お金持ちのアリーチェ ──没落し婚約破棄され都を追われた成金娘が猫と一緒に成り上がる話── 作:5es
午前十時の鐘が鳴る前、約束通りの時刻、アリーチェはメネルウァ商業区のカフェのパネルを掲げた店に向かっていた。
この日はおぼろな雲が空を覆う曇天で、朝もやが乾かされないまま石畳を濡らしている。
店の前まで来ると、アリーチェは立ち止まり、一つ深呼吸をしてから扉をあけた。
「アリーチェ様ですね。どうぞ、ジャンマルコ様達がお待ちです」
店員に奥へと通される。
正式な商談の為の応接室に案内され、扉を開けると、中では三人の男性が席についていた。
一人はジャンマルコ・ダンディーニ、元ダンディーニ商会の会頭で、今は個人で金貸しをしている痩身の老人。
一人はウルリク・ノルディン、アリーチェの身柄を担保に金を貸してくれた、大柄で偉丈夫な北方氷海地方の人間。
そしてもう一人は恰幅の良い中年の男性だ。
「お待たせしました、ジャンマルコ様、ウルリク様」
「いや、時間通りだ。彼が話があるというので先に来てもらっていた」
ジャンマルコが手を広げ、中年の男性を指し示す。
「こちらの方は?」
アリーチェが面会を申し込んだのはジャンマルコとウルリクの二人だけだ。
見知らぬ三人目はでっぷりした腹を抱えて椅子に座ったまま、自ら返事をした。
「お初にお目にかかる。トンマーゾ・メルクリオだ。
アリーチェ殿とは一度お会いしたかったのだがどうにも予定が合わない様だったのでね。ウルリク殿を通してここに同席させてもらう事にした。
以前から氷海商人の方々とは懇意にさせてもらっているのだよ」
絹の胴衣は丸く膨れ、胸元には重そうな金の鎖が揺れている。丸い顔で、額はすっかり禿げ上がっていたが、耳の後ろから後頭部にかけてはきっちりと巻き髪が整えられていた。油のつやが光っている。
「これはご丁寧にありがとうございます。初めまして、アリーチェ・プレスティ・ディ・トゥランです。
ご面倒をおかけしてしまったようですね。残念ながら正式なお招きの手紙など一度も頂いていなかったので、存じ上げませんでしたわ」
「ふむ、まあ気にする事はない。遅れた分は、これからゆっくり取り戻せばいいのだからな」
互いに含みのある言葉を交わす。
歓迎されざる相手だ。
だが、この状況では逃げる事はできない。そして元よりそのつもりもない。
アリーチェは軽く会釈をして席に着くと、ずしりと重い皮の袋を取り出した。
「それでは早速、用件に入らせていただきます。
この度は先日にご融資いただいた件につきまして、その返済に参りました。
ジャンマルコ様、こちらが借り受けた100メルランと利子25メルラン、そして予定を繰り上げた精算の為にお呼び立てさせていただく事となりましたウルリク様への謝礼として5メルラン。以上、合わせてメルラン金貨130枚になります」
袋をジャンマルコに提出しようとした時、トンマーゾが大きく手をかざした。
「あいや待たれよ、アリーチェ殿。その前に、君の近頃の取引について少々話があるのだ」
アリーチェは動きを止め、トンマーゾを見た。
ジャンマルコからの言葉は無く、ウルリクは腕を組んだまま、共に静観している様子だ。
「それは、どのようなお話でしょうか?」
「その金貨を含めて、君が得た利益が不当なものであるという事だ。足元を見た転売に強引な買い取りなど、知己の商人から私の元へ多数の報告が寄せられている。ウルリク殿が所属しておられるハーヴァルの商館の人間からの物もある」
トンマーゾはばさりと書類の束を机の上に投げ出した。そしてアリーチェを指さし、声を高める。
「メネルウァは自由の民の都市だが、それは正しき律法と秩序により成り立つものだ。悪徳により積み上げられた富ならばすべからく返還されるべきものと心得たまえ」
雑に広げられた書類は、主に外国の商人達からの抗議文だった。トンマーゾは今日の為に、アリーチェと取引のあった商人達を糾合し、これを書かせて来たのだろう。
「どうやらトンマーゾ様には誤解があったようですね。
私の取引はすべて法に則り、書面をもって記録された正式な契約に基づいています。全ては正当なる責任が果たされた結果ですわ」
「その君の契約に疑いがあると言っているのだよ。何もやましいことがないのならば全てを白日の下に晒し、裁定を受けるべきだ」
「これは異なことをおっしゃいます。
もちろん私に恥じ入るところなど何も有りません。それは今申し上げた通り、記された記録によってただちに証明されるでしょう。
謂れのない疑いだけで、正しく結ばれた約束を後からほどいて回ろうなどと。それこそ法をないがしろにする行為ではありませんか」
「謂れのない疑いだと?バカな事を」
トンマーゾは鼻で笑いながら、太い指先で書類の端を叩く。
「君の取引を追わせてもらったよ。暴利を貪るその行程をな。
なるほど確かに書類の上では瑕疵は無いかもしれない。だが殆ど全ての取引において、それが成立させられた事に納得できる理由が無いのだ。
このまま明るみに出さずして見過ごすなど許しがたいと、君と関わった多くの商人がそう考えている訳だ。
君のような物知らずがどのような悪意を以てこれを為しえたのか、それを知るのが今から恐ろしくてたまらないよ。
私は一度退いた身ではあるが、元メネルウァ評議会議員として、また、善良なる一介の商人として、この様な異常がまかり通る事を憂う者だ」
敵意を隠すこともない直接的な糾弾だ。
彼のやり方なのだろう。トンマーゾの太い声音は狭い檻の中で獲物を追い詰めるように響く。
「トンマーゾ様はつまり、私がどのような手法を用いていたかを説明するべきだと、そうおっしゃるのですね」
アリーチェは返事を待たずに続けた。
「ジャンマルコ様はこの事について、どうお考えですか?」
「そうだな、確かに犯罪で得た金とあっては受け取ることもできない。ここで疑いを晴らしてくれるならそれに越した事はないな」
「そうですか、わかりました。商人の仕事上の秘密は守られるべき物と考えていますが、それがメネルウァの安定に寄与し、ジャンマルコ様へ信義を示す事に繋がるならば、ここは私が譲るべきでしょう」
都合の良い流れだ。アリーチェは荷物から木箱を取り出した。
「これを御覧ください。古代の魔術の遺産、オルニス・ヴィスタの天眼です」
蓋を開けてアマツバメの模型を取り出し、机の上に置いて見せる。
「ほほう、オルニス・ヴィスタとは随分と大仰な代物を持ち出してきたな。だが、確かそれはウォルトゥナの博物館に収められている物だったと記憶しているが」
ジャンマルコは興味をそそられたように模型に目を向けた。
「はい。こちらはそれとは別に発見された、おそらくは同種の物です。冒険者であった私の母ロレッタが見出し、プレスティの家に所蔵されていました」
アマツバメは一度飛び立てば何ヶ月もの間、地上に降りる事無く空の上で過ごすと言う。
それを模したこの古代の魔道具は、魔力を込めれば使用者の意のままに長い距離を飛び、空中から映る景色を見せるのだと伝説に語られる。
かつて古代ティルセニア帝国の版図を大きく拡大した独裁官ジュリオ・レオニスの戦記にその使用した記録が綴られ、ティニアでその存在は広く知られている。
「今より一月程前、ウォルトゥナの屋敷で父カルロの船の難破の知らせを聞き、私は一縷の望みを掛けて、これに魔力を込めました。すると驚いた事に、永く眠りについていたはずのこの木造りの鳥は、物語で読んだ通りに確かに動き出し、私に遠く離れた光景をそのまま見せたのです」
アリーチェが語るのは後から状況に沿って説明をつけただけのカバーストーリーだ。だが、ここにあるレプリカのオルニス・ヴィスタは、古代から伝わるそれと同じ、紛れもない本物だ。少なくともこれを作ったアーテルの解説によればそうであるらしい。
「残念ながら父カルロについては、その船が沈んだことが確認できたのみでした。しかし、メネルウァの取引において、これは大いに私の助けとなってくれました。そして20日ほど動いた後、この古の魔道具は再び力を失ってしまったのです」
アリーチェはオルニス・ヴィスタに手を触れ、魔力を込めた。すると、その極度に精巧な木製の鳥の模型は、わずかに羽ばたくような動作をし、そのまま静止した。
「なるほど。にわかには信じがたい事だが、確かにこれはただの木彫りでは無い様だな」
「……その魔道具、おそらく本物だ」
ずっと沈黙を保っていたウルリクが声を出した。
「ほう?ウルリク殿、この手の物に一家言おありかな」
「氷海には古い時代の遺物が多く残されている。その中でも特に名のある宝剣や玉石はそれと同じ、光も無いのに輝いている様な言い知れない気配を放っていた。実際に古代の力の残滓を発揮するのを見たこともある。
オルニス・ヴィスタとやらについては知らないが、その木の鳥が何がしかの効力を発揮する類の物であるのは間違いない」
「ふーむ。アリーチェ殿、この鳥の模型、考古学に造詣のある鑑定人に見せたいのだが、付き合ってもらえるかね?」
「ええ、いいですとも。ゆくゆくはこのオルニス・ヴィスタの天眼、メネルウァに寄付させていただきたいと考えております」
「ほほう、いいのかね?本物であればジュリオ・レオニスの使用したそのものでは無くとも希少な品だ。アリーチェ殿にとっては家族の形見でもあるのだろう」
「はい。このメネルウァの方々には大変に世話になりました。少しでもその恩義に報いる事が出来ればと」
「殊勝な心がけだな。旧帝国にこだわる貴族趣味の連中も喜ぶだろう」
「下らん、全く下らんぞ!」
しばらくむっつりと黙っていたトンマーゾが吐き捨てるように言った。
「ジャンマルコ殿、骨董品談義はその辺にしてもらおう。
アリーチェ殿、本題を忘れていないかね?君に対して多くの商人から抗議の声が上がっているという話だ」
「ええ、わかっておりますとも。
だからこそ、こうして商売の秘密をお伝えする事となったのでしょう?私のメネルウァでの取引は、このオルニス・ヴィスタの力を借りてのものです」
「そんな事はどうでもよろしい。全く身の証を立てた事にはなっていない」
「おや?おかしいですね。
あなたの疑義は、取引における私の判断の根拠が不明だという点に起因する物だったはずです。それはたった今明かされました。もし道具の真贋をお疑いならば、それは鑑定によってきっと明らかになるでしょう」
「その玩具の鳥が本物であろうと偽物であろうと関係は無い。
訓練された伝書鳩を使ったのでも、手旗信号や早馬の連絡網に伝手を持っていたのでも、何であろうと同じ事だ。
それで君に財産を騙し取られた者達が納得するというのかね?いいや、しないとも」
トンマーゾは揺れるように手を広げた。
そして再び机の上に広げられた抗議文を指し示す。
「君は信用というものを軽く見ている様だな。浅知恵だけ先走った若者にはありがちな事だが、実に嘆かわしい。
ここに集められた商人達の意見、決して軽くは無いぞ。
メネルウァの繁栄は交易に依って成り立つ物であり、それは正当な価格で物が交換され、受け取られるという前提があってこその物だ。
君のごとき何も持たない小娘が、ただ手続きの上で正しいからと言って、身勝手に弄りまわして良いものではない!」
椅子の背にもたれたまま、壇上の役者の様にトンマーゾは振る舞い、唱える。その低く震える声は部屋の空気を殊更に重くする。
「君は財産の全てを一度私に預け、正しく返還されるのを待つべきだ。これが為されない場合、私は抗議文に名を連ねた商人達を代表して商業裁判所に提訴をする用意がある。
ジャンマルコ殿、何か意見はあるか?」
「いいや、自分はただの金貸しにすぎんからな。それでアリーチェ殿からの返済が滞ったなら、契約通りにウルリク殿に身柄が渡されるまでの事だ」
残念ながら、トンマーゾの主張は正しいだろう。
既に目をつけられてしまった以上、古代の魔道具など持ち出しても、訴えを退ける役には立たない。
それがメルクリオの工場を買収したいという彼の全く利己的な目的から来るものであり、それがメネルウァに集う商人達の誰も自分の利益より先には置かないただの建前に沿った物だとしてもだ。
最初からわかっていた事だ。自分は身寄りも何も無い、身一つで逃げてきたばかりの、メネルウァ市民でもない人間だ。
財産を築いたからといって、何の後ろ楯も無ければ、それは吹けば飛ぶような砂上の楼閣にすぎないのだ。
アリーチェは自分の帳簿を取り出して鍵を開き、綴じてあった数枚の紙を取り出し机の上に置いた。
「何だね、この書類は」
「これらは私がプレスティ家の遺言執行人であるマカーリオに宛てた手紙、その写しです」
手紙は4枚、アリーチェから見て対面の方から読めるように置かれ、席についた3人の眼が集まった。
「こちらの手紙、
2枚は私の現在の資産の目録、概算で金貨一万枚ほどに相当するものと思われます。
1枚は私が父カルロの遺産全てを相続することを宣言する物です。カルロの生存はおそらく絶望的ですが、行方不明につき手続きについては猶予期間にあります。
そしてもう1枚には、私からの次の手紙が無かった場合、相続を宣言する書類をウォルトゥナの市庁に持ち込み、正式に受理していただく様に指示があります」
トンマーゾが動きを止める。ジャンマルコは静かにみつめる。
「ティニア連邦所属の都市に通じる法律において、相続人の責任は遺産の総額の範囲までとされます。しかし、負債を受け継ぐ事を選択するならばその限りでは有りません。
プレスティ商会は内海の悪魔により所属の船が全て沈められ、その負債は巨大なものです。
私が次に撤回の手紙を出さなければ、こちらの目録に記された私の保有する全資産は、ウォルトゥナの債権者の手に渡る事になるでしょう」
「なるほどな、それが用意した切り札だった訳か」
「バカな、それでは脅迫ではないか!」
「脅迫ではありません。私がメネルウァに受け入れられないのであれば、全ては元のウォルトゥナに委ねるのが正道であるという事です」
アリーチェが父カルロの負債を受け継げば、この場の全員が損をする事になる。纏め上げた商人から信用を失うトンマーゾも同様だ。
肉親の借金から逃げてきた一文無しの人間が、相続の完了の前に大きな資産を作り上げたという、今回限り、この状況でしか通じないだろうトリックだった。
アリーチェはジャンマルコの方に向き直った。
「さて、これを踏まえた上で提案があります。
ジャンマルコ様のご子息であられるエヴァンドロ・ダンディーニ様は、現在のメネルウァ評議会の議員でいらっしゃいますね。彼を通じて、私の資産全てを二千メルランでメネルウァ行政府に買い取っていただきたいのです。
そして、その見返りとして、私のジャンマルコ様、ウルリク様への借金の正しい精算と、メネルウァ特別市民権の付与を認めていただきたく存じます。
これが叶うならば、私は改めて遺言執行人のマカーリオに正式な相続放棄の指示を出しましょう」
メネルウァ特別市民権とは、外国人に対し、選挙権を除いてメネルウァの高額納税者である上級市民と同等の権利を与えるという物だ。特に決められた基準があるわけではないが、主に富裕な商人や貴族に付与され、後見人を必要とする。
そしてそれこそが、このメネルウァでのアリーチェの本来の目的であった物だ。
「ま、借金取りに追われてウォルトゥナから逃げてきたやつが紐付きでない訳がないわな」
「ジャンマルコ、この様な脅しがあると、知っていたのか?」
トンマーゾは表面を取り繕う事も忘れて迫るように言った。
「いいや、知らなかったさ。だからこそ金を貸すにも何があっても知らんふりして北の方に売り払えるようにしていたんだ。
だがまあ、これだけの資産がついて回るとなると話は別だな」
ジャンマルコは大雑把に目録に目を通しながら答える。
「ええ、私の現時点で保有する資産は、相続法を無視しようとすれば、ウォルトゥナの商人たちと確実に係争になるだけの金額です」
「そうだな、まあいいだろう。手続き完了まで、しばらくは決済の処理に参加してもらうぞ」
「ダンディーニ商会の頭だった人間が、こんな小娘の言いなりになろうと言うのか?」
「いやすまんね。言いなりも何も、これは予定通りだ。
借金相続を盾にするなんてのは予想外だったが、資産の買い取りと特別市民権の話については先に手紙で知らされていた。
お前の持ち込んだ抗議の件とは秤にかけて決めようという所だったんだが、ウォルトゥナと争う事になるのは面倒だ。
問題の商人達にはこちらから審査して、買い取った資産から改めて補填をする事としよう。彼らにしたって他所の商人に丸ごと取られるよりはその方が得だ。
その抗議文についてはこちらで預かっておくぞ。取りまとめご苦労だったな、トンマーゾ」
トンマーゾは苦りきった顔でジャンマルコとアリーチェをジロリと睨みつけ、そして早々に席を立った。
「失礼する」
体を揺すりながら、音を立てて床を軋ませ扉を開け出ていく。
ジャンマルコは見送りながら机に広げられた書類を纏めて寄せた。
「ふむ、相変わらず暑苦しい奴だよ。
では、アリーチェ殿、まずはお望み通り借金の精算と行こうか」
「ええ、お願いします」
アリーチェは金貨の詰まった皮袋を差し出した。
中身が開けられ、ジャンマルコの手により刻印と縁の様子、光沢が確かめられながら素早く数えられていく。
仕上げに天秤で重量が量られ、正しいメルラン金貨と確認された。
130枚の内、ジャンマルコに110枚、ウルリクに20枚が分配され、アリーチェに白馬のネーヴェの権利書と懐中時計が返され、書類が回されて決済済みの印章が押される。
返済の手続きが完了し、最後にアリーチェはウルリクに深々と頭を下げた。
「この度は誠にありがとうございました。貴方が私の価値を認めてくれたから、こうして目的を果たす事ができたのです。
シャルマスト・アーフトゥル・ウルリク・ヘッラ(またお会いしましょう、ウルリク様)」
最初に顔を合わせて以来、折を見て勉強していた氷海の言葉の挨拶だ。
厳つい体で押し黙ったまま手続きを見守っていたウルリクは、ニヤリとアリーチェが初めて見る笑顔を見せた。
「ああ、まったく、俺の人を見る眼は正しかった訳だ。あなたを連れて行けないのが残念でならないというものだよ。
シャルマスト・アーフトゥル・アリーチェ・フラー・ウルリク、また会える日を楽しみにしている」