最初は妙な匂いだと思った潮風も、今ではその湿り具合でさえ気持ちがいい。風だけではない。強い陽射しも、深い緑も、地球の自然は何もかもが桁外れで、そして美しかった。
「すごいものだな、地球というのは…」
目の前に広がる海を眺めながら、傍らを歩く少女の声に彼女は頷く。
「はい、本当に…。コロニーの環境も素晴らしいものですが、そもそも比べるべきものではないのかもしれません」
「うん、私もそう思う」
そう答えながらこちらを見上げる少女の笑顔は、これまでよく見せていた愛想笑いや作り笑いとは確かに違う。それだけでも、地球に来た甲斐があったと思う。
「しかしあまり長く日に当たるのもよくないと聞きます。食料も手に入りましたし、そろそろ戻りましょう」
「そうだな…よし、夕餉の支度は私も手伝おう!」
「いえ、それはなりません。先生が待っておいでですからね。ミネバ様におかれましては、しっかりと勉学に励んでいただきませんと、私がハマーン様に合わせる顔がありません」
「むう…」
「料理につきましては、また必ず機会を設けますので」
「そうか…うん、わかった!お前がそういうならそうしよう!」
そういって見せる笑顔がまた、愛くるしい。すぐにでもこの場で抱き締めてしまいたかったが、彼女の立場としてはそうもいかない。ただ、心の奥でかつて彼女が仕えたこの少女の母、ゼナ・ザビに少女の成長を報告せずにはおられなかった。
公式にザビ家の血を継ぐ唯一の存在とされるミネバ・ラオ・ザビは今、わずかな供回りの者を連れて極秘裏に地球で暮らしていた。旧世紀の頃はチュニジアと呼ばれた、アフリカ大陸から地中海を臨む地に仮の住まいを置いている。もちろん、これはハマーンの差配によるものだ。
グリプス戦役の後、一旦は地球圏を離れる決定をしていたハマーンは、わずかな期間ではあるものの、ミネバに「地球」を経験させる決断をした。地球を知らない者が地球に住まう者を批判する組織の旗手となるのは何かと問題がある…そう考えたからだ。
滞在先にアフリカのこの地を選んだのにもいくつかの理由があった。まずは地球に残るという選択をした際に有力な選択肢となるダカール侵攻時に迎えを出しやすい位置であること、次いで比較的治安が良く、気候が穏やかで自然が豊かであるということなどが考慮された。が…決め手となったのはこの地の歴史に関わることだった。
教室、と呼ばれている部屋に軽くノックをして入ると、
「お伝えしました通り、この地は旧世紀よりさらに前の時代において『カルタゴ』と呼ばれ、地中海貿易による繁栄を謳歌しておりました」
壮年男性の穏やかな口調で講義が始まっていた。冷たいハーブティーを置くと、ミネバは早速それに口をつける。
「カルタゴは古くはギリシアの国家群と…そしてその後には人類史上においても有数の巨大国家、ローマ帝国と戦いを続けていきます」
正面に配置されたモニタには地中海の向こうにある長靴のような半島が映し出される。
「さて、ここからが本題です。カルタゴは然様に強大な国家を長く維持してきたわけですが、その存在はあくまでもギリシアの国家群やローマ帝国の添え物のように語られることが多い…これは何故か、おわかりですかな?」
ミネバが小首を傾げ、こちらを見て来たので彼女もまた、ミネバと同じように首を傾げる動作を見せた。教師は微笑みながら頷く。
「そう難しく考えることはございません。カルタゴは戦に敗れ、多くの民を失った…故に、自分たちの国を語り継ぐことが出来なかった…それだけのことなのです」
思案顔のミネバに、老教師は続ける。
「では逆に考えてみましょう。ギリシア、ローマはいずれも歴史の主役として扱われる国々ですが、この歴史における主役を担った国とは、どのような国でしょうか?」
「ということは…勝った国…戦で勝った国、ということか…?」
「そうです。戦争に勝った国や人々が、自らの立場から記録を残すからこそ、彼らは歴史の主役となれるのです」
ミネバは随分と険しい顔になっているが、なかなか面白い話になってきた。その場に留まって続きを聞かせてもらうことにする。
「本当に…そうなのか?」
「はい。いつの時代も勝者は歴史を紡ぐ権利を得、時にはそれに演出を加えることさえあります」
「演出…?」
「自分たちがいかに優れており、いかに人道的で時代の空気を読んでいたか、ということを殊更に強調する…といったところでしょうか。そしてこの過程において自らに不都合な出来事などは全て隠してしまうのです」
「…歴史とは、必ずしも起こった出来事がそのまま伝えられているわけではない、というのだな…?」
「その通りです」
そのやりとりを聞いてから、彼女はふと口を開いてしまう。
「なるほど、するとカルタゴはジオン…というわけですね?」
「その通りです」
ミネバがこちらを振り返り、はっとしたように口を開ける。
「そうか、そういうことか…!」
そういったのを聞いて、出過ぎたことを言ったかと思い、彼女は一礼をして「教室」を後にする。今の講義は歴史の講義ではなく、歴史をどう見るか、といういかにも帝王学らしいテーマを扱った講義であったようだ。この地とあの教師を選んだハマーンの心持が理解出来たような気がする。
ふと見れば、窓の外はもう斜陽だった。おそらく自分が仕事をしてきた中でもかなり小さい部類に入るこの邸宅は、それでも要人を擁することが前提とされた造りであるため窓は少なく、警護の者が少数で済むよう廊下や通路が敢えて狭く設計されている。そんな数少ない窓の向こうを眺めていると、一人の侍女が近づいてきてすれ違いざまに小さな紙片を手渡して、去っていく。彼女はさりげない動作で一読してそれをしまうと、何事もなかったかのように厨房へと足を速めた。
「ミネバ様、ミネバ様」
深夜、そう抑えた声で呼びかけると、少女はゆっくりと身体を起こした。
「何だ…まだ朝ではないだろう…」
「迎えが来ております。荷物は用意してありますので、すぐにご支度を」
「迎え…?何をいっているのだ…?」
まだ完全に目覚めていないミネバを、彼女は抱き締めた。
「何だ、急に…」
「ミネバ様…ゼナ様が亡くなられてから、私の人生は全て、ミネバ様のためにありました。私のすることは全てミネバ様のためを思ってのこと…それだけ覚えていてくだされば、私は幸せでございます」
あくまで感情を殺した声で、彼女はそういう。
「だから…どうしたのだ…?」
ミネバの声に緊張感が伴う。さすがに様子がおかしいと思ったのだろう。彼女はゆっくりと身体を離す。
「いずれわかることですから先に申し上げます。ミネバ様にはこれより、シャア大佐の元へ向かっていただきます」
「シャア…?何故だ?」
「ハマーン様はご立派な方です。しかし…ミネバ様の将来を考えますと、ハマーン様の元でジオンの象徴として生きて行かれるのは、御身のためになりません」
彼女は、はっきりと言い切った。
ミネバを預りたい…外出先で面識のある男と偶然出会い、そんなことを言われたのはごく最近のことだった。もちろん、それは偶然の出会いなどではなかった。男はシャアのところから来た「密使」だったのだ。彼はドズルの臣下であった信頼出来る男で、一体どうやってこちらの動向を掴んだのかはわからないが、シャアの一派がアクシズ内にも深く、密かに潜り込んでいるのは間違いないらしかった。
彼女をはじめとした身の回りの世話をする者たちも一緒に、という条件を提示され、思い悩んだ彼女は信頼出来る仲間数人にこの話を打ち明けたところ、意外なことに皆、賛意を示した。ちょうどハマーンからダカールで新たなジオンを立ち上げるお披露目に、近々ミネバを迎えに来たい、という連絡があったこともその判断に繋がった。
ゼナ時代からの侍女たちは皆、ミネバが政治的に利用されることにずっと心を痛めていたのだ。無論、彼女も心のうちではそうであったので、後日「密使」に自分たちの総意を伝えることになり…今日に至った。
ミネバに身支度をさせて外に出ると、警備の者たちが数人、転がっていた。夜気に血の匂いが混じり、漂っている。彼女は咄嗟にミネバの鼻と口元を押さえた。
「…つらい選択をさせてしまったこと、申し訳なく思う」
例の「密使」の男だ。
「あの者たちにはどれだけ詫びても足りませんね…」
女たちでミネバの周りに壁を作り、倒れている男たちの姿が視界に入らないようにしながら、用意されていた車に向かう。それにしても、と思い彼女は舌を巻く。内通者がいたとはいえ、この手際は見事なものだ。これならば、この先も安心だろう。
「ミネバ様を、頼みますよ」
紙片を渡してきた侍女にそういいながら、彼女は自分を除く全員が車に乗り込んだのを確認する。
「はい…!」
涙声の返事に頷くと、奥からミネバが顔を出してくる。
「皆、一緒ではないのか!?お前も早く乗れ!」
「ミネバ様…申し訳ありません、私はここの後片付けをしなければなりません。全てが終わりましたら、追いかけます」
ミネバの顔は強張ったままだ。
「……料理を教えてくれる約束だぞ?」
「忘れてはおりません。さ、早く出してください」
もうミネバの顔をまともに見ることが出来ない。彼女は躊躇しているように見える運転手に頷いて見せるとその男も軽く頷き、すぐに車は走り出した。ミネバはまだこちらを向いているが、自分の身に何が起きているのか、大方察しているのだろう。大声を出すようなことはなかった。
車が、さほど大きくもない庭を過ぎて街中に消えていくのはあっという間だった。
終わってみればどうということもない、一瞬の出来事だった。周囲にも気取られた様子は無く、何事もなかったかのように夜の静寂が再び辺りを包んでいく。
もちろん、斃れたままの男たちを除いては、だが…。
彼女は部屋に戻ると、丁重にしまっていた衣装を取り出して着替える。
「ふふ、やはりこれが一番ですね…」
それはかつてゼナに仕えていた頃に与えられたものだった。裾を翻してみれば未だに漂ってくる芳しい香りが、あの日々を、ゼナとドズルが笑顔を浮かべてミネバを抱いていた懐かしい日々を思い起こさせる。
「ミネバ様、約束を守ることが出来ず申し訳ありません。高貴な方に仕える者にはけじめが必要なのです…。どうかあなたは、あなたの足で人生を歩んで下さい。それが、あなたの母上の何よりの望みだったのですから…」
彼女はそういって、用意していた自筆の短い遺書を机に置き、引き出しから取り出した拳銃をこめかみに当てて、ゆっくりと引き金を引いた。
「ハマーン様、よろしいでしょうか…」
それはあくまで抑えた声ではあったが、深刻な響きがあった。
接収したホテルの一室で身体を休めていたハマーンは、それがおそらく悪い知らせであると気づきながら、
「入れ」
と短く答えて手元の端末で扉を解錠する。長身の男が入って一礼してから、一瞬周囲を確認するような素振りを見せた。どうやら、かなりのアクシデントがあったらしい。
「構わん、こちらへ」
男は恐縮するように再び頭を下げると、ハマーンのすぐ傍に寄って来て耳打ちをした。
「な…ミネバ様が…!?」
思わず聞き返してしまい、男のほうが慌てた素振り見せた。だが、それどころではない。
「…どういうことだ?」
「昨晩の未明、邸宅が襲われました。警備の者たちが殺され、侍女たちも連れ去られたとのことです」
ハマーンは、すぐに言葉を接ぐことが出来なかった。
「侍女の一人の部屋から、襲撃を事前に知らせる手紙と遺書が見つかっております…」
「内通者がいた…とでもいうのか?」
「その侍女は自殺しておりました。遺書には全ては自分の企てだ、とあったそうです…」
「バカな…!」
ミネバにつけた侍女たちは、いずれも一年戦争の頃からザビ家に仕えていた、素性も、その忠誠心も確かな者たちだ。もちろん、ハマーン自身も彼女らとは面識がある。
しばらくの沈黙の後、ハマーンは立ち上がってさらに黙考する。
ミネバについてはもしもの時に備えて影武者を用意してある。元々の背格好はほぼ同じ、顔についても時々「修正」を入れているから外部の者たちからはまず、バレないだろう。こんなことであればもっと早くプルシリーズのノウハウを手に入れておくべきだったかと思うが、とりあえず、それはいい。
「首謀者は…割れているのか?」
「いえ、はっきりとしたことは何もわかっておりません。ただ…あの者たちがミネバ様を売るようなことをするとはどうしても思えません…」
「そうだな…。少なくともミネバ様の身の安全については信じるに足る相手でなければあの者たちも協力はしないだろう…だが、そうなると…」
「はい、やはり…ジオンに縁のある方かと…」
ハマーンは、そこで怒りを露わにした。
「やってくれたな、シャアめ…!」
敵対することは無い、などとカイザスにいわせておきながらこの暴挙だ。しばらく怒りは収まらなかったが…シャアはミネバを表舞台に出すことには否定的であった。ミネバに静かな生活を送らせることを第一に考えるならば、むしろ影武者のミネバがいる方が都合がいい、ということになるだろう。つまり、ハマーンのこれからのやりように口を出すことはない…そうも考えられる。
とにかく、怒りは判断を鈍らせる。ハマーンは深呼吸をした後で、
「この件に関しては一切の痕跡を残すな。以後、口に出すことも許さん。それと…『スペア』の用意を急げ」
「承知いたしました」
返事をしてすぐに、男は部屋を出ていく。
頭ではわかっていたが、それでも、ハマーンの苛立ちは消えなかった。地球圏に残るという方針転換があったとはいえ、ミネバをあの地に長く置き過ぎたかもしれない。シャアと、内通者たちに時を与えてしまった、と理解すべきだろう。内通者についてはいずれ、炙り出す必要はあるだろうが、今はいい。
それよりも許せなかったのは、自分よりシャアの方がミネバを養育するに相応しい、と考えた者たちがいた、ということだ。
自尊心を傷つけられた、ということを理解するくらいの冷静さはあった。だが、心の内に自らの組織に対する猜疑心をはっきりと芽生えさせてしまった…それを、この若き指導者は認めきることが出来なかった。
このシン訳も、もう一年になるんですね。
呼んで下さっている皆様、ありがとうございます。
今回の主役は名も無きミネバの侍女です。表舞台で活躍する人たちの裏にいる人たちを書きたかったので、敢えて名前を決めませんでした。
ZZ本編ではいつの間にかミネバが影武者に入れ替わっていて、それがわかるのは最終話です。シャアに拉致されたのはグリプス戦役直後だったという設定は後からつけられたようですね。
「シン訳」を始めるにあたり、拉致されるミネバのエピソードは必ず入れたいと思っていたものの一つだったので形に出来て良かったと思っています。
ちょっとかわいそうな話になっちゃいましたけどね…。