰を落とし、真正面から視線を合わせた。風が静かに吹く中、その声は落ち着いていた。
「……お前、感情がないって本当か? でもさ——なんか、どうみても人の心をわかってるように見えるんだけど」
唐突な問いにも、きゅうべぇは一切表情を変えなかった。
「僕たちは、感情の構造を高度に解析している。行動パターンや価値基準も、ほとんど正確に予測できるよ」
「そういうことを言ってるんじゃねぇ」
虎杖は呆れたように頭を掻くと、少しだけ目を細めた。
「きゅうべぇは誰かが死ぬのが嫌だとか、助けたいとか、ないのか?」
きゅうべぇはしばらく沈黙したのち、首をわずかに傾けた。
「人類の個体が死に至ること、それ自体に特筆すべき価値は感じていない。死は、生物学的な過程に過ぎないと認識している。むしろその瞬間に発生する感情エネルギーは、非常に効率的で有用だ」
虎杖の眉がわずかに動いた。
「……感情をエネルギーに変えるぐらい……ほんとにお前らの科学力がすげぇならさ。人間を犠牲にしなくたって、他に、エネルギーを得る方法、あるんじゃねぇの?」
真剣な問いだった。敵意でも皮肉でもない。虎杖は、本当に、理解しようとしていた。
「虎杖悠仁……無駄よ。前にも話したでしょう。こいつは最低限の倫理と感情を真似ているだけ。”魔女化”を知りながら契約を迫る時点で人間を”資源”としか考えていないのよ」
ほむらは忌々しそうに鼻頭を抑えている。
きゅうべぇの答えは、無慈悲なまでに簡潔だった。
「心外だね、暁美ほむら。ボクたちはキミたち人間を”文明を築き上げた知的生命体”として尊重しているつもりだ。その証拠に、暴力や脅迫といった野蛮な手段で、キミたちに契約を迫ったことなんて一度もない」
淡々としたその言葉は、まるで夕暮れの冷気に溶け込むように、屋上の空気に染み渡っていった。
夕暮れの日が落ちる。鈍く色を失った光がビルの影を長く伸ばすと、病院の屋上に一際の静寂が訪れる。
———だが、それは平穏とは程遠い、不穏さによるもの。
きゅうべぇは、そんな空気にまるで頓着せず、さも当然のように断言する。
「———そう。キミたちが望んだから、魔法少女は生まれたんだ」
その声には、責任も慈しみもなかった。ただ、事実を述べただけ。君たちがそうしたのだ”という、他人事のような肯定。
選択の責任を押しつけることに、他ならないとでも言わんばかりに、彼の語る”尊重”とは不平等だった。
「さて、話が逸れてしまったね。そろそろ、キミの疑問に答えよう。感情に代わるエネルギー資源。結論として、あるのかもしれない。だが、もっとも効率がいいのが“この方法”なんだ。効率を捨ててまで、他の手段を模索する理由はない」
虎杖は、言葉を失った。それは“答え”ではなく、“答えにならない返答”だった。
「……これからも人間を”資源”に変えるって認識で、お前たちはやっていくのかよ」
そう呟くしかなかった。
理解しようとしたのは、虎杖の方。だが、きゅうべぇには”理解されることの価値”自体が、存在していない。その絶望的な断絶を、虎杖は静かに、胸の内で呑み込むしかなかった。
だが、隣に立つ少女は、違った。
「きゅうべぇ……あんた、そんな目であたしたちを見てたの?」
さやかの声は震えていた。拳を強く握り締めた腕が、制御しきれない怒りに小刻みに震えている。
その表情には、呆れでも、軽蔑でもない。ただ純粋な怒りと、裏切られたような悲しみが滲んでいた。
感情を削ぎ落とされたようなきゅうべぇの言葉が、さやかの人間らしい心を直撃していた。虎杖には、その横顔が痛ましかった。
(……そりゃそうだ)
怒るのも当然だ、と虎杖は思った。美樹さやかは契約を迫られた魔法少女候補でもあったのだから。
「なぁ、きゅうべぇ……」
その声音は激情とは無縁だった。とはいえ、失望の色は隠しきれていない。虎杖は僅かな可能性に賭けて、問いかける。
「……マミさんのこと、どう思ってんだ?」
きゅうべぇは、一瞬だけ首を傾げた。
「巴マミ、かい? 彼女は有能な契約個体だったよ。経験も豊富で、周囲の影響力も高い。感情エネルギーの生成という点でも、非常に効率的な個体と言える」
「またか……。だから、そういうことを聞いてんじゃねぇって」
虎杖の声がわずかに強くなった。風が、二人の間を静かに流れる。
「……お前がほむらに襲われた時、マミさんがどうして心配したか、分かってんのか?」
きゅうべぇは、表情ひとつ変えず答えた。
「当然の反応だと思うよ。あの時の彼女の感情波形は、非常に興味深いものだった。“か弱い存在への庇護欲”と“正義感の発露”が重なった理想的なパターンだったね。あれほど純粋な怒りは、久しぶりに観測したよ」
虎杖のまぶたが静かに伏せられた。その答えを、心のどこかで予想していた。それでも、やはり、聞いてしまったことを後悔するほどの虚しさが残る。
「……こいつが酷いやつだってのは知ってた。でも……でも。マミさんに対してあんまりだ……」
きゅうべぇの機械のような発言に、さやかも絶句していた。
虎杖はさやかと同じ気持ちだった。きゅうべぇの発言は人間の立場から見れば”友を想う心を踏み躙る行為”だ。
「お前はマミさんの気持ちに……何かを感じたりはしなかったのか?」
「“感じる”とは何を指すのかな? ボクたちにとって、感情とは観測するものであって、共有するものではない。彼女が何を思おうと、それは彼女の中で発生する現象に過ぎない」
虎杖は、目を閉じて一度息を吐いた。
さやかは、振り上げた拳を握ったまま、動けずにいるようだった。
しかし、間も無くして、力なく下ろされる腕。それはもう怒りではない。理解しようとする意志そのものを、手放したような動きだった。
虎杖はそんなさやかの様子に同情を禁じ得なかった。しばしの沈黙が、屋上に流れた。
虎杖はもう一度、きゅうべぇを見つめる。だが、もはやその眼差しには探るような色はなかった。
「……人の願いを叶える力を持って……やることすることが、これか」
その言葉に、きゅうべぇは首を傾げるだけだった。
「すげぇ力持ってんのにな。……もったいねぇよ」
ぽつりと零れた独白は、怒りではなく、憐れみに近かった。
「……奇妙だね」
その声に、感情の色は一切なかった。ただ、純粋な興味だけがある。
「なぜ、君はボクたちに“憐れみ”の視線を向けるんだろうね? むしろ、憐れむべきは君たちの方ではないのかな?」
虎杖は顔を上げない。ただ、聞くだけだ。
「ボクたちは、目的に向かって最短距離を選び続けている。非効率な感傷に囚われず、惑わされず。その結果として、宇宙の熱的死を防ぐ一端を担っている。君たちの文明が続くことにも寄与しているんだ」
紅い瞳が微かに瞬く。
「キミたちは、感情に飲まれ、判断を誤り、しばしば自壊する。“守りたい”という思いが、やがて“壊す”という選択に変わることすらある」
それは、どこまでも正論だった。正確な計算式のように、寸分の誤差もなく、淡々と並べられる“人間の弱さ”だった。
「———理解”不能”とは、このことさ」
きゅうべぇはそう言い切って、続けていく。
「だからこそ、僕たちが介入する意味がある。感傷より、成果が優先されるべきだ。……それが、理解出来ないかな?」
虎杖はその言葉を否定もしなければ、噛みつきもしない。ただ、ゆっくりと顔を上げて、再びきゅうべぇを見つめた。
「……お前らは、人間を魔法少女に変えて、願いを叶えるぐらいの連中だ」
言葉は淡々としていたが、その眼差しには、決意を抱えた者の静けさがあった。
「きっと、遥か……俺たちじゃ想像もできないくらい先のことを見てるんだろうな」
間を置き、虎杖は少しだけ目を伏せる。
「……全てが間違ってるってわけじゃないんだろうってのも、なんとなく分かるんだよ」
そう言いながら、彼はわずかに首を振った。
「けどさ。なんつーか……壮大すぎて、いまいち共感できねぇ。あまりにも遠すぎて、現実味がねぇんだ」
虎杖はぽつりと諭すように告げる。
「……お前らさ、人間への関わり方、どっかで間違えてるよ。しかも、それが……致命的なんだ」
その声音には、怒りも拒絶もなかった。ただ、“届かなさ”に対する困惑——人としての限界を知るような、どこか寂しげな響きがあった。
虎杖は、ゆっくりと立ち上がる。その動作は、重くもなく、軽くもない。ただ、ひとつの会話が終わったことを示していた。
しばらくの沈黙ののち、きゅうべぇが虎杖を見上げたまま、ぽつりと告げた。
「ボクたちとしても君のような感情の発露によって”呪力”を生み出す人類と、もう少し早く出会えていれば……この世界の運用方針にも、別の可能性があったのかもしれないのは確かだ」
それは、あくまで“観測結果に基づく感想”だった。感情のないその言葉に、虎杖は何も返さなかった。ただ、まるで遠くを見るように、曇天の空を仰いだ。
「とにかく……感謝するよ。虎杖悠仁」
それは、驚くほど整った声色だった。むしろ、礼儀正しさすら漂わせていた。
「ボクたちインキュベーターは、これまで多くの思春期の女性たちと接触してきた。その多くは、感情に支配されていて、対話が成立しづらかった。そこの”暁美ほむら”が良い例だ」
きゅうべぇの発言に、ほむらは苛立ちを隠さない。拳銃の銃口が上がる。
虎杖は銃口を手で制する。きゅうべぇの続く言葉に対して、ただ黙って耳を傾ける。
「君のように、落ち着いて対話が可能な個体と接するのは、実に貴重な体験だったよ。成人男性に近い理性を持ちながら、なおかつ強い感情エネルギーと倫理観を併せ持つ……実に有意義な時間だった。もしも、キミが女性であれば、素晴らしい魔法少女になっただろう」
きゅうべぇは一歩も動かず、なおも静かに言葉を続ける。そこで、ほんの僅かに紅い瞳が瞬いた。
「今回の記録は、我々にとっても価値あるサンプルになるはずだ。特に、君のような個体の“在り方”は、観測対象として極めて優秀だよ」
その語り口に、悪意は一切なかった。それどころか、敬意のようなものさえ滲ませていた。だが、それがむしろ恐ろしかった。
“心”を持たないものが、心を持つ者のふりをして、まったく別の尺度で言葉をかけてくるという、歪な異様さ。きゅうべぇにとって虎杖は、“対話可能な観測対象”というだけで、決して、友でも、理解者でもなかった。
「……もし、君の世界に干渉できる機会があれば」
きゅうべぇの声は、どこまでも穏やかだった。音程も抑揚もない。それゆえに不気味だった。
「“呪力”というエネルギー生成構造には高い興味がある。将来的には、それを基盤にした新たな感情エネルギー回収手段を構築できるかもしれない。その時はぜひ、協力してくれると嬉しい、虎杖悠仁」
風が、ピタリと止んだような錯覚。その一言を聞いた瞬間、虎杖の背筋を、冷たいものが這い上がった。
言葉ではない。内容でもない。“発想そのもの”が、明らかに自分たちの生きる土俵と違っていた。
その感覚は――近い。かつて、特級呪霊”真人”を前にしたときに味わった生理的な寒気。
違う形で。違う論理で。今、自分は“異質”と向き合っている。
虎杖は口を開きかけたが、言葉が出なかった。軽口など出せる空気ではない。きゅうべぇは悪意がなく、しかし、それが致命的なすれ違いとなる。
敵意があるなら、交渉できる。会話ができる。けれど、目の前にあるのは、ただ純粋に“論理的で合理的”な破壊性だった。
「………………」
虎杖は、ようやく目を逸らすように視線を落とした。まるで、そこに映る“何か”を、見続けることに耐えきれなかったように。
「もういい。……お前に何言っても、多分変わらん。よく分かった」
言葉に怒りはない。ただ、深く、冷たいところに落ちていくような重みがあった。
それは、感情の爆発ではなく——魂が凍るような、内なる寒気の表明だった。虎杖悠仁という青年が、きゅうべぇの言葉の“意味”を心の底まで飲み込み、ようやく辿り着いた結論。
まどかでも、さやかでもなく、自分の言葉で告げるべき、ひとつの線引き。もう、これ以上は分かり合えないだろう。
そう悟った人間の目が、きゅうべぇを静かに見下ろしていた。
——夕陽は、ほとんど落ちかけていた。空の端にはまだ朱が残り、屋上のフェンスが長く黒い影を落としていた。その影の中で、虎杖はきゅうべぇに背を向けた。
「行こう。さやか。暁美さん」
それ以上、彼は振り返らなかった。背に吹きつける風だけが、まるで一線を越えたことを告げているかのように、冷たく肌を撫でていた。