プロローグ①
思えば、それは突然であった。
研究所きっての才媛、カローレ・アルナ女史が私の研究室にやってきたのは、ある日の真夜中であった。
どうにも思い詰めた顔をしていたものだから、私は冷蔵庫に保存していた焼きプリンを一つ、紅茶と共に出す事にした。
甘味は人の心を柔かにする。良き友人でもある、子供達の味覚に合わせて、少しばかり甘めに作った物だが、幸いな事に彼女の舌にもあったようだ。
僅かに微笑む彼女の姿を見ながら、こうした日常の些細な出来事にも発見は隠されている事に少しばかり嬉しくなる。研究の初心に戻った気分だ。
とはいえ、彼女の憂いに満ちたは表情は、いまだに晴れることはなかった。
どうしたのか?と私が尋ねてみても、口を開いては閉じ、閉じては開いてを繰り返す。そうして逡巡し続けた彼女は、ようやく紅茶を一口つけた時に、意を決したように、しかし囁くような声でこう続けた。
「ディスティ・ノヴァ博士…」
「…あなたは人とホロウの共生について、どう考えていますか?」
思いの外、興味深い質問だったので、私もまた時間を置く。正直、人の疑問に答えることは苦手であるのだが、カローレ女史には嘘をつきたくはない。
だから、私も紅茶を少し口に含むと、こう答えた。
「少なくとも主導権は、人にはないでしょうねぇ」
あれは失望だったのだろうか?それとも…。
何とも形容し難い表情を浮かべる彼女の姿が、私の脳裏に焼き付いている。
だが今でも、その時でも、これだけは理解出来た。
私の答えは、彼女にとって望むものではなかったという事を…。
ーー
1
『ホロウ』とは何であろうか?
一般的に新エリー都で出回っている、平均的な水準の辞書を引いてみると、こう書いてある。
「…多種多様な、奇妙な現象を引き起こす球状の物体。その構成粒子はエーテルと呼ばれ、それらの運動によって奇妙な現象群を成り立たせ、ひいては通常の生物をエーテリアスへと変異させる。…」
辞書ごとにそれぞれの個性があるのは当然だが、それでも多かれ少なかれ上記の文と類似した記述が記載されている。
これだけ、ホロウと密接に関わる現代。しかし人々にとってはホロウという存在は、この二つの文でのみ説明できる。言い換えれば、それぐらいの知識しかないということでもあるのだが…。
それで納得して大丈夫なのか?と考えるのも理解はできるが、そもホロウと人の出会いは、宇宙人との遭遇よりも遥かに未知との出会いであった。
皆が皆、アーチ御大の残した曲者さ極まる論文群を読み込めるわけでない。
しかもそれですら、ホロウについて分かっている氷山の一角にしか過ぎないのだから、自然と苦笑が漏れてしまう。人はいつだって、水面の下に広がる深淵には触れることができないのだと…。
まあ、凡骨である私にとって、そんな当然のことはどうでも良い。
ホロウの詳細は、優秀な専門家達が日進月歩の研究を進めているのだから、私は私の領分を全うするだけである。すなわち、ホロウエネルギーの生体転用。
有体に言ってしまえば、サイボーグの開発だ。
「なので、そろそろ優秀な検体が欲しいなぁ、という訳です」
「ンナ?(誰に話しているの、博士?)」
私の独り言に反応したのは、助手を務めるボンプの9号だ。
彼らは完全自律型のロボットとして、『マルセルグループ』が世に送り出した最高傑作。
身体機能がない、という人工知能の弱点を克服した彼らは、まあほぼ知的生命体と言って良いのでは?と思うほどの完成度を誇る。
正直、その開発背景にある、ホロウでの羅針盤代わりとしては、随分と“盛り過ぎ”な性能な気もするが、常時人員不足のこちらにとっては、その万能さは有難い事この上ない。
特にこの9号は、対人交流に秀でた第3世代型として、こうして私の良き話し相手にもなってくれていた。
「おや、9号。私のこれは癖ですよ。考えていることは口にしないと気が収まらない性分でしてね」
「ンナ、ンナ〜?(なるほど。…でも、「検体」なんて。また、何か研究を始めるつもりなの?)」
「いえいえ、せっかく完成させた“
そう言って、私は目の前に横たわる頭部のない“
「…私は不器用ですからね。こうして、実物でないと答えを出せないのですよ、女史」
「?」と、分かりやすい疑問記号を顔代わりの画面に浮かべる9号。
その頭をそっと撫でながら、私は思う。
長く続けてきた研究も、そろそろ集大成を発表するには良い頃合いだと言える。
惜しむべきは…。その場に彼女が現れることは、恐らくないだろうという事だ。
ーー
ここはとある共生ホロウの中。
何とも形容し難い色の空の下で、相変わらず、打ち上げられた建物が、既存の物理法則を無視して浮かび続けている。
旧世紀の物理学者が見れば、卒倒するであろう光景を横目に、私は山となった廃棄物の層を掻き分けながら進んでいった。
趣味でもある実験材料探しに、こうしてホロウにまで脚を伸ばすこと早数年。少し物騒な目にも遭うこの散歩を、私は辞められないでいる。
「おお、あれほど大きなエーテリアスは初めて見ましたね。ムカデのような複数の足に、細長い胴体。新種でしょうか?」
「ンナ!ンナナン、ンナ(学会のデータベースを照会中…。あれは『サルパ』という群体型のエーテリアスだよ、博士!)」
「ほう、すでに採取済みでしたか。一歩遅かったようですねぇ…」
私はカバンから双眼鏡を取り出すと、遠く彼方を悠然と歩いていく巨大なエーテリアスを観察する。
確かに同名の海洋生物と同じく、数珠繋ぎに繋がるエーテル核から、それが複数の生物がより集まって出来た群体生物であることは一目瞭然だろう。
節から飛び出る巨大な脚をゆっくりと振り下ろし、あるいは上げて、地面を悠然と踏み締めながら、廃墟のビル群を更地にしていく様は圧巻と言えた。
「つくづくエーテリアスとは、自然の生み出した驚異と実感しますよ。クックック…」
「ンナ?ンナンナ…(でも、妙だなぁ?あれが向かっている先は、ホロウの境界縁だったはずだけど…)」
「ほう…」
9号の言葉に、手元のエーテル測定器を掲げる。随分と緩慢な反応音から、恐らくホロウ自体のエーテル濃度が薄まっているという事なのだろう。
海で例えるのならば、ここは波打ち際。大半のエーテリアスたちにとってはあまり居心地の良い場所ではあるまい。
どうやら図らずも、このホロウの臨終を我々は見届ける事になりそうだった。
「人も、ホロウも。いざ終わりを迎えるとなると、少し寂しい物を感じますねぇ…」
「ンナ〜(考えながら撫でると、ボクの頭が揺れるよぉ〜)」
「おっと!これは失礼、申し訳ありません」
そう言って、無意識のうちに9号を撫でていた手を止める。ちょうど良い場所に立っていたので、つい撫でてしまうのだ。
代わりに顎へ手を当てながら、今立っているボタ山の頂から眼下に広がる景色を見渡した。
…正直、見納めしようにも、随分と荒れ過ぎなのではないか?
消滅の噂が何処から立ったのか、積みに積まれて山になった廃棄物は、言ってしまえば、ホロウと共に消えて欲しいと願われた物たちだと言える。
他愛のない屑同然の物もあれば、正直これは法に払拭することは間違いないだろうという物も、分け隔てなく混ざり合っていた。
まあ、何とも業深い景色であるが、これはこれで楽しい混沌でもある。採取者としては、再利用できる物があれば、さらにぐっ!だ。
「以前…、この場所でダース単位のバラバラ死体(袋詰め)を見つけたので、もしやと思って来たのですが…」
「ンナ…(ドン引き…)」
「まっ、そうは上手くいきませんか。“一兎を追うものは二兎を得ず”、いやはや…」
そう言って、首を振った時である。
それが目に入ったのは、まさに偶然。…しかし、後から考えれば、新たな
ふと視界の片隅で、何かが横切った。
私は9号の慌てる声にも、小さく煙をあげる足下にも気に留めることはなく、斜面を降りていく。
歩きは走りに、走りは滑走に。しまいには滑り落ちるようにして、中腹までたどり着いた私は、少しばかりおぼつかない足取りで、目的の“モノ”へと向かっていった。
「これは、これは…」
そう言って、私は構うことなくボタ山の一箇所に手を突っ込む。両の腕が動くたびに、細かい屑や金属片が宙を舞い、腕や顔を小さく切り裂いていく。
それでも私は気にする事なく、ゴミを外へと掻き出していき、そして“それ”は露わになった。
「すごい…、生きている!」
微かに息を上下させる、生きたトルソー。
肌の質感は人間のそれ。閉じた瞼の奥で、微かに動いているのは眼球だろう。
夢を見ているということは間違いなく、それは生物であることの紛れもない証左である。
「キャッハッハッハッハ!!」
歓喜の声を上げながら、私は彼女を外へと連れ出した。ホロウ越しに差し込む日の下で、動けない彼女を両手で支えながら、私はその場で踊り始める。
ひどく不恰好なそれは、私が初めて踊ったワルツであった。
【ホロウ】
ある日、世界に突如として現れ、その後瞬く間に広がっていった怪現象。
形としては、ブラックホールの如き球体を取る。内部は「エーテル」と呼ばれるエネルギーに満たされており、既存の物理学では説明できない現象を引き起こす。
また、生物がこの内に入ると、程度の差こそあれ、例外なくエーテリアスと呼称される変異体に変態する。この生理反応は「異化」と呼ばれており、ホロウ探索における大きな障害となった。
しかしながら、ホロウの存在はもはや現代社会において不可欠であり、特にエネルギーインフラに関しては依存の域にある。
最後の機械文明を延命させるために、文明崩壊の原因に希望を見出す。
その矛盾に目を瞑り、人々はホロウの脅威に怯えながらも、その恩恵のもとに薄氷の日常を営んでいる。