病弱少女が行くリコリスリコイル 作:ライフル
……まぶたの裏が、ゆっくりと、光に染まっていく。
でもそれは、強い光じゃなかった。
やわらかくて、淡くて、深い霧の中から差し込んでくる朝日のような――そんな暖かい光。
風が、頬をかすめた気がした。
ささやくような、誰かの声が耳の奥で反響している。
けれど言葉は曖昧で、意味も、感情も、つかめない。
時間の感覚がない。
夢の中にいるような、でも夢じゃないような。
音も、匂いも、まるで遠くのほうで鳴っているみたいだった。
――“ここは……どこ?”
その考えがふと、頭の中に浮かんだ。
でも思考の形がまだおぼろげで。
何かを考えたはずなのに、すぐに忘れてしまいそうな。
記憶の端が曖昧で、境界線がぼやけている。
それでも、少しずつ――思考だけが、自分の中に戻ってきていた。
ゆっくりと、まぶたを持ち上げていく。
光が、差し込んだ。
思わず、閉じようとするまぶたを無視して瞳の奥まで染みこんでいく。
……眩しい。
目を細める。
視界は白くぼやけて、境界がうまく掴めなかった。
それでも、時間が経つと少しずつ目は慣れてくる。
光の粒が溶けていくように、世界が形を持ちはじめる。
滲んでいたラインが静かに定まって、やがて、ひとつの“面”が現れる。
――知らない天井だった。
見上げているそれは、見覚えのない真っ白な天井。
まるで塗り重ねたような無機質な白。
蛍光灯らしき光源が淡く反射していて、病院のようでもあり、違うようでもあった。
ゆっくりと首を動かして、辺りを見渡す。
壁も、床も、すべてが白。
綺麗に整いすぎていて、人の気配すら感じない。
清潔というより、どこか機械的な空間だった。
――だれも、いないの……?
声に出すことはできなかったけど、胸の奥に浮かんだその思いは、ぽつりと空間に溶けていった。
けれど――。
不思議なことに、私は怖くなかった。
それよりも、もっと大きな何かに気づいていた。
――自分の身体の感覚が、まるで違っているということに。
私は、まだ横になったままだけれど、確かに“感じていた”。
胸は、痛くない。
息が、苦しくない。
手足も、重くない。
しびれも、寒さもなかった。
――なにが、どうなってるの?
思考が混乱していくなか、静まり返った空間に
カチャ……と、小さな音が落ちた。
反射的に視線を向けると、遠くの壁の一部が横にすべるように開いていく。
部屋全体が白一色で輪郭の曖昧な空間だったせいか、目に入っていても、意識には残っていなかったのかもしれない。
それが“ドア”だったと気が付いたのは、そこから人が入ってきたからだった。
「おはよう、卯月あおさん」
ドアの先から現れたのは、一人の女性。
白衣に身を包み、髪は一切の乱れなく後ろで結ばれている。
薄化粧もしていないその顔は、整っているのにどこか冷たく見えた。
……なんか、怖い
真っ直ぐ前を向いたまま、まるで測ったような足取りで歩いてくる。
一歩ごとに響くヒールの音は規則的で、どこか機械的にも思えた。
無駄な動きがまるでなく、感情らしいものも感じられない。
人間というより、役割そのもの。
まるで“そうするように作られた存在”のようにさえ見える。
その女性がベッドのそばでぴたりと足を止め、私を見下ろした。
「気分はどう?」
今度の声は、少しだけ柔らかかった。
さっきの冷たく聞こえていた声の温度が、ほんのわずかに上がった気がした。
……どう?って聞かれてもうまく言葉にできない。
痛みもない。
息苦しさも、ない。
手足も動くし、視界もはっきりしている。
でも、だからこそ――余計に混乱していた。
こんなに“普通に”呼吸ができるなんて、夢みたいだった。
寝返りすら打てなかった体が、今では布団の上でゆっくり動いている。
感覚はある。でも、現実感がない。
私は、本当に……生きてるのかな?
ここはどこ?
私はどうして、こんなところにいるの?
――しかも、『卯月あお』って誰……?
質問はたくさんあった。
けれど、思考が上手く纏まらない。
のどが震えているのに、声が出ない。
喉ではなく、心に引っかかっているのかもしれない。
だから私は、ゆっくりと――女性の言葉に答えるように首を縦に振った。
女性は、私の仕草をひとつ見届けるとまた静かに言葉を紡ぎ始めた。
「あなたは卯月あお。
本日より、国家が運営する特別機密機関《DA》の保護下に入りました」
“卯月あお”――また、そう呼ばれた。
「現在は、身体機能の回復を確認中。
あなたの健康状態は良好です。必要な検査を終え次第、候補生としての適性判断に入ります」
まるでマニュアルを読み上げるような淡々とした口調。
一定のリズムで感情の起伏はない。
でも、異様とも思えるそれが余計に現実感を強くする。
私は、何も返せなかった。
ただ、何処か聞いているようで、名前のことだけをずっと考えていた。
――“卯月あお”って、もしかして。
それ、私のこと……なのかな?
「……卯月、あお」
気づけば、思わず声に出していた。
それは私の声だった。
かすかに震えていたけれど、はっきりと、誰かに向けた言葉。
女性は、その声に一瞬だけ視線を動かした。
けれど表情は変えず、また淡々と話し始めた。
「そう。あなたの登録名です。
……身元は不明。身寄りもなく……記録もない」
口調は変わらず静かで、まるで紙の上のデータを読み上げているようだった。
けれど、どうしてなのか。
その声のどこかに、ほんの少しだけ――硬さのない哀しい響きが混じっているような。
それが何故なのか、今の私にはわからないけど。
「道端で倒れているところを、当機関の職員によって保護されました。
当時、極度の栄養失調状態にあり、搬送後は一定期間、当施設の医療区画にて治療を行っています」
……知らない話ばかり。
どこで倒れていたのかも、誰に保護されたのかも。
栄養失調だったなんて記憶もない。
それなのに、女性はそれを当然のように語っている。
事実をただ並べているだけなのに、まるで“誰かの履歴”を読み上げられているような、そんな変な気分。
――本当に『私のこと』を言ってるの?
頭の中が、すこしずつ冷たくなっていく。
聞いているのに、まるでどこか他人の話を聞いているような――そんな、変な感覚。
「あなたには出生記録が存在しないため、名前は当機関で付けられたものです。
保護日が四月、春の月にあたることから“卯月”の姓を。
そして、“あお”は――空の色に因んで」
――空。
その言葉に少しだけ、胸の奥がちくりとした。