祈りの名を、いつか呪いが覆うとしても   作:名もなきうちは

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長くなった。推敲不足かも。
ゴールデンウィーク明けから休みが2日しかなくて遅れました。


誰かと、生きていくために

———虎杖悠仁ときゅうべぇの接触から数日後の放課後。

 

 マミはマンションに帰ってきていた。彼女はカップを両手で包んだまま、温もりの残る紅茶をただじっと見つめていた。琥珀色の液面が、寝室の小さなランプの灯りを淡く揺らす。

 

 既に肩の傷は癒えていた。大きな傷跡や後遺症が残らなかったのは魔法少女故だろう。それだけが不幸中の幸いと言えた。

 

 静寂。壁の時計の針だけが、規則正しく音を刻んでいた。心の奥に、微かな波紋が広がっていた。

 

 魔法少女の使命に準じるならば、発たねばならない頃だというのに。

 

 ———家の戸口に立つたび、足が竦む。

 

 治るほどに、また戦わなければならなくなる気がして、気が重くなる。

 

 マミは既に不必要になった包帯を眺めていた。

 

 ふと、脳裏に過る追憶。それは、血、傷、事故、サイレンの音。

 

 つい連想してしまう。

 

——魔法少女になる切っ掛けになった、かつての願いを。

 

 “あの時、なぜ——私は、家族ではなく、生きたいとだけ願ったのだろう?”

 

 何度も、何百回も、繰り返し己に問いかけてきた言葉。答えは出ない。出せない。

 

 交通事故。歪んだ鉄骨、焦げた匂い、聞こえなかった声。手を伸ばせば届いた気がした。けれど——。

 

 気づけば、ただ一人生き残っていた。

 

 “助かりたい”と願った。咄嗟だった。本能だった。

 

 だが、それこそが、罪だった。

 

 自分の命を願った代償に、両親を喪った。あのとき、どうして“みんなを”と願わなかったのか。どうして、きゅうべぇは——。

 

 今も胸の奥で、何かが燻ったままだ。

 

 だからこそ、マミは“理想の魔法少女”でなければならなかった。

 

 誰かを救い続けなければ、生き残った意味がなくなってしまう。犠牲にしたものを、取り戻せるわけではない。だが、せめて——少しでも。

 

 それなのに。

 

 あの時、“お菓子の魔女”の前で、崩れかけた。

 

 ——笑顔を保てなかった。泣き叫ぶように悲鳴を上げた。後輩を助けられなかった。力を振り絞れなかった。

 

「……私は、魔法少女失格ね」

 

 誰もいない部屋で、かすかに漏れた声。紅茶はすっかり冷めていた。カップの中の光が揺らめきを失くしていることにも、気づけなかった。

 

 魔法少女の資格——ソウルジェムを握る手が、震えた。

 

 それは風のせいではない。冷えた夜気でもない。白い指先に染みついた“記憶”が、勝手にそうさせていた。

 

 あの時、目の前に広がったのは、“死”だった。

 

 見知った街の中で、誰にも知られず、誰にも気づかれずに——ただ、自分だけが消えていく感覚。

 

 助けて、と思った。声にならないほど弱々しく。

 

 理想を掲げてきたはずの自分が、魔法少女としての死にすら意味を与えられなかった。それが、何より怖かった。

 

「こんな、つもりじゃ……なかったのに」

 

 力が足りなかったのでもない。覚悟が足りなかったのでもない。

 

 ——ただ、“一人だった”のだ。

 

 あの時、美樹さやかが泣いてくれた。虎杖悠仁が助けに来てくれた。暁美ほむらが治療を施してくれた。

 

 本来ならば———背を預ける誰かもなく。名を呼んでくれる誰かもいない。

 

 それが、こんなにも恐ろしいことだったなんて——。

 

 マミは、静まり返った部屋の中で、自分の両手の内にあるソウルジェムを見つめていた。いつもは神々しく輝く黄金の宝石が、燻んでいるようにも見える。同時に、脳裏に蘇る記憶が胸の奥を騒めかせる。

 

「……死ぬのも、怖い」

 

 ぽつりと、独白のように言葉がこぼれる。

 

「でも……もっと怖いのは、誰にも知られず、ひっそりと消えていくこと……」

 

 その声には、誰に向けたものでもない寂しさと、言葉にして初めて気づいてしまった恐怖が滲んでいた。

 

 夕暮れの空が、薄紅に染まり始めていた。高層のビルが長い影を引き、見滝原の町はゆっくりと夜へ沈んでいく。窓の外では、通りを行き交う人々の足取りがどこか緩やかになりつつあり、街は一日の終わりを穏やかに受け入れているようだった。

 

 巴マミは、ベランダの隅に移動する。背後に置かれた椅子には腰かけず、手すりに背をもたれかけるようにして、視線だけを空へと預けていた。

 

 風が吹いていた。湿気を帯びた春先の風が髪を乱すたび、どこか現実から遠ざかるような錯覚が彼女を包んだ。

 

 部屋には誰もいない。食器も片づけられたまま。音のない静寂が、生活の気配を消し去っていた。

 

 昼のあいだ、何度も涙が滲んだ。泣いていた記憶すら曖昧になるほどに、静かに、長く泣いていた。気づけば陽は落ち、灯りを点ける気力すらないまま、時だけが過ぎていた。

 

 そんなときだった。外階段の鉄板が、軋む音を立てた。マミは気付いていた。足音の主が誰なのかも、すぐに分かった。

 

「……マミさん」

 

 優しい声が背中越しに届いた、間の抜けたような呼び方。けれども、それはどこまでも、虎杖悠仁らしかった。

 

 マミはゆっくりと顔を上げた。振り向くことはしなかった。ただ、風に吹かれながら、息をひとつ吐く。

 

 視線の先には、朱に染まる空。けれど、そこに安らぎはなかった。

 

 微笑もうとは思わなかった。そんな気力は、今のマミには残っていなかった。頬に残るわずかな腫れが、涙の痕を物語る。鏡を見る余裕もなかった。ただ、まだ目元に熱が残っていることだけは、自分でも分かっていた。

 

 その姿に、虎杖悠仁が気づいたかどうかは分からない。けれども、彼は余計な言葉をかけなかった。

 

 マミは思う。——この沈黙すらも、ありがたいのだと。

 

 虎杖は視線を上げていた。下から風が吹き上げ、パーカーの裾が揺れる。彼が言葉を選ぶように、一歩踏み出した。

 

「……マミさん、さ」

 

 その声が風に乗って届く。マミはわずかに目を伏せた。

 

「……虎杖さん、何かしら?」

 

 この数日、彼の姿に何度も助けられた。死にかけたあの日。意識が朧ろでも、確かに感じていた——自分を魔女の手から引き離してくれた、あの腕の力強さ。

 

 傷が癒えるまでのあいだ、彼は何も言わず、ただ傍にいてくれた。責めることも、詮索することもせず、沈黙の中でその優しさを示してくれた。どれほど、それに救われたか分からない。

 

 だからこそ——どこかで、期待してしまっていたのだ。きっと今日も、そうだと。優しい言葉をくれるのだと。

 

 けれど、次の一言は違った。

 

「今日……一緒に、魔女の結界を回ってみないか?」

 

 心臓が、強く脈打った。思い出したくなかった。だが、今日は——一緒に街を巡回しようと、約束していた期日だ。それは慰めの言葉ではなかった。背を撫でるような優しさでもない。その誘いは、まっすぐに“戦場”を指し示していた。

 

 否応なく、現実に引き戻された感覚。息を呑んだマミは、何も言葉を返せなかった。

 

 失望ではない。これは自身の逃避だ。優しさのベクトルを、都合よく曲解した。自分が、何もない日常を期待してしまっていた。それに気付いてしまったことが、何より堪えた。

 

 虎杖は、それ以上何も言わなかった。じっと、マミの表情を見つめる。強いて何かを押しつけるような目ではなかった。ただ、考えてほしい。その一心だけを宿した静かな眼差しだった。

 

「……すぐにじゃなくていい。マミさんが、自分で決めてくれたら、それでいいと思ってる」

 

「……」

 

 マミはまだ返答に詰まっていた。

 

 虎杖はそんなマミの様子に気付いたのか、手すりから身体を起こし、踵を返した。去り際に、ふとだけ振り返る。

 

「……俺は俺で、やれることやっとく。グリーフシードも……ポストに入れとくから」

 

 それだけを告げて、虎杖悠仁は階段を下りていった。足音は軽やかだったが、どこか寂しげな余韻を残していた。

 

 マミは立ち尽くしていた。風が、彼の去った後を通り過ぎていく。誰もいないベランダ。夕空は、赤から鈍い灰色に変わりつつあった。

 

 足が、前に出なかった。呼び止める言葉も、喉まで上がってこなかった。胸の奥で、何かがじりじりと痛んでいた。

 

(ダメね……こんなはずじゃなかったのに……)

 

 意識して、足を後ずさった。一歩、また一歩。鉄の手すりに背を預け、壁に肩を押し付ける。

 

 このままではいけないと、分かっている。だけど、あの戦場に戻るには、まだ気持ちが追いつかない。

 

 マミは、静かに目を閉じた。

 

 (ごめんなさい……虎杖さん)

 

 その唇は、声を持たぬ謝罪をかすかに紡いでいた。

 

 

 

——

 

 

 

 

 志筑仁美の退院、そして病院屋上でのきゅうべぇと接触から幾日が過ぎた。街は変わらず穏やかに見えた。仮初めの平穏——表面だけを撫でるような、薄く脆い安定。

 

 だが、ほむらは知っている。この地の奥に潜む、静かな異常の存在を。その歪みは、刻一刻と拡大している。手遅れになる前に、打たねばならない手がある。

 

 そしてその夜。ほむらは、確信していた。今が語るべき、その時だと。

 

 見滝原の夜は深い眠りに落ちていた。通りに人影はなく、街灯がただ淡く舗道を照らしている。その灯りの届かぬ場所を選び、彼女は歩を進めていた。迷いも焦燥も、すでに振り払っていた。

 

 目指す人物は、予定通りの場所にいた。——虎杖悠仁。彼は、常に動いている。魔女とその使い魔を追い、傷を癒やす暇すら与えずに。

 

 その背が、ふと止まった。気づかれたことに動揺はなかった。ただ、彼が放った声が静かに響く。

 

「……なあ、暁美さん。黙って後ろついて来るの、結構怖ぇからやめてくんないかな?」

 

 軽い調子の言葉。だが、それが探りであり、受け入れの構えでもあることに、ほむらは気づいていた。

 

 彼女は灯りの下に進み出た。制服の裾が風に揺れ、長い髪が夜気に流れる。顔に感情は宿さない。けれど、その奥にある“決意”を、虎杖には見抜かれていたのだろう。

 

 足を止める。視線を逸らすことなく、彼女は短く告げた。

 

「話があるわ」

 

 その一言が、夜の静けさを裂いた。

 選んだのは、問いではなく、命令でもない——“共闘”の始まりを告げる扉の言葉だった。

 

 その声に、虎杖は横を向いた。

 

「……何?」

 

 少し軽い口調で返す虎杖に、ほむらは一拍の間を置いてから言った。

 

「———ワルプルギスの夜。その打倒に協力して欲しい」

 

 そう言ったほむらの声に、虎杖の眉が僅かに動いた。

 

「……ワルプルギスの……夜? それって魔女の名前か?」

 

 虎杖が問いかけると、ほむらは静かに頷いた。その名は、彼にとって未知の語だった。だが——意味のない固有名詞ではないことを彼は察する。

 

「……ただの“魔女”じゃねぇんだな。……名前を付けられちまうぐらい厄介な魔女ってことか」

 

 虎杖の声に軽さはなかった。経験からくる直感が、すでにその重みを理解し始めている。

 

「ええ。その通りよ」

 

 ほむらはわずかに目を伏せる。そして、再び静かに顔を上げた。

 

「あれは災害。——それも、都市を丸ごと消し飛ばすような」

 

 語尾が、風に溶けた。その口調に誇張はない。だからこそ、嘘のつけない“現実”が、余計に冷たく響いた。

 

 虎杖は頷いた。深く、重く。 

 

「で、そいつと戦うための“同盟”の誘いってことか」

 

「ええ。今のところ、私と——“佐倉杏子”が手を組んでいる」

 

 その名が口にされた瞬間、虎杖の瞳がわずかに揺れた。

 

「杏子と……ほむらって、やっぱ仲間だったんだな」

 

 どこか意外そうに、けれど納得するように呟いた虎杖に、ほむらは頷きもせず、ただ視線を伏せた。言葉を継ぐまでに、一拍の間が空いた。

 

「必要だったのよ、彼女の力が。あの子は現実主義者で、理想に流されない。だからこそ——信頼できる」

 

 それだけを、静かに言い切った。

 

 短い沈黙が落ちる。街灯の灯りが二人の間に揺れ、その影を長く引き伸ばす。

 

「それだけでは戦力が足りない。……だから、あなたにも正式に加わってほしい」

 

 虎杖は口元に手を当てて考える仕草を取る。数秒の沈黙のあと、彼は小さく笑って答えた。

 

「もちろん、いいよ。……見滝原の街がやばいってんなら、やらなきゃな」

 

 ほむらの瞳がわずかに揺れた。だが、彼女はすぐに言葉を返す。

 

「……感謝するわ」

 

 虎杖はふと、視線を横に逸らして言った。

 

「あと、俺は……一緒に動いてるマミさんのことも、同盟に誘うつもりだ」

 

 その言葉を口にする前、虎杖はほんの僅かに唇を噛んだ。横に逸らした視線の先には何もない。ただ空虚な舗道の先に、彼自身の答えを探すように目を伏せているだけだった。

 

 ——悩んでいた。葛藤していた。

 

 暁美ほむらは、その気配を敏感に察知する。彼は感情を乱す者ではない。軽やかな言葉の裏に、幾重にも言葉にならない思いを飲み込んでしまう、そういう青年だと彼女は理解していた。

 

 だからこそ、今、その一言を告げるまでに、どれほどの逡巡があったのか。ほむらには痛いほど分かった。

 

(——迷っていたのね、虎杖悠仁)

 

 否。彼は迷った末に、なお踏み込んだ。危うさを知ったうえで、なお、巴マミを選ぼうとしている。誰もが切り捨てを選ぶ局面で、それでも手を伸ばそうとする意志。

 

 ——愚か。でも、尊い。

 

 ほむらはわずかに目を伏せる。自分にはできなかった選択。幾度もの時を越えてもなお手に取れなかった、それを彼は迷いながらも選んだ。

 

 その姿が、どこか眩しかった。だからこそ、次に放つ言葉は、彼女にとっても重かった。

 

「———それは、無理よ」

 

「……」

 

 虎杖は沈黙する。

 

「巴マミは……今回の戦いには加えられない。魔女との戦闘で大怪我を負った彼女は、今は“心が折れている”。あの人は”強がっている”だけ」

 

 静かに、しかし断固とした口調でそう告げたほむらの声は、淡々としていながらも、どこか自らに言い聞かせるような響きを帯びていた。

 

 虎杖は未だに黙って聞いていた。反論するだけの材料がないのではない。ただ、その言葉の背後にある“事情”を、彼もまた痛いほど理解してしまったからだ。

 

 一瞬、夜風が足元を抜けた。言葉を置き去りにしたまま、路地を撫でる風。誰かを切り捨てるように響いたその判断に、乾いた静けさが重く降りる。

 

「並の魔女ならともかく、ワルプルギスの夜となれば、巴マミは足手纏いになりかねない」

 

 虎杖は小さく息を吐くと、無意識に頭を掻いた。言葉を探すような仕草。けれど、その沈黙はやがて、確かな意志へと変わっていく

 

「……俺さ、魔法少女みたいに空飛べねぇし、魔法も使えねぇし、遠距離攻撃も得意じゃねぇ」

 

「……?」

 

「だからさ。マミさんの援護があったから、今まで上手くいってた。俺だけじゃ苦戦するような場面、何度かあったよ」

 

 虎杖の声は静かだったが、真剣だった。

 

「正直言って、そんなヤバい魔女に挑むってんなら……マミさんの“力”は、絶対に必要なんじゃねぇの? あの人の戦い方、センス、尋常じゃねぇ。天才っていうのかな……」

 

 ほむらはひとつ、静かに息を吐く。その吐息には、未練も迷いも含ませなかった。

 

「……”魔法少女の真実”を知らない彼女は、計算できない不安材料になる。……きゅうべぇの妨害も視野に入れての判断よ」

 

 虎杖は即座には応じなかった。反論ではなく、咀嚼するように口を閉ざす。自身の中で、その言葉が簡単に切り捨てられるものではないことを、彼はよく理解している。

 

 ほむらはさらに言葉を重ねる。声音は抑制され、感情を排した響きに徹していた。

 

「それに貴方自身、彼女が弱っていると見て、“魔女化”の情報を伏せたでしょう」

 

 言葉によって、虎杖は目を見開いた。微かな揺らぎだった。それは当然の反応だった。きゅうべぇの目的は最終的に魔法少女を魔女へ転じさせること。場合によっては、最悪のタイミングで”事実”を話す可能性すら考慮しなければならない。

 

「———貴方も分かっているはずよ。巴マミという存在が抱えている、“脆さ”を」

 

 両者の間に、言葉を許さぬ沈黙が落ちた。空気は重く、冷えた夜気にさえ圧を与えるように淀んでいる。

 

 路地裏を照らす街灯が、静かに明滅している。湿気を帯びた夜風が、二人の皮膚の上をじっとりと這うように通り過ぎた。

 

 やがて、ほむらが微かに息を吐き、——その重さを振り払うように、口を開いた。

 

「彼女は一見すれば理想の魔法少女に見えるわ。見知らぬ誰かのために魔女を倒し続ける献身。あれは確かに、称賛に値する行為」

 

 ほんの僅か、言葉が途切れる。しかし、それだけで済む話ではなかった。

 

「でも、それは———自己犠牲の果てに構築された、破滅的な生き方でもある」

 

 車両のヘッドライトが、路地裏を掠めるように差し込む。ひと時の光が影を引き伸ばし、瞬く間に闇へと溶けて消える。

 

 虎杖は、しばらく俯いたまま何も言わなかった。だが、やがて、絞り出すような声で静かに返した。

 

「……なら、なおさら、マミさんを放っておけないだろ」

 

 ほむらの肩が、わずかに揺れる。視線が足元に降りた。

 

「……あの人は、強いわ。誰よりも。けれど同時に極めて繊細」

 

 それは事実だった。過剰でも、過小でもない、ただ冷静な分析。続く言葉に、わずかに呼吸が落ちる

 

 虎杖は一瞬、息を呑む。

 

 ほむらは構わずに淡々と続ける。

 

「一本の細いワイヤーのような人。張り詰めていれば美しく、正確に力を発揮する。でも……もしもその糸が切れれば——」

 

 ほむらの顔が上がる。短く息を継ぎ、虎杖の瞳を深く覗く。

 

「その断裂は、周囲すら巻き込んで切り裂く。自分だけじゃ済まない。……そういう危うさを抱えた人よ、巴マミは」

 

 ほむらは一歩、静かに前へ踏み出した。そして、迷いのない声で——告げる。

 

「……下手すれば、貴方も巻き込まれるわ」

 

 それは、責めでも拒絶でもない。ただ、事実として理解しておくべき“性質”。暁美ほむらにとって、感情では判断できない領域での信頼と危機管理が、常に並び立っていた。

 

「……よく、マミさんのこと知ってんだな、暁美さんは」

 

 虎杖は頑く頷くと、漠然と頭上の街灯を眺める。

 

「でも、この“ワルプルギスの夜”ってやつ……生半可な戦力じゃ街も、誰も守れないんじゃねぇか? ……マミさんの“あの広域の制圧力”、特に使い魔を相手にする時に、あれほど心強いもんはないよ」

 

 ほむらの視線が、虎杖に向けられた。無表情を崩すことはない。けれど、その胸の奥に動揺が奔る。

 

 ——予想よりも、冷静で現実的な言葉だった。

 

 理想を振りかざすばかりの青年ではない。その事実が、ほんの一瞬、彼女の思考を止めさせた。

 

「……虎杖悠仁。貴方、意外と現実的ね。てっきり、マミを戦線から遠ざけると思っていた」

 

 遠方を覗くように虎杖の瞳孔が開く。自身の伸びた影を眺める姿には昏い翳りがあった。

 

「多分……マミさんみたいな人ほど、休んでる時の方が、余計なこと考えちまうんじゃねぇかなって。……俺にもそういう経験、心当たりがあるんだ」

 

 虎杖はふと思いを馳せるように語る。苦虫を噛み潰すような表情には苦渋が滲む。

 

 虎杖はそれでも、静かに言った。

 

「それに、魔法少女が……グリーフシードを回収出来なくなりゃ、今後支障が出る」

 

 どうしようもない酷薄な現実。虎杖悠仁は、現状を踏まえて、未来も見ている。

 

 ほむらは僅かに目を伏せる。

 

「立ち直るのは、早ければ早い方がいい。……大丈夫」

 

 その声に、強がりも押しつけもなかった。ただ、自然に出た一言。

 

「———辛いとき、傍にいるのが“仲間”だろ?」

 

 軽く放たれた一言に、虚勢はなかった。虎杖はどこか飄々とした態度だったが、その奥に潜む確かな信念を、ほむらは看過しなかった。

 

 それに、彼はごく僅かに笑っていた。

 

 ———心配ない。

 

 そう、信頼を伝えるための仕草と行為だった。

 

 ほむらは応じない。口を開かず、表情も変えない。ただ、じっと虎杖を見つめ続ける。

 

 そして——まぶたが、わずかに伏せられる。

 

 それは、肯定でも否定でもなかった。だが、そこには確かに“拒絶”の意志もなかった。長い沈黙が落ちた後、ほむらはようやく、ぽつりと呟いた。

 

「……無駄足にならないといいわね」

 

 その声は、冷たくはなかった。ただ、ほんの少しだけ——期待を滲ませた、諦めきれない者の響きを帯びていた。けれど、心の奥に灯るわずかな希望の陰には、確かな懸念が横たわっていた。

 

 虎杖がマミを巻き込めば、必然的にもう一人の魔法少女も少なからず影響を受ける。

 

 ——佐倉杏子。風見野に拠点を置く、才能溢れる魔法少女。

 

 詳しい経緯をほむらは知らない。だが、二人がかつて師弟のような関係にあったことは把握している。杏子がまだ信仰と家族の狭間で揺れていた頃、マミは間違いなく彼女にとって”模範”だった。だが、信じていたものを喪い、家族を失った杏子は、その痛みを抱えたまま、マミと決別し、一人で戦い続けてきた。

 

 長い沈黙のあと、ほむらはようやく口を開いた。

 

「……それに、もう一つ言っておくわ」

 

 言葉を選ぶようにして、彼女は視線を路面に落としたまま続ける。

 

「巴マミと佐倉杏子。あの二人には、因縁がある。詳しい事情までは知らないけれど……かつて、マミは杏子にとって“師”だったと聞いている」

 

 虎杖の眉がわずかに動いた。だが、口を挟むことはなかった。ほむらはそれを確認するように一拍置き、再び言葉を紡いだ。

 

「杏子の家族が……宗教絡みのことで無理心中したのが切っ掛け。絶望の中で、杏子はマミと決別した」

 

 声には感情がなかった。ただ事実だけを淡々と述べていた。だが、その裏には、ほむら自身の警戒と慎重さが滲んでいた。

 

「今は敵対しているわけじゃない。でも、和解したわけでもない。必要以上に顔を合わせれば、互いに余計な波風が立ちかねない」

 

 そして、間を置いたあと——。

 

「普段ならともかく、今のマミにとって、杏子との接触は……あまりに大きな負荷になり得る。最悪の場合、マミの不安定さが杏子にも波及する。逆もまた然り。彼女たちは、強さの裏に、脆さを抱えている」

 

 その眼差しが、淡く路面の灯りに照らされる。

 

「問題はまだある。……杏子もまた、“魔法少女の真実”を知らない。きゅうべぇの本性も、ソウルジェムの行き着く先も。今のまま無理に戦線に引きずり込めば、どこかで破綻するわ」

 

 冷静な語調だった。けれど、その声の奥底には、かつて幾度も“破綻”を目にしてきた者だけが知る、重い予感が確かに宿っていた。

 

 ほむらの言葉は、決して激情ではなかった。だがその静けさの底には、何層にも重なった“諦念”が滲んでいた。

 

 虎杖は沈黙したまま、わずかに空を見上げた。見滝原の夜空は雲に覆われ、星ひとつ見えない。それでも、彼の目はどこかを捉えようとするように、じっと遠くを見据えていた。

 

「……それでも」

 

 小さく、けれど芯のある声で言葉が落ちる。

 

「もし、誰かが誰かのせいで崩れるってんなら——その時は、俺が支える」

 

 その口調は軽い。だが、軽薄ではない。虎杖悠仁の言葉には、戦場を知る者だけが持つ、奇妙な重みが宿っていた。

 

「杏子とも少し……喧嘩してさ。めちゃくちゃ強かったんだ」

 

 その回想に、ほむらは微かに眉を動かす。佐倉杏子という魔法少女は、口は悪く、手も早い。けれど、芯の強さと正しさを持つ者でもある。虎杖の言葉の裏には、彼女と真正面からぶつかり合った痕跡が確かにあった。

 

「マミさんも……弱くない。たぶん、暁美さんの言ったように誰よりも強い」

 

 ——それは、ほむら自身もかつて認めた強さだった。ただの技量ではない。信念。覚悟。献身。人のために戦う意志。そのすべてが、巴マミという少女を理想の魔法少女たらしめていた。

 

「理由がなんであれ、人の為に戦おうとするあの人はすげぇよ。……それも一人で」

 

 その言葉に、わずかに息が詰まる。ほむらの記憶の奥底に、過去の時間がよぎった。何度も繰り返された終末の記憶。彼女は、確かに見てきた。強い者が、脆く崩れる瞬間を。

 

「でも、強い人間だって、一人じゃいつかは崩れる。……弱った時はさ、誰かが背中を支えてやらなきゃダメなんだ」

 

 その一言に、ほむらの目が微かに揺れる。それは、まさに彼女自身がずっと言えずにきたこと。

 

 仲間とは、何か。絆とは、何か。自分一人で背負うには重すぎた問いに、虎杖悠仁は、あまりにあっさりと手を差し伸べてきた。

 

 彼は、ふと微笑んだ。それは、誰かを慰めるための笑顔ではない。

 

 他人に縋るためではなく、誰かと共に立ち上がるための微笑だった。

 

「それに、暁美さんだって一人じゃ無理だって分かってる。だから———ここで協力を頼んできたんだろ?」

 

 虎杖の言葉は、まるで夜の静寂に沈むように落ちていった。どれも大きな声ではない。語気も強くない。けれど、その一つひとつが確かに“届く”ものだった。

 

 まっすぐすぎて、不器用なくらいに真剣なその視線。誰かを責めるわけでもなく、誰かの為に背負おうとする——そんな眼差し。

 

 ほむらは、返す言葉をすぐには選ばなかった。ただ、虎杖を見つめる。

 

 ——どこまでも愚直で、どこまでも優しい。

 

 そんな生き方が、いつか”壊れる”ことを彼女は知っている。けれどそれでも、この青年のような“在り方”にこそ、誰かが救われてしまうこともまた、知っていた。

 

 瞼が、わずかに伏せられる。

 

(誰かの為に死地にすら踏み込んでしまう。まどかのような……破滅的な生き方。だからこそ、危うくもある)

 

 成程、今日再び話してみて理解した。彼はやはり強い。人を惹きつけ、希望を与える。誰もが、その背に寄りかかりたくなる。無意識のうちに甘えてしまう。特に、同盟を結んでいる巴マミには劇薬となり得る。

 

 だからこそ——もし彼が折れれば。虎杖悠仁という“支柱”を喪えば、その重みに無意識に頼っていた者たちは、一斉に崩れ落ちてしまうだろう。

 

 ……だが、この男ならば。

 

 そんな懸念すら打ち払ってしまうのではないか。かつて、幾度ものループで絶望の淵に沈んでいった巴マミを、再び立ち上がらせる可能性すら感じさせる。

 

 現時点において、鹿目まどかも美樹さやかも、まだ契約には至っていない。内輪の衝突も、魔女化の危険も生じていない状況下で、虎杖の存在は、ほむらにとって極めて“管理しやすい”といえた。

 

 温厚で、純粋に善意から戦いを選ぶ彼の行動原理は明快だ。驚くほど一直線で、予測が立てやすい。そして何より——誘導が容易だった。

 

 予想通り、ワルプルギスの夜がいかに危険な存在かを示せば、彼は躊躇うことなく協力に踏み切った。それこそが、彼の本質を何よりも雄弁に物語る、確かな証左。

 

 ——今こそ、賭けに出るべき時なのかもしれない。この停滞した閉塞を破り、閉じた未来を動かすための、またとない好機。

 

 ほむらは、静かに目を伏せた。そして、吐息のように呟いた。

 

「……分かったわ。そこまで言うのなら——巴マミのこと、貴方に預ける。私はこれ以上、干渉しない」

 

 冷淡とも取れるその声音の奥には、誰にも語ることのなかった祈りが微かに潜んでいた。

 

 路地裏の街灯が、深い影を地面に落としていた。淡く差し込む光が、虎杖とほむらの影を長く引き伸ばし、やがて交わることなく、別々の方向へと消えていく。その交錯しきらぬ光と影の狭間。その距離は近づきつつも未だ遠かった。

 

 

 

 

——

 

 

 

 

 放課後の教室には、西陽が差し込んでいた。橙に染まる光が机の表面を照らし、長く影を引いている。美樹さやかは窓際の席に腰を下ろし、手の中のCDケースをじっと見つめていた。

 

「……恭介、まだ面会謝絶なんだってさ」

 

 その隣には鹿目まどかが座り、少し離れた席では志筑仁美が鞄の中身を整えていた。

 

「……あたし、やっぱり間違ってたのかな」

 

 ぽつりと漏れたさやかの声に、まどかが顔を上げる。

 

「CD渡して……喜んでくれると思ってた。でもさ、ただ恭介を傷つけちゃったんだよね……。もう、合わせる顔がないよ」

 

 さやかとまどかが恭介を喜ばせようと買ったレアなCDを掲げるさやか。本来ならば、魔法少女になり、腕を治した時にプレゼントとするはずだった。

 

 だが、”きゅうべぇの目的”や”魔法少女の真実”をほむらに明かされてから、機会は決意と共に霧散したままだった。

 

「さやかちゃん……」

 

 かける言葉を探しながらも、まどかの声は震えていた。

 

 そのとき、教室の空気を裂くように、仁美の落ち着いた声が挟まれた。

 

「……上条くんのことでしたら、私も何度かお見舞いに伺いましたわ」

 

 さやかははっと顔を上げた。

 

「え? 仁美、恭介のお見舞いに……? いつの間に?」

 

「音楽の話で少し盛り上がったことがありまして。演奏会のことや、楽団の話など。ほんの短い会話ですけれど……記憶に残っております」

 

 仁美はそう言いながら目を伏せた。まどかは、何か言いかけて、言葉を呑み込んだ。

 

 しばし沈黙が教室を包む。夕陽が机の縁に静かに染み入り、時間だけが流れていく。やがて、仁美はそっと鞄から手を引き、胸元で指を組んだ。そして一直線にさやかを見た。

 

「……ごめんなさい、さやかさん。黙っていたのは、誠に卑怯な事だったと、自覚しております」

 

 その声は淑やかながら、強い決意が込めらていた。

 

「私……上条君のことが、好きですの」

 

 さやかの指先がわずかに震えた。机に置かれたCDケースを、無意識の内に握りしめる。

 

「……貴女の気持ちを知りながら、胸に秘めたままにしておりました。でも、気付かぬふりをすることに、もう耐えられなかったのです」

 

 まどかが小さく息を呑む。仁美の声は静かに続いた。

 

「演奏を聴いたのは一度だけでしたのに……心が動かされました。怪我をされてからも、音楽の話題で少しだけ会話を重ねて……それだけのはずだったのに、気づけば、上条君のことばかり考えていて」

 

 さやかは目を伏せたまま、言葉を返せなかった。

 

「ただ……何も言わずに、二人の隣で笑い続けることが、私にはもう出来ませんでした」

 

 その瞳には、決して争う意図は感じられない。ただ、真摯にさやかを見据えていた。

 

「……選ばれないかもしれません。恋が破れることも覚悟しております。それでも、自分の気持ちにだけは、嘘をつきたくなかったのです」

 

 仁美は胸元で軽く組んでいた両手を静かに解き、膝の上に置いた。背筋を伸ばし、僅かに前かがみになって、さやかと向き合う。その佇まいは穏やかでありながらも、毅然とした決意を宿していた。

 

「それに、親友のお二人だけには、お伝えしておきたかったのです。でなければ、私はその資格すら失うと思いました」

 

 仁美は、まどかとさやかを交互に見つめる。

 

「卑怯な言い方かもしれませんわ。嫌われても致し方ないと……そう思っています。でも、私は、恋が終わったとしても……さやかさんとは友達でいたいのです」

 

 教室を照らしていた西陽が、ゆっくりと傾いていく。窓の外の空は、すでに夕暮れの色に染まっていた。

 

「急にさ、今さらそんなこと言われたって……!」

 

 さやかの声は強くはなかった。むしろ、自分自身を奮い立たせるような響きだった。

 

 ——志筑仁美。成績優秀、品行方正、容姿端麗。立ち姿一つ、所作一つで品を纏う少女。そんな“高嶺の花”が、自分と同じ人を想っている。非の打ち所がなく、親友である仁美が恋敵になる。

 

 さやかが動揺するのは必然だった。

 

「恭介のことは……大切だけど……! 別に恋人になりたいとか、そんなんじゃないし! 仁美がそんな風に思ってるなんて……全然、知らなかったし……!」

 

「さやかさん……。自分の気持ちに、どうかきちんと向き合って下さいませんか?」

 

 ただ願うように。祈るように。仁美はじっとさやかを見ていた。

 

 友人としての誠実さ。恋敵としての潔さ。そして、隠しきれない罪悪感——。その全てを背負った仁美の双眸が、さやかを射抜く。

 

「今になってしまったのは……そうですわね、遅すぎました」

 

 言葉の端々から感じ取れるのは覚悟だった。さらに仁美は続ける。

 

「私は絶望の底にいる……上条君を傍で励ましたいと思っております。だからこそ……今しかなかったのです」

 

 さやかの肩が小さく震える。まどかは二人の間に言葉を差し挟むことができず、ただ黙って隣にいた。

 

 日没の気配が濃くなり、陰りの兆しがさらに強くなる。いつもの三人なら談笑湧く放課後の教室。しかし、今はその真逆で、憂鬱な沈黙で満ちていた。

 互いの微かな揺らぎの中に、三人の距離もまた、静かに変わりつつあるように思えた。

 

 

 

———

 

 

 

 

 教室には、しんとした静寂が流れていた。仁美が稽古事で先に帰った後、しばらく誰も言葉を発さなかった。西陽は傾きを増し、窓辺に射し込んだ光は、さやかの青い髪を淡く照らしている。

 

 握りしめたCDケースが、微かに軋んだ。

 

 さやかは俯いたまま、唇を噛んでいた。まどかが隣でそっと寄り添うと、さやかはかすかに息を吸った。

 

「……あたしってホント、バカ」

 

 その言葉は自嘲というよりも、素直な実感だった。まどかが静かに顔を向ける。

 

「ずっと、恭介のことばっかり見てて……誰かが何を想ってるかなんて、考えたこともなかった。仁美だって、友達でいてくれてたのに……何も気付けなかった」

 

 まどかは、ふと顔を伏せ、わずかに目を細めた。

 

 志筑仁美は、常に柔和で礼節を崩さない少女だった。尊敬に値する優等生でありながら、その物腰の奥には、他者を傷つけまいとする思慮がいついかなる時も失われたことはない。

 

 先程もそうだったのだ。

 

 その在り方はあまりに真摯で、潔くて、清らかで——責めるどころか、心のどこかで讃えてしまいそうになる。

 

「……仁美ちゃんは、おそらく……ずっと、黙っていたんだと思う。さやかちゃんが、傷つかないように」

 

 それは断定とは程遠い曖昧な憶測。ただ、長く隣に居たからこそ導き出せる、志筑仁美の親友としての確信だった。

 

 それに、まどかの声には、仁美への悔いが混じっていた。さやかと同じく気付けなかった自分への責めでもあり、それでも今、さやかの方に寄り添いたいという意思の表れでもあった。

 

 さやかはふと、椅子から立ち上がって窓の方を見た。夕陽が校庭を越えて見える市街を赤く染めていく。

 

「……もし、あたしが“今、魔法少女”だったら、こんな気持ちで戦場にいたら……きっと、どこかでボロを出してたと思う」

 

 そう言いながら、さやかは自分の膝の上で、両手を強く握った。視線は窓の外に向けられていたが、焦点は合っていない。

 

「……マミさんや虎杖さん、それにほむらまで……あんなに命懸けで戦ってるのに」

 

 さやかは俯いた。机の影が伸びて、丸くなった背中を昏く覆っていく。

 

 黄昏の気配が教室に満ちて、生温い風がそっと吹き込んだ。湿気を帯びたその空気は、春にしては蒸し暑く、肌にじわりと纏わりつく。どこか息苦しく、落ち着かない空気が漂っていた。

 

「あたしは……こんなことで揺らいでさ。自分のことしか考えられなくなって……」

 

 唇を噛むようにして言葉を押し出すその声色には、自己嫌悪と悔しさが滲み出る。

 

 まどかが息を呑む。さやかの横顔は笑っていなかった。ただ、ただ真剣だった。

 

「心が乱れるって、きっとそういうことなんだよ。……たった一言で、ちょっとした些細なことで人って簡単にぐらつくんだなって。……あたし、今、それがよく分かった」

 

「さやかちゃん……」

 

「魔法少女になったらさ、余裕なんてない中で……それでも自分や他人を守るために戦わなきゃいけないのに……」

 

 さやかはぎゅっとスカートの裾を握りしめた。

 

「自分の気持ちがこんなに右往左往してたら……そりゃ、ダメだったんだよね……」

 

 その言葉には、契約への葛藤が垣間見えた。まどかはそんな未練を咎めるかのように、ぎゅっとさやかの袖を握る。

 

「ダメだよ……私は、さやかちゃんに魔法少女になって欲しくない」

 

 まどかの声はか細く震えていて、今にも消え入りそうだった。そんな弱々しい態度に反して、袖の縁を握る力はしっかりとしていた。

 

 まどかはさやかという”親友”を失いたくなかった。

 

———たとえ、臆病と卑怯と罵られようとも守りたい。

 

 鹿目まどかにとって、美樹さやかはそんな特別な存在だった。

 

「嫌だ……。いつかさやかちゃんが”魔女”になるなんて……そんなの、考えたくないよ……」

 

 絞り出すような声だった。まどかの目には、今にも零れそうな涙が溜まっていた。俯くようにしながらも、その視線は決して逸らさず、まっすぐにさやかを見ていた。

 

 さやかは、驚いたように目を丸くする。しかし、次の瞬間には少し困ったように、眉を下げて笑った。

 

「……まどか。あたし、まだ何も決めてないんだからさ。泣かないでよ」

 

 二人の間に、ひとつの沈黙が落ちる。

 

 さやかの表情には、笑みが浮かんでいた。しかし、それはどこか不自然なものだった。視線は正面を向いているようでいて、僅かに定まらず、口元には無理に作ったような笑窪が残る。

 

——それは、美樹さやかが、嘘をつく時の兆しだった。

 

 明確な決意ではない。けれど、何かが彼女の中で静かに傾きつつある。その僅かな変化を、まどかは敏感に察知していた。

 

 まどかは親友の揺れる心を引き留めるように、再び彼女の袖を握った。

 

 

 

———

 

 

 

 工事現場に、金属の打音が断続的に響いていた。午後の陽射しは秋の気配を帯びつつも、コンクリートと鉄骨に反射し、じんわりとした熱を辺りに残している。

 

 虎杖悠仁は、埃にまみれた作業服のまま、現場の隅でスポーツドリンクを傾けていた。身元を証明できない異邦人である彼にとって、安定した職に就くのは難しく、今の”職場も働きが良ければそれでいい”という口の悪い親方の情けで拾われたものだ。

 

「虎杖さーん!」

 

 不意に呼びかけられた声に、虎杖が振り向く。仮囲いの間から、制服姿の少女がこちらに手を振っていた。

 

「まどか……?」

 

 彼は慌ててヘルメットを脱ぎ、足早に駆け寄る。まどかはほんのり埃を避けるようにハンカチを口元にあてながら、控えめに笑った。そろそろ、バイト上がりの時間を見計らってきたのだろう。

 

「急にごめんなさい。でも……ちょっとだけ、話したいことがあって」

 

 虎杖はまどかの硬い表情に、何か深刻なものを感じ取った。共に働いていた親方も可愛らしい女生徒のただならぬ様子を見て、すぐに虎杖に仕事を切り上げるようにしてくれた。 

 

 現場近くの広場。その近くの休憩スペースのベンチに二人は座る。

 

「さやかちゃんはまだ悩んでるんです……」

 

 まどかのその声には、どうしようもない無力感が滲んでいた。美樹さやかがいまだに魔法少女としての契約に心を残していることは、虎杖にも分かっていた。

 

 もし、この場に乙骨憂太や家入硝子がいれば——。”呪術規定”に縛られないこの世界に限って言えば、他者の治療———『反転術式のアウトプット』によって、上条恭介の治癒は現実的だったかもしれない。

 

 だが、彼らはここにはいない。次元の壁を越える術もなく、救援は期待できなかった。

 

 今の自分に出来るのは、せいぜいさやかが安易に契約へと踏み出さないよう、慎重に立ち回ることだけ。直接的な助け舟を出せない以上、彼女の選択に干渉するのは、虎杖にとってもどこか筋違いのように思えた。

 

 それでも——願わくば。

 

 彼女には契約してほしくない。そう結論づけている自分がいることも、虎杖は自覚していた。

 

 暁美ほむらからは、魔法少女という存在の行く末を聞いている。大半は短命に終わり、長く生き延びた例はほとんど存在しないという。彼女たちは年齢的な限界はなくとも、グリーフシードという希少資源の確保に絶えず迫られ、組織化も困難で、孤立したまま戦いを続けるしかない。

 

 加えて、“魔女化”という致命的なリスク——。あまりにも苛烈な代償が、魔法少女という生き方には付きまとっていた。

 

「———大人の魔法少女なんて、見たことがないわ」

 

 ほむらのその言葉が、今も虎杖の胸に残っていた。魔法少女の運命は、呪術師のそれ以上に過酷かもしれないのだ。

 

 そしてもし、さやかが“誰かを助けたい”という純粋な願いのまま、マミや恭介のために契約を選べば——その先に待つのは、地獄に他ならない。

 

 虎杖は、自らの掌を静かに見つめた。その手をゆっくりと握りしめ、かすかに歯を食いしばる。

 

(……俺に、反転術式さえ使いこなせれば——)

 

 虎杖悠仁もまた、上条恭介の現状を見て、その技術を得ようと試み続けていた。だが現実は非情だった。兆しすら掴めず、道のりはあまりにも遠い。

 

 その術は、特異な才能を持つ一握りの術師しか到達できぬ領域なのだ。あの凄まじい反転術式の精度を持つ五条悟ですら修得できず、東堂葵にしても習得を断念したとされる、選ばれし者の術式。

 

 今の虎杖には、あまりにも難解すぎる技だった。——それでも、彼は諦めるつもりはなかった。

 

 虎杖は、掌を握り締めて、言葉にしなかった想いを胸の奥に沈めた。その沈黙を、まどかの声が静かに破った。

 

「……あと一番怖いのは……マミさんとも、連絡が取れないの」

 

 涕泣しながらの、まどかの告白。その声色には、ただ心配しているというだけではない。自分には何も出来ないという痛み。誰かを想いながら、手を差し伸べることすらできずにいる焦燥。目を伏せるまどかの下瞼に、雫が満ちる。

 

 その手に握られたスマートフォンは小さく震えていた。マミ宛の発信履歴が無情にも並ぶ。

 

 虎杖はその様子に気づいていた。そして、それ以上まどかに言葉を重ねさせることなく、ゆっくりと片手を差し出す。

 

「まどか、嫌じゃなきゃ……スマホ貸してくれねぇかな?」

 

 短い一言だったが、その響きには確かな意志がこもっていた。

 

 まどかははっと顔を上げる。だが、虎杖はそれには応えず、ただごく自然にスマートフォンを受け取り、手にした画面を見つめた。

 

「……大丈夫」

 

 その言葉には、無理に安心させようとするような誇張もなければ、軽薄な慰めでもない。まどかは、かすかに目を見開き——そして、ほんのわずかに、胸の緊張を解いたように息を吐く。

 

「ちゃんと話してみるよ。戦いとか、そういうの抜きにして」

 

 まどかはその言葉に少しだけ安堵の笑みを見せ、深く頷いた。

 

 夕日が鉄骨の影を長く伸ばし、工事現場の喧騒が少しずつ沈んでいく中、虎杖はまどかのスマートフォンを握り直す。

 

 ただ、誰かの心に寄り添い、手を差し伸べたい。

 

 ——その静かな願いだけが、言葉なくしても、二人の意思を確かに繋いでいた。

 

 

 

 

———

 

 

 

 

 ベランダに春風が吹き込んでいた。暖かな陽光が遠くのビル郡を照らし、見滝原の街を包んでいた。巴マミは手すりにもたれ、ぼんやりと空を見上げていた。穏やかな景色を眺めていても、心はどこか遠くにあった。

 

 テーブルに置いてあるスマートフォンの画面には、鹿目まどかからの着信履歴がいくつも並んでいた。最初のうちは、気力を振り絞って応答していた。けれど、傷が癒えるにつれて、次第に———その手は、電話を取ることすら出来なくなっていた。昨日はついに一度もスマートフォンを触ることもしなかった。

 

 玄関先。チャイムの音が一度、短く響いた。しばらくの沈黙——やがて、扉越しにかすかな気配が伝わってくる。

 

「……どなた、ですか」

 

「……マミさん。ごめん。急に悪いんだけど」

 

 インターフォンの画面が表示された。その瞬間、巴マミの肩がわずかに震える。画面に映っていたのは、虎杖悠仁——気さくな笑みを浮かべ、気取らない様子で立っている。

 

「今日さ、ちょっと時間ある? まどかに電話、貸してもらったんだけど……昨日から出てないから、心配になって」

 

 その声は明快だった。しかし、マミの胸中を巡ったのは、大きな罪悪感だった。

 

 ——自分が応じなかったことで、わざわざ彼に手間をかけさせてしまった。迷惑をかけていると理解しながら、身体が動かなかった。この数日の沈黙を、彼がどう受け止めていたかと思うと、浮き足だってしまう。

 

 唇が、震えるように動く。

 

「……魔女なの?」

 

 問うた声には、緊張が滲んでいた。虎杖はすぐに首を横に振った。

 

「戦いとかじゃないって。今日は、ただマミさんと話したくて来たんだ」

 

 その言葉に、マミは思わず呼吸を止めた。

 

「それに……スマホの事なんだけど、マミさん、前に契約のこと言ってくれたろ? 嫌じゃなきゃ、そろそろ一緒に行こうかなって」

 

 マミの目が、微かに見開かれる。思いがけない申し出に、一瞬だけ言葉を失う。

 

 魔女に敗北した事。杏子との再会。大怪我による入院。色々な事があったせいで、おざなりになっていた虎杖との約束。既に書類の準備は進めてあったがそれ以降は手付かずだった。

 

「……でも、今の私なんかがそんな、出かけていいのかしら」

 

 そう呟いたマミの声は、どこか沈んでいた。嫌悪でも拒絶でもない——自信を失った者だけが持つ、微かな懺悔と後ろめたさ。虎杖はそれを否定するでもなく、ただ自然と受け入れた。

 

「いいと思うよ。てか、行こう! 俺、スマホないと正直めっちゃ困るし!」

 

 その言葉には、飾り気も押し付けすらない。ただ、友を誘うような気軽さと温かさだけがあった。

 

 マミは目を伏せて、しばらく黙っていた。けれど——その沈黙の中で、ほんの少しだけ肩の力が抜けていくのが、自分でも分かった。

 

「……じゃあ、少しだけ。着替えてくるわ」

 

 マミの今にも消え入りそうな小さな声。それは、たとえ微かでも前に踏み出そうとする意志の現れだった。

 

 虎杖は笑って頷いた。

 

「オッケー。玄関で待ってるから」

 

 ゆっくりとベランダを離れるマミの足取りは未だ重い。昼白色の光が、その小さくなった背中を照らしていた。

 

 

 

——

 

 

 

 見滝原駅前の商業ビルは、平日の昼下がりにも関わらず人で賑わっていた。吹き抜けの構造が光を集め、開放的な雰囲気を演出している。虎杖悠仁は、エスカレーターを登りながら振り返り、少し後ろに居るマミを見た。

 

「大丈夫? 人多いから、ちょっと疲れるかもだけど」

 

 声はあくまで自然だった。気遣いではあるが、過剰な遠慮は見せない。だからこそ、マミにとっては気詰まりにならない心地よさがあった。

 

「ええ……大丈夫」

 

 マミは小さく頷く。少しだけ俯いた顔には、まだ緊張の影が残っている。けれど、それでもこうして人の多い場所に出てこられたのは、ひとえに彼の言葉に背を押されたからだった。

 

「よかった。……ってか、正直ちょっとホッとした。今日の誘い、やっぱ無理だったかなって、玄関で少し思ったし」

 

 虎杖は苦笑まじりにそう言うと、エスカレーターを降りて振り返る。軽く言いながらも、相手の様子をしっかり見ているその姿勢が、どこか安心を誘う。

 

 マミは小さく首を振り、俯いたまま囁くように返す。

 

「……私のほうこそ。来てくれて、ありがとう。……ちゃんと顔を見て、そう言いたかったの」

 

 虎杖は言葉を返さず、けれど短く頷いた。その仕草だけで、気持ちは十分に伝わっていた。

 

 マミにあわせて、虎杖も歩調を揃える。二人はフロアを横切り、スマートフォン契約の為にテナントを訪れる。彼らはカウンターの前へと歩を進めた。白を基調をとした光沢のある床に、並んで伸びる長机は近未来的な調和を感じさせるような一角となっていた。

 

 契約の話が進み、スタッフが席を外すと、店内の喧騒がふと遠のいたように感じられる。

 

 そして、カウンターに残されたのは一機のスマートフォン。

 

「虎杖さんの選んだ機種、赤と黒だから、なんだか初めて会った時の虎杖さんらしいわ」

 

「あー。そういや”呪術高専の制服”だったもんね、俺。ボロボロになっちゃったからもう着られないけど」

 

 隣に立つマミは、何気ない会話にわずかに表情を緩めた。だがその瞳の奥には、まだどこか微かな影が残っている。手続きを進める間、遠縁の親戚に連絡を取り、何度も自分の名前を署名しながら、一度だけふと手を止めた。その仕草を、虎杖は見逃さなかった。

 

「……ん? マミさん……どうかした?」

 

 虎杖が首を傾げる。気取らない口調だった。しかし、視線は真剣そのものだった。彼の中で、誰かの小さな異変を見逃すことは、もうできない癖のようなものになっていた。

 

「……本当はね、こういう手続き、私がやるのって、ちょっとおかしいのかも」

 

 ぽつりと、マミが呟いた。

 

 隣のカウンター席では、小さな子供と共に来店した夫婦が、スタッフに微笑みながら手続きを進めていた。母親が手を添え、父親が優しく笑う。その和やかな空気が、ほんのわずかにマミの視線を引く。

 

 マミは瞼を閉じて、言葉を継ぐ。

 

「親の付き添いとか……もう、お願いできる人がいないから」

 

 マミは自身の言葉に、戸惑っているようだった。声には力がなく、先程まで浮かべていた凛とした微笑も失せていた。

 

 虎杖は、そっと彼女の横顔を見つめた。

 

「……そっか」

 

 それ以上、問い返すことはなかった。虎杖はこの事実をすでに知っていた。けれど、本人の口から直接語られたのはこれが初めてだった。

 

「変よね。こんなこと……急に言い出して。ごめんなさい」

 

「別に変じゃない」

 

 虎杖の返事はあっけらかんとしていた。でも、その言葉に軽さはなかった。

 

「俺もさ、もう親いないし。肉親は最近までじいちゃん一人だったけど……死んじゃったから」

 

 マミの目が、大きく揺れる。

 

「なんとなくだけど……気持ち、分かるよ」

 

 しばらく、二人の間に言葉はなかった。けれど、沈黙は苦ではなかった。不思議と落ち着いて、呼吸の音だけが優しく響いていた。

 

 マミの肩の力が、ふっと抜ける。口元に、ようやく本物の笑みが浮かぶ。

 

「……ありがと、虎杖さん」

 

 二人はスマートフォンの契約を終えると、商業施設の喧騒を離れ、並木道に差しかかる。橙に染まる夕暮れが、ビルの合間から柔らかく差し込み、歩道に長い影を落としていた。

 

 虎杖悠仁は、新しいスマートフォンの箱を片手に、ふと足を緩める。隣を歩く巴マミの表情をちらりと見て、何気なく口を開いた。

 

「マミさんってさ……紅茶、かなり好きだよな?」

 

 唐突な問いに、マミは一瞬驚いたように目を丸くした。だがすぐに、小さく頷く。

 

「ええ、まあ。好きよ。家ではよく淹れてるもの」

 

「だよね。退院祝いの時のティーセットがさ、めちゃくちゃお洒落ですげーと思ったもん」

 

 照れ隠しのように笑う虎杖。マミはそんな様子に思わず口元を緩める。

 

「ちょうど近くに紅茶とか飲めるティーサロンあるんだけどスマホの設定もあるし、そこ行ってゆっくりしてかない?」

 

 指さす先にあるのは、小さなガラス張りの紅茶専門店。木の温もりを感じさせる扉と、季節のブレンドを紹介する黒板が、柔らかい空気を纏っていた。中では、お菓子も食べられる格式の高い店だ。

 

 マミはその店先に目を向け、小さく息を吐く。

 

「……いいわね。ちょっとだけ、寄ってみましょうか。でも……かなり高そうだけど大丈夫なの?」

 

「だって約束したし! それに、ここまでしてもらったんだし、なんかお返ししなきゃなって思って」

 

 虎杖の顔が僅かに引き攣るが、絶対に引かないという強い決意がそこにはあった。経済事情はやはり芳しくないのだろうとマミは察するも、見栄を張る虎杖の意思を汲む。

 

「ふふ、ありがとう。じゃあお言葉に甘えるわね」

 

 その声にはまだ緊張の色が残っていた。それでも。人通りの多い場所に出るという行為は、彼女にとって確かな一歩だった。足取りは、ほんの少しだけ軽やかになっていた。

 

 紅茶専門店の扉をくぐると、空気が一変した。ほのかに漂うアールグレイの香り。木製の家具と白いテーブルクロスが穏やかな品を湛え、席についた二人の間にも、自然と安らぎが満ちていた。

 

 二人は談笑しながらメニューを選び、しばらくすると紅茶やお菓子が運ばれてくる。

 

「このスコーン、外はさくっとしてるのに、中がふんわり……すごく美味しいわね」

 

 マミが紅茶のカップをそっと口元に運びながら、表情を緩める。頬にわずかな赤みが差していた。虎杖はその様子を見て、思わず微笑む。

 

「喜んでもらえてめっちゃ嬉しい!」

 

 彼はスマートフォンを取り出し、テーブルの上に並んだスイーツと紅茶の写真を数枚撮った。まどかとさやかのチャットアプリグループに”スマホ買った記念! マミさんと来てます”とメッセージを添えて送信する。

 

 マミはその様子を目にして、ふと目を細めた。

 

「……こういうの、久しぶり。普通に、外でお茶して、写真撮って、遊びに行くなんて魔法少女になってから、数えるほどしかなかったもの」

 

 そう言いながら、彼女の声には、寂しさと同時にほんの少しの温もりが含まれていた。遠くを見つめるような視線が、窓の外の陽光を追っていた。

 

「私……ね。魔女を確実に倒す為に銃の構造だったり、使い方だったり……兵法とか……色んな本を寝る間を惜しんで読んでいたの。でも、そんなことばかりしていたら、学校では深く関われる友達なんてもういなくて……いつの間にか独りになってた」

 

 マミの言葉を聞きながら、虎杖は手にしていたスマートフォンをそっとテーブルに置いた。派手な反応はしない。ただ、ごく自然に視線を向けて、真面目な声で応じる。

 

「……マミさん、すげぇなって思うよ。誰にも言われなくても、誰かの為にって……ちゃんと動いてきたんだもんな」

 

 少しだけ、間を空けて続ける。

 

「でも、だからって一人で全部背負わなくてもいいじゃん。俺も居るし、まどかやさやかだっている。暁美さんだって、気難しいけどさ、話せば分かる人だと思う。……これからだって遊ぶ時間とか、笑う時間とか、取り戻していけばいい」

 

 軽い笑みを浮かべながら、どこか照れくさそうに言う。虎杖の言葉は飾り気がなく、ただまっすぐだった。その率直な響きに、マミは思わず笑みを浮かべる。

 

 会計を済ませ、二人は外に出た。店先の風はまだ少し冷たかったが、春の匂いを運んでいた。

 

「なあ、マミさん。ストレス解消にちょっとダーツやってみない?」

 

「……ダーツ?」

 

 思いがけない提案にマミが首を傾げると、虎杖は気軽に笑って返す。

 

「このへんにカジュアルなダーツバーあるんだけど、結構楽しいし、マミさんも絶対ハマると思う! 中高生でもお酒さえ飲まなきゃ大丈夫だし」

 

「でも……やったことないし、初心者よ?」

 

「あんだけ射撃がすげぇマミさんなら絶対上手くなるって! 俺が保証するよ!」

 

「ふふっ……また、そういうこと言う」

 

 マミは小さく肩を揺らして笑った。まだ心の奥には沈んだものがある。けれど、今このとき、誰かと過ごすこの時間は——間違いなく、自分を支えてくれているのだと、そう思えた。

 

「じゃあ……少しだけ、付き合おうかしら」

 

「マジで?! やった!」

 

 虎杖の表情がぱっと明るくなり、その反応にマミも思わず吹き出した。

 

 見滝原の春の夕暮れ。街灯が点るにはまだ早い時間。信号の電灯が点くと、二人の影が並んで歩き出す。その足取りには、以前にはなかった軽やかさが宿っていた。

 

 

 

———

 

 

 

 

 商業施設の一角、ネオンが柔らかく灯るダーツバーの前。中から漏れる音楽と、時折聞こえる矢の的中音に、マミは少しだけ足を止めた。

 

「……ほんとに、ここでいいの?」

 

 マミが不安げに問いかける。派手さはないが、普段の彼女の世界とは明らかに違う空気だ。

 

 虎杖はいつもの気さくな笑みを浮かべて、親指で店を指し示した。

 

「大丈夫大丈夫。ここ、未成年でもダーツだけなら全然OK! ルールも簡単だよ、最初は“カウントアップ”にしよう」

 

「……カウントアップ?」

 

「うん。8ラウンドのうちに、どれだけ得点を稼げるかってだけ。難しいルールはなし。的の数字を狙って投げるだけだから」

 

 虎杖はスマホで店内の説明を見せながら、軽く身振りを加えて話す。

 

「1ラウンドに3回投げるだけで特別な計算もいらないし、的の真ん中の“ブル”を狙えば50点入るから、狙いが正確なマミさんならいけるって!」

 

 マミは小さく笑った。

 

「……それ、褒めてくれてるのよね?」

 

「もちろん!」

 

 そんなやりとりを交わしながら、二人は店内へと足を踏み入れていく。マミの表情はまだ少し緊張を残していたが、虎杖の隣ではどこか、心がほぐれていく気がしていた。

 

 ダーツボード下の電子パネルを操作し、コインを入れてエントリーする虎杖。

 液晶画面が派手に明滅し、ゲームが始まった。

 

 しかし、虎杖の笑顔は一瞬にして崩れた。やはり、モノを狙うという点においてマミの才能は虎杖の比ではなかった。

 

 最初こそ”手首がちょっと緩む”とか”重心がぶれる”とか、自分でも笑っていたマミだったが、三投目あたりから軌道が明らかに変わった。フォームが修正され、矢が音もなく“ブル”に吸い込まれる。しかも連続で、である。

 

「……えっ、マミさん? マジで初心者!?」

 

「ええ、でも……的が見やすいわ。だって、ほら。姿勢とかあそこに貼ってある説明を見れば、銃より分かりやすいもの」

 

 確かに初心者のために壁にかけられた絵図はある。ただ、再現するには何回も練習しなければ身につかないのが”競技”だ。

 

 しかし、マミは違った。無邪気な顔で、しかしほとんど誤差ゼロの精度で矢を投げ続けるマミ。虎杖は冷や汗を流しながら、持ち前の明るさで誤魔化そうとする。

 

「やば……まどかとさやかに見せられねぇなこれ、もう俺の完敗見えてきたじゃん!」

 

「ふふ……でも、私、勝負はしてないつもりよ? ただ、ちょっと真剣になってみただけ」

 

 そう微笑むマミの手元には、すでに6ラウンドで合計500点以上の表示が出ていた。しかも、投げ方を試しつつの手探りでこの精度である。遊びに近い余裕があった。しかし、虎杖はというと、狙いは悪くないが力加減と手元のブレに悩まされ、ようやく400点台。得点の差は歴然だった。

 

「俺、今、自信無くしそう!」

 

 マミが吹き出す。

 

「虎杖さんはセンスでなんとかなっちゃうタイプって感じだもの。恐らく、強くなるには、安定したフォームから、かしらね?」

 

 軽口を交わすうちに、マミの表情はすっかり緩んでいた。笑うこと、遊ぶこと、誰かと競い合うこと——忘れかけていた“日常”の感覚が、ゆっくりと戻ってきている。

 

(よかった……マミさん、楽しめてる)

 

 夜の街の喧騒とは少し離れたダーツバー。ここには魔法も呪いも存在しない。狙いを定め、的を撃ち抜く——ただそれだけの、静かで、穏やかな戦い。

 

 それが今のマミにとって、ほんの少しの“癒し”になってくれれば——。虎杖はそう願っていた。

 

 ダーツの矢が放たれる音が、乾いた軌道を描いて標的に突き刺さる。

 

 その正確無比な一投を見届けた虎杖は、無意識に息をついた。マミの隣で微笑みながらも、どこか遠くを見つめるような眼差しが、ふと浮かぶ。

 

 ———あの時、何もできなかった。

 

 七海建人。命を賭して後輩に道を託した男の背を、最後まで見送ることしかできなかった。吉野順平。話をする時間がもう少しあれば、ほんの数分でも早く救えたなら、彼は——。

 

 過ぎた時間は戻らない。死んでしまえば、もう話すことも、笑うこともできない。ただ記憶の中に居座るばかりで、もう前には進まない。

 

 だからこそ——今、この瞬間が大切だった。

 

 隣で笑う巴マミの横顔。ようやく人混みの中に出て、紅茶を飲み、ゲームに興じている彼女のその姿。ほんの数日前まで、あの瞳は虚ろで、声は震えていた。

 

 ———生きていてくれて、よかった。

 

 それが虎杖の偽らざる想いだった。彼は、誰かの意志を継ぐことも、後悔を背負うことも出来た。けれど、生きている者と向き合うことこそが、何よりも大切だと知っている。

 

 今この時を一緒に過ごせる。だからこそ、マミには笑っていて欲しかった。心から楽しいと、そう思える瞬間を、ほんのひと時でも分かち合えたなら、それだけで——。

 

「……そろそろ逆転すっかな」

 

 そう言って笑う虎杖の声には、ふとした温かさが宿っていた。マミはそんな彼を見て、首を傾げる。

 

「今のって……負け惜しみかしら?」

 

「いやいや、強者の余裕ってやつ」

 

 軽口の中に込められた安堵と優しさ。その柔らかな空気が、確かにふたりの間に流れていた。ただ、ゲームの内容はマミの完全勝利で終わったのだった。

 

 

———

 

 

 夜の街灯が路地を淡く照らす。時刻はもう夜の兆しを迎えていた。ダーツバーを後にし、ふたりは並んで歩いていた。マミのマンションの前にたどり着き、虎杖が軽く手を上げて背を向けたそのとき——

 

 ふいに、パーカーのフードが後ろからそっと引かれた。

 

「……少しだけ、いい?」

 

 振り返った虎杖の前で、巴マミは小さく項垂れていた。目元は伏せられたまま、手は胸元を押さえている。肩がほんのわずかに震えていた。しかし、確かに感じるのは、前に進もうとする決意。

 

「……このままだと、ダメだって分かってるの。でも……魔女と戦おうと思えば思うほど……足が竦んでしまう。日が経つにつれて、どうしようもなく嫌な記憶が思い浮かんで来て……どうしても……怖かった」

 

 それは、理想の魔法少女が溢す、至らなさの告白。振り絞るように出した声には切実さと寂しさを宿すようだった。

 

「恥ずかしいわよね……。理想であろうとしたのに、こんなにも情けないなんて」

 

 虎杖はすぐには言葉を返さなかった。視線を落とし、夜気の中に言葉を探すようにしばし黙した。その背には、彼の中で言葉を選び、噛み締めている気配があった。

 

 やがて、その沈黙を破るように、静かに呟く。

 

「情けなくなんかない。俺も……何度も泣いたこと……あるよ」

 

 虎杖の声音は落ち着いていた。ただ、その穏やかさの裏には確かな痛みが宿っていた。

 

「呪霊に追い詰められて、どうしようもなくなった時。ああ、死ぬんだって思ったら、泣き叫んで、後悔して……」

 

 マミは、はっと顔を上げる。虎杖の目はまっすぐだった。けれど、それは今のマミではなく——過去の、弱かった虎杖自身を見つめるような目だった。

 

「強くなりたいと思ったよ。……こんなんじゃ、死に方すら選べないって」

 

 言いながら、虎杖はもう一方の手で首の後ろを掻いた。少しの間、言葉は続かない。ただ、路地に流れる風の音だけが、その場を埋めていた。

 

「——それでも、ダメだった。負けちゃいけないとこで負けて、多くの人を傷つけた」

 

 そう言いながら、虎杖はマミのほうへと正面から向き直る。片手をポケットに入れながら馳せるように夜空を見上げた。

 

「でも、そのとき、仲間がいて、支えてくれて……俺は、なんとか立ち直れた」

 

 語る声に力はなかった。けれど、その静けさこそが、彼の言葉に重みを与えていた。

 

「だからさ——俺もマミさんのこと支えたいと思ってんだ」

 

 その目は、真っ直ぐだった。軽さも、気負いもない。ただ、隣にいる者として——同じ戦場を歩む者としての意志だけがそこにあった。

 

 マミはただ、瞳を伏せた。目元を濡らしかけた光は、瞬きと共に静かに引き込まれ、夜の闇へと溶けていった。

 

「……」

 

 ——言葉は、喉まで届きながらも、結局はそこから先に進まなかった。

 

 手のひらが、パーカーの袖を小さく握る。その温もりを頼るように、彼女はわずかに肩を寄せる。虎杖は気づいていたが、何も言わなかった。言葉で交わすものではないと、直感で理解していた。

 

 車のライトがゆっくりとアスファルトを照らすと、路地の壁に伸びた二人の影は夜の帳に吸い込まれるように消えていった。

 

 マミの頬を撫でる夜風は、昼間よりも幾分やわらかかった。緊張にこわばっていた指先が、ほんの少しだけ、力を抜く。

 

 そして、ほんの一瞬、彼女の口元に浮かんだ微笑は、誰にも気づかれないほど小さく——それでも確かに、そこにあった。

 

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