ア・モルフェ魔術学院。
すでに空は暗く、すべてが寝静まる真夜中に、されど魔術師たちは眠らない。
学長室で黙々と執筆をつづける白髭を蓄えた老人もその一人。揺らめくランプの灯りが、彼の深い皺と、積み上げられた書物に落ちる影を濃くしていた。空気はインクの匂いと、羊皮紙の微かな香りで満たされている。
近代魔術を研究し続け、魔術の発展と革新のみを追い求め、過去の魔法を軽視する。
それが現在のア・モルフェ魔術学院学長のあり方だ。
──先達の後を追うだけの魔術になんの価値がある?
過去を追うだけでは発展はなく、それは魔術の停滞であり危機。
ゆえに、彼は古代魔法が嫌いだ。彼の辞書に、それは『進歩の対義語』として刻まれている。
すでに死した魔法であり、最後は赤子でも覚えられる魔法を使えるようになれば対処は容易。だから滅んだ。
そんなクソの役にも立たないゴミを研究しようとする人間がいるのも信じられない。
古代を探求する者たちからは嫌われつつも、魔術発展の可能性を見れば惜しみなく援助をしてくれる彼は、人によって評価の分かれる人物である。
────突如、部屋を満たしていた静寂を裂くように、微かな風が流れた。
少しひんやりとした夜風。
部屋の窓は閉められていたはずだ。
奇妙に感じ、学長が後ろを向くと、そこには美しい少女が窓に座っていた。
「何者じゃ」
声には警戒と、長年培われた威厳が滲む。
「ごきげんよう、ア・モルフェ魔術学院学長。私はラスティン。ラスティン・セワルーグだ」
鈴を転がすような声色とは裏腹に、その言葉には揺るぎない何かが宿っていた。
「ラスティン……? ふんっ、『滅国』を騙るか。過去にしか興味のない愚物どもめ。あまりわしをいらだたせないでほしい」
学長は鼻白んだ。またあの手の輩か、と内心で舌打ちする。
しかし、どうにも普段と異なる。そこの知れぬ笑みを浮かべる少女に、学長は警戒を強める。
その深く澱んだ緑眼に、飲み込まれそうな悪寒を覚えつつ、杖を構え、相対する。
少女は苦笑した。
「そう警戒するな。私はただこの学院にある邪神の呪物をもらいに来ただけだ」
「……あの忌物を?」
「そうだ」
「わしがそれを許すとでも?」
「ただでとは言わない。……そうだな、私の魔法を教えるでどうだ? もはや古代魔法と称されるものらしいが」
学長の額に青筋が浮かぶ。
研究の邪魔をされたうえ、物の要求までされ、そのうえ対価が忌み嫌う古代魔法?
「わしが平静を保てるのもこれが最後じゃ。どうか、今すぐ飛び降りて死んではくれぬか?」
「ハッ、年老いて耄碌したか?」
「死ね」
無表情に彼は魔術を叩き込む。凝縮された魔力が、不可視の槍となって空間を疾駆する。
魔術師の弱点とは室内戦である。
室内戦は環境利用を主とする魔術師にとって不利とされる。土属性のような汎用性の高い魔法すら、ここではその真価を発揮しにくい。
そんな中、彼は自身の魔力を宙に抽出し、それを利用するという、並外れた技術でのみ可能な技を編み出した。
自身の魔力を外に出すという訓練を積むのに10年。それを実戦レベルまで使えるようにするのに30年。さらにその速度を速めるのに生涯を使った。
ゆえにこそ彼は晩年に覚醒し、ついには他の属性魔法の初速すら超越し、最速の魔術師の異名を手にした。
そんな彼の必殺の一撃。
他の魔術師が対策を思いつく前に脳を貫く。
最強の初見殺し。
──しかし。
彼の最速にして最強の一撃は、少女のため息と同時に繰り出された
「……な、に」
学長の顔から血の気が引く。ありえない。自分の生涯を賭けた一撃が、こうも容易く……?
「魔力の対外放出。懐かしい。私の時代で唯一魔法陣を介さず使える魔法だった。──だから、極めた」
学長がこの世界で最もその魔法を極めた人間だからわかる。わかってしまう。
この魔法は熟練度こそがすべて。究めるのに途方もない時間が必要となり、だからこそそれに費やした時間ですべてが決まってしまう。そして今、目の前の少女が放った魔力は、自身のそれとは比較にならないほど練磨され、凝縮されていた。
「う、うそじゃ……わしの、わしのやり方では非効率だったのか? こんな、こんな小娘に熟練度で負けるなど、ありえぬ!」
「ああ──きっと、お前の練習は間違っていないよ。私が保証する。ただ、費やした時間が違いすぎたんだ」
「小娘、小娘が! 何を語る! わしの魔法の、何を語る!!」
「私はな、ずっとその魔法を練習し続けた。タルタロスで。お前がこれを究めるのに百年使ったのなら、私は──1600年使った。それだけだ」
腰かけていた桟から飛び降り、一歩ずつゆっくりと学長へと向かうラスティン。
「わかりやすい魔力の起こり。直線的で退屈な攻撃。対処は容易だ。知らないのか? 私の時代にも貴様の技はあった。しかし、滅んだ。弱すぎたんだよ、それは」
「な、な、な……!?」
学長の思考が停止する。自分の信じてきたものが、根底から覆される衝撃。
ラスティンは学長を見上げながら、その蓄えられた白髭へと手を伸ばした。
それを引っ張り、ラスティンの目と学長の目があった。
「時代の流れで失伝したか? ……それとも、お前の勉強不足か?」
「う……」
過去を無価値と称し興味を持たなかった学長は、それゆえわからない。はたして己の魔術が伝承として伝わっているか否かを。もし伝わっているとしたら──なんと、滑稽なのだろう。
最先端を行くと言っておきながら、その実すでに行き先が知れた魔法を使っていたとは。
──否定したい。
今までの努力を否定するこの存在を。己の発明を再開発だと嘲笑したこの少女を。
──一泡吹かせる。
『最速の魔法』の弱点はラスティンが先述した通り。話によると古代魔法の行使には魔法陣が必須。ならば、いかなる速さでこようと、その直線的で退屈な攻撃を回避し現代魔法を当てるのみ。
幸いにして学長の魔法属性は『風』。室内で使うことができる。
勝機はある。間違いなく。
「古代の遺物が……人類の最先端をなめるでない」
「なに?」
「『風の刃』」
学長の杖先から放たれた鋭利な風の刃が、数条、ラスティン目掛けて螺旋を描きながら殺到する。
風が刃となりラスティンを襲う。
攻撃は貧弱。薄皮一枚を裂くがせいぜい。だが、その真意はダメージではない。
次の大きな一撃へとつなげる一手。
巻き起こした魔力で、魔力探知を妨害し、次の技を読みにくくさせる。現代魔法戦での手法ではあるが、敵を大きく見積もって損はない。
(『最速の魔法』は使いこなしているわしならば避けられる。それに、古代魔法の行使には魔法陣が必須のはず……! この『風の刃』でわずかな時間でも稼ぎ、その間に現代魔法の詠唱を完了させれば……!)学長の脳裏に、逆転への光明が差す。
ここで作った隙から詠唱をし──
「……なぜじゃ?」
なぜ、退屈そうな顔をし、
さっき見たあの魔法が来る。そのはずだ。ならば、集中し避けるのみ。ゾーンに入ったように、世界の動きが遅くなる。
──さっきの魔法にそんな予備動作はなかった。
その微細な違和感を抱えながら、目を凝らし、学長は見た。
ゆっくりと緻密な氷細工が作られてゆく様を。それは魔力の奔流などではない。静かで、冷たく、絶対的な支配力をもって、空間そのものが変質していくかのような光景だった。
コンマの世界の中で、ラスティンを起点とし、足元を凍らせてゆき、学長の体の周りには氷のナイフが形成されていく。
床を覆いつくした氷はやがて窓、天井へと伝播していき、部屋を大きな氷へと変えた。部屋全体が、巨大な氷の結晶の中に閉じ込められたかのような錯覚。ランプの灯りすら、氷の中で鈍く、青白い光を放つ。
──美しい。
一切無駄のない魔力の放出に、魔力操作。それを何食わぬ顔で平然としてのけるのが恐ろしい。魔力の流れは完璧に制御され、一滴の無駄もなく氷へと変換されていく。
芸術というほかない。あまりの実力差を体感したとき、人はどうなるか?
驚愕も、己への落胆も、なかった。
ため息。この感情を飲み込むには、ため息しかないのだ。
世界が通常の速度へと戻る。これは、わずか2秒で行われたことなのだ。
氷のナイフを突きつけられながら、されど学長は話す。
「み、認めよう。おぬしは確かに『畢竟』ラスティン・セワルーグその人だ。尋常の身でこれほどの魔力操作は不可能じゃ。間違いなく、わしの負けだ。……しかし、古代魔法は魔法陣を介さなければ使えぬのでは……」
「ああ、その通りだ。古代魔法は魔法陣を必要とする。だから、それを省略した。魔法陣を介さない魔法の使用。それを作り出したがゆえに、私は『畢竟』と呼ばれるに至った」
まあ、魔力操作はタルタロスでの賜物だけれども。彼女はそう付け足す。
学長は眼を見開いた。そんなものは、古代魔法の欠点を克服した、もはや古代魔法と称されるステージを脱却している。
──知りたい。
「この魔法を使えるのは世界で私一人だ」
学長の胸が鳴る。
「方法はどこにも残っていない。教える前に私はタルタロスに入った」
どくどくと高鳴りとどまることを知らない心臓は、その知識欲により喉すら渇かす。
「──どうだ? 私の魔法を知りたくはないか?」
返事は迷わなかった。