私という一頁の物語   作:スナエ

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怒らなくても

 クライアントの来馬辰也くんは、少し緊張しているようだった。

「何か不安や懸念事項はある?」と、お決まりの質問をすると、わずかな空白の後に口を開く。

 

「人を怒らないのは、良くないことでしょうか?」

「いや、そんなことはないよ」

 

 私は、すぐさま言葉を返した。

 

「来馬くん。私はね、人を怒らなくてはならない場面なんてないと思ってる」

「ない?」

「極論かもしれないけれどね。怒らないで済むなら、それに越したことはない」

 

 君は、優しい人だから。他人を怒ることがないんだろう。

 

「たとえば、不快だからやめてほしいという時に怒る、とかなら分かる。でも、他者を注意する時や間違いを正す時などには、本来怒る必要はないと思うんだよね」

「そう、ですね」

「私は、怒られて伸びる人を見たことがない」

「そうですか…………」

 

 来馬くんは、ほっとしたようだ。

 

「まだ不安はある?」

「いえ、ありません」

 

 その後は、お茶をしながらアクアリウムの話をする。

 私は、命を預かれないからやらないけれど、アクアリウム動画を見たり、やっている人の話を聞くのは好きだ。

 

「砂子さんは、エアレーターみたいな役割をしていますよね。凄いなぁ」

「そんないいものじゃないよ」

 

 エアレーターとは、水槽内の水に酸素を送る装置である。

 

「ボーダーが水槽だとしたら、私はその中にはいない何かだよ」

「俯瞰してるってことですか?」

「そうしたい」

「なるほど」

 

 来馬くんは、納得したらしい。

 

「でも、カウンセリングルームは息がしやすい気がします」

「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいよ」

 

 君の周りの方が、よっぽど息がしやすそうだけどね。そんな優しい君が、ここで一息つけるなら、私は嬉しい。

 カウンセリングの終了時間がきた。

 

「お疲れ様。何かあったら、いつでもおいで」

「砂子さんも、お疲れ様です。ありがとうございました」

 

 深々と一礼して、来馬くんは退室する。

 私は、マグカップや皿を片付け、デスクへ戻った。

 ミツクリザメとモササウルスのぬいぐるみを抱き締める。

 ぬいぐるみたちは、私にとっては友達だ。

「怒られたくないねぇ」と、彼らにこぼす。

「すなは、いつも弟に怒られてるもんな」と、ミツくん。

「すなが、あまりにも生活力がないから」と、ササくん。

 

「ははは。ごもっともだ」

 

 私は、小さく笑った。

 さて、データ入力をしようか。

 軽く腕を上に伸ばしてから、パソコンに向かうことにした。

 ちらりと窓の外を見ると、蝶が舞っている。

 

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